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【小説】①売れてゆくビニール傘とどこに行きたいか分からない自分(前編)

 ビニール傘はお手軽なツールだ。コンビニから百均にまで売っている。
 急な天候の崩れに、重宝される。皆が好んで買うことはなさそうな傘。
誰もが一度は手にとるだろう。
 入り口の脇に佇んでいるそれを目に入れつつ、今日もなんとか踏ん張らないといけない。そう思うと気持ちが萎えてくる。
「ありがとうございましたー」
 一ミリも思っていない言葉を義務感のみで発する。クレームにはならないであろうくらいには感情を入れるように気をつけてはいる。意味があるのかは分からない。
 学校帰りの高校生が多くなってきたこの時間、いちいち客に感謝をしていられない。とにかく体が覚えている通りに仕事をこなすだけである。
 寺山実彩子(てらやまみさこ)がコンビニに入ると、お客さんが多く、ロッカーで着替えると息つく暇もなく、レジに入った。無理やり脳みそをバイトモードに切り替えなければいけない。
「ありがとうございましたー!」
 隣のレジからは、同じシフトに入ることが多いグエン・ヴァン・ナムのはっきりとした口調が聞こえる。よくそんな毎日、毎回声を出せるものだと感心さえする。
 今日は大学終わりのバイトで少し眠い。別に講義をまじめに聞いていたわけではないが、大学に行くだけで体力が失われてしまう。去年まで毎日通っていたのが嘘のようだ。
 自宅から約十五分、最寄りの駅からも十分くらいの場所にあるコンビニは、近くにある高校の通学路でもある。そのせいで自分がシフトに入る夕方ごろから混み出す。もう少ししたら、仕事帰りの人も加わって、更に増えていく。
 帰り道からは少し外れるが、近すぎず遠すぎずちょうどいい場所だと思って始めたコンビニバイト。惰性で働き続けてもう三年になる。大きな不満はない。もちろん面倒くさいし、辞められるものなら今すぐにでも辞めたいが。
「六百三十二円です」
 流暢な日本語が隣のレジから聞こえ続ける。グエンの声は大きい。非常に真面目な男だ。
 グエンは実彩子が大学二年生の時に入ってきたベトナム人だ。彼は最初こそ、日本語がカタコトだった。でも持ち前の真面目さで半年たつ頃には声だけ聞くと日本人と遜色なく感じられた。コンビニで働く出稼ぎ外国人は実はすごく優秀だとテレビで観たが、本当にその通りだと思った。それと同時に、優秀なのにこんな安月給で働かされることに少し同情もした。もちろんグエンには言わないが。
 グエンは楽しそうに働いている。もらった給料は家族に送っている、と嬉しそうに話していたのを実彩子は思い出す。
 三年も働いていると、客が支払いする時に別のことを考えがちだ。働き始めたときは客の一挙手一投足を見逃さないようにしていた。いつ何を言われるかもわかったもんじゃない。公共料金の支払いや荷物の受け取りなど言われたらどうしよう、とか常に考えていた。今はただのルーティン作業だ。
 隣のグエンがうるさそうなおばさんに絡まれている声が聞こえる。だから、実質レジが一つになった。面倒くさい。
 できることならバイトなんてしたくない。同じサークルだった平井愛彩(ひらいあや)はほとんどバイトをしていないと言っていた。親から定期的にくる仕送りで生活をしている。そんな愛彩のことを羨ましく思う。
 実彩子は実家暮らしで、その実家は中流家庭だ。私立の大学なんかに入れば、自分に回ってくるお金なんかない。だから、遊ぶ分は自分で稼がないといけない。その上、家にいるなら、と実家にお金を入れている始末だ。
「はー。雨なんて言ってたっけ? もう最悪……」
 ふと耳に入ってきた音を脳が拾う。
「ありがとうございましたー」
 実彩子はそう言ってそのまま入り口のほうを見る。そこには頭が少し湿っている高校男児が三人いた。その後ろにはサラリーマンの姿も。
 外を見ると、暗さが増しているような気がする。
「早くしてよ」
 前を見ると、さっき高校生の後ろにいたサラリーマンがビニール傘をもって立っていた。
「申し訳ございません」
 少し面倒くさそうな客には反射的に丁寧になる。
 定型通りにバーコードを読み取って、金額を言う。
 サラリーマンは電子マネーで雑に払って、さっさと出て行った。舌打ちだけを残して。
 日頃の生活と雨でイライラするのは分かるがこちらにぶつけんなよ、と思う。そういう大人にだけはなりたくない。
「すいません。お願いします」
 後ろに並んでいた次の客が来た。
「お待たせいたしました」
 グエンの方に絡んでいたおばさんの声が消えた。ようやく帰ってくれて実彩子も内心ホッとした。
 バーコードを読み取ろうと、商品を見ると、レジ台に置かれたビニール傘のバーコードが律儀にこちらを向いている。
 実彩子はバーコードを読み取りつつ、チラッと客の顔を見る。
 いつものやわらかい顔でビニール傘に目を落としている。その顔を見て実彩子は少し気持ちが和んだ。
 目鼻立ちがくっきりしているわけではない。特別イケメンで目を惹くというわけでもない。でも、何か安心させてくれるようなオーラを放っている青年だ。歳はきっと同じくらいだろう。
 この青年は週一回くらい来てくれて弁当を買ってくれる。彼はこちらを見て「ありがとうございます」と言ってくれる良いお客さんだ。実彩子が勝手につけている優良客ランキングのトップファイブには入っている。だからよく覚えている。突然の雨だったから寄ってくれたのだろう。
「袋、取っておきましょうか?」
 青年は、「あ、すみません、お願いします」と頭を少し下げて言った。
 やっぱ良い人だ。こういうお客さんばかりならコンビニも一気にホワイトな職場になるのに。でも現実はこの青年のような人のほうが少ない。
 実彩子はさっきの愛想のないサラリーマンを思い出して、ため息がもれそうになる。
「あの……、大丈夫ですか……?」
 青年の遠慮がちな声が聞こえる。
「え……?」
「いや……。すみません。なんか……」
 青年は明らかに言葉を濁した。
 無意識のうちにため息を漏らしてしまったかも、と実彩子は焦る。言い訳をしたい衝動があるが、ため息のことではなかったらそれはそれで恥ずかしい。
 レジはセミセルフだ。だから、こちらでバーコードの読み取りが終われば、基本はお客さんのほうで操作をしてもらう。
 青年は電子マネーでサクッと会計を済ませ、ありがとうございます、と言ってコンビニを後にした。
 実彩子は後悔した。
 あんな良い人なのに、あの青年にため息をついたと思われたかもしれない。
 嫌な客の直後だったから、と今からでも走って言いに行きたい。でも、すでに次のお客がレジに来ている。
 コンビニで店員をしていると、丁寧な客はそれだけで好きになる。人間として尊敬してしまう。その人の存在を全肯定したくなる。
 客は止まらない。仕事終わりの時間も相まって、人も増えてきた。今日もこのまま目の前にくる仕事に忙殺されて、シフト終わりの二十二時がくるだろう。
 実彩子は客に気づかれないような大きさのため息をついた。
 外からジメジメした空気が入ってきた気がした。

 晩御飯を食べ終えて風呂から出ると、日付が変わろうとしていた。週の半分はこんな感じだ。
 実彩子はベッドに横たわる。いつもの疲労感だ。
 面倒くさい客もいたけど、今日はマシだったな、と思う。グエンも難癖をつけられていたみたいだけど、持ち前の真摯な態度で切り抜けていた。
 実彩子はベッドに仰向けで寝転がる。
 疲れはしたが、まだまだ寝る気にならない。明日が来ることになんとなく嫌気がさす。
 深く考えずに楽しそうという理由で入ったハーモニカの演奏サークルで活動していた三年生まではしんどいながらも充実した生活を送っていたと思う。コンクールがあったわけでもなく、ただただハーモニカで吹きたい曲を練習する。一応学園祭で発表もあったが、小さな会議室で行われたので、客なんかいなかった。だから、気楽だった。
 ハーモニカはやったことなかったが、高校までは吹奏楽部だったし、先輩も優しかったのでそれほど大変だとは感じなかった。大学ではしんどいことをしたくなかった自分にはピッタリだった。
 実彩子はインスタグラムを開く。一つ下の後輩がストーリーをあげている。
『バイト終わり……レポート明日まで……徹夜確定……』という文字がパソコンとレジュメの画像に載せてある。
 実彩子は一年前の自分と同じなはずなのに、すごく懐かしくなった。
 三年生まではそれなりに講義もあって、大学に毎日通っていた。
 でも今は、卒業に必要な単位がほとんど取り終わって、あとは少しの講義とゼミと卒論だけだ。サークルはあるけど、就活でいかなくなって以降、行きにくくなった。というか、三年生の学園祭での発表で実質引退みたいなものだ。同じサークルで仲良くしている小山田咲良と愛彩も行ってないと言うので実彩子も行かなくなってしまった。
 そのおかげで大学にはほとんど行っていない。そんな自分が大学生を名乗っていいのか、もはや分からなくなっている。
 実彩子はスマホのアルバムのアプリを開いてスクロールする。サークルの同期全員で学園祭の発表後に撮った写真。みんながハーモニカを持って、笑っている。まだ何も考えなくていい時代。
 去年の学園祭からまだ一年も経ってないのに、何年も前のような感じがする。ハーモニカも全然吹いていない。
 アルバムのアプリを閉じると、メールアプリの右上に四の数字が灯っている。友達や家族、バイトの連絡は全てラインで行われている。だから、メールでくるのはメルマガか就活関係だけだ。
 風呂に入っている間に届いていた四件のメルマガを削除していく。そして、残されたメールの一番上の文字をぼんやり眺める。
『内定者懇親会のお知らせ』
 昨日届いたメール。
 来月の一回目の金曜日。そこで、若手の先輩も交えた飲み会が開かれるらしい。そこで今の内定者との初の顔合わせでもある。
 実彩子は昨日のうちに、行く旨の承諾メールを送った。文章の内容はスマホで『内定者懇親会 返信』と調べて。
「あー、面倒くさいな。社会人になるの」
 実彩子は投げやりにスマホを持った右腕の力をぬいて目の上にのせる。
 就活自体は正直順調だった。
 もちろんエントリーシートで落ちた企業もいっぱいあったし、良いなって思った企業の面接はボロボロだった。
 でも、結局二社から内定をもらった。まさか自分が選ぶ立場になるなんて思いもよらなかった。
 これがテレビ局などの誰でも知っている大手企業だったら自慢もできただろうが、実際は青山銀行という地元の地方銀行と中規模の商社だ。自分には十分だが自慢できるほどの所ではない。
 安定性と世間体、福利厚生の良さ、更には親の勧めもあって青山銀行の内定を承諾した。それで就活は終了だった。
 就活は大変と先輩にも言われ続けてきたが、別になんてことはなかった。
 だからだろうか、嫌だったはずの就活が終わったのに、すっきりしていない。愛彩や咲良は解放感がすごいと言っていたが、実彩子はみんなが言うような感覚がなかった。
 心の奥の奥が森の最深部にある底なし沼のような。ずっと何かが蠢いているような気持ち悪さがいつ心すべてを覆おうかと窺っているような気がしてならない。
 実彩子はうつぶせになり、グーグルアプリを開き、『青山銀行 評判』と打ち込む。
 今どきは便利だなとつくづく思う。大学で発行された自分用のメールアドレスで会員登録すると、各企業の口コミが見られるサイトがあるのだから。ネットが発達していない時代はブラックかどうかの判断材料はそれこそ、運しかなかっただろう。  
 このサイトでは中規模以上の会社であれば、十件くらいは実際に働いている人と思われる口コミが閲覧できる。
 就活中ももちろん見ていた。そして、内定を承諾する際も。
 青山銀行の口コミで一番上に来ているものを見る。最新の口コミだ。

『昨今の時代の流れか残業の時間は減っています。十九時には全員帰らされます。また、支店にもよりますが、概ね悪い人はいない気がします。ただ、これだけは書いておきます。地方銀行に将来性はないです』

 こういう書き込みを見ると安心する。『銀行には将来性がない』『今から銀行に就職するのはオワコンだ』みたいな口コミはいくつかあった。でも、正直他人事でしかなかった。だから、残業のことや人間関係などでブラックな要素があるかどうかしか興味がない。それ故に前半の文章だけで安心してしまう。
 実彩子は毎日口コミを見てしまっている。時には別の掲示板を覗きにもいった。掲示板には青山銀行に対する不満しか書かれていない。でも、多くは『銀行は将来性があるのか』『やる気がない上司がいて、ムカつく』という書き込みがほとんどで、ブラックな社風という感じではないのは分かった。『飲み会が多い』という書き込みには少し引っかかったが、それがイコールブラックであるとは思わない。
 このもやもやは就職に対する不安なのかな、とも思った。でも、しっくりこない。
 明日も大学はない。バイトも夕方から。就活が終わってからはすっかり夜に眠るモチベーションが失われてしまった。
 実彩子は企業の口コミサイトを閉じて、ブックマークを開く。
 最近人気が出だしたアイドル、シバルリーの掲示板だ。
 シバルリーは大物プロデューサーが二年前にプロデュースをした人数が十五人程のアイドルグループだ。
 最初の一年こそはそこまで人気があったわけではないが、大物プロデューサーのごり推しで一躍人気が出てきた。
 実彩子はシバルリーが嫌いだ。
 アイドルってだけでちやほやされるし、何より、私たちは輝いてます、と言わんばかりに存在感をアピールしてくる。
 自分たちが人生の主役だとでも思っているのだろうか。
 どのメンバーも同じように嫌いだが、特に恵藤夏希というメンバーが嫌いだった。
 最初の一年は人気がなく、恵藤夏希はむしろ下位のメンバーだった。でも、最近、シバルリーの冠番組で注目をされるようになったらしい。
 実彩子が最初にシバルリーを知ったのは、ドキュメンタリーの特番が放映されていたのをたまたま観たからだった。
 ゴールデンタイムのテレビでは見たことがなかったのに、ドキュメンタリーの特番を組まれていることに違和感しかなかった。それで、プロデューサーが有名な人だと知って察した。ただのごり推しだ、と。
 ある程度の結果を出した人でないと、テレビなんかで自分語りとかしてはいけないだろう。でも彼女たちは恥ずかしげもなくやっていた。仕事だとしてもすごい思う。
 ドキュメンタリーの内容もくだらなかった。最初は人気がなかったとは言うが、大きな事務所所属のくせに贅沢だ。あくまで同じ事務所のアイドルより人気がないだけ冠番組まであるのだから、他の地下アイドルと比べて恵まれている自覚がないのが腹立つ。事務所内部でつくった感情をあたかも仕方なく経験したみたいに言わないでほしい。
 その中で特に長尺をもらっていたのが、人気六番手の恵藤夏希だ。冠番組で有能さを発揮し、バラエティ適正が高い、と言われている。深夜バラエティを中心に活躍の場を広げているらしい。
 最初は不人気だったからこそ、こんなドキュメンタリーでは恰好のネタなんだろう。
 恵藤夏希は企画の他にもブログなどもまじめにこなし、努力で人気を勝ち取ったという。
 そんな彼女にムカついてからか、恵藤夏希の動向を追うようになってしまった。
 実彩子は『恵藤夏希ってかわいいか?』という掲示板を開く。そこでは賛否両論であふれていた。同じ人間なのにアイドルという人種だけでここまで多くの人に議論されていることに冷ややかな目で見てしまう。そして、彼女のことを批判している意見があると安心する。
 恵藤夏希の顔は、甘めに見ても中の上くらいで学校のクラスに三人はいそうだ。小顔なのはたしかにそうだが、スタイルもそこまでいいとは思えない。その為、よく顔のことを掲示板では叩かれる。
 でも、実彩子は顔にムカついているわけではない。
 恵藤夏希はドキュメンタリーや雑誌のインタビューなどでよく言っていることがある。
『やりたいことをやっているだけです』
 世間はそんなに甘くない。
 努力で勝ち取った、というキャラ付けされているが、ただ推されただけ。ファンもバラエティが好きなおじさんばかりで女性人気は皆無。そんな姿でよくもそんなことを言えたな、と思う。
 実彩子はベッドに仰向けになる。
 どうせ、アイドルなんて一瞬しかできない職業。今は調子がいいから、『やりたいことをやっているだけ』というふざけたことを言える。すぐに言えなくなる。
 実彩子は銀行の口コミにあった言葉を思い出す。
『仕事は全く楽しくない。やりがいもない。でも、安定しているし、環境は悪くない』
 仕事とはそういうものだと思っている。コンビニのバイトもそうだ。やりたいことを誰もがやれたら苦労しない。
 仕事は仕事なはずだ。
 時間はどんどん深くなるのに、頭に熱が上ってくるのを感じる。
 実彩子はそのまま掲示板で自分が見たいタイトルを探し続けた。

「考えすぎじゃない?」
 愛彩があっけらかんとした口調で言った。
「そうかなあ」
 大学の二限終わり。そのまま昼休みに食堂で愛彩と咲良とご飯を食べる。三限がないので、そのまましばらく喋っているのが木曜日のお決まりだ。
「別に就職できれば、どこでも一緒でしょ。よっぽどブラックじゃない限り」
「うーん。まあねえ」
「実彩子ってどこに決まってるんだっけ」
 咲良が背もたれにもたれて首を横にする。食べ終わった直後だからか少し眠そうだ。
「青山銀行」
「じゃあ、別にいいところじゃん。この大学からも何人か内定者いるみたいだし。入ってからも苦労しなさそう」
 そう言って咲良はネックレスを触る。この前の誕生日に彼氏からもらったらしい。
「そうなんだけど……」
 たしかに青山銀行に対して明確な不満はない。
「マリッジブルーみたいな感じでしょ」
 愛彩が得意気に言う。
「結婚する人も結婚直前に、本当にこの人でいいのかな、って悩むものでしょう。実彩子もそれと同じだよ。今だけのものなんだから、そんなことで悩んでたら負けよ」
 負け……。実彩子は心の中で繰り返す。
「てか、あんた結婚したことないでしょ。なにマリッジブルーって。普通に内定ブルーでいいでしょ」
 咲良が笑いながら突っ込む。
 実彩子もつられて笑ってしまう。
「でも、気持ちは分かるよ。私も悩んだもんなぁ」
 咲良が頬杖をつく。
「私もさ、ネットで口コミとか検索してさ、マイナスなことが書かれてたらへこんだり、ここは止めたほうがいいのかなとか思ったもんね。この会社で大丈夫なのか、とか」
「やっぱみんな同じ悩み方するんだね」
 そういうものか、と実彩子は納得する。
 ただ、青山銀行にはブラックという書き込みとかはなかった。もちろん、上司が糞、みたいなのはあるが、そこに悩んでいるとは自分でも思えない。
 私は何も悩まなかったな……、という愛彩の言葉は流して、咲良が続ける。
「結局ネット上の悪い口コミなんてさ、その会社に不満がある人じゃん。だから、どうしてもこの会社が悪いって思い込みがある人が多いと思うんだよね。正当な評価じゃない。そう考えてから、悩むのやめたね」
 確かに、そうだよね……。と無理やりにでも納得させようとする。
 みんな同じ感覚なんだ。時間が経てば忘れるかな、とも思うようになってきた。
 外を見ると、空が曇ってきている。雨予報だったので、ビニール傘を持ってきておいて良かった。足元にあるビニール傘が目に入る。
「そういえばさ、シバルリーの娘がうちの大学にいるって知ってる?」
 突然、愛彩がそう言うとスマホを触りだす。急な行動に驚きつつも愛彩はそういう娘だから、慣れている。
「恵藤夏希って娘だっけ?」
 恵藤夏希のことが嫌いだということは誰にも言っていないし、言えるわけがない。
 恵藤夏希は同じ大学に通っている。後輩だ。噂には聞いていた。アイドルの娘が同じ大学にいると。ウィキペディアにも書いてあった。でも、人数の多い大学でましてや後輩。どこか他人事のような感覚が強い。実際に大学内では見かけたことはなかった。
「そうそう。これ見て」
 愛彩は音が流れるスマホをこちらに見せてくる。
 実彩子は周りに目をやって近くの席に自分たち以外いないことを確認する。
「恵藤夏希ってユーチューブやってたんだ」
 咲良は興味なさそうだ。
「シバルリーのチャンネルだよ。今一人ずつインタビュー動画みたいのがあげられてるみたい。それでさっき投稿されたのが恵藤夏希ってわけ。でも、すごいよね。もう再生回数、五万回超えてる」
 愛彩の「すごい」には感情が入ってなかった。
「そういえば、この前テレビにも出てたよね」
「あー、私も観た。クイズの奴だよね」
 咲良も観ていたらしい。実彩子も覚えているので、頷く。
「特におもしろくもなかったよね、彼女」
 咲良の言い方にもとげがある。
「まあ、あんなもんなんじゃない」
 愛彩は口だけで返事をする。
「同じ大学にいるのに私たちと全然違う世界にいるみたい」
 実彩子はつい無難な答えを言ってしまう。さすがに普段思っている批判を声に出すのは遠慮があるのかもしれない。
「ほんとにね。でもさ、いつまでいけるんだろうね。この勢いで」
 愛彩が再生を止める。
「もちろん、いま恵藤夏希がこうやって人気あるのはすごいことだよ。もちろんそれが前提だけど長く続くわけないじゃん。だってさ、アイドル何て所詮若さ命だし、どんどん新しい娘がでてくる。今でこそシバルリーも人気でてきたけど、大人気ってわけではない。勢いがあるだけ」
 実彩子はものすごく同意する。やっぱり友達だと思った。感性は一緒だ。
「だからさ、どうせすぐに消えるでしょ」
 たしかに、と咲良は深く頷く。実彩子も頷いた。
「絶対、調子に乗ってるよね。この娘」
 咲良もエンジンが温まったのか、強い毒が出てくる。
「そうだよね。特に聞いてほしいのが今の動画のね……」
 そう言って再生バーをずらすと、恵藤夏希の姿の下にテロップで『今後どうしていきたいか?』とでている。
 愛彩は再生の三角印を押すと、透き通るような声が聞こえてくる。
『……私はどんどんやりたいことをやっていきたいんです。モデルだけじゃなく、ユーチューブ。演技。テレビのバラエティ……。とにかく時間は限られてるから、やれることを思いつくだけ……。それが私のモットーなんです。大学も行かないという選択肢もありましたけど、それじゃあ後悔すると思って、今は仕事と両立できるように頑張ってます……』
 ここまでで愛彩は動画を止めた。
「すごいよね。ほんとに」
 愛彩はこの言葉に同意を得るつもりはない。
「なんだろう。私たちとは住む世界が違うよね」
 自分のスイッチを入れないためにも、実彩子はまた無難な言葉を選んだ。さっきと同じことを言ったことにも気が付いたが無難な返しはこれしか思いつかない。
「そう。住む世界が違う。でも、いつまで続くんだろうね? この感じ」
「ほんとだよね。今がピーク感?」
「うん。もちろん人気があるのは分かるけどね。ほら、最近アンチも増えてきているみたいだし。お世辞にも顔は普通」
 愛彩と咲良の会話が続く。
「それにさ。やりたいことを全部やれたら誰も苦労しないもんね」
「ほんと。みんなやりたいことをやれずに苦労してるのにね」
「私たちもそう。どうせ、楽しい仕事とかやりたいことなんて幻想なんだから。安定を求めるべきでしょ」
 愛彩と咲良も就活は安定志向だった。愛彩は大手保険会社の地域採用、咲良は中堅メーカーにそれぞれ内定をもらっている。
「やりたいことなんて幻想……。ほんとそうだよね」
 実彩子はつぶやく。
「そうだよ。だってさ。何か一芸あるならべつだけど、特に何もないでしょ」
 もちろん私も含めてね。と愛彩はあくまでその場にいる人への配慮は忘れない。素直に何でも言うが、こういうところが彼女の良さだと思う。
「だいたいさ。アイドルなんてそんな大した芸なさそうじゃん。もちろんかわいいというのも才能だけど、もっとかわいい子なんていっぱいいるしさー。それに、シバルリーの子、特に恵藤夏希が最近言いがちな、毎日が楽しいし、好きな事ができて幸せって言うのもムカつくんだよね」
「私もー」
 愛彩の言葉に実彩子もつい声を出して同調する。
「一時やたらユーチューブで流れてた広告にもあったよね。好きなことで生きるってやつ」
 有名なユーチューバーがでてきたころ、一気に流れたCM。グーグルがユーチューバーを増やすための広告。
「なんだよ、好きなことって」
「あれじゃない。お手軽に承認欲求を満たすことじゃない? 自己顕示欲に躍らされる醜い人間たち」
 愛彩の発言に実彩子は浮かんだ言葉をそのまま口にする。
 そうだ、やっぱきれいごとだ。彼女が言っていることは。彼女も本心は承認欲求を満たしたいだけなんだ。それなのに、やりたいことをやる、とか高尚そうに言って。まだ野心が表に出ているほうがましだ。愛彩と咲良のおかげで恵藤夏希に対するイライラの正体が分かった気がした。
「恵藤夏希ってさ、自分は有能人間です、みたいな面してるけど、実際はそうでもないじゃんね。番組でも司会とか周りに持ち上げられてるだけだしさ。それなのにバラエティがんばります、とか意味わかんない。あなたはアイドルじゃないんですか、と聞きたいね」
「ほんと鼻につくよね。たまに芸人をよく分かんないいじり方して場の空気凍らせるし」
 自意識過剰すぎ、と咲良が吐き捨てる。
「そんな感じだから、アンチも増えるんだろうね、あの娘」
「なんかうちの大学でも孤立しているみたいだよ」
「自己顕示欲の塊だから、そうなるんじゃないの?」
「なんか噂だけど、かなり性格悪くて、みんな寄り付かなくなったらしいよ」
 誰も明言はしないが、みんなが思ってるだろう。「ざまあみろ」と。
 アイドルやユーチューバー、インスタグラマーをやるような人種は自分に自信まみれで承認欲求を満たしたいだけだ、という話はこの三人だとよくでる。この三人は基本的には気が合うが、その中でもこの考えが三人の絆みたいなものをより強固にしている気がする。
 食堂は実彩子たち以外に遠くでどこかのサークルがミーティングみたいなことをしているだけだ。向こうの声もあまり聞こえてないから、おそらくこちらの声も聞こえてないだろう。
 三限はすでに始まっている。食堂をスカスカの状態で使えるのは講義を入れてない学生の特権だ。
 この時間から食堂に来る学生はほとんどいない。だからか、やはり立ち姿が目立っていた。
 恵藤夏希が一人でトレーを持って立っていた。
 大学で見たことなかったから、まさかここに来るなんて思ってもみなかった。
 愛彩も咲良も彼女に気が付いてそちらを見ている。
 恵藤夏希は窓の外が見えるカフェ席に座る。やはりアイドルだけあってその姿も絵になる、と思わされてしまう。顔やスタイルを良いと思ったことがないのに。
 実彩子たちの会話が聞かれていないはずだが、愛彩が咲良と実彩子に目配せをして、席を立った。
 食器が乗ったトレーを返却する前にもう一度恵藤夏希を見る。
 凛とした表情で、まるで映画の主人公だと主張しているような雰囲気だ。
 実彩子は目を伏せがちに、食堂を後にした。
 愛彩と咲良がトイレに行くというので、実彩子は前で待つことにする。
「あの、傘忘れてません?」
 声がしたほうを見ると、実彩子のビニール傘を持って恵藤夏希が立っていた。
「あ。どうも」
 向こうには何も聞こえてないと思いながらも、気まずさを感じる。
 彼女はそのまま食堂のほうへ帰っていく。
 恵藤夏希から目をそらせない。
 やりたいことなんて幻想。アイドル、インスタグラマー、ユーチューバー。承認欲求の奴隷となって好きなことをやる時代になっているのかもしれない。でも、そんな生き方が長く続けられるわけない。
 実彩子は思う。十年後に正しかったと思えるのは私なんだ、と。

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