見出し画像

恵方巻の起源を探っていたら、驚きの事実が見つかった!


 2025年の節分は、いつもの年と違って「2月2日」だったのだけれど、どうも立春の前の日を「節分」とするそうで、国立天文台が地球と太陽の位置関係を計算して「二十四節気」を割り出したら、今年は一日ずれてしまうのだそうだ。

 余談ながら1984年には2月4日が節分だったそうで、天文学とは面白いものである。

 さて、節分といえば、その起源について「ハテナ」がいっぱいなのが「恵方巻」で、毎年よくわからないながら黙って恵方に向かって太巻きを頬張るのが、恒例行事となっている。

 恒例にはなったものの「自分の小さい頃はそんな風習はなかった」とか「そんな風習があったと知らなかった」と思っている人も多く、バレンタインデーのように、なんだか商業界にまんまと乗せられているなあ、という気もしないでもない(笑)

 それでも、恵方巻きやらハロウィンやらは、比較的新しい「恒例行事」として、なんだかんだと定着しつつあるのが、無節操な日本人らしくて、たいへん微笑ましいのである。

 

 その「恵方巻」の起源であるが、どこの書物をみてもたいてい「諸説あるが」なんて口ごもった言い方で書いてある。そもそも、誰も恵方巻の起源を知らないのが実態なので、ここはちょっと調べてみようと思って研究を始めたら、なんとも興味深い方向へ話は進んでいくのである。乞うご期待!

 では、まず最初に、「恵方巻の起源がどのように伝えられてきたか」を確認してみよう。ざっと概観するにはウィキペディアの記事はたいへんよく書かれている。


 まず、恵方巻とは、

■ 節分の日に
■ 太巻きを
■ その年の恵方に向かって
■ 言葉を発せずに最後まで食べる

という風習である。 これを実行するといわゆる「福がある」「ご利益がある」というものだが、起源がわからない割には、アクションに意外と明確な規定があるのが興味深い。

 さて、その起源であるが、wikiにもまとめられているし、その他多くの書物を比較しても、おおむね以下のようなことが挙げられている。

■ 幕末から明治ごろ 大阪の船場ではじまり商売繁盛などを願った
■ 船場の色街で女性が丸かじりしたら願いがかなった。
■ 江戸時代以降、季節の新香巻を恵方を向いて食べ、縁起をかついだ
■ 船場の旦那衆が、節分の日に巻きずしを丸かぶりさせて遊んだ。(卑猥な意味を伴うことが多い)
■ 戦国時代の武将が、節分に丸かぶりしたら勝ったという。

 ちなみに、類例としてこれらとほぼ同じだが「関西人の謎でんねん!」という2006年の書籍には、次のような4点がまとめられている。

■ 幕末から明治に大阪船場で商売繁盛を願って食べた
■ 大正時代、季節のお新香を巻き、恵方に向かって食べるのが流行した
■ 船場にあった色街で、女性が太巻きを丸かじりして願いを叶えた
■ 船場の旦那衆の艶っぽい遊びが始まり

 こうして見るとwikiの記述とおおむね重なっていることがわかると思う。

 補足ながら、ボヤかしてある部分について、いちおうはっきり叙述しておくと、要するに「太巻きをチンコに見立てて遊女にかぶりつかせる」というのが、旦那衆が行ったという卑猥な遊びである。この部分は、恵方巻きの起源を語るときに、おっさん連中がしたり顔でニヤニヤしながら解説する定番にもなっている(苦笑)


 さて、本題に戻ってこれらを総合すると「江戸時代から明治・大正ごろにかけて、大阪で発祥した」とするのが、大きな共通点であろう。

 wikiを読むと、それ以降の広報についても解説がきちんと書かれていて、

■ 大阪鮓商組合が1932年に「巻壽司と福の神 節分の日に丸かぶり」という広告チラシを配布した。(これには節分・恵方・無言・丸かぶりという要素がすでに全部詰まっている)

■ 1970年の証言として「”大正時代”にはあった、新香の頃に当たるので、新香巻を切らずに恵方に向いて食べる」というものがある。

■ 戦後の1955年ごろ、芸者の女性が丸かぶりをしていて「いいだんなに巡り合えますように」という願掛けだったという証言。

 などの動きがあったという。

 その後の全国展開・商業展開について1980年頃から散発的に行われていて、「小僧寿し」が行った「縁起巻」の呼称での宣伝がその早いものだとも紹介されている。


 というわけで、一般的に言われている「恵方巻」についての起源についての解説は、ここまで、ということになるが、ここから先がムコガワの独自調査のお話である。

 そもそも「恵方」とは何か。これはベタな言い方をすれば陰陽道なもので、その年の干支に基づいて「歳徳神」がどの方向にいるかを示したものであるとされている。あるいは「明(あき)の方」とも呼ばれ、その方角に向かって事を行えば、万事に吉とされている。

 しかし、これだけではまだ「恵方」と「巻きずし」の関係もわからないし、節分は節気なので、なんとなく陰陽道っぽいけれど、まだ情報がバラバラな気がするのだ。

 そこで、wikiにもあるように、「大阪船場には色街が存在しなかった」のにどうして艶っぽい話が絡んでくるのか、そこに着目して色街・花街と恵方の関係を検索してみた。

 すると、とてつもなく面白い情報が見つかったのである!

 明治27年発行の「江戸花街沿革史」において、「恵方」のキーワードが登場するのはたった一箇所であるが、そこをちょっと見てみよう。


 まず、事前情報として、これは江戸の花街についてであるが

「正月から二月の初午と八日には『大黒舞』というのが来て、遊女は競って祝儀を取らせた」

という箇所を押さえておく。その上でその大黒舞の内容が次のページに載っている。

 

 大黒舞の前唄(口上)に、こんなセリフがある。

「大黒は元日に恵方に向かいて莞爾(にっこり)と笑い初めたる福寿草〜」

こんな歌や舞を踊りながら、そのとき全盛の遊女の名寄せ(名簿)を読み上げるという。

 もちろん、この段階では「花街」「大黒」「元日」「恵方」の構成要素が出てきただけで、恵方巻とはほんの少ししか重ならない。

 しかし、元日はともかく、2月に入ってもこの「大黒舞」が花街にやってくる、というのは、なんだかアンテナにビビビと鬼太郎なのである。


 では「大黒舞」とは何なのか。

大黒舞 「室町時代から江戸時代にかけて行なわれた門付芸の一つ。大坂や江戸を中心に遊芸人が大黒天の姿をまねて面と頭巾をつけ、打出の小槌を持って門ごとに立ち、毎年新作した祝の詞を唄いながら舞うもの。江戸では正月二日から二月初午頃まで吉原などで芝居狂言なども演じた。」(日本国語大辞典)

 どうも芸人が大黒さんの姿で新年を祝うものらしいが、大阪でも江戸でも行われていて、なおかつ吉原とも深く関わっていることが伺えるのである。

 ところが、この「大黒舞」には、その背後関係がいろいろある。

 引用した「江戸花街沿革史」にも最後のほうにちらりと覗いているが、この「大黒舞」などの門付け芸は非人によって行われており、明治2年ごろから4年ごろにかけて、新政府はどうも制限をかけたらしいのだ。

 それまでのように自由に「大黒舞」の演舞ができなくなり、お金の取り扱いは町の年寄を介さないとできなくなったり、吉凶の代金をもらうこともできなくなったりしたようなのである。

 ここまでをざっくり考えると

■ 大黒舞と恵方が密接に結びついており
■ その大黒舞の芸は、江戸時代は花街でも年中行事になっていたが、明治初期に禁止された

というような動きが、想像できるのである。


 さて、次に、では「大黒と恵方」とはどのように結びついているのかについて調査を深めてみよう。

 実は大黒舞はその変形と思われる秋田県民謡の「秋田大黒舞」というものが残っていて、


「あきのほうから福大黒 舞い込んだ」

という歌詞になっている。この”あきのほう”とは「明きのほう」「明けのほう」であり、つまりはズバリ「恵方」のことを示すのだそうだ。

 また、江戸時代の川柳を集めた「柳多留」にも

「大こくも恵方からくりゃ安く見へ」

という句があることからも、「大黒=恵方」の信仰は、密接であることが伺える。

======

<補筆> 恵比寿大黒は、たいていセットで信仰されるので、もちろん恵比寿にも恵方から来るという概念はある。

恵方の海〕西鶴の胸算用卷四に長崎の除夜を記して『大晦日の夜に入れば、物貰ひども顔あかくして、土で作りし恵比須大黒荒鹽豪に載せ、當年の恵方の海より潮が參つたと家々を祝ひ回はりけるは、船着第一の所ゆゑぞかし』とある。(日本民俗学辞典)

 井原西鶴も恵比寿大黒をセットにして「恵方の海から潮が参った」と書いている。
 ただ、実際の用例としては、「大黒=恵方」のほうが多く、吉原では10月20日に「えびす講」という別の行事で恵比寿神を祝っている。

======


 そこで、江戸期の大黒信仰とはどういうものであったかを、さらに探ってゆくと、またまた面白いことに出くわしたのである。

 では、まず↑の絵をみてほしい。

 江戸時代において「大黒様」といえば「二股大根」がセットで、これは当然、エッチなあなたにはすぐ想像できるとおり、エッチなことを意味している。

 
 あまり大っぴらに語られることは少ないが、要するに「大黒様」は「黒光りさま」であり、「二股大根」は「白いすべすべのおまた」ということになるわけだ。

 ここまで来て、「またまた〜。うまいこと話を繋げちゃって!」と賢明なる読者諸君は思うかもしれないが、ここで真面目な論文を紹介しよう

「東北の大黒信仰儀礼の基礎的研究」菊池和博 2022 東北文教大学

https://t-bunkyo.repo.nii.ac.jp/record/152/files/kiyou12_03_kikuchiK.pdf

 この論文は主に東北地方においてのものだが、読み進めるうちに「恵方巻」の正体に当たるものがおぼろげながら見えてくるのである。

 きっと読者諸君も、びっくりするに違いない。

 話は次のようなことだ。

■ 大黒信仰への供物は「二股大根」であり、性的な意味を持つ。
■ 大黒さまを後ろからみると男根。
■ ズバリ、大黒様へ女性を捧げる、のである。(豊穣の象徴)
■ そして大根以外の依代供物がなぜか「豆」なのだ。
■ 大黒さまは耳が遠い神として信仰されている。「耳あけ」という行事名。
■ (大黒様の)「嫁迎え」という行事名になっている

 こうした構成要素を見てゆくと、恵方巻の要素と非常に関連性があるだろうことが推定されてゆく。

■ 恵方巻きに卑猥な要素があること(大黒はチンコだから?)
■ 黙って食べるということ(大黒は耳が聞こえないから?)
■ ほぼセットになる供物が「豆」(だから節分?)
■ 太巻とはつまり「大黒」な形状をズバリ表す?


(余談だが、大黒様を後ろからみるとチンコ、というのは、そう言われると下にある2つの米俵は、もう金玉にしか見えてこないから不思議である)

(もうひとつ余談。大黒様が耳が聞こえない、というのは恵比寿大黒がセットで信仰されたり表現されたりすることと関わりがあるだろう。戎は蛭子神・水子神であるため不具性を伴う。ヱビスにも耳が聞こえないという伝承があるため、混同・習合されたものか)


 さて、もう一度、最初に述べた「恵方巻」のシステムを思い出してみよう。

■ 節分の日に
■ 太巻きを
■ その年の恵方に向かって
■ 言葉を発せずに最後まで食べる

というものだったが、太巻きの寿司を「大黒」に見立てた時、そのすべての意味合いが、はっきり説明できることに、諸君は驚かないだろうか!

 これに花街における「大黒舞」の歴史を加味すると、

■ 大黒舞によって新年と恵方を祝いでいた行事が、大黒舞の禁止あるいは衰退によって、「恵方巻」へと代替されていったのではないか?

といったことも想像できるのではなかろうか???!!!

 そうすると、船場に花街がなかったのに「恵方巻きにエッチな要素がある」というのも、なんとなく説明がつくだろう。

 船場の旦那衆による「卑猥なセクハラ」だったというよりは、もともと大黒信仰に「性的豊穣の象徴行為」が含まれている以上、それほど不自然な風習ではなかったかもしれないのである。

(旦那衆によって押し付けられたものではなく、芸者衆側が自発的に行う豊饒祈願だった可能性もある)

 また東北の信仰では「大黒様は耳が聴こえないので、音をわざと立てて”耳あけ”をしなくてはならない」と考えたのに対して、恵方巻きでは「大黒様は耳が聴こえないので、黙って食べるのが礼儀である」と考えたのではなかろうか。

 さらに補足的な事実がある。それは大阪での恵方巻きが明治大正などの初期には「新香巻」であると記されることが多いのだが、今でこそいろいろな野菜を「香のもの」として漬けたり巻いたりしているものの、古くは

■ 大根漬け=たくあん

こそが「香のもの」であったというのである。


『食の展望』2023 味の素食の文化センター

”新こうこうが漬かる時期なので、その香の物を芯に巻いたノリ巻を、切らずに全のまま、恵方のほうへ向いて食べる由」(一〇七頁)とある。香の物は大根漬、たくあんのことと思われる。”

 もうここまでくれば、なぜ新香巻にこだわるのか、理解できよう。大黒様への供物、それこそが大根だから、と考えれば、これほど辻褄が合うことはない!


========

 さて、ここまで考察してきて、ほとんどすべての構成要素は「矛盾なく整っている」といえる。

恵方巻とは大黒信仰の変形であり、花街と大黒舞の関係性が、さらに変化したものである

というのが、基本的な結論だ。

 ただ、少しまだ足りないものがあるとすれば、

「大黒信仰のあらましが、東北やら江戸での状況を反映したものなので、大阪においてどうだったのかが、まだ判然としない」

ということであろう。実際に「大阪においても、大黒信仰にこれまで述べてきた各要素があるのかどうか」について、民俗学的に裏付けがなされてゆけば、この仮説はどんどんと確定的になるに違いない。

<補筆> ちなみに、三田村鳶魚全集 20巻には

「恵方から福の神を先に立て、大黒殿がござった」といって、乞食が元日から緋縮緬の投頭巾をかぶって踊り込む。鳥追とともに初春の景物として、この大黒舞を覚えた。江戸では早く亡びたが、大阪には久しく残っておった。」

とある。大黒舞が大阪では最後まで残っていた証言となるかもしれない。

<補筆> 土井勝の「ごはんとおかず ベスト120種の徹底的研究」1970 には、興味深いことが書かれていた。

 新香巻き(こうこ巻き)は、大阪特有のもので、明治のはじめに大阪戎橋の寿司屋が、花柳界の酔客に教えたのがはじまりで、矢倉ずしが盛んに売り始めた、という。
(土井先生は、「基礎日本料理 新版」1967では戎橋の「すし虎」と書いている。 ウィキでも阿部直吉が「鮓虎」を挙げている。

おそらく起源はこのあたりで間違いないだろう)

 ここでやっぱり「花柳界」と「新香巻」が繋がってくるのである。

(「大黒舞の終焉」と「新香巻きの発祥」が、ちょうど時期を同じくするのが、ポイントではなかろうか。もちろん接点は色街である)



 さて、これ以上は今後の解明に期待したいが、今回の論を発端として、読者諸君のさらなる研究発展を願うところである。

 ちゃんちゃん。





いいなと思ったら応援しよう!