掌篇小説『紙のドレスを着た女』
ホテルへ向かう。
「部屋の鍵を開け放して待っている」
と云う、男のところへ。「○○ボーリング場のすぐ南だから」
公衆電話からの回線によるか当人の資質か、くぐもって如何にも後ろ暗げな声による道案内はそれだけで、スパイでもあるまい、只のどこにでもころがる既婚者だろうに追われるように切れた。
私は《昔アイドルみたいなプロボウラーがいたんだっけ?》とぼんやり思うぐらいでボーリングなんて男みたいに球を片手で持てないし遊ばないから『○○ボーリング場』も知らないし、外は地球がインフルエンザにでも罹ったように煮え滾っているから、真逆に悪寒を覚えているだろう地球の皮膚下である地下街を歩く。男の云うホテルは地下で繋がっている気がする。気がするだけだが。
その女性プロボウラーがいまボーリングの球を投げたら10本どころでない人人を、ベビーカーをおす夫妻もサラリーマンも大学の名前が刺繍された紺色トレーナーを着た男の子たちもなぎ倒しころがしながらどこまでもゆきそうな、レーンほどまっすぐでフラットな地下道。あ、嘘。中途に意味不明な緩い下り坂が1.5メートルほどある。つまりボールは加速つけて止らないってこと。
スーパーマーケットかと勘違いするぐらい冷えたところにならぶ冷凍食品でなく洋服や鞄のショーウィンドウの通りで、紙の卵パックを再利用したか、あちこち丸くぼこぼこしたほんのりグレイの、フォルムは漫画のルーシーみたいなドレスを纏うマネキンなんかを横眼で視て。
逆に店も看板も何もないせいかクーラーどころか空気の入れ替えもせず黄ばんだ壁と電気の切れかかって不規則な明滅を前後左右でおこしあう蛍光灯の通路を、きっと戦前から放置された錆びた鉄やコンクリートや油やガスや小便の匂いとともに蒸されながら抜け……
まだ現実には今日、何も成していないけれど、体感として私の軀はすでに、冷えたホテルの部屋へはいり爬虫類か湿地帯のような男のインフルエンザより熱され濡れた肉と体毛と粘液にまみれそれをシャワーでしつっこいほど髪を軋ませ肌を数箇所の蚯蚓腫れや切疵とともに真っ赤にするぐらい洗い流し有無を云わさず室温をクーラーで12℃まで下げられている部屋でふたたび凍えながら身をととのえ最後にヒールのベルトを留めて去……るのを、繰り返している。私が加害者であるのか被害者であるのか、爬虫類料理のコースを喰いにきたのか喰われにきたのか、その比率も自律神経の崩壊とともに忘れてしまった。
インフルエンザって、なんか天使の名前みたいって子供のときから学校の講堂で予防接種受けながら思ってた。みんな泣いてたり強がったり、「右列の医者の注射は痛い、左は痛くない」なんて嘘かまことか情報がそれこそ感染みたく瞬時に広まって。私はインフルエンザって名前に独り心ときめかせ、誰も視ない講堂の格天井に、ちいさな立方体を組み合わせた不思議なシャンデリアに天使の姿を探してた。守護するでもハートを射るでもなく、子供たちを翻弄させ大人たちを呻かせる変な天使。どんな顔してる? とびきり可愛い? 己を恥じるほど美しい? それとも視たら石になっちゃうぐらいこわい? 何の為に翔んでるの?
兎に角視えないボーリングのボールを追いながら、脚はまっすぐすすんでいた筈なのに。気づけば、駅から地下へおりて1分足らずで視た筈の巨大ポール、そこに貼られた、口と顎に髭をととのえるが髪は少年のようにさらさらとした、スーツを着こなすが眸はどこか遠くへ流浪する、ベテランの域に届くか届かぬか微妙な俳優の等身大全身モノクロポスター前に戻っていた。私もいつからか如何にして盗んだのかグレイの卵パック製(であろう)紙ドレスを着ていて、地下の温度も湿度もセイケツもフケツも慌ただしく節操も筋道もなく淫らな空間で胸もともパフスリーブから生える腕もパニエスカートからのびる脚も肌が死んでしまったふうに白くなって、髪は染めもせず黒いから、モノクロ。ホテルの「鍵を開け放して待ってい」たかのように俳優は、おおきいがしなやかなグレイの指をポスターの紙面より、水よりあがるみたいに波紋を円くひろげつつのばしてきて、だらり垂れた私の腕をとる。己の良さを識り尽くした男ってあんまり好きじゃないんだけど私。でもこの俳優の、電話みたくくぐもった、後ろ暗いような、好意的に云えば昔噺を聴かせてくれるふうな声は嫌いじゃない。ところでこのヒト独身だったかしら。そうだとしても、スパイぐらい秘密にしなきゃだめなのかしら……などとめぐらすうち、ポスターの中へとひきこまれてゆく。私は爬虫類でもなくマネキンでもなく紙の女になるみたい。洗われるか裁断されるか焼却されるかするまで、紙の俳優とエンドレスで踊る紙の女。ルーシーみたいな少女じゃないけれど、精神年齢は似たようなものかしら。左右の列に分かれてインフルエンザの予防接種を待つ私とルーシー。誰より気のつよいルーシーだけど予防接種は怖がったかしら。私が天使を探し天井をボーッと視ている間にルーシー、英語と仏語とうつみ宮土理の日本語をまぜこぜに喚きながら注射器に血を逆流させていたかしら。
私の腕が紙の向こうへ、波紋をさらに拡げながらはいってゆく。ちょっと未練があるっぽく後ろをふりかえると、地下道のさきに視えるのはやはり1.5メートルほどの無意味な下り坂。さっきとおんなじ光景の筈だけど、ほんのすこし、後ろ暗いように暗く視える。
「私たち、ちょっとずつ沈んでくのね」
声にして零すと、俳優の薄荷の薫りの息が頬にかかる。キスシーンや濡場を撮影する時は毎度こうなんだろうな。天使はいま遠い上空を汗のひとつぶもなく翔ぶのかな、それともあんがいそばで、ボーリングの球を頑張って両手でころがして警備員も同窓生ぽい優雅な老婦人たちも食事休憩のハウスマヌカンも高校生のカップルも12℃のなかガウン1枚で肉でなく待ちぼうけを食いながら昔噺を独りかたる既婚者たちも残らずなぎ倒しころがしては「りっつこっさん〜」って歌いながら嗤ってる? 可愛い顔、美しい顔、もしくは石になっちゃうほどこわい顔で。
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