掌篇小説『夜の指』
仮名や英字、奇妙な図形や流線が節操ない色で光り踊る、夜。
郁にすれば、異星の街。
その店の硝子扉をひらく。
幾何学模様のモザイク壁、艶めく橙の革椅子……最奥には、ピアノ。
客はスーツの膨らんだ男ばかり。煙草と酒に澱む彼等には、乳白の地にあわく杜若の咲く袷を着た清らな訪問者は、それこそ異星人に映ったろう。
店にもう独り、又別の星からの女。
ピアノに撓だれる歌。数多のカラーピンで纏められた要塞の如き黒髪、ゴールドのコンタクトの眼、裸より淫靡なスパンコールドレス……
……そして紫の右手袋に、指環。
迷子の少女であった郁の眼が、大人に還る。
ステージを終え、色めきたつ男たちを躱し、郁のテーブルに座る女。約束でもあった風に。
ほそい煙草を燃しつつ、コンタクトが、珈琲カップに添えられた郁の指環をとらえる。指の幅よりおおきな藍玉。
「おなじ色形の指環を遣るなんて、舐められたもんだわ……奥様は、寸法丁度良いようだけど」
「貴女も、大切になさってるのね」
「偶々よ。何の御用?」
氣怠さを露に女は、給仕に合図。氷もない濃密な琥珀のグラスがおかれる。暫しの沈黙ののち。
「形見分けですわ」
郁は、指環側面にある金具を弄る。
すると藍玉をのせた台座がひらく。所謂、ロケット。
中には写真……でなく、粒の大小揃わぬ白い粉。
硝子板のテーブルに半分程、おとす。
「焼いてから、砕いたのですけれど……指の骨です」
女は粉の白と郁の静かな双眸を、交互に視遣る。
贋のゴールドの眼よりも、その生粋の黒翡翠こそ人外であるかと、錯乱し。
「主人が、今も私に触れるように感じましてよ」
「……あのひと、死んだの? 何故?
……まさかあんた、殺した?」
二人は、隣テーブルの黒田節の合唱が始まり終る迄の間、視つめあい。
のち、郁は斜めに俯いた。素に近い桃色の唇が微笑をつくり、胸の杜若が風をうけたように揺れ。
手袋をせねば嵌らぬ指環なぞ贈る野暮な男への執着、掴み所ない妻への憤悶、総てが冗句と思える可笑しさもまざるか、女は顔を歪め、グラスを呷る。
二杯目の琥珀がくると、女は左手袋をぬぎ、粉を摘み。
己のロケット……でなく、グラスにいれ。
雑に揺らし溶かし、喉を畝らせ、呑みほした。
「……有難く戴くわ。奥様も珈琲で呑んだら如何? 軀じゅう触ってくれるわよ」
女は顎をあげ嗤い、郁を視おろす。
俯いた儘の郁。濃くなる影に伴い笑みは消え。又も少女さながら、澄明な儚さと妖氣の馨るまなざし。
四方より煙草のけむりが益し、廻る。
霧、或は骨粉の旋風のように。
郁は酔ってもいないのに、意識がうすれ……
醒めれば、硝子扉に凭れていた。
奥のステージで、女が又歌っている。
ゴールドの眼は機械人形よろしく光るが、纏め髪が荒く解け、黒煙の如く暴れていた。
流れと質感に、声も沿い。
痛みを感じ、指を視ると、紅珊瑚の血の珠。
硝子にも赫い筋。映る顔、杜若、藍玉を這う。
ロケットを弄る際に切ったか。
或は、女の髪をひっ掴んだのか。
(1199字)
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『春ピリカグランプリ2023』に於いて、geek賞をいただきました。有難うございます。
いぬいゆうた氏が朗読してくださいました。有難うございます。