見出し画像

短篇小説『異人たちの八月』

『平和』とはんぺんに焼印されている。
 遥か昔からあるもので、ほんとうの読み方は逆、『和平』。

 地方の廃校にて、歌ってほしいとの依頼。私だけでなく、もうひとり女性ボーカルとジョイント。ちょっと男好きするルックスだけが取り柄の、下手糞な女。
 演奏は誰なのか聞いていなかったが。どこを踏んでも軋むか板が破れるかする階段をのぼり、楽屋がわりの教室で待っていたら、ピアニストの、3年前に亡くなった筈のワヘイさんが、
「お早う」
 と、軋む木戸を勢いよくがらがらとひき、あらわれ。鱈子唇を楽器みたくふるわせ発するくぐもった声。懐かしくも、昨日聴いた気もする。今日のピアノを務められるとのこと。天井が蜘蛛の糸に縁どられ、窓の光も白熱灯もどうしてか隅までゆき届かぬ教室に、ワヘイさんの、丈はひくいが幅のある、はんぺんの如くまっさらな白スーツが浮く。『彼方あちら』の世ではクリーニングもアイロンも不要なのだろうか。

 ワヘイさんはその名のとおり、はんぺんの老舗『和平』の血筋であり、生前は昼間製造工場に勤務しつつ夜ピアニストをしていたと、噂に聞いている。
 この地方が他ならぬ『和平』創業の地である。創業者の和平又助は、はんぺんのみならず村の漁業も農業も取り仕切り住宅地や商店街なども造成し、家から学校、工場や港へ繋がるトロッコ列車まで走らせていたとも聞くが。
 我々が無人駅を降りてのち視たものは、四角い畦道のみ遺された荒地と、出涸らしの色をしたくさむらよりのぞくトロッコの歪んだ線路、そしてこの廃校のみである。軍艦島などには遠く及ばぬが、廃墟マニアにはちょっと好かれているとかいないとか。

 いつの間にか、無口なワヘイさんから皆の手に、『和平』のはんぺんが渡されている。三角のサンドイッチぐらいおおぶりで、厚い。『和平』は私が生れた頃には本拠地を都心にうつし、いまもうちの最寄のスーパーで売っているし、貰ったとて有難みはうすいのだが、久しぶりに食べたせいか、ワヘイさんが此方こちらでなく『彼方あちら』からもってきたものだからか、それはスケトウダラの風味が豊かで、出汁の塩梅も歯ざわりも格段によい気がした。ワヘイさんと音楽の仕事が一緒のときはいつも、ワインや日本酒とともに振舞われ、その場の誰もが厚いはんぺんを頬ばり無口になったり、もごもご喋っていたのを思いだし。

 演奏する場所は講堂や教室でなく、グラウンドらしい。組みたててもいないパイプ椅子やビニールシートがてきとうにばら撒かれ、中央のおおきめな青いシートにグランドピアノが、まるで音楽室からじぶんで歩いてきたみたいに乗って、潮まじりの砂風に吹かれている。
 私でも判るほど調律が明後日の方角に狂ったピアノを、ワヘイさんは俯き『和平』のはんぺんを噛み顎の肉を揺らし、女と交わるか便秘に喘ぐような険しい顔で、試し弾きしているが。音は、周りのトラックを駈ける廃校の生徒たちの幻影よりもはしゃいで、地に響き、天を舞い。

 それはそうと、私は早朝電話で叩き起こされ此処にやってきたからか、一昨日おとといの方角を彷徨う頭で鞄には財布と化粧道具だけつっこみ、楽譜も録音デッキも衣裳さえも、忘れてきた。もはや今日も明日もない空っぽな頭で、ふらふらと校舎にもどり、そこいらの教室をがらがらと開けては。
「これから歌います。ピアノは有名なワヘイ……兎に角有名な方です。よろしければ」
 と、云ってまわる。ワヘイさんのフルネームを思い出せないことに驚きつつ。そもそもワヘイさんて、苗字だっけ? 彼が『和平』の末裔であるという話は周りの人間が云っているだけで、本人は根も葉もない噂にのっかるかたちか、もしくは唯のおじさんの駄洒落で『和平』のはんぺんを振舞っているとも考えられる。今日だって、『和平』誕生の地だからと、おじさんの駄洒落魂を全うさせる為だけに、『彼方』の世から御降臨なすったの、かも。
 ともあれ。教室には、他所からきた廃墟好きっぽい男とか、意外にもカップルや親子連れだとか、すこしはいるけれども。それよりやはり多数を占めるのは、廃校がうみだす過去の幻影、もしくは招き容れる精霊や、物の怪。お河童の女の子や丸坊主の男の子、牛乳瓶メガネの文系ぽい教師や竹刀を手にした金剛力士像みたいな体育教師のほか、二本足でてくてくあるく狐とか、本物の河童とか、それに兄弟みたくよく似た存外ヒョロっとした緑の肌の鬼とか、何だか判らない延長コードの如くながい尻尾とか、季節外れの雪女……なんかが、ひそひそ話をしたりいちゃついたり諍ったり、囲碁や花札や人生ゲームであそんだり眠っていたり。此方を視もしない。
 唯、いつ渡されたものやら『和平』の焼印がはいった三角のはんぺんは皆、口にふくみ、もごもごし。

 ひとつの教室が、机を端にどけたウォーキングクローゼットになっている。うちの事務所の女性スタッフと、もうひとりのボーカリストがキャッキャ笑いながら、何個目か知れぬ『和平』のはんぺんをみながら、虹色に揃えられた服を鏡のまえ、着たり脱いだり。おかしい。こんな廃校にこんな気の利いた場所があるのは。狐に化かされているかもしれないのに。
「アカネさん何着るぅ?」
 と聞かれて、
「私は赤いチャイナドレスじゃないと出ないわよ」
 なんて大女優めいたことを云ったら、又ひとまわりおおきく笑う。埃か、グラウンドからの砂風が、金色の紗をかける。ワンピースをひとつ手にとり、何やら重いと思ったら、ポケットに、藁半紙による帳面。歌詞が書いてある。旧仮名遣いで読み辛いけれど、知っている曲が幾つか。ワヘイさんのピアノで唄えたらいいな。

 黒板のうえにある時計を視たら、9時。朝の9時だか夜の9時だか。外はだ放課後みたいに明るい。時計が壊れていると考えるのが自然だが、緯度のちがう場所にきているようにも感じる。気候は、我が国の夏とそう変りないと始めは思うけれど、すぐに尋常でなく乾燥しているとわかる。半日も放っておけば道中の叢よろしくからだは出涸らしの色となって、皺というかヒビだらけになり、壊れそう。
 窓から、ワヘイさんのピアノの音。指慣らしなのかもう本番なのか読めぬエナジーに満ちるが。よく聴くと、うろ覚えなのだろう曲を、サビだけ弾いたり逆に冒頭だけ奏でたり……『鉄腕アトム』『大江戸捜査網』『やさしさに包まれたなら』『暗い日曜日』『ライク・ア・ヴァージン』『おんなの出船』『幻想即興曲』『ワインレッドの心』『ペッパー警部』『東京ラプソディ』……とりとめないが、ワヘイさんが空気に描く五線譜は繋ぎ目を感じさせず渦を巻き、踊り。藁半紙の帳面に載った曲は、いまのところ弾いてくれない。
 グラウンドでは、音楽に一家言ありそうに鎖つき鼈甲メガネのレンズを燿らすしわしわに痩せた校長っぽい老爺と、固肥りの用務員っぽいおばさんと、ナゼか校舎とおなじ背丈に巨大化し西へ傾きかけた陽を浴びた座敷童だけが、シートに胡座をかき、やはり『和平』のはんぺんを食みながら、聴いている様子。
 やはり狐に化かされたのか、きっとドレスを着ているつもりだがその実は襤褸ぼろの乞食の格好をし、口まわりに油性マジックで髭まで描いたボーカリストがグラウンドを駈け、咳きこみながら用務員に、しなをつくり声をかける(おばさんでなくおじさんと勘違いしている可能性アリ)。
「御免なさぁい、あたし砂風で喉を傷めてぇ……もうひとり歌手いるんですけどぉ『私出たくない』とかほざいててぇ。まああの女どうせ音痴だし、フン。もしもよろしかったらぁ、代りにすこしでもぉ、お願いできませんかぁ?」
 などと、ほざいている。自慢の男たらしの笑みから前歯がひとつ抜かれている。ザマアミロ。用務員は答もなく、口をはんぺんでもごもごさせつつ起きあがり。彼女を視あげ眉を顰め苦言を呈しようとしたに相違ない校長のへの字口へ、座敷童の為こしらえられたビッグサイズのはんぺんを喉までつっこみ、昇天させ。グレイの作業衣の儘ピアノへと、尻をふるわせ近づき、手にしたモップをスタンドマイクみたいにし。はんぺんを飲みくだしたか俯いていた顎をあげ。
 凄まじいボリュームと、芯のある声が、花火か霹靂へきれきを撃ちあげるように、結界を描くように、果てなき空間を、満たした。ストレートの銀髪をウィンドチャイムの如く揺らし。荒々しいようで、ワヘイさんの弾く如何なる曲にも繊細についてゆき、且つ悪戯なアドリブも仕掛け。口惜しいが、歯抜け乞食女の采配は偶然か必然か、あたった。顔にはださぬが、ピアノがあきらかに興に乗ってゆくワヘイさん。用務員のシルバーグレイとワヘイさんのスーツのはんぺん色が、共鳴する。乞食女が「喉を傷めて」と云っていたのは事実だろう、体感40度を超えていようが汗ひと粒零れず、肌がひりつきあちこち痒く、このさき草一本もあらたに芽生えぬ予感のするこの地に、知らぬ同士の、ひょっとすると何方どちらも『彼方』の世からかもしれぬ、遠眼だとバロック絵画のダイナミックな裸婦像に視えなくもないおじさんとおばさんが、その真摯なまでに逞しく豪奢で儚い音のパフォーマンスだけで、潮まじりの砂風の粒さえも、座敷童のほっぺも、グラウンドのトラックを未だ駈けるあわい幻の生徒たちの輪郭をも潤わせ、光をさざなみのように煌めかせている。
……いま彼らがプレイするのは、『思い出のサンフランシスコ』。あれは私のレパートリーでもあるけれど、モップを奪いとり歌う勇気は流石に、ない。

 それはそうと、じぶんの出番はもう永劫ないと知り脱力した途端、尿意をもよおし。
 廊下をあてどなく歩いていたら、角からふいにあらわれた、少女。面だちも髪も浴衣も潔い線で有りながら、草創期のカラー映画みたいに朧で、暗い廃校にて浮遊する蛍の如く発光する少女に、たずねる。
「『御手洗い』ですって? そんな言葉を聞くのは、いったい何時以来のことかしら……貴女、ゆかれるの? んまぁ……いまたしか御手洗いは、保健室のなかにあるだけですわ。この廊下のつきあたりを左に折れて、階段をのぼると屋上にでますの。中央にちいさなビニールハウスが御座いますから、そのなかの床板を剥がして、避難梯子をお探しになって。お降りになったら、更に右の……………
……………よろしくって?」
 と、あきらかに現代人でない、私よりよほど大人びた声と、無駄のない脣のうごき。指のさきまつげひとすじ袖のひと縫いまで美麗で神々しい存在から、よりによってトイレの場所をおそわり、いまさら恥ずかしくって堪らない。

 田舎らしく土地だけはひろい学校に於いて、その保健室は物置場ていどのものだった。
 骨の人体模型と筋肉の人体模型が悩ましい体位で抱きあい倒れ、机や箪笥の抽斗もバラバラ殺人さながら抜け落ちころがり。西も東もまざった医学の書籍や書類、ランドルト環のおおきな視力表や身長計、肺活量計、頭部の断面図やナゼか狼から犬への系統図やムンクの叫びやアグネス・ラムのポスターなんかが、床に散らばりひしめき……薬棚も倒れていて、割れた硝子から漏れた紫の液や赫い粉が壁や天井にまで染みをのばし、子供の頃舐めた果汁ゼロのキャンディーのような、さっきの少女よりすこし歳を重ねた頃に燃やした哀しいフィルム写真群のような匂いを発していたり……
 有り様は、物置と云うより、ひきあげた難破船か。扉の手前まで流されてきたベッドに、保健医っぽい白衣の男が寝ている、もしくは死んでいる。美しい髪や横顔をして、ベッドからはみ出すほどながい脚をもつが、肌が青く、よく視ると凍りついており。ドライアイスの如く冷気を放散する。さっきの雪女との関係に拠るものだろうか。ともあれ私は赤のチャイナドレスのスリットをめくりあげ、ベッドをのりこえ、硬い何かや柔らかな何かを踏み崩しつぶしながら、うすい影におおわれた扉をあける。
 先客が、いた。意外にもウォシュレット付きのきれいな洋式便器の蓋を閉めた儘、ちょこなんと坐るのは、さっき教室にいた、緑の鬼と兄弟みたいに似た河童だった。
「ケンカしちゃった。ネグリジェ派だって云ってたのにシミーズ派に寝返るって酷いと思わない? しかもさ、カラオケで音痴な奴は縦列駐車がヘタな奴より罪深いなんて云うんだよ? 前知事の贈賄より現知事のセクハラがイカしてるとか、信じらんない。おまけに最後の晩餐はカニカマよりチーズ竹輪だなんてど」
 おそらく鬼との諍いであろう終りそうにない泪まじりの話を、扉を閉め、断つ。<と云うか『和平』のはんぺんは選択肢にないの?>と疑問は遺るが。又骨とか紙とか硝子とかゼラチン状の何かを踏んですすみ。赤のチャイナ、と思って着ているが、私も狐に化かされ妙なものを着ているかも、しれないが兎も角スリットをめくりあげ、我ながら美しい脚でベッドを跨いだ、瞬間、硬くとじていた保健医の瞼が、カッと、ひらかれた。同時に彼の脣からあふれでた、凍りもせず白くぷりっとした三角はんぺんに、『平和』の、焼印。

 ワヘイさんと用務員のおばさんがいま、グラウンドから私と保健医のいる最奥のこの部屋まで轟かせている曲は……あれって、『ボヘミアン・ラプソディ』だっけ? それとも『人間の証明のテーマ』? おしえて、ママ。





©2023TSURUOMUKAWA

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?