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日本には「人権」がなく、弱肉強食のままである。
前回の記事、「カウンセリングとは貧困ビジネスではないのか?」は、刺さる人には刺さる内容だが、おそらく心理界隈で食っている人にとっては、耳の痛いと言うか「そんなことないわ!」と反論したい内容かもしれない。
ところが、事態を冷静に整理してゆくと、これが実は日本における「人権」の大問題なのだと気づく。端的に言って、日本には「人権」という意識がないのだ。
その話を別角度から説明している良い記事があったので、まずはそれを紹介しよう。
国際的な視点で「人権」を説明している引用先の筆者によれば、簡単に説明すると以下のようなことになる。
■ 日本では「人権を大切にする」とは、「誰か相手を大切にする」ということと同義のように誤解されているが、
■ 人権を守るのは、個人が他者に対してそうするべきなのではなく、
■ 国家が自国民に対して「人権を守る」という行動をとるべき義務である
■ 国家は人権が守られる状態を担保せねばならないのだ
ということだ。
翻って、人権教育とは
■ 他人に対して親切にしよう、その人に思いやりを持とう
ではなく
■ 自分も他者も、守られるべき人権を有しているので、それは国家によっても担保されている以上、確実に履行されねばならない
という話だ、という提示なのである。
この「人権論」を理解していると、前回の話題であった「カウンセリングは貧困ビジネス」という言葉の意味が、如実に浮き上がって見えてくる。
つまり、どこかでいじめや虐待、ハラスメントなどの加害が生じていて、その被害を受けた人が可哀想だから「手当、ケアが必要だよね」という形で心理界隈、精神界隈は動いているけれど、実はそんなのは二の次で、
「そもそもいじめや虐待、ハラスメントは人権侵害なので、それが万が一にも生じていたと発見されたならば、国家は徹底してそれを正さなくてはならない」
ということなのだ。
これが「人権」のあるべき姿であり、もっと暴論を言えば、それらの人権侵害が
■ 生じた時点ですぐにジャッジメントしていれば
■ 次の事件は起こらない、その国家では人権がどんどん守られてゆくのだから
■ ケアされるべき被害者は生まれない
とも言えるし
■ ケアされなくとも、被害者のうちの何割かは、溜飲を下げることができ、納得する
とも言えるのである。
もちろん、加害や虐待や、なんなら犯罪は世界中から消えることはないが、
「そもそも加害や虐待がある状態がおかしいよね」
というスタート地点が、人権意識の発想なのである。
現代においては、その感覚が理解されているとは言い難いから、日本では人権意識が存在せず、「まずは弱肉強食であり、弱者が可哀想なのでケアされるべきだ論」の段階に留まっていると言えるのである。
ところが恐ろしいことに、日本では「ジャッジメントすらなされていない」ということが前回明らかになったので、そりゃあ人権なんて守られないだろうことは想像がつく。
つまりもっと平たく言えば何が起きているかというと
■ こんな被害がありました!こんな人権侵害がありました!
と声を上げたとしても、そもそもジャッジしないのだから
■ それは人権侵害だね、それは違うね、のどちらでもなく
■ そうか、キミはつらいんだね。なだめてあげよう
としか言っていない、ということなのだ。そこから先は話をまったく聞いてくれないので、
■ 人権侵害があったかどうかは、よくわからない
というオチになる。
奇しくも兵庫県知事のパワハラ問題で、百条委員会が設置されても、結局「人権侵害があったのか、なかったのか」まったくジャッジがなされず、宙ぶらりんになったのも同じ構造である。
日本社会は、その結論を出すのを極端に嫌うのである!
ではなぜ、日本社会は「ジャッジメントを嫌う」のか。
そこにはいくつかの構造的な(あっと驚く)課題・問題・原因がひそんでいるのだが、それは次回以降に説明してゆこう。
(つづく)