短篇小説『十月のアネモネ』
町とも呼べぬ町。
ヒトが軀も心も生きられる最低限だけ揃えたふうな、錆びつき朽ちゆく町に。
たいした幅のない、しかし果ての知れぬ水路を境界線として、森が、たかく、厖大に、そびえている。
午后3時。薄曇の空をはんぶん、夜にしてしまうかのように。
葉の1枚も落ちない常緑樹の森って、こんなにも暗い、黒黒としたものだったろうか。緻密且つダイナミックなちぎり絵のように葉は無数に繁り、膨らみ或いは垂れさがり、気の遠くなる樹齢であろう魁偉な幹たちとともに空間を埋め、周囲迄も影とする。夜がそこに、刻をとわず息づき胡座をかくみたい。風らしい風がないからか葉擦れの音もなく、鳥がかたちさえ視せずガサガサと羽音と、狂おしげな声だけを降らせ。
『あなた』の街の駅から、いつもと反対方向、やたらと本数のすくない電車で7分揺られただけで、こんなところに着くなんて。
屋根もない白骨化した無人駅舎をぬけ線路沿いに、そこだけまずまずあたらしい5分の1にちぢめたスーパーマーケットみたいな萬屋と3台ほどの駐車場と、幾つかの廃屋と廃屋では未だなさげな米穀店や畳の工房や商工会議所やスナックなんかを過ぎると、道はふいに90度折れまがってのぼり坂。こわいほど、まっすぐに。
数分も歩くと、そこにある円柱ポストにしか所用はないとばかりに、車道さえも尽きて、石段のみに。左手に件の、黒い森がはじまり。
左の森との間には、水路。私の腿ぐらいまでしかない歪んだガードパイプからのぞきこむと、深くて、白昼でもそこに光の粒は僅かにちらつくのみで、水量がどれほどであるかも掴めない。百年前には、舟による運送で絶えず脈動していたのかもしれない。蝉も眠りについた季節のなか、水の音はせせらぎというよりかは、ラジオのノイズみたいに小うるさい。
石段がはじまって以降右手には、造りがまったくおなじの、ピンクベージュのペンキが剥げかけたモルタルの平屋が、まるであわせ鏡に映る百歳の老婆の肖像みたいにつづく。ここはなんだか、すべての遠近がおかしい。すべてがあっさり天まで延びる様相でもあるし、すべてがふいにベニヤの平面となって顔をぶつけ、『只の絵だよ』と何処からか誰かに嗤われても不思議でない気もし。
そんな石段の中途に、視憶えある人影。左半身が夜の森のせいで影に、右半身だけ詳らかにされた、『あなた』。
夏を留め浅黒く灼けた儘、かさついた頬。推定3日は剃っていない髭。彫りの深い瞼は反して滑らかで脂がのり、ショーモデルのサイケな化粧のように金色に煌やいて映る。眼はアレルギーで左右とも固める前の水飴の如くねばりぎらつき、微かに血走り。
妙に危なげで秘密めいて映るけれど、視かけだおし。実質はこれといった野性味も聡明さも、詩情もテクニックも世界観も、意味もないひと。出逢ったときから。そして今日からは尚更、貼った儘放置され変色したポスターほどの意味もなくす。
「花なんか、どうした」
腹話術みたく殆ど脣をうごかさず声を発する。白と赤と紫のアネモネを、私は手にしていた。あの白骨駅前の萬屋で買ったのだったか、『あなた』の街の花屋で買い持っていたのか、それより以前に『あなた』の部屋の花瓶から抜きとったものなのか、忘れてしまったし。そもそも『花なんか』と気にかけるガラじゃない『あなた』が、よっぽど可笑しい。いつかは35センチ切った私の髪にだって、気づかなかったくせに。
「御見舞いがてらよ、いちおう」
私は実際にうすく笑いながらこたえ、人為的にシルクのフリルを縫い重ねたふうに美麗なアネモネ、季節はずれに温室でひらいたアネモネを、リカちゃん人形の頭部よろしく、ゆらゆらさせる。
『あなた』は、ここで療養している。空気だけは何処よりもとびきりよいだろう、これらの旧ぼけた家家のどれかひとつに、逗留し。
『あなた』は花を受けとるでもなく、
「歩いて話すか」
と。家にいれたくないのか知られたくないのか、知らない。石段をのぼらんと、身を翻す。ボタンが中途迄のサイズがきつそうなシャツに、筋肉が脂肪に変りつつある胸の膨らみ。髭がなければ、ゴルフにゆくおじさんみたい。
「マンションに寄ってきました」
ちょうど目線の高さにある男性のおっぱいに話しかける。
「私がさしあげた衣類は鋏で刻んで棄てました。私が写った写真および撮った写真はキッチンで燃やしました。合鍵はポストに放りこんでおきました」
脣から単純な事実だけが零れてゆく。水道水のように淡々と。留守番電話の声を聴くみたいだと、軀から数センチ浮いた、私の心が思う。
「うん」
『あなた』はふり返りもせず、かたちよい鼻や尖った顎を森の影に黒く沈めながら、石段をゆっくりだが、ブレもなくすすむ。むかし、『あなた』のマンションからの帰り、「隠れた桜名所がある」って回り道、アーチのように桜が咲き花弁の降る夜の住宅地を、のぼったりくだったり、したっけ。『あなた』の鋭利な横顔の影絵と、くすぐりなぞるように舞う桜が、幻覚めいて綺麗で。視つめていたら、影絵は私の視界を、隈なく塞いで。春は幾度も過ぎたのに、そんな散歩をしたのは、一度きり。そして、もう二度と。
『あなた』の療養が何のためなのか、私は知らないしこれから知る理由も、あとは誰が隣で支えとなるのかを聞く必要も、ない。私にとって『あなた』が『あなた』であるのも、せいぜい残り、数十分。それが過ぎれば私は、賑わう街らしい街へ戻り、あたらしいパンプスでもさがしにゆく。
ときおり雲の切れ間からさす陽光がやわらかく、頬を撫でる微風も心地よい筈だが。さっき『あなた』のマンションで焼いた写真群の臭いが未だ、鼻の奥にのこっている。キッチンのフライパンで写真を焼き、想像を遥かにこえた臭いに換気扇だけでは堪えられず、ベランダの窓を開けたら、ちょうど国鉄の踏切の鐘が鳴っていて、駅に停らない貨物列車が全速で、レールを滑るというよりか、街を震動させ、ビル群を突き崩す音で過ぎていて……それは、私のなかで何かが壊れる音と、周波数をあわせ、且つボリュームを、音圧をあげて。いつかの冬、ここの風呂釜がおかしくなりほとんど水のシャワーを浴びたときのように、ふるえがとまらなく、指が感覚をうしなって……床にフレアスカートの波紋をひろげ両膝をつき、レースカーテンを破りそうなほど掴み。カーテン越しに映る陶器の金魚鉢が、もう随分前から生命なんて絶滅しているのに、鏡ていどの水面が海となり波飛沫をあげ、暴れ。マッチで灯した青く紅い焔に歪み融ける私や『あなた』の顔が、いかれたテレビみたいに脳裡を幾重にも、軀よりつめたく、めぐり。
森の濃密な緑や、土の香といった生まれた儘の空気がいま、つい先刻死に絶えた人工物の腐臭と、まざりあい。私の鼻が肺が脳が、処理しきれる筈もなく。くらくら。
「……病院は、近いの?」
「あぁ。基本的にまいにち通うけど、きつくはない。めんどくさければ往診もしてくれる」
「そう」
『あなた』の療養は、私からすればちょうどよかった。ともによく行ったジャズ喫茶や海沿いの煉瓦広場や展望回転レストラン、送り迎えした駅だとかよく使ったブルーの公衆電話ボックス、ましてやたがいの部屋なんかで、別れ話をしたくない。こんな死ぬ迄来ない場所で別れるのがよい。すぐに忘れてしまうだろう、頓狂な場所で。
「ここには何がいるの?」
閉園時間を過ぎた夜の動物園も彷彿させる黒い森を視ながら、問う。鳥と思っている声さえ、もしかしたらまったく別の生き物かもしれず。
「さあ。窓の外で野良猫と、鼬を視たことがある」
「ふぅん。蛇は?」
「知らないけど、いるだろ。あとは蚊と蠅と芋虫と蜘蛛ぐらい。あ、家の天井に鼠がいるみたいだ」
「蚊なんて未だ飛んでるの?」
『あなた』はシャツを捲り、上腕に迄ぽつぽつ咲いた、線香花火めいた赤みを視せる。
「何とかしてくれませんか、って医者に云ったら、『管轄外です』ってさ」
「いっそのこと、森で暮したらどう? ヒトなんかでなくなった方が……」
「……そうだな、ヒトなんかでなくなった方が、ふてぶてしく生きて、堂堂と死ねそうだ」
めずらしく意見のあった『あなた』は、力なく笑い、顎のシルエットをよけいに尖らせる。ヒトなんかでなくなった方が、きっとかんたん。オスとメスも。
石段をのぼっても平屋はずっとある。のぞきこむと中身は空っぽで外壁は枯れて化石となった蔦のびっしりからんだ家もあれば、メルヘンな色調のポストや陶製の7人の小人をおく家や、○○司法書士事務所とか○○硝子工房とか看板を掲げる家……そしてふたたびフェンスで遮られ扉に魔除け札の貼られた空家があらわれたりと、さまざま。
森も変らず、左の空を夜にしながらたかだかと在るけれど、水路ははじまりとおなじにひくいところを流れる儘で、益々遠ざかり、深くなり。煌めきをほぼうしない、ラジオのノイズだけがうすくあやしく響き。夜どころか闇どころか、那落迦へと案内するかのよう。
ふいに、私と『あなた』の間を、このあたりの住民だろう、男の子が駈けぬける。ランドセルのほかに体操着や運動靴でも入っているかおおきな袋を肩にさげながらも、仔鹿のような脚で、一段飛ばしで。男の子がおこした風によるものか、私の白いアネモネが一輪、手を離れ空を舞い、やがて黒い水路へとゆっくり、吸いこまれてゆく。
軀から数センチ離れた儘の、私の心が嘲笑う。私と『あなた』の外側ではなく、ふたりの間の方が通り抜けやすいだなんて。磁石のおなじ極ほど、ふたりが物理的にも離れているなんて。視界を塞ぐどころか、視つめることさえ叶わぬ「管轄外」だなんて。こんな日がくると、すこしも想像しなかった頃のじぶんを偲ぶ。髪を35センチ切ったときの私は、予感していたろうか、それとも……
ぼんやり考え立ちどまる私に気づかず先へゆく、やや汗ばみ息を荒くし疲れたふうな『あなた』の足首を、あの日の、35センチの私の髪が均一な束をなし蛇となり、世の光を脂を奪うように艶めきながら流麗に渦を巻き、からめとり。何ら気づかず、酔ったふうに、眩暈をおこしたふうにふらつく『あなた』。ひくいうえ錆びて折れ曲がったガードパイプは蜘蛛の糸ひとすじほどの救いにもならず、『あなた』は漆黒の那落迦へと、滑らかに、堕ちてゆく。さっきのアネモネぐらい、ゆっくり。左は影、右は曇天の白白とした光につつまれた『あなた』の逆さの顔が、こちらを、最高に皮肉な偶然で私を、まっすぐとらえる。別段驚いていない眼。いつもの眼。水飴のような眼。金色に煌めく瞼。フライパンで燃やしたポラロイドやコンパクトカメラの写真には1枚も再現されていなかったその色。はじめて逢ったとき、惹かれ、私を髪のさき迄染めあげたあの色。閑だった夜の森が、さっきの仔鹿みたいな、おそらくヒトじゃない男の子に触発されたみたいに、鳥か何か不明の生き物の声もあわせながら風をおこしざわめいて、『あなた』が堕ちる音を、脣を僅かにうごかしているような気がする『あなた』の最期の言葉を、かき消す。きっと誰も、死骸さえ永久に視つけられない。『あなた』が線香花火を咲かせた腕に抱く透明な腹話術人形の冗句だったかもしれないけれど、望みどおり、『あなた』もヒトでなくなって、堂堂と死ぬ。
私はのこりの赤と紫の、写真を灼いた焔によく似た彩度のアネモネを、『あなた』への恋とも愛とも妄執とも、幻惑とも怠惰な夢ともつかぬ、ふるえつづけ指をのばしつづける何かへの弔いのため、投げる……
過去も未来も抜け殻の軀で私と『あなた』……もう『あなた』と呼ぶべき存在でないかもしれない『あなた』は、距離を左右も前後も、大熊だって通れそうなほどあけた儘、桜のアーチの住宅街とちがっていつ迄も終らぬ石段……ひょっとしたら、魔術のかけられた騙し絵で、おなじところをメビウスみたく廻っているだけかもしれぬ段を、夜の森と百歳の老婆たちとともに、ゆきつづける(さっきとおなじ魔除け札の扉を、また視た気がする)。言葉の交わりもなく、序破急も幕のひきどころも視うしなった別れ。もう何もかも、どんな空家よりも虚ろ、現実には未だ手にある一輪のアネモネさえ、白というより色を哀しくうしなって俯くのに、歩き疲れ狂おしく吐く息は、まるでふたり抱きあい踊るみたいにリズムをとりあって。表面だけ熱く汗腺よりつたう雫は、まるで泪のかわりのように、かわいた秋を微かに金色に熙らせて。
右の空にも、厚い雲がたちこめだす。森の音が、何者か知れぬ生き物たちの、キチチチチと歌う声や、ギュエェーと呻く声、ブオォーと唸る声だとかが、数も種類も殖やしてゆく。
そこにどうしてか、『あなた』のベランダからの、踏切の鐘の音も、貨物列車が街をふるわせビルを崩す音も、金魚鉢の海の荒波も、規則的に、まるで私の眼前に在るように、そこへふらふらと飛びこんで、軀を花弁よりこまかく散らしてしまいたくなるように、鳴っている。
音や風迄も操る騙し絵は、鑑賞しているのでなく、抜け殻である私の胸に、不本意にも内包されてしまったのかもしれない。今だけの、数十分後には賑わう街らしい街へ戻り、あたらしいパンプスをさがすうち忘れ去る予定だったシーンが。
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