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「人の命」があまりにも軽んじられている理由


 ウクライナ情勢を巡っては、戦争の期間が長くなるにつれて『虐殺に継ぐ虐殺』の情報が溢れるようになってきました。

 SNS時代、ネット時代は、戦争のあり方や様相まで大きく変えてしまいましたが、戦争の真実や人の死がこれほどまでにダイレクトに、リアルタイムに外部に伝わるようになったのは、ものすごいことだと思います。

 2011年の東日本大震災の時は、日本のTVメディアはすべての御遺体の映像をカットして放映していました。(海外メディアはそのまま放映)

 ところが、あれから約10年の時を経て、ネットやスマホがさらに発達した現在では、ウクライナで命を落とした多くの方の御遺体や、虐殺されたそのままの御姿が、静止画動画を問わずネット空間を駆け巡っています。

 思わず日本のメディアでも、一部に修正を加えながらもその真実や実態を放映するようになったように思います。


 こうした「情報、映像、動画、現地の生の声」を聞いて、日本にいる多くの人は「どうしてこんなにも酷いことができるんだろう」「なぜこんなにも命が軽んじられているのだろう」といった素朴な疑問に襲われているのが、まさに今の状態でしょう。

 これらの悪魔の所業が、ロシアの大統領一人の思いつきで行われたのであれば、「一人の命と、その他何万もの命」が「本当におなじ重さなのだろうか?」と疑問に思わざるを得ないとも感じます。

 と同時に、世界の主張は「ロシアの大統領を戦争犯罪人として裁け!」というものですが、戦争犯罪人として逮捕し、起訴し、最終的には極刑を持ってしても、失われた何万もの命は、取り戻せないという事実がそこにはあります。

 ということは、大量殺人を犯した人間に対して、「命の重み」という”ものさし”を持って、いくら正義正当な裁判を持ってしても、公平な結末を得ることはできないのだ、ということが真実なのかもしれません。


 それであれば、たとえば大量殺人を犯そうとしている犯人がそこにいるとして、「逮捕・起訴・裁判」という手段を追いかけるよりも、その場で即座に射殺したほうが、結果として救われる命の数や量は多いかもしれない、なんてジレンマも生じるわけです。


 現に今、ウクライナの大統領は、厳しい選択を迫られていると伝わります。最後の一人まで戦った方がいいのか、それとも早く妥協して落とし所を見つけた方がいいのか、”どちらが命を数多く救えるのか”というジレンマです。


 わたくし武庫川は、解脱者ですから、この難問に対して明確な答えを持っています。それはとてもシンプルで、わかりやすいものですが、そのことを認めるには勇気が必要で、覚悟が必要なものだと思います。

 結論は一つです。

「そもそも、命は軽い」

ということに他なりません。


 命は軽いから、簡単に奪われてしまい、そして永遠に取り戻すことはできません。あっけないものです。はかないものです。

 少なくとも、仏教における「無常」の概念では、命に限らずすべての存在をそのような「軽い」「脆い」ものとして捉えます。


 あなたの命も、私の命も、吹けば飛ぶように軽いし、一発の銃弾で失われるほど弱いものです。


 それを知っていると、逆の発想が生まれます。手荒に扱ったらすぐに割れてしまう「たまご」のように、「大事に扱わなければならない」と人は思いつくのです。


 この考え方、発想が、この世界の真実です。

 たまごは”尊いから”大切に扱い、守られなくてはならない

のではありません。

 たまごは、すぐに割れてしまうくらい”弱く儚い”から、大切に扱わなくては壊れてしまう

のです。命は、たまごと同じです


 この考え方に覚悟が必要なのは、それはつまり「人権なんてないに等しいから、『人権のような保護材』をわざと用意しなくてはならない」ということを意味するからです。

 つまり、人権の否定が根底にあるから、覚悟が必要なのです。



 今回の戦争で思い出すことができたように、人間はほんの少しでもタガが外れると悪魔の所業を実行してしまう生き物です。それくらい、人間は弱く、恐ろしい存在です。

 そして、人はあっという間に命を奪われるくらい、儚いものだったのです。

 だからこそ、「その儚さ、脆さを守るために」手厚い準備がなくてはならない、ということだったのです。

 手厚い準備とは、「お互いにすぐに壊れてしまう存在である」ことを確認し合うがゆえの「口約束」のことを意味します。

 つまり「戦争をしない、互いに傷つけあわない」という口約束を、何度でも何度でも交わす努力です。


 たまごを何重にも梱包しておかないと割れてしまうように、この口約束は何重にも、何度でも交わしておかねばなりません。それが所詮口約束に過ぎなくても、念入りに交わす必要があります。

 それが文明というものの本当の姿です。


 今回は一番恐ろしい戦争をテーマにしていますが、文明はありとあらゆる形で「弱いからこそ、堅い口約束を行おう」ということを目標にしています。

 それは「相手を殴ってはいけない」とか、「相手を傷つけてはいけない」とか、「盗んではいけない」とか、「規律が必要だ」とか、ありとあらゆるものに適用されています。

 それらは口約束に過ぎませんから、例えば赤信号で道路を渡っても「無事に渡れてしまう」なんてことはよくあります。ルールですら本質は口約束に過ぎないので、実行力を持った警察官がそこにいなければ、規律が発動されない、なんてことは当たり前なのです。


 文明はそれら「口約束」に過ぎないことを知っています。口約束のままでは、それが破られたときに問題が生じるので、そのために「物理的な力」を念入りに準備しています。その代表が、軍隊であり、軍備でしょう。

 日常生活では「警察力」であったり「罰則」であったりします。


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 ここで中間まとめです。


 ◆ 人間は脆く、儚く、弱い

 ◆ 命は軽い、めちゃくちゃ軽い

 ◆ そこで人類は、その弱さやもろさをなんとか守るために準備を重ねてきた


 だからこそ、準備を怠ったり、守る努力をやめてしまえば「もろさ」「よわさ」「軽さ」が一瞬で表に出てきてしまう、というわけです。


 では、後半に入りましょう。この世界に存在するすべてのものが、とても脆く、軽いことはわかりました。そして、人類が努力を怠れば、すぐにそれが露呈してしまうほど、文化文明すら「弱い・もろい」ことがわかりました。

 では、私たちの文化文明では、どのように安全が保証されるのか?

 それとも、安全なんて本当は口約束に過ぎないのか?

 その未来を考えてみたいと思います。


 文化文明が育ててきた「口約束」は、「我慢の約束」でもあります。誰かと誰かの主張がぶつかれば、争いになり、戦争になり、殺し合いが生じます。

 だから口約束の世界では「俺も我慢する」「お前も我慢する」という我慢の約束の形を取ることが多いのです。ということは、逆に言えば「どちらも不満足」なわけですから、これはこれで次の火種になることも多々あります。

 それでも「我慢の約束」をしないことには、戦国時代がやってくるだけでしょう。


 西洋諸国が先進国と呼ばれる理由は、実は「いっぱい殺し合いをやってきて、実際に命をアホみたいに軽んじてきた結果、口約束であっても我慢の約束を互いにしたほうがマシだ」というところまで、結論がたどり着いたからに他なりません。

 日本が先進国に順応しやすかったのは、神武東征にはじまり、源平合戦や戦国時代、戊辰戦争、日中戦争、太平洋戦争など、西洋とおなじくらい「命をアホみたいに軽んじてきた結果」、彼らが言っていることがなんとなくわかったからかもしれません。

 だから、ここでみなさんに覚えていてほしいのは「リベラルや民主制が進んでいるということは、彼らはそれなりに殺してきているという歴史を持っている」ということです。

 たいがいそこまでの歴史の上で、ドンパチをやりまくっていて「おいおい、もういいかげんこれくらいにしておかないと、どっちも死ぬぜ」ということがわかってきた人たちが西洋諸国である、ということです。 

 だから「西洋の民主主義やリベラリズムが」絶対的な善で正義である、とは思わない方がいいということでもあります。


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 ところが、もう一方で、世界には「そんなもん口約束やろがい!」と思っている国家や政府もまだまだありますし、「お前らだって長年殺してきて、いまさら何を言ってるねん」と思っている国家や政府もまだまだあります。

 それが政治体制の違いとして現れたり、西欧諸国や先進国への反発となっている国もたくさんあるのです。


 もし、神様がいて、神様の目線で世界を見ていたとしたら、あと1000年くらいあとには、世界は等しく「もう、ここらでやめとこう」とお互いに言って平和なように見える世界がやってくるかもしれませんが(文化の成熟)、それがやってくる前に、やっぱり資源の取り合いで戦争・紛争に逆戻りするかもしれません。

 口約束だけでは、資源は増えませんからね。


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 さて、それでは最後のまとめに入りましょう。

 もしかすると、人類の歴史において最後の最後には、みなが殺し合いを続けた結果「もう、ここらでやめようぜ」とすべての人と国の文化が成熟して、たまごを大事にするようになる時代がくるかもしれませんが、少なくとも僕たち私たちが生きている間は無理です。

 命は軽いし、口約束は破られます。

 では、その間、少しでも安心安全な暮らしを続けるにはどうしたらいいのでしょうか?

 私は、21世紀から22世紀のリベラル、民主主義は、次のように変化するのではないか?と考えています。

 少なくとも、今回のロシアの侵攻によって、世界中はそちらの方向へ加速するのではないか?と思います。


 それは

「口約束が守れないヤツは、殺せ」

というものです。

 これは、これまでのリベラルからは、大きな変質だと思います。これまでの20世紀型リベラルは

「口約束が守れないヤツにも人権がある」

でした。

 しかし、それと「短期間に何万人もの命が失われた結果」を天秤にかけたら、どうにも釣り合いが取れないことに誰もが気づきます。

 だったら、そんなヤツは、早期に排除しろ


という機運が生まれてきても、まったく不思議ではないと思います。

 みなさんはその転換期に生きています。

 おそろしいことですね。


(おしまい)




 







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