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掌篇小説『ソレイユ』

 私の『日蝕』がすすむ。

「あなたは産まれたときから、誰より白くかがやいていたのよ」
「そうだよ、僕たちの太陽なんだよ」
 ママもパパも云っていたけれど。

 私の肌はたしかにほかより白い。発光するように。しかし、ときどき、何がどうしてか、『日蝕』がおきる。
 痛くも痒くもないけれど。

 梔子くちなしが湿った風にかおる。
 ほんとの太陽は、今朝の雨雲をその手で散らして、こんなに世界を眩暈するほど燿かせるのに。私の左頬と左肩と左腕と左の臀部は、なぜか今日また漆黒のかげとなってゆく。白樫しらかしの木にのぼり、ひりつくほどの光をうけ、果汁みたいに汗を垂らす裸身は、あのひとの前、つまびらかになるほかない筈なのに。
 あのひとは私を視あげる。太陽にそうするみたいに。サングラスもかけず、眼を灼き潰しても構わぬとばかり。カンバスを芝生になげだして、絵具を筆に、あるいは掌につけ、雨あがりの濡れた土になすりつけたりもして、木のうえの私を描く。男があんなに、こわいように射抜くように私を視るのって、セックスと、絵を描くときしか知らない。私は絵を描く行為の方が猥褻だと思っている。触れるほど近くにいるのに、覗き窓から観察されているようで。
 そしてあのひとは、私の特性たる『日蝕』の翳を描かない。いま左頬と左肩と左腕と左臀部、左胸や左脇腹や左腿や左脛に迄『日蝕』の翳が、ありもしない月の背中が、濃密な珈琲でも一雫ずつ溜めるみたいにすすんでいるけれど、あのひとのカンバスに佇む私に、黒はない。
「君のからだに翳などない。僕の眼には映らない。眩しい太陽の君を知っているから。君のママやパパよりも、奥深く迄ね」
 あのひとのくちびるは、ペーパーナイフで斬った手紙の切り口みたいなのに、ふやかした風なだらしない膨らみがあって、私みたいな痩せっぽちの女なんて、いつでもやわらかく呑みほしてしまうだろう。いっそのこと、そうして欲しいのに。あのひとは私を、こんなふうに庭の白樫に登らせたり、お屋敷の孔雀石のテーブルに座らせたり、または戦乱のころ逃亡の為造られた地下通路に、ちいさな蝋燭だけ所所ともし寝ころばせたりして、私を描く。
 庭の裏口から、紺に塗りたくった酒樽みたいな郵便配達夫がくる。カンバスに這いつくばっていたあのひとは二足で立つことを思いおこし、猥雑な虹色の手で手紙の束をうけとる。目前にある白樫の巨樹の枝のうえ、裸でいる私に配達夫は、気づかぬのか気づかぬフリか。私はとうとう、左はんぶんが『日蝕』の翳となった。あのひとが好きと云った、正面を視ても僅かにナナメの方角を向いた左眼も、右よりちょっとちいさな乳房に彫った蛇のタトゥーも、いまはあのひとの絵にあるのみ。

「つめたい物は如何」
 メイドのほうがよほど品のある、ちぢれたかつらと継ぎぎのワンピースを被った初老の女が、トレイに筒状のカクテルグラスを3つのせ現れる。厚ぼったい化粧が微笑みをより下卑たものに視せ。
「うむ」
 いつもなら邪険にはらいのけるか怒鳴り散らすか虹の拳でぶん殴る本妻に、めずらしくあのひとはしたがう。不審に思いつつ私も白樫より左右モノトーンの軀でとびおりて。高低差のある庭の中央、そこだけフラットな場所に設置された円テーブルにおかれるのは、あざやかなピンク・グリーン・ブルーの液。
「良いリキュールが手にはいりましたの。お好きにえらんで」
 あのひとはグリーンを、私はピンクを、本妻はのこったブルーを手にとり、グラスを触れあわせず、ほんとの太陽へとかるくかかげる乾杯。思うよりアルコールのつよいカクテルは潤すのか灼くのか、いずれにせよこんな白昼に喉を官能的に刺激する。グラスの割れる音。グリーンを呑んだあのひとの脣、本来なら私を咥えこむ為にある脣から、視たことのない鮮烈な赤絵具が噴き出され。薬剤を噴きつけた虫の如くひきつり倒れるあのひと。赤絵具は青の庭をゆっくり、海へと還るようにくだってゆき、私を描いたカンバスも沈め。
「あんたが死ぬ筈だったのに」
 マスタード切らしてたのに、とかいう独り言みたいに本妻は呟き、私の、すこし出た喉仏より右も『日蝕』の翳がすすんでいる首を、がさがさのおおきな手で、絞めるよりも折り曲げそうな力で、掴んできた。苦しさと痛みにけ反った私は、南の太陽と、真正面より眼をあわせる。

……………どうしてかしら。すこしも、眩しくない。逆に周りが滅びたように夜となって沈み、太陽の、温度差によるオレンジのグラデーションや黒点の模様、焰を幾筋も舞わすフレア迄、さながら、なれ親しみ尾をふり跳ねてはしゃぐ犬みたいに映っている。パパやママ、あのひと、パーティーや画廊やオークション会場に屯する連中に『太陽』と呼ばれる私、贋作の『太陽』である私と心をあわせ、遊んでくれている………

……………やがて、世界がふたたび真昼の色を蘇らすと、私に襲いかかっていた本妻が、ほんの一瞬太陽の6000度迄燃え盛ったのち、ひとのかたちをした黒炭となり、それもあえなく崩れおち、灰をひろげた。本妻自身でないワンピースや鬘、右眼の義眼だけはそのままに遺り……彼女と私に共通項はないものと思っていたが、けしてひとと視線が、はんぶん噛み合わぬところだけは、一緒だったらしい。私はサイケデリックなパレットとなった庭で、アイアンチェアにすわりなおしアラベスクの背にもたれ、グラスにのこったピンクをゆっくり呑む。どれほど時間をかけていたかいないか、グラスの雫つたう右手も、右の頬も鎖骨も胸も腹も腿も脛も爪さきもほぼ翳におおわれ、いよいよ『皆既日蝕』となりつつある私。ママ、パパ、どう思う?

 無風。コマドリの声だけして。
 さっきの郵便配達夫が、ふたたび現れる。
「渡し忘れが」
 と手紙を一通。ほかに渡す生者は生憎いないので、無垢な昼下りに顔すらわからぬ闇の女となった私がうけとる。いま何か、思うことは? と問えば。
「生憎、僕は、屍にも女性にも興味がないのです」
 と。酒樽の様相にあわず、かぼそい声。踵をかえし、彼にはせま過ぎる木戸をくぐる際、ふりかえり。
「貴女、『日蝕』ですが、お気づきかわかりませんが、輪郭がかがやいています。黄金のような、プリズムの虹のような。それはとても美しい」
 と、左口角を僅かにあげた。

 黒い手で、封を乱暴にやぶる。あのひとが酷評していた新進画家の、個展への招待状。会ってみようかしら。





©2023TSURUOMUKAWA
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