あかねが淵から(第23章B面沈みゆく塔)

「母さんに会せてください。」
かいは濡れた髪を払おうともせずに、青ざめた顔で白竜に言った。白竜はまるで奇妙な生き物を見るように、かいの姿を見つめた。
(なんとのう。このちっぽけな人間がわれわれ「智にさとき一族」の命運をにぎるというのか?さっき見たちっぽけな竜の姿も見られたものではなかったが、このひ弱な生き物が、、)
白竜が突然、笑い出した。りんがぎょっとして、白竜の顔を見た。
「母に会いたいのか?よかろう。会せてやろうよ。じゃが、お前の母は二つの心を持つ。一人は栄えある竜の心、もう一人はいやしき人間の心じゃが、、」
「私の母はひとり、私を産んで育ててくれたひとです、、。」
「その通り、そのたった一人の母をお前は見るだろう。」
白竜は思いがけない素早い動作で、向きをかえると、姉の塔を示した。
姉の塔の床にも玉石が敷き詰められていて、床は水色に光っていた。
美しい赤竜が床に眠るように横たわっていた。その、まるで置物のような静けさに、かいの胸はすうっと冷えていった。
「かいよ、もはや、お前には一人の母しか居ないのじゃ。これはあかねか?とよか?いや、そのどちらでもないただの竜かもしれぬ。」
白竜の声はしずんでいた。

「とまれ、とよとあかねは一つの命じゃ。さあ、お目の母親をお前の手にもどそうぞ。」
かいは自分の母親の竜の姿を見るのは初めてだった。一瞬、気後れしたかいの肩を白竜がどんと押した。竜の足元に倒れ込んだかいの後ろでとびらがしまった。
「ああ、じいさま。」りんが慌てて叫んだ。。
「俺も、いや、俺のほうが、あれは俺の母さんじゃないか?」
白竜の鋭い爪の間から、死に物狂いで抜け出した黒山羊のあらしが猛然と扉に向かっていった。白竜の鋭い爪にえぐられた傷あとから血がふきだしていた。
「じいさま、この塔は沈みかけているんだぜ、あんなところに気を失った母さんとカーを閉じ込めるなんて、、ましてや、カーは今は人間の姿じゃあないか?」
「りん、落ち着け。あかねは願文を読み終わらぬ内に気を失ってしもうた。何故か、とよの傍に戻ってしまったのじゃ。我ら竜が死の穢れを嫌うのは承知だろう?あかねを目覚めさせるのはかいしかいないのじゃ
この沈みゆく塔のなかで、人間の姿のかいの命を救おうと、母なればこそ、あかねも気を吹き返すじゃろう、、。」、
「あの人間の女はどうなったのじゃ、竜笛で送りだされたのがそうか?」
かいの後を追うために狂ったようになった黒山羊のあらしが白竜に向かっていくのを,止めもしないでりんは聞いた。
「りん、この生きものをなんとかせいや。」
「さっきも言ったけど、串ざしにでもなんにでもするがいいや。」
りんは白竜をにらみつけた。
(なんて、ざまだ。これが俺たちが尊敬していた「智にさとき一族」の白竜の姿だろうか?するに事欠いて、今はあんなに小さいカーと母さんを倒れていく塔のなかに押し込んだ。)
「りん、わしらはもうおしまいかもしれぬ。
あかねが読んだ願文は、その資格のない竜によって読まれたただの願文にすぎん。たかだか、地下の湖を決壊させるぐらいのことしかできん。わしはそれも承知の上でことをはかったのじゃ。それでもこの二百年に一度の狼年の暁の儀式に関心を与えることが出来るとわしは勝負にでたのじゃ。ここにいたるまでの十数年、ものごとの腐っていく速さは想像以上のものがあった。のう、りん。勝負は最後まで見届けることだ、、。あのちっぽけなかいにもわしらの気付かぬ力があるかもしれぬ、、」
白竜はりんの怒っている顔をじっと見た。
突然、黒山羊のあらしが高い声で呻くように鳴きだした。白竜の身体がよろめくと、床にどすんとしりもちをついた。
「りん、この生きものを竜がきらうわけを知っておるか?この鳴き声がわしらの遠く眠っておった怒りのかずかずをよびおこすからだ。そうだ。
まだ、すべては終ったわけではない。望みはある。あのかいがあかねを呼びさまし、あかねの筆頭巫女としての力を振るえる眞の名を伝えれば、この姉妹の塔から、あかねが淵の神にこの状況を伝えることが出来よう。」
「じいさん、狂ったか?カーはまだその真の名を手に入れてはないはずだ。」
りんはあらしの不気味な鳴き声に、くらくらと揺れる身体を支えきれずに、白竜の傍に倒れ込んだ。
遠くであらしの鳴き声に応える無数の山羊の鳴き声がしたようだった。
白竜が鋭い声を上げると、塔の屋上から飛び出した。塔の入口ふきんにたむろしていた竜の一団が白竜の影を追うように、空に広がった。
(23章B面終わる)

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