はちみつバター × ニーチェ = フルーチェ?
はちみつバター教は、今をときめく21世紀もっともホットな新興宗教ですが、じわりじわりとその信者数を増やしているようです。(ごく一部のニッチな界隈で)
さて、そのはちみつバター教の教義とニーチェの哲学がとても近い、親和性が高いということで、そのあたりをすこしおさらいしておきましょう。
はちみつバター教の教えの根幹は「生きててよかった」という感動を確信することです。その象徴物としての「はちみつバターパン」なので、別に各人が何をもって「生きててよかった!」を実感しても構いません。
人によっては、まったく別の「モノ」がそれを感じる媒体となるかもしれませんし、また別の人によっては「誰かとの体験」などが、それを感じる現実感をもたらすかもしれません。
なので、言葉の上でこそ「はちみつバター教」ですが、その意味合いにおいては「生きていることの肯定、実感」を得ることができれば、なんでもよいわけですね。
さて、哲学者のニーチェは、「神は死んだ」という言葉で有名です。それまでの西洋哲学や西洋文明をベースとして支えてきたキリスト教や、そこで教えられてきた「聖書の神」について、「神は死んだ」と定義することで、新たな哲学的展開を見ようとしました。
ニーチェの考え方は、平たく言えば
「神や霊といった虚構によって、わたしたちの歴史や人生はおおいに狂わされてきたのだから、自分たちの肉体や生活といった生身の人間の生き様を取り戻そうぜ」
といった考え方になるでしょう。
少し誤解を招きそうですが、ニーチェの「神は死んだ」は一般的には「ニヒリズム」として紹介されることが多く、その訳語が「虚無主義」であるため、
神の死とは「なんかもう、この世は虚しいので、どーせどうでもいいじゃん」という話
だと解釈されがちです。たしかにそういう面はあるのですが、順序立ててニーチェの考え方を読み解いてゆくと、けしてそれだけでは終わらない話だとわかってきます。
さあ、では今日は、はちみつバター教的に、ニーチェがどう考えたか、紐解いてみましょう。
<1> まず、キリスト教と聖書という従来の巨大な価値が崩壊する。
従来の価値、存在的意味をがんじがらめに規定していたキリスト教や、教会、聖書を否定します。科学や技術が発展し、このセカイがどのようにできているのかがどんどん明らかになっていった時、「神」の存在は、抹消・抹殺されてゆくのです。この段階が、「神は死んだ」ですね。
<2> 価値の崩壊とニヒリズム
従来の価値がぶっ壊れてしまう、吹っ飛んでしまうことで、私達は依拠していたベースを失います。これが虚無的な視点です。基盤を失ったので、ある意味どうしていいかわからないし、過去の栄光やら過去の生き方が無駄になってしまうわけです。これをもって「以前のものは、もうどうしようもねーな。むだだわ」と受け止めます。ここがニヒリズムです。
<3> 価値の創造と新生なるわたし
ニーチェの話は、一般論的紹介では1〜2で終わってしまいますので、「なんかもう、全部どうでもいい」というニヒリズムの部分で話が終了したかのように勘違いされがちですが、実はここからがポイントです。
従来の価値が全部吹き飛んでしまったのなら、ゼロベースで「新しい価値」を生み出して行かねばなりません。これを「積極的ニヒリズム」と呼びます。ニーチェは、無価値であることから逃げずに、立ち向かおうとしたわけです。
<4> 超人になろうぜ!
超人、という言葉もニーチェには欠かせません。僕たち私たちは超人といえば「ハルク」とか「ロック」とかしか知りませんが、僕たち私たち自身が超人になることをニーチェは勧めます。
ニーチェとしては、ニヒリズムは「通過点」で、その先があるわけです。
人生は無意味である、しかし、それを乗り越えていかねばならない。だから「”超”人」なのですね。
<5> 「永劫回帰」とニーチェ的生き方
聖書的価値観、歴史観では「天地創造があり、ハルマゲドンがきて、楽園天国に至る」という一直線上のセカイ観で語られていました。それに対して、ニーチェは神を否定しましたので、「セカイは永遠にこのまま回り続ける」と考えたのです。つまり、はじまりも終わりもなく、「明日もこの日常がやってくる」という感覚に近いかもしれません。
それが「永劫回帰」です。
天国や来世があるというセカイ観だと、人はそれにおんぶに抱っこで頼り切って来世の希望の中を生きてしまいますが、「セカイはこのまま」だとはっきり示されると、その中でどう生きてゆくか現実をつきつけられます。
ニーチェは、この永劫回帰の中で、人は「超人」として新しい生き様を見つけてゆくべき、と考えたわけです。
(ただし、このままの日常においては、人は「生きている意味」なんてたいしてありません。だって、セカイはずっと同じように続くのだから、神から与えられたような人生の目的とか、人類の未来などないわけです。なので、新しい生き様を見つけるとは言いながら、実際にはそれらも含めて「ニヒリズム」(どうせ無駄)の感覚も併せ持っていることになります)
<6> 運命愛という到達点
運命愛とは、ニーチェが説いた「セカイが永劫回帰であることを受け入れ、あるがままの運命、セカイのありようを受け止めること」です。そして「それを愛する」というところまでがセットになっています。
まず「セカイはどーでもいい」ということに気付き、「どうせ明日もそのままやってきて、このろくでもない日常は続く」ということに気付きます。ここまでがニヒリズムです。しかし、それを「避けたり、耐えたり」するのではなく、「それでもそのセカイを愛そう」と思うところまでがニーチェなわけですね。
それでも、このセカイを肯定し、自分を肯定し、それでも生きてゆこうと思う積極性(ポジティブさ)を運命愛と呼びます。
サントリーBOSSのCMキャッチコピー「このろくでもない、素晴らしき世界」(宇宙人ジョーンズ)というのがありましたが、まさにあれです。
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ここまでニーチェの思想を、順番に説明すると「はちみつバター教」がなぜニーチェなのか、よくわかると思います。
日常はろくでもなく、虚しいものであり、ハルマゲドンは来ず、セカイは明日も続きます。
しかし、そこで落ち込んで、投げやりになるのではなく、その中に「光」を見いだせるような生き方。それが超人であり、はちみつバターパンを愛せる人間の力です。
このろくでもない素晴らしきセカイの中で「生きててよかった!」と声を上げて、そしてリアルにそれを感じることができる。それが超人で、運命愛なのですね(笑)
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ここからは武庫川さんの個人的な語りになりますが、実は私の「解脱」「悟り」もまったく同じようなプロセスを経ています。
武庫川が解脱者なのは、
■ このセカイは存在しないかもしれない。
■ あるいはセカイが存在しないことと、ニアリーイコールである。
■ その意味では、セカイは無駄かもしれない。
■ 歴史はない。質量保存の法則から言えば、「今」が永遠に続いているだけ。(織田信長を構成していた分子が、今私の一部になっているかも?)
■ 存在しないセカイが、ただここにある。
■ では、ここに生きてることは無駄か?
■ そうではない。喜びを一つずつ集めて、人生を過ごしていこう!
という考え方で生きているからです。
ニヒリズム、永劫回帰、超人、運命愛 全部入ってますね〜。ニーチェですね(笑)
なので、ミコノさんの「はちみつバター教」も、「ニーチェの哲学」も、「解脱者・武庫川散歩」も、使っているワードが違うだけで、ほとんど同じことを言ってるんですね。
だから私は「解脱者」であり「はちみつバター教」の信者でもいられるわけです。ついでに「ニーチェの生まれ変わり?」かもしれません(笑)
とまあ、そんな感じで、解説してみましたが、こういう説明だとわかりやすいと思います。
……フルーチェ、どこいった?
フ、フリードリヒ・ニ、ニーチェ・・・・・。親父ギャグかよ!
(おしまい)
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