【小説】①売れてゆくビニール傘とどこに行きたいか分からない自分(中編)
【小説】①売れてゆくビニール傘とどこに行きたいか分からない自分(前編)の続きです。
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雲が厚くなってきた気がする。
今日は雨が降らないだろう、と高を括ってビニール傘を持ってきていない。そろそろ折り畳み傘が欲しいなと思いつつ、買っていない。お金もないし、まだ持っていなくて困ったことはない。
休みなのに思っていたより食堂に学生が集まっている。
毎年この大学では内定者が出始めた六月に内定者交流会が行われる。
内定をもらった学生が後輩に就活のアドバイスや就活までどのように過ごせばいいかのようなことを話すイベントだ。
まだ就活を続けている四年生もいるのに大学はなかなか酷なことをする。
実彩子は昨年、話を聞く側で参加した。今思うと、この時期のこのイベントは就活に対して何もしていない自分に対する罪悪感を消すということにしか役に立っていない。
本当の就活強者はこの時期には長期インターンに参加していた。
実彩子のゼミの教授が今年から就活イベントの担当らしく、所属の学生は話す側として全員参加が義務付けられた。
全員ではなくてもいいのに、と思う。
ゼミにはメガバンクと大手メーカーに内定が決まっている人がいる。その人たちだけで十分な気がしたが、不公平ということで全員参加らしい。
ゼミは愛彩と咲良とは違うから、特別仲が良い子はいない。もちろんこういう時に一緒に行動するくらいには話す仲の人はいるが、ゼミの飲み会以外でご飯に一緒に行ったことはないくらいの関係だ。
交流会に来るよりインターンに行け、と言ったほうが後輩のためになるんじゃないかと思いながら、実彩子は後輩からの質問に答えた。
最初はテーブルに四年生が二人ずついて、順番に後輩が来てくれて自己紹介して、就活の質問に答えた。
インターネットで調べればでてくるようなことしか実彩子は話さなかったが、後輩たちはありがたく聞いてくれる。去年の自分も同じように聞いていたので、懐かしくなった。
後半の時間は自由に話したい人と話す感じになる。そうするとやっぱりイベントの参加者たちは大手企業の内定者に群がっている。
大手企業に内定したという就活の成功者の歓迎のされ方はやはりすごい。それだけですべてが肯定されているようだ。
同じテーブルにいた子もサークルの後輩が来ているらしく別の席で仲良さそうに話している。
一人で高見の見物気分だ。
実彩子はもう一度外を見る。すっかり黒い雲ばかりの空だ。ビニール傘を持ってこなかったのは失敗だったかもしれない。
実彩子は立ち上がって伸びをした。スーツは着ているだけで肩が凝る。
まだスーツを着なくなって一ヶ月くらいしか経ってないが、すごく久しぶりに袖を通した気分だ。
「あの……。お話を伺っても大丈夫でしょうか」
「あ……。すみません……」
無防備なときに話しかけられて、少しビクッとしてしまう。無防備な恥ずかしさを感じつつ振り返ると、心臓が止まりそうになった。
目の前にはこの前食堂で見た姿があった。服装はビジネスカジュアルだが、そのままファッションブランドの広告にいそうだと思わされてしまう。
恵藤夏希は恐縮そうに実彩子のことを見る。
交流会の参加者たちもこんなところに恵藤夏希が来るとは思わず、一旦こちらを見たが、大学にいるのは当たり前のように知っているので、すぐに元の会話に戻った。アイドルが大学にいるという情報にみんなも案外慣れているのかもしれない。
恵藤夏希は自分の前に立ったままだ。
「……ごめんなさい。こちらに座ってください」
そう言って対面に座ることを促すと、失礼します、と言って恵藤夏希は座る。
ひとつひとつの所作がきれいだ、と思わず息をのむ。
「二年生の社会学部の恵藤夏希です」
彼女は頭を下げて自己紹介するのにつられて実彩子も自己紹介をする。 「それにしても。こんなところに来られるんですね……」
実彩子が恐る恐る聞くと、「敬語じゃなくて大丈夫ですよ」と恵藤夏希は微笑む。
「あ、ごめんなさい……。そうだよね。でもさ、びっくりしちゃった。まさか就活のイベントに二年生がくるなんて……」
実彩子は『アイドルなのに』という言葉がでそうになったが、止めた。「そうなんですよ。でも早くから動いた方がいいって聞いたんで。でも何から始めればいいか分からなくて、とりあえずここに来ちゃいました」
遅刻しちゃいましたけど……、と恵藤夏希は顔を伏せて恐縮そうに言う。「へえ、真面目なんだね……」
普通の二年生なら意識高いくらいにしか思わないだろうが、彼女の場合は違う。
「実彩子さんって呼びますね。実彩子さんは何で青山銀行を志望したんですか?」
恵藤夏希がまっすぐな目で聞いてくる。急な名前呼びでびっくりもしたが、気にしないようにする。
「えっと。そうだね……」
実彩子は背筋を伸ばす。
『やりたいことは全部やりたいんです』
恵藤夏希の言葉が脳で反響する。
頭に刻み込まれているはずの志望動機が言えない。今回のイベントの前半部での後輩の質問でも同じことを聞かれた。面接でも何度も話した。なのに、なぜだろう。言葉が喉を通るのを拒否している。
『生まれ育ったこの地域に貢献したいからです。お祭りなどの地域を元気にするイベントはそこに根付いた企業が中心となって行われています。このような企業を支えているのは地方銀行であり、御行で働けば地域の縁の下の力持ちとして働けると考えたからです』
嘘はついてない。ただ、誇張表現をしただけだ。
「性格が……、合ってそうだから……かな……」
実彩子は閉じてしまった喉からなんとか絞り出した。
控え目で前に出るのが好きではない性格は縁の下の力持ちに言い換えて、それが活かせそうな言葉が地域貢献。安直な結びつきからうまれた志望動機。
就活中はとにかく内定をとることしか考えてなかった。今思えば、青山銀行もこんな安直なやつをよく採用したものだ。
「なるほど……。性格ですか」
恵藤夏希はメモを取る。真面目なポーズでやっているようにしか見えない。
「メモ、必要なかったらわざわざ取らなくてもいいからね。為になることを言ってるとは思えないから」
「いやいや。為になるかどうかはこちらが決めることですから。性格が合ってる職場。大事なことですよね」
恵藤夏希は思っていたより強い言葉を放った。
「あ……。そうだよね……」
実彩子は自分が情けなくなる。アイドルをしている恵藤夏希について、あんなに悪態をついていたのに。
「就活のイメージって見栄とか安定とか、そんなところばっかり見てしまいそうなんですけど、そこのところを実彩子さんは考えませんでしたか?」
見栄とか自己顕示欲の塊の仕事をやっている人がよく聞いてくるなぁ、と思うが顔には出せない。面倒くさいコンビニバイトで唯一身につけられた特技だろう。
「うーん。まあ、あんま考えないようにはしたけど、普通はなかなか難しいんじゃない? 人間だし」
「へえ。すごいですね。この前話した先輩は大手企業ばっかり受けて、見栄と安定だけを目指してる感じだったんで……。実彩子さんはそういうことには流されないんですね」
思いのほか感心されていたたまれない気持ちになる。正直、見栄と安定で青山銀行に決めた部分もある。ただ、耳障りのいいことを言ったにすぎないのに、言葉通りに受け取られてしまった。
「なんか、さすがって感じですね」
やはり芸能界にいるおかげか、彼女は人を持ち上げるのがうまい気がする。不快にならないように実彩子に気を遣っている感じが伝わる。
嫌いな相手なはずなのに、なぜかその感情が薄まっていく感じがする。そんな自分に不快感がある。
実彩子は目の前にいるこの娘のことは嫌いなんだ、と自分に言い聞かせる。
その後も、恵藤夏希はこの一年間の過ごし方や面接ではどのようなことを聞かれたか、というようなことを質問した。どれも熱心にメモを取りながら、これまでの学生より前のめりだ。
どんな相手でも、自分が話すことを真剣に聞いてくれるのは悪い気がしない。だから、つい自分からも聞いてみようと思ってしまう。
「そういえば、恵藤さんは就活するの?」
「一応、そのつもりですよ。でも、どうしてですか?」
恵藤夏希が純粋な顔で聞いてくる。
「いや、ほら、アイドルやってるし。なんか意外だなぁ、って思ってさ。てか、就活するならアイドル卒業? そんなわけないか」
実彩子は聞いたことを少し後悔した。プライベートなことに踏み込むのはさすがにまずい気がした。それでも、アイドルが就活イベントにいるのはやっぱり違和感があった。今日は仕事がないのだろうか。
「あー。やっぱそう思いますよね。いろんな人に言われました」
恵藤夏希の綺麗に整えられた眉が下がったのが、前髪の隙間から見えた。「自分はやりたいことをやってるだけなんですけどねー」
実彩子は、出た、と思った。これだよ。就活をやりたいなんて、そんなわけがない。
「はーい。今日はそこまで! みなさんアンケート書いて帰りに提出してくださいねー。お疲れ様でしたー」
教授の気だるそうな声が思考を遮ってきた。
「あ、終わりみたいですね。貴重なお話ありがとうございました」
彼女はそう言って、立ち上がると、実彩子のほうを向き直る。
「そうだ、この後お時間ありますか?」
「え、うん、まあ」
このイベントがあるから、バイトは休みにしてもらっている。だから、忙しいふりをする余裕もなく、つい正直に答えてしまう。
「じゃあ、もう少しお話させてもらってもいいですか。場所変えて……」
恵藤夏希は不敵な笑みをこぼす。この顔に皆やられているのだろうな、と感じた。
*
あのシバルリーの恵藤夏希と二人でカフェにいる。
ここにきて急に恵藤夏希をアイドルだと意識してしまい、緊張してしまう。そして、そんな自分にみじめな気分にもなってくる。
「ここ、あんまり人がいなくて気に入ってるんですよ」と言って連れてきてくれたのはレトロな喫茶店だ。愛彩や咲良とはスタバなどのカフェにしか行かないから、こういう個人でやっている喫茶店にいるのは新鮮だった。
マスクをしているからか、テレビに出ている人でも案外声はかけられないのだなと感じた。実彩子は、自分がマネージャーに見えてみんな話しかけなかったのかも、と自意識過剰な考えに及ぶくらいには、非現実的な感覚に陥っている。
「ほんとにすみません。いきなりこうやって付き合わせてしまいまして……」
恵藤夏希は恐縮そうにしている。
「別に、大丈夫……」
そう言って、頼んだロイヤルミルクティーを飲む。
「あ、おいしい」
思わずそう言うと、「良かったー。ここのロイヤルミルクティーは定期的に飲みたくなるんですよ」と恵藤夏希は無邪気な笑顔で言う。
勧められて頼んだが、本当においしかった。
「それで、話ってなに?」
つい、おいしい、と言ってしまった自分が恥ずかしくなった。
実彩子はついて来てしまったものの、帰りたくなってきた。この前、聞かれていないとは思いつつも悪態をついた手前、勝手に気まずくなってしまう。何よりこれまで散々、掲示板とかで批判されている恵藤夏希を見て安心していた。その対象が目の前にいるのは、本当に辛い。なんでついてきてしまったんだろう。
恵藤夏希は困り顔だ。こうやってみると、表情が豊かなのかもしれない。「ごめんなさい。実は特別話したいことはないんですよ」
「は?」
想像していない言葉に素っ頓狂な声が出る。
「え、なんか特別な話があったんじゃないの? さっきの話の続きとか……」「純粋に話したかっただけです」
恵藤夏希は上目づかいでこちらを見てくる。
実彩子はその目線に気づいてないかのようにロイヤルミルクティーを口に運んだ。
意味が分からない。自分と話したい、なんて思うわけがない。こんなアイドルが大したことのない普通の大学生と話すことなんてないだろう。
「私と話しても面白くないよ。他にも喜んで話を聞いてくれる人、恵藤さん相手ならだれでもいると思うよ」
「いやいや。実彩子さん、と、お話したいんです」
恵藤夏希はわざとらしく、と、を強調する。
「初対面じゃん」
そう言うと、恵藤夏希は腕を組んで、うーん、と唸る。
「いやー、なんか仲良くなれそうな気がしたんですよね。お話してて」
わけが分からない。ただ、事務的に受け答えしていただけなのに。
アイドルで一定の地位を築いている恵藤夏希は、自分なんて見下す対象でしかないはずだ。
「なんていうんですかね。ちょっと恥ずかしいんですけど。実彩子さんって私とフラットに話してくれる数少ない人間だなって思いまして」
「フラット?」
「はい。私、大学に友達いないんですよ。だから、お仕事の合間をぬって何とか大学にも行って単位を取って。こう見えて単位を落としたことないんですよ」
恵藤夏希は得意気な表情だ。
でも、これに関しては素直にすごいと思ってしまった。
いろいろな仕事をしながら単位を落とさず大学に通っているなんて……。しかも友達の手伝いもなしに。実彩子は二年生の時、二つ単位を落としたのが恥ずかしくなる。
「で、なんで友達がいないかというと……」
恵藤夏希はロイヤルミルクティーを一口飲んで、ふーっと息を吐きだした。
「最初はいたんですよ。話す相手くらいは」
彼女は遠くを見るような目をしている。
「でも、その人たちは私と仲良くしたいわけじゃなくて、単純にミーハー心で近づいてきたみたいなんですよねー。特に男はあわよくばアイドルと付き合うこと目的で仲良くなろうとしてて」
アイドルは恋愛禁止なのに、とほっぺを膨らます。
本当にそんなことがあるんだ、と実彩子は声には出さないが、非現実的な話に思わず前のめりになる。
「私そういうの分かるんですよねー。勘が鋭いといいますか……。それで自分から遠ざかるようになって……」
『性格が悪い』という噂はその時の連中が回した噂だろうか。
自分も噂に乗っていたことにいたたまれない気持ちになってくる。
「実彩子さんは違うと思ったんですよね。前に就活について話を聞かせてもらった人は、私の質問に答えてくれず、アイドルの仕事のことばっか聞いてきたりして……。私と普通に話してくれる人が全然いませんでした」
寂しそうな表情を恵藤夏希は見せる。
「でも、実彩子さんは私の質問を受け止めて、しっかり応えてくれました」
全くそんな気はなかった。早くこの時間が終わればいいのにとしか思っていなかった。そう思わないと、まぶしい存在にすべてが否定されそうだったから。
実彩子はロイヤルミルクティーを口につけて、頷いてるかどうかが分からないくらいあいまいに首を振った。
「それに私、逆の勘も鋭いんです」
「逆?」
恵藤夏希はまた実彩子を見つめている。その顔には濁りがない。
「寺山さんは良い人だっていうオーラがすごく出ていました。だから、声かけたんですよ」
「いや、一人でいたからじゃないの?」
「もちろんそれもありましたけど……。話しかけやすさもありましたもん」
恵藤夏希は、またほっぺを膨らます。こういう部分もアイドルであり、バラエティで見た表情だ。でも不思議と、テレビで観たときのイラつきが沸いてこない。
「なんかすみません。というわけで、特に理由はないんですよ。本当に、純粋に話してみたかっただけです」
そう言って、屈託のない笑顔を浮かべる。アイドルの笑顔はもっとわざとらしいものだと思っていたが、恵藤夏希からはそういうものは感じられなくなってしまった。
「そんな褒めても何もしないよ」
「いやいやいや……」
恵藤夏希は本当に自分のことを良い人だと思っているといった様子だ。これが演技だとしたら、演技の仕事もたくさんくるようになるんだろうな。
まんざらでもない気分になりそうだったが、前に食堂でしていた愛彩と咲良との会話が脳裏をよぎる。
そんな良い人じゃない。自分も他の連中と同じだ。わざわざ恵藤夏希の動画を観て、批判していた。見なくてもいいものをわざわざ観て。
やりたいことに素直で、きらきらした人生を歩んでいる目の前の人にムカついている。それなのに、少し褒められただけでいい気になる自分がでてきている。これまでの自分を棚に上げて。目の前の人の好さに当てられてしまったが、恵藤夏希のことを嫌いなんだ。
「私、そんな良い人じゃないよ」
実彩子は気づいたら、口に出していた。
「こんなに良いことを言ってもらってごめんだけど、私もあなたに対する態度は他の人と変わらないよ。」
罪悪感から言葉は止まらない。
「私だって、あなたの悪口……言ってた」
後悔してももう遅い。純粋な視線には耐えられない。実彩子は逃げるように口から出てくる言葉をぶちまける。
「きっと嫉妬してるんだと思う。やりたいことをやって。それでお金も稼いで。胸を張ってやりたいことを言えて。自分を貫いているその姿に。分かってるよ、自己顕示欲だけではこんな仕事できないこと。そして、アンチが増えていても、まっすぐに努力する姿勢。私にはできないことだし、それが許される人間じゃないから」
恵藤夏希は黙って聞いている。
実彩子は半分くらいに減った自分のロイヤルミルクティーを見つめながら続ける。
「だから、あなたのことを認めると、自分が否定される。ちっさい人間だよね。幻滅したでしょ。ごめんね、急にひどい事言って」
嫉妬。ただそれだけだ。恵藤夏希のことが嫌いな理由。目の前にいるからこそ認めざるを得ない。
実彩子はカバンから財布を出して千円札を置いて、立ち上がる。
「私は、あなたの知らないところであなたの悪口を言ってるの。あなたのことが好きじゃないって思ってしまっているの。だから、私とは関わらないほうがいい」
出て行こうとした。すると、腕が掴まれる。
「待ってください!」
思いのほか大きな声で実彩子は少しビクッとした。
店に二人客がいたのに初めて気が付いた。彼らはこちらを見たがすぐに視線をそらすように、それぞれの作業に戻った。
恵藤夏希の腕はほどけそうにない。実彩子はそのまま座った。
「ごめんなさい、大きな声を出して……」
恵藤夏希の表情はまだ見えない。
「知ってるんです。実彩子さんが私のことを良く思ってないって……」
「えっ……?」
恵藤夏希と実際に話すのは今日が初めてだし、彼女がいたところで愛彩たちとも話したことがないはずだ。
「実は、この前、食堂でお話されているの、聞いちゃったんですよね……。三限の時間。」
実彩子は息をのむ。聞いてたの!?と叫びたくなった。脇にじわっと汗が出てくるのを感じる。心臓が冷えたかと思えばすぐに体中が熱くなってくる。
「もちろんへこみましたよ。やっぱあの動画見て、鼻につく人もいるよなーって」
絶句するしかない。悪口を本人に聞かれたときほど気まずいことはない。
恵藤夏希は優しい顔をこちらに向ける。そんな顔はしないでほしい。ますますみじめになる。
「アイドルは大した芸がない……。たしかにその通りです。それに、やりたいことを全部やるのが幻想って言う人の気持ちも分かります」
なぜ優しい口調なのか。いっそのこと罵倒してほしい。
「難しいんですよね。やっぱり。私も人間なんで。批判されたら腹も立つし、悲しくなる。誹謗中傷もネット上でたくさんみました」
実彩子は改めて、ネットの視認性の良さを実感した。そりゃあ、そうだ。言われてる本人だって検索できるんだ。
「私も自分で思いますよ。シバルリーの中ではあまりかわいくないって。それでも私のことをかわいいって言ってくれるファンもたくさんいるんです。だから、その人たちのためにも私はかわいいんだって思わないと失礼じゃないですか」
良い子ちゃんな話は聞きたくない。耳をふさぎたくなる。でも、聞かなきゃいけない気がする。
「それに、だからこそ自己顕示欲の塊に見えるんだと思うんです」
「だからこそ?」
気になったので実彩子は声に出す。
「だって。ファンに喜んでもらうには、お仕事をたくさんもらわないといけないじゃないですか。でも、私には大きな強みがない。だから、バラエティでなんとか共演者さんやスタッフさんに助けてもらいながら自分の強みになりそうな部分をだしていくしかない。それを自ら発信していかないといけないから、自己顕示欲の塊に見えるんだと思うんです」
まあ失敗ばっかりなんですけどね。と恵藤夏希は俯きながら照れ笑いをする。
一人のお客さんが帰っていく。こちらのことは見ずに。
「だから仕方がないんですよね。自己顕示欲の塊に見られるのも。失敗が多いし、テレビでも変な空気にしちゃうから。ほんと、自分が嫌になる。まあ、やりたいことなんで仕方がないですけど」
恵藤夏希が一呼吸置いた。
「だから気にしないでください。実彩子さんの言うことも分かりますから」
脳の中で何かがはじけた気がした。
「あなたになにが分かるの。何もできない私のことなんて分かるわけないじゃん。人目ばかりを気にして。でもなんとか納得してやってるのに。やりたいことなんて、馬鹿じゃないの?」
喫茶店は静寂だ。何の音もしない。
「ごめんね。あなたに対してのことはただの嫉妬。それは分かってる。だからこそ、あなたを嫌わせてよ……」
目に涙が少し溜まってきそう。実彩子は気づかれないように、目を掻いた。
「優しい言葉をかけないでよ。そんな表面的な同情されたって私は嬉しくない。みじめになるだけ」
もう一人の男性客も帰っていった。こちらの会話が聞こえてきているのなら、申し訳ない。
「実彩子さんって。本当に良い人ですよね」
「は?」
もうそういうのはいいから、早く解放してほしい。
「だって、なんだかんだこうやって話してくれますし。実彩子さんの言葉には棘がない」
それは本人を目の前にして臆病風に吹かれただけだ、と実彩子は思う。「もちろん。私に対して思うことはあるのでしょうけど、それ以上に、実彩子さんの中の何かと戦っている感じ……。私に対して言葉が向いてない気がするんですよ。だから、あんまり腹が立たないというか……」
そんなはずはない、と言おうと思った。でも、自分の中の何かがそれを遮る。
自分は何が嫌いで、何が好きなのか。何がしたいのか。何が正解なのか。
本当の自分の心。就活を通して失くしてしまったことに気づかされたような気がする。
「もう、なんだっていうのよ……」
恵藤夏希は慎重に言葉を選んでいる。
前髪の隙間から見える眉毛はまた、困っている。
「やりたいことをやるって、そんなに難しいことなんですかね。もちろん現実的には分かりますよ。お金の問題もありますし」
恵藤夏希はぽつりぽつりと話す。
「実彩子さん。本当はやりたいことあるんじゃないですか。もしくは、やりたいことを見つけたいか……」
実彩子は隣に置いた、自分のジャケットに目をやる。就活で着続けたはずなのにそのジャケットは他人のものに見えてくる。
「やりたいことが分からないなら、仕方がないですけど。やりたいことがあるのにやらないのはもったいないじゃないですか。もちろん現実とのすり合わせは大事ですけど……。零と百だけじゃないんですから」
零と百だけじゃない。実彩子は心の中で呟く。
「だから私は、アイドル活動を通して、やりたいことがあるのに自分にブレーキをかけてる人の力になりたいんです。だから、私は言い続けますよ、やりたいことをやっているだけだって。就活だって企業就職はどんなものか興味があったから、参加しましたし」
恵藤夏希の言葉を突っぱねる気が起きない。
「もう、何なの。あなたは」
実彩子は思わず笑ってしまった。
「あ、初めて笑いましたね」
「笑ってないよ」
恵藤夏希も笑っている。
もうどうでもよくなった。
認めてやろう。自分の心を。嫉妬にまみれていたのは、彼女が羨ましかったのだ。
「やりたいことをやるのって楽しい?」
「はい。もちろん!」
屈託のない笑顔だ。アイドルスマイルではないやつだと思いたい。
「何で、あなたに説教されてるんだろ。」
実彩子は天井を仰ぐ。白地に木の細長い棒が規則正しくくっつけられている。それがおしゃれに見える。
「でも……なんかすっきりしたかも……」
「ほら。良い人だ」
「なにが?」
そう言うと、恵藤夏希は何も言わずただ、笑った。
外を見ると暗くなってきていた。
「そろそろいい時間ですね」
恵藤夏希はそう言いながら、カバンを探る。
「ライン、交換しましょう」と恵藤夏希がスマホを取り出してきた。
「いつでも相談にのりますよ」
恵藤夏希はいたずらっ子のような顔をする。
「しないよ。別に」
でも、断る気は起こらない。実彩子もスマホを取り出した。
今をときめくアイドルとラインを交換するとは、人生何が起こるか分からない。
「あ、実彩子さんってハーモニカ吹くんですか?」
ハーモニカを吹いている自分の写真にしていたのに、恵藤夏希は気が付いたようだ。
「まあ。うまくはないけどね」
「いやいや。好きでやってるならいいじゃないですか。ハーモニカを吹ける人なんて多くないですよ」
彼女はポジティブだ。そのポジティブさがまぶしい。
また、ハーモニカの練習しようかな。心の内で実彩子はつぶやいた。
外に出ると、月がきれいに見えた。昼の雲が嘘のようになくなっていた。「今日は傘、いりませんね」
恵藤夏希が気持ちよさそうに言う。
ビニール傘を持ってこなくて正解だった。