注意:本エッセイは映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』のネタバレを含みます。 2024年10月11日。前作『ジョーカー』の公開から早くも5年経った今日、新作『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が公開された。前作と同様、社会不安や精神疾患を巡った、世界の現状を鋭く切り込んだ今作は、レディー・ガガをヒロインに据え、ミュージカル映画としても昇華している。 しかしながら、本作は北米での先行公開にあたって、その内容や物語の結末の賛否が大きく別れることになった。本エッセイにおいては、物語
他者の功績を見つめては「神様から素敵な才能を授かったね」などとほざく者達。仕方ないだろう、他者の表面的な部分しか見つめていなければ、そういう台詞も浮かぶはずさ。でも、もし君が何かを目指して一念発起した時、その“才能”とやらに囚われて窮屈になってしまわないか? と私は思う。 結論から申し上げてしまえば、“才能”という概念は自己言及的に発見することが極めて難しいものだ。スキルを磨き、具体的なキャリアを積み重ねたことで更なる高みに昇りつめた者達にだって、彼らなりの悩みや苦労はある
混沌極めしインターネットの迷い子達の代弁者であり、また先導者たる伝説の男・にゃるら。彼は他愛もないクソ学生であるこの私にさえ、かけがえのない深い傷跡と影響を与えてくれた。そう、彼の作った『NEEDY GIRL OVERDOSE』と『蜘蛛』、そしてその関連コンテンツ。 広大なインターネットを彷徨うヲタク達の本性を鋭く抉った彼は、作家としても文化人としても高く評価された。昨今では他に類を見ない程の出世頭と言っても過言ではない。 ある日、彼が毎日更新しているnoteにこのような記
自縛。 それこそが、僕が未来に歩みだせない理由。 僕の環境や歴史というのは、安寧そのものであった。 社会や親が与えるレールの上をただ歩くだけの人生。他人と異なる道に進みたいと、どれほど思ったところで心の箍は外せない。親に相談したところで、強く反対されたらそれまで、意志の弱い自分は何も言い返せなかった。 そうやって、何度諦めたことか。 心の奥底、理性が効く表層心理ではない、深層心理に潜む声が、僕を安寧の地から離させないと意地を張る。強く、強く、縛り付ける。 平凡で
承認欲求。 それは誰しもの心にある抑えがたい欲望。欲望の強さは人によりけりだが、僕のそれは極めて貪欲だった。 学生の頃。僕は先生や周囲の生徒に可愛がられたいという一心で、なりふり構わず色んな人に喋りかけた。昼食時や授業中など、沈黙が続くときは自ら話題を出し、会話の流れを無理矢理設けた。今思えば、典型的な問題児だったが、自重することすらもできない僕を、先生たちは苦虫を嚙み潰しながらも受け入れてくれた。 そして周囲の生徒も、僕を「友達」と認識してくれる人が多かった。他人や
人生の目標を定めておきながら、生まれてこの方二十年(※実年齢二十歳です)何の成果も出さずにダラダラと生きていた僕。自己を叱りつけ、しっかりせんか! と鏡に向かって檄を飛ばすも三日坊主の繰り返し。もうすぐインターン応募の時期が迫るというのに、人生で何事も成したことが無い今の状況に、凄まじい焦燥感とこの上ない絶望を感じています。 やらなきゃいけないことは、分かってる。あとはそれをどう継続するか、という話なのですが、ここでネックになるのは人生経験の無さです。というのも、一定の