信頼とエール〜「嫌われる勇気」を読み返して
療養生活残17日。暇がある為、本棚にある本をひっぱり出して読んでいます。
6年前に買い読んだ、アドラーの哲学をわかりやすく書いた「嫌われる勇気」をみると、当時の自分にはとても共感して刺さったようで、たくさん書き込んで、感じた事をメモってました。その鉛筆いっぱいさ加減に、我ながらあはは😆と笑えました。昔はある程度ネガティブなところがあり悩んでたんだなあ〜と。大変だったのね〜と。
その中で、人が幸せに向かう最終目標について、行動面の目標2つ ①自立する事 ②社会と調和して暮らせる事 と、この行動を支える心理面の目標として2つ、③わたしには能力がある、という意識 ④人々はわたしの仲間である、という意識 とあげられています。
このうちの②と④は、「他者信頼」につながり「他者貢献」につながっていく、
また、ここでいう「他者貢献」とは、他人の承認、評価に全く依存しない、「わたしは誰かの役にたっている」という主体的な感覚、「貢献感」であり、これが幸福の定義だ、と書いてます。
確かに、私自身にも、この貢献感が、私はここにいていいという確信、生きている意味、となりますね。仕事に置いても、組織でも上司でもない、目の前の同僚、仲間、お客さん、患者利用者さん、などに、(実際に先様がどう感じたかは全く別の話として)私がお役にたてる、と感じれば、そのお仕事での幸福感がもてます。上がります。そんな仕事を探し、仕事ができるよう、理想を持ち、貢献感が持てない環境であれば、もてるようになる為に組織に立ち向かい、必死になり戦ってしまったりもしましたね。あれ全部、結局私自身の幸福の為だったと思えば、納得がいきます。
また、「他者信頼」については、当時は難しく思っていて、線引きながら?をつけてましたが、今はわかるし、そうしています。
信頼してくれれば信頼します、ではなく、あちらがどうであれ、私がこの人を信頼して任せる、頼る事を選択する、とすれば、それでよい。となりました。
家族以外に信頼する人はいます。主治医もそうだし、基本的には私が選んだ医師は信頼します。子供の学校の先生もです。ここに疑惑、疑義が生じれば、嫌な気持ちになるのは自分。医師なら二度といかない、を選択できますが、担任の先生などは変えれません。だから信頼し、信頼してるが為に、これは違うと思いますを伝えるなど、私の言動が動きます。信頼し、伝えれば、全てでないにしでも伝わる事はできますし、次、してほしくない事は、しないように努めてくれる。それでよく、それが私なりの他者信頼です。
仕事もそう。皆立場や考えが違う為、正論が通じない、または私が正論と思う事があちらに正論でない事もあります。だけど、まず関わる仲間にはまず信頼を置き、私の考えを伝えます。考えを伝える事は信頼してるからです。それで全く通じない、あるいは悪意に変換される事があってもかまわない。その時は、去ればよいからです。
そんなふうに、私が私を肯定し、私が周囲の関係性の仲間を信頼し、誰かの為になっている、を実感し、他人の下す評価には、へぇーと思うようになってから、私は私自身を責めず、ずいぶん自由になれた気がします。
私が私を責めてしまう事ほど、痛い事はありません。私は私を信頼し、私はこれができ、これが苦手な人間で、そんなだけど、小さくとも、特別な何かをしなくとも、仕事においてや家族に対しても、具合悪くかかっている病院に対してすら、私が何だかお役に立てる、を実感しながら、幸福を感じています。
過去は(も)家族にも周りにもたくさん迷惑はかけました。自らが、迷惑をかけた、と自分を責めました。だけど、その時も私は一生懸命でしたから、そんな自分でした😅でもう私が許しました。それに迷惑かけない人はいるのでしょうか。社会の中に存在すれば、意図しなくとも大なり小なりみな他人に迷惑かけながら生まれて死んでいくかと思います。
これからも、私は私を信頼して、出会う関係者を信頼する。お世話になってる方々を信頼する。
私の中で、信用と信頼は違います。信用は、私が思う通りにあちらが正しくある、と期待をする事なので、基本的には自分以外に信用は置きません。人は皆間違えるからです。私の信頼は、私がお願いしますと頼る事。結果はどうであれ、私ができない事をお願いしますね、と託す事ですね。それをする相手を、本では仲間と書いてましたからそう書きましたが、私の中で私にそうだなと思える呼び名はまだ決めてません。いつか私なりの仲間の定義か仲間に変わる呼び方が見つかればいいと思います。
また、私の魂として嫌な事は嫌。私の身体が拒否る事からも距離をおく。私が今、ここで、充実してるなあ、を繰り返しながら、花鳥風月の一部になりきり、いろいろ凸凹した自分だけどその私を生きていこうよね、と、もうすぐ誕生日の自分に、ぼちぼちやろう、任せたよ、とエールを送りました😊