【弱者とは何か04】強くなるための方法は、たったひとつしかない。
関西発の大ヒットテレビ番組に「探偵!ナイトスクープ」という長寿番組があります。大阪の朝日放送が作っているので、雰囲気は関西ノリ、大阪ノリですが、全国で放映されているので、それなりにいろいろな地域の人も楽しんで見ておられることと思います。
このナイトスクープには、本当に多種多様な依頼が寄せられて、それを番組の出演者である芸人さんたち(探偵)が解決してゆくのですが、ある程度一定のジャンルとなっているシリーズに
「自分は何々が苦手なのだけれど、克服したい」
という依頼がけっこうな頻度で寄せられています。
「犬が怖いから治したい」とか「小学校の先生なのに虫嫌いだから困っている」とか、変わったものだと「タイルが怖いから克服したい」「ひょっとこが怖い」みたいな、人それぞれの悩みがたくさんあるわけです。
さて、番組ではそうした「恐怖症」とか「苦手」「弱点」がある依頼者さんたちを、最終的にはほぼ100%に近い感じで「克服」させることに成功しています。
(もしかすると、克服できなかった依頼者の回は、放送されずにボツになっているのかもしれませんが、そのあたりはわかりません)
そして、よーく番組を見ていると、「弱さ」を克服するには、もう番組の手法として確立した「型」のようなものがあることがわかってきます。
悪い言い方で言えば「ワンパターン」で苦手は克服できるし、良い言い方で言えば、「王道の、テッパンのやり方」で弱点は変えられることが、何度も放送されているわけです。
では、どうすれば弱みを克服できるのでしょうか?
犬の場合だったら、もちろん、可愛い小型犬から触れ合うことから始まるのですが、最終関門は「半裸(男性です)になった体中にエサを置いて、犬がペロペロ食べに来る」とか、どんどん内容はレベルアップします。
「銭湯のタイルに顔面を押し付ける」とか、「ひょっとこ保存会の集団に囲まれる」とか、関西らしい「荒行」の数々が爆笑を巻き起こすのですが、大抵の「苦手」はほぼ完璧に近い形で克服されてVTRは終わります。
関西ノリ+芸人探偵+バラエティ番組
ですから、基本的には優しくレクチャーしてくれて解決するわけではないのですが、この番組にはいくつかのヒントが隠れています。それは
「何かを乗り越えようとすることは、一定の荒さ、つらさが伴う」
ということと
「それは、自分自身でやらねばならない」
ということかもしれません。
この連載でお話している通り、「問題解決」や「弱さの解決」については、
天から自動的に何かが降ってくるわけではない
という事実があります。「強みや環境」は天から降ってくる天賦のものであることが多いのに、逆の「弱さ」は自動的には解決しないものばかりだということです。
この「強さと弱さの不公平」はもともと自然界にプログラムされていることなので、どうしようもないのですが、仮にできることがあるとすれば、
弱みをトレーニングによって克服する
ということしかないと思われます。
ナイトスクープの場合は、バラエティの絵面で作られる「笑える荒行」ですから、それがすべてに効くかどうかはまた別問題ですが、何らかの「修行」(つらさ・荒さ)は不可欠です。
そして、探偵がサポートに来てくれるように「手助けしてくれる人」はいるかもしれませんが、
「解決するのは最終的には自分自身である」
という部分も変わりません。
こうした書き方をすると、なんだか「新自由主義社会の自己責任論」(弱者になってしまったのも、自己責任である)という話のように聞こえるかもしれませんが、社会保障や福祉として弱者になってしまった人をどう助けるかという話と「弱者がその状態を抜け出す方法」についての話は、すこし次元が違います。
たとえば、「荒行をさせられる覚悟で、バラエティ番組に出てまで解決したいと思っている弱者」と、「そんなことを言い出したり、手助けを求めることができない弱者」とでは、次元が異なるということですね。
しかし、どんなに「何かが不足している弱者」であっても、自らそれを獲得するという意志を持てば、これまたナイトスクープの「克服ネタ」のように、100%に近い確率でそれを入手することは可能です。
その端的な例が、パラリンピックなどの障害者スポーツで、選手たちは確かに「足りないもの・弱点・欠損しているもの」があるのに、それを補って「普通の人よりも、はるかに大きなパフォーマンスを発揮する」ことができるわけです。
障害者スポーツの選手は、普通の人たちよりも「身体能力が優れている」わけではありません。なんといっても、身体には不満足な部分があるのですから。しかし、それを補う努力と、道具や補助具といった工夫で、普通の人たちよりも高いパフォーマンスを出力することができるのです。
ということは、
弱者に天から降ってくるものはないが、自らの努力は無限に可能である
ということもまた言えるのです。これが、唯一にして最大の「弱者の繰り出せる一撃」なのです。
このことは、弱者にとって諸刃の剣でもあります。
一面では、「天から降ってこなくても、自らの手で挽回はできる」という希望にもなるでしょう。
もう一面では、「ただでさえ弱者なのに、それ以上に努力を求めるのか!」という恨みつらみにも早変わりするかもしれません。
この点については、すでにあの名作漫画「スラムダンク」に、安西先生からの励ましの言葉がありますが、最終的にはあの言葉の通りかもしれません。
「あきらめたら、そこで試合終了ですよ」
という名言です。
弱者が弱者から脱することを諦めたら、残るのは紛れもない「弱者である」という事実だけなのかもしれません。
強者と弱者をめぐる立ち位置というのは、緩やかな坂道を思い浮かべてください。
片方が高くて、片方が低い、シンプルな坂道です。
そこに、たとえば日本人の人口である1億人を、神様がポンポンと置いてゆくようなイメージです。
そうすると、すべての1億人もの人を、まるでマラソンのスタートラインのように、横一列に置くことができるか?と言えばちょっと無理そうな気がするでしょう?
だから神様は、その坂道の上にけっこうバラバラに人を置いてゆくことになります。実際にマラソンでも、スタートラインにつける人は一部で、残りの人は最初から列の後ろのほうに並んだりします。あんな感じで、坂道の上のほうに「置いてもらえた」人もいるだろうし、坂道の下のほうに「置かれてしまった」人もいるかもしれません。
それから、すべての人は少しずつ坂道の上のほうを目指してゆくわけですが、最初の時点で「ちょっとでも坂の上のほうにいた人」はラッキーで、「坂の下のほうにいた人」はアンラッキーだったりします。
これが、「天から与えられたものの不公平さ」です。
しかし、基本的には坂道にみんな置かれていますので、ほっとけば少しずつ、あるいはゴロゴロと坂を転がり落ちてしまうようになっています。災害や病気、あるいは失業などがやってきて生活レベルが落ちてしまうのはこういうことです。
それを防ぐには、一歩ずつ苦しい思いをして坂道を登らねばなりません。実は、坂道を登らねば転がり落ちてしまうのは、強者も弱者も同じです。
そして、間違えてはいけないのは、なんと言っても坂道ですから、
「一気に駆け上がろう!」
としても、なかなか難しいことです。一発大逆転は、ほとんどの場合「宝くじの確率」ぐらいでしかあり得ません。
すべての人は、この坂道を登りながら人生を過ごしているわけで、この状況をいろんな気持ちで受け止めることでしょう。その気持ちには、かなりのバリエーションの幅があります。
■ 坂道や登山が楽しいと思う人
■ 坂道を登るのがただただ苦しい人
■ もうこんなところまで登った!と下界の景色を眺める人
■ まだあんなに上がある。と落ち込む人
これらは人の感受性の問題で、自由なことですから「どれが正解でどれが間違い」ということは一切ありません。中には
■ よし!あの頂上の景色が見たい!
と勢いづく人もいるでしょうし、
■ こんなに苦しいなら、止まってしまって転がり落ちてもいいかな。
と、先へ進むのをやめてしまう人もいるでしょう。
どちらであっても自由です。
だから、自分は弱者であると自覚して、もう歩みを止めたいと思う人がいたって、全然かまわないのです。
ただ、先を行っている人から見れば「一緒に行こう!ここで待っているからさ」という気持ちがあったり、「じゃあ、ちょっと自分も下って迎えにいくよ」という優しい人もいたりします。
逆に、「そんな奴は置いていけ!俺は先を急ぐぞ!」という人もいます。
これもまた、いろんな人がいるわけです。
今回のまとめは、それが善か悪か、そうすべきなのか、そうでもないのかはわかりませんが、「弱者を抜け出すには、坂を登らねばならない」ということでした。それ以外に、自動的に「坂を登らせてくれるツール」は恐らくほとんどなく、何万人かに一人が、宝くじにでも当たって「たまに」一気に上に連れて行ってもらえる人もいるよね、ということでした。
そして、すべての人が実はその坂を登っていて、全員が苦しい思いをしながら実は坂を登っているのだ、ということでした。(もちろん、ラッキーによって坂の上のほうにすでにいる人もいますが)
さあ、あなたは止まってしまうか、坂を転がり落ちるのか、それとも坂を登るのか。どうしたいですか?