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田舎はそんなにいいところじゃない #2 その6

#2 木を切る人々 ⑥

 ただ腰を落ち着けて木をみる 地面から太い幹 上へ視線を移して 太い枝から細い枝へ 何本もの枝を目でたどる 枝の先まで目でなぞる。葉のある季節なら緑を視界いっぱいに吸収する 風が吹いて葉擦れの音を聞く 自然のものの豪華さや惜しまない豊かさを感じとる 心が落ちつく。自分の頭上が緑の葉でおおわれているのはここちのよいものだ。街を歩いても木があれば自然に視線が向いて樹を愛でる TOKYOではそれはふつうのことだった。

 イナカに゙移住したら この地では周りじゅうの木がしょっちゅう根本から切られたり強剪定されていたり 人家の樹木もズタズタにされることがしょっちゅうあって あまりの無惨な有り様にはじめの数年はかなりの精神的ショックで混乱していた。幹から枝へ視線をはわせる過程で枝がブツッと切れていると自分の感覚はショックを受ける。

 今から思えばTOKYOでは日常 バランスのとれた姿の街路樹なんかを目にしていた。街の中の緑は心の潤いだ。ケヤキ並木の道を歩くとき 通りにはステキな店が並んでるし 人々が闊歩して活気があるし 漠然と「希望」とか「幸福感」を感じていたものだ。人家のそれもここの人達がやるように「ズタズタ」ということはなかった。TOKYOでの植栽環境からは無意識に「豊かさ」とか「生命力」とかを感じ取っていたように思われる。それを思うと このイナカの木に関するビジュアルのあり様は痛々しく凶々しい とても貧相だ。
 OUTDOORで過ごすのは人間には精神衛生的に必要なことだと思う。それには植物環境の整った空間が望ましい。トカイには整備された公園地がたくさんあるが イナカは環境が整ってないし イナカの過疎ダイバーシティでは「公」のあり方がTOKYOとは全く異なり引き比べる事自体が無意味だ。ここでは「公園でのんびり」するのは不可能だということが10年近くかかってやっとわかった。

 そして桜の季節なのだが 何故かここでは桜の木は太い枝がズバッと切ってあるのにしょっちゅう出会う。市内で川沿いのお花見スポットとか言ってる桜並木もひどい剪定がされているところがあって 顔を背けて通る。これほど頻繁にそんな木に出会うということは そうでないやつもいずれはひどいことになるという予測があるので どの木も安心して観る気にならない。
 ある小学校では塀から歩道に差出た桜の枝が数メートルにわたって切り取ってある。歩道の上に差し掛かった分が全部切り除かれているのだ。度肝を抜く有り様だ。落ち葉対策かなんかだろうが 緑陰の頃になれば日差しを遮ってくれて 通る人はたすかったろうにと思うと「やっぱ田舎の人ってココロがないんだなあ」という感想に収束する。

 TOKYOにいる間は 毎日 護岸工事のしてある整備された川沿いの延々と続く桜並木の下を歩いて 枝についた蕾が膨らみ開花していく様子を楽しみに見る習慣だった。TOKYOの地でも桜の木や並木はいたるところにあったがここで頻繁に出現するこころ傷つくような有り様は一度も経験がない。こんなところに来てしまって 思い起こせばTOKYOの桜の見事さはへんな剪定をしてないせいだったのではあるまいかと想像する。細い枝にびっしりとついた桜の蕾が満開になってあのような息を呑むような風景になっていたのではあるまいか。TOKYOの人たちはそんなことも計算して実現させていたのではあるまいか。

 この季節になるとラジオからは「桜」に寄せたテーマの歌が流れるが この地ではあまりにイメージが悪いので もう気持ちを同調させて詩の内容を聞くことはできない。そのたびにラジオはOFFにしている。10年近くもいればここの様子もわかった。 ここの人たちのやり方だから仕方ない 太い枝を切り取った大きな切り口を見ると嫌な気分になるので なるべく視野を全開にしないようにしてイナカで生きている。


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