酒と泪と
後輩に変わった男がいて、20代前半ながら50年代~80年代の歌を愛してやまない。
その彼とカラオケに行って、久しぶりに「酒と泪と男と女」を聴くことになった。
飲んで飲んで飲まれて飲んで 飲んで飲みつぶれて眠るまで飲んで~♪
懐かしさとともに、近頃こういう風景は見ないなと心から思った。
ビデオクリップの中では河島英五さんとホステス風の女性が黙って煙草を吸っている。
お互いに目は合わないまま黙って。この渋さも最近とんと見かけない。
昔は、公園で一人虚空を見て煙草をくわえた中年男性や、港でぽつんと突っ立って海を見つめる肉体労働者。川面を見ながら煙草に火をつけるヤンキー。居酒屋で一人飲みして机に突っ伏しているサラリーマンなどがいた。
今、これらの人がいたらどうだろう。典型的な敗者ではないのか。男は酔いつぶれ女は泣き尽くす。勝手に決めるな、はい、コンプラに引っ掛かりますよと、そんなこと言われたら河島英吾の歌の世界はダメ人間の巣窟みたいになってしまう。
失って初めて分かるのかもしれない。上記の人々はみな、形は無様だが全て悲哀に耐えている人々。独り煙草を吸えば「火、いいかな?」と声をかけてくる見知らぬ人がいて、居酒屋で「もうそれくらいにしとけよ」「うるせえな、アンタに何が分かるんだ」というような他者とのやりとりが発生する。そんな出会いは過去の遺物になってしまったのではないか。悲哀に孤独をもって耐える強い人、それが酒と煙草の持つクールさだった過去は過ぎ去り、今では強者は「敗者」か「アンタッチャブル」に該当する人へと認知されてしまうようになった。
結果、喫煙所に押し込まれ孤独に煙を喫むこともできず、公園などに独りいても声をかけてくれるのは警官ばかり。これでは、悲哀と孤独はどこに持っていけばいいのか。そういう状態を抱えた人の行く場所はもう決定されてしまっているではないか。
最近の歌は弱いと思う。較べると分かる。悲哀をどうにかしてくれ、どうすればいいんだ、分からない、そんな歌詞ばかりだ。黙って飲み込む歌はないのか。ないだろうな。黙ってたら排除されるんだから。
コンプライアンス、誠に下らぬ概念だ。日本が古くから持っていた多様性とそれを包み込む寛容さを犠牲にしてまで西洋の清教徒的狭窄を受け入れる必要なんてあるのか。少しの悲哀で自死したり無辜の他者に当たったりするのは、現代人が弱くなったのではない。酔わない酔えない社会がそうさせているのではないのか。
それは人間の生き方じゃないよな。この後、私が「時代おくれ」を唄ったのは言うまでもない。共感してくれる若者がいてくれたことは誠にありがたい限りだ。