【コラム】セカオワの歌詞から「間」を考える〜天使と悪魔編〜
どうも、変化にもっと優しくなりたい、むじょうの前田です。
先日に続き、今日もセカオワの歌詞から〇〇を考えるシリーズを書いていきたいと思います。
ちなみに、前回は「不死鳥」という歌をテーマに書かせていただきました。
今回は、天使と悪魔という曲をテーマに、間について考えたいと思います。
「間」はむじょうが大切にしている価値観の1つです。
早速歌詞を読み込んでいきます。
「いじめは正義だから 悪をこらしめているんだぞ」
そんな風に子供に教えたのは 僕らなんだよ
大人VS大人の正解・不正解のバトル
TVで子供らに教える「ダレが"間違って"るか」
正義のヒーローは悪党を倒すものだと
子供はTVをみて思う「悪は滅ぼさなきゃね」
もし僕が正しくて君らが間違いなら
僕らは戦う運命にあるの?
僕らはいつも「答」で戦うけど
2つあって初めて「答」なんだよ
最初の二行、やたらと目を引きますね。
正解・不正解。正義・悪。二項対立で考え、正しい・正しくないの決着をつけようとすると、「戦い」が生まれてしまいます。
正しい・正しくないの決着をつけるのではなく、お互いの合理性があってはじめてこの社会は成り立っていることを理解しようね、というメッセージだと感じました。
ここで気になるのは「もし僕が正しくて君らが間違いなら」の君らを複数形にしているところですね。
これは、多数決で正しい・正しくないの決着はつかないよというメッセージかもしれません。
悪魔と天使の世界で あちらが正しいとか
こちらが間違ってるとか解らないんだ
「悪魔と天使」 僕らがどちらなのかなんてさ
解るはずもなければ解りたくもない
正義が支配する最悪な世界ではマジョリティーこそが
「正しい」とみんな「間違える」!?
「正義」を生み出した 神様 聞こえていますか
あんなものを生み出したから みんな争うんだよ
戦うべき「悪」は自分の中にいるんだと
「世界」のせいにしちゃダメだと僕はそう思ったんだ
曲名の通り、悪魔と天使で二項対立を表現しています。
悪魔と天使が戦って、もし悪魔が勝ったら、天使が悪になるのか?
よくわからないですよね。だから、解るはずもなければ解りたくもないと表現しているのではないかと思いました。
先ほどの引用でマジョリティーとマイノリティーの伏線を発見しましたが、出てきましたね。
マジョリティーが正しい・正義である、と錯覚しがちなのはわかります。でも、それは「正しい・正義」という概念があるから。そもそも、そんなものがなければ人は争わなかったのに、というメッセージが読み取れます。
そして、内と外を隔て、外に悪を委ねるということからやめなくてはいけない、戦いの矢印は常に内向きであるべきだと気づいたようです。
何かを変えるってことは自分自身を変えるということと
ほとんど同じなんだよ
「僕ら」が変わるってことは「世界」を変えるということと
ほとんど同じなんだよ
悪魔と天使の世界でこちらが正しいとか
あちらが間違ってるとか解らないんだ
「賛成」と「反対」の間に「答」が生まれればいい
正しさを主張するだけじゃ「答」じゃないんだ
否定を否定するという僕の最大の矛盾は
僕の言葉 全てデタラメだってことになんのかな?
内と外で正しさを主張し合い、どちらが正しいかを結論づけることの愚かさを悟り、自分の内面と戦うことに目を向けるようになってきましたね。
自分の内面と戦う、というのは自身を客観的に見たり、他者の合理性を理解しようとすることを指し、それらの営みを通じて、「間」となる答えを導くという方程式が完成したようです。
最後、自身の発言の矛盾に気づき、戸惑っているようですが...
自分の正義を貫くための、自分の中の悪との戦いは許容する。
一方で、自分の正義を正当化するために、他者を悪とする戦いは認めない。
このスタンスで一貫しているため、「僕」の言葉はデタラメではなさそうですね。
と、私はこのように読んでみました。
ぜひ皆さんも、歌詞を味わいながら読んで・聴いてみてください!
今日はこのへんで!
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