あかねが淵から(第十七章山うばの洞窟)
楠の木のおばあは遠く木枯らしの音を聞いていた。なにかを訴えるような胸を打つ木枯らしの音だった。おばあはちゃんちゃんこを着て、胸いっぱいに冷たい銀杏の葉を抱えていた。
「やれ、そのように胸を冷やす葉っぱをぎょうさんに、、、」
呆れた母の笑顔が急に小さくなった。木枯らしの音が高くなる。いや、あれは水が谷間を荒れ狂う音か?
「どうじゃな、もうええ加減に起きては?」
山うばの大きいてのひらが、おばあの頬をなでた。冬眠中の熊の暖かい体温に抱かれて、楠の木おばあはぐっすりと寝むりこんでいたのだ。
「何も食わずに、よう寝たからな。腹がすいとるじゃろう。」
山うばは炉にかけた大鍋をかき回しながら、分厚い丼にたっぷりと煮込み汁をついだ。
「さあ、食えよ。力がつくようにこの間、里から、かっぱらってきた餅も入れてあるぞ。」
眠気もさめないままに、手にもたされた丼からはみだした、大根や牛蒡のぶつ切りを眺めているおばあに山うばは得意そうに言った。
「どうじゃ、美味いじゃろ。そうじゃ、干し柿も干し芋もあったはずよ。おお、これこれ、ここにころがっておった。」
山うばはまだ縄でくくられたままの干し柿や干し芋を炉の灰の上においた。
「ちょっと、あぶったほうが、甘みをますでのう、」
楠の木のおばあは、口の中に広がるただ塩味で煮ただけの野菜を、夢中で食べた。干し柿は、縄からむしってとるのが面倒でそのままかじりついた。まが水気の残っている大きな葉の上には、谷で釣ったばかりの魚の切り身に赤い岩塩がまぶしつけられていた
。食べるものが、そのまま体の中で、生きる力となっていくようだった。考えてみれば、かいと過ごした地底いらいの食べ物らしい食物だった。鍋の代わりに鉤に吊るされたやかんから、甘い香草の煮える匂いがした。
「おお、みつの花の匂いじゃあないか?」
楠の木のおばあは行儀もなにもそこのけで、山うばの振舞ってくれるご馳走を夢中になって食べていたことに気が付いた。
「ああ、この川はまた、みつの花が咲くようになった。」
山うばは口のかけた茶碗にやかんの湯を注ぐと、ありがたそうに、炉の火を受けて、湯の中に揺れる黄色の花を見つめた。
「さて、それからの話の続きは、このおばあにも聞いてもらおう。」
静かに洞窟の片隅にうずくまっていた赤毛の狼に話しかけた。
この狼は狼といっても牛のような精悍な大きさ、毛並みは赤褐色でつやつやと光っていた。琥珀色の鋭い目は深い水の底のように静かだった。その威厳に満ちた様子には、なにかおかしがたい特別の気品が漂っていた。
「これはあかねが淵の、水の神の聖なるしもべと言われている、赤毛の狼どのか?めったに結界を越えぬと言われている赤毛の狼殿が何故に、ここへ?」
楠の木のおばあは水を浴びたように、居ずまいを正した。
「おばあよ。姉妹の塔の地下の湖が壊されたぞよ。あかねが淵の筆頭巫女であったというあかねが、己の力の限界を知ることなく、ことに及んだらしい。」
「わしはどれほど寝ていたのじゃ?」
楠の木のおばあは胸をかきむしるようにして、立ち上がった。胸に巻かれていた包帯がとれている。
「かれこれ三日かのう。満月は後、二日の後じゃ、、」
(第十七章A面終わる)