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フロ読 vol.9 後藤祥子『王朝和歌を学ぶ』 世界思想社


本書はタイトルの通り、王朝和歌のビギナーに向けた各研究者達の概説・論文集。
 
基礎研究の重要性は机上におくとして、湯中に礎は不要。揺蕩いの中では浮上する雑念の中に真理が見え隠れすればよい。
 
パラパラめくって平野由紀子さんの「王朝和歌史のながれ」、久保木寿子さんの「貴族生活と和歌」を読む。
 
「王朝和歌史のながれ」は「うつろふ」というお題から始まる。揺蕩うリズム、いい感じ。歌集の部立、中でも春がクローズアップされる。
 
立春、雪、鶯、若紫、霞、緑、柳、百千鳥、喚子鳥、帰雁、梅、桜、藤、山吹、逝く春。これを筆者は、

読者は、冬の雪の残る中にも、鶯を待ち、ようやく鳴くのをめで、霞たつ春の野辺や柳の緑を目に、百千鳥、喚子鳥を聞き、北へ帰る雁を送り、梅の花咲き、桜の満開も束の間、散るを嘆き惜しむうちに藤の花、山吹の花が咲き散り、いつの間にか春も末近く、暮れる春を惜しむことになる。歌の排列は進行する春を見事に追体験させる。

平野由紀子「王朝和歌史のながれ」

と結ぶ。
 
規定というのは面白いもので、誰かがこうと言い出すとそれが自明のものとなり、いずれ、その起こりや意味が詮索されることもなく、その規定に従って実行されてゆく。
 
西洋はこれを知り、恐れ、事象の発生した因から、それにより引き起こされた果との関係性を丹念に追おうとした。そういった性格の哲学を持つ。
 
しかし、日本は異なった。今の話題がたかだか和歌の部立程度の話だからというのもあるが、まず「これが一番美しいね」という規定自体を丹念に選んでいる。それでいて、例えば八代集の部立が微妙に変化してゆくように、変化、うつろひ自体を恐れない。それどころか「今は、こっちが美しいね」と動いていく。これを「不易流行」と見切ってみせた芭蕉はさすがとしか言いようがない。

「貴族生活と和歌」の冒頭も、美が生活から独立する西洋スタイルではなく、
典雅にかつ美的に執り行われる「生活」総体の中に、和歌もまた適合することが求められ、逆に和歌が生活の美的情趣化・観念化を促進するように働きもしたのである。
 
先に挙げたのは芸術の話で西洋哲学となど比すべきではないように思われたかも知れないが、私が面白いと思ったのはココで、宮中の年中行事は立派な規定であるはずなのに、その規定に和歌が彩を添えるだけでなく、その歌と歌にまつわる故事が、さらにその規定を
動かしてしまうのはとても興味深い。
 
43頁にある『大和物語』の例、藤原忠平の「小倉山峰の紅葉し心あらば」の歌が大井の御幸の起こりになるとか、本当に面白い。
 
全体を統括する規定の基盤に、どこか「ねえ、こっちの方がいいよね」というような遊び心が動く。これを日本人は年来忘れずに来た。それが他の文化との大きな差異ではないか。
 
今、その遊び心から創られたアニメが、余の外交では結び付けておけぬ外国との絆を育くんでいる。一方で、他者の共感に鈍感な、ただ自分の快楽だけを追求し、見せびらかすような文化の下、政治家がSNSで自爆炎上したりしている。この辺り、今一度よくこの国を見つめ直しておく方がよくないか。政治家の皆さんも、たまには銭湯とかで大衆生活をフロ読してみてはいかがだろうか。

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