あかねが淵から(第十七章B面赤毛の狼)

赤毛の狼は楠の木おばあが、みるみるうちに身だしなみを整えて、姿勢を正して座るのを見た。
「前置きはごめんなされて、話しを続けてくだされ。」
楠の木のおばあは、まるで貴人にたいするように、赤毛の狼に対して一礼をした。赤毛の狼は炉に燃える炎に目を移した。
「あかねが淵の筆頭巫女あかねは、神の寵愛を一身に受ける身でありながら、いや、それゆえにこそ、謎の願文の秘密を解き明かしたいという願いは強かったといえよう
ほとんど、不在に近い神の存在をいいことに、水の権力をほしいままにしている神官たちへの不信と怒りも強かったのだろう。。
 あかねが淵を出るときに、神に願った三つの条件の一つは、
人間に成り代わる限り、今までの筆頭巫女として、自分の持てる力をすべて忘れるということじゃった。
二つ目は赤い絶壁の外に立つ「姉妹の塔」の守り手を任せられること
、自分の使命をしとげるために、必要とあらば、願文を奏上する社として、この塔を使いたいということだった。そして、肝心な三つ目の願いには神は沈黙で応えられたのじゃ。筆頭巫女はうかつにも、あかねが淵を出るということに気もそぞろだったのだろう。なにも応えのないままに、あかねが淵を出てしまった。
無理もなかろう。力というものは、自分の手中から去って、はじめて失ったものの大きさを知ることになるものだ。今、あかねは自分が振るうことのできない力であることを知りながら、姉妹の塔の守り手という力のみで、ことを決しようとしている、、」
赤毛の狼は、楠の木のおばあがふと微笑を洩らしたのを見とがめた。
「楠の木のおばあ殿には、何か、別の思いがあるようじゃの?」
「いえ、めっそうもない。して、かいの役目はなんと?」
楠の木のおばあは話しの続きをうながした。山うばは、考え深そうな鳥のような目つきで、楠の木のおばあの手もとを見つめた。
干し芋や干し柿を吊るしていた縄が綺麗にほどかれ、何やら奇妙な結びへと編み変えられているのだ。
「神はあらゆることをしろしめされているが、めったにそのなされていることに手を加えることはなさらない。人が運命と呼ぶものはまさにそのものの命の赴くところへと、運ばれていくものだからだ。わしらには、予想だにしなかったことが、起こったと見えたが、
一つにはかいのことだ。人間のとよの腹から生まれたからか?何故かひどく水を恐れるようになったこと。人間のとよとなったあかねが、限りある命をもつものへのいとおしみ、かいをいつくしんでしまったこと。いわば、人間が持つ最大のおろかしさ、「人を愛する」という情にとらわれてしまったことじゃ。
文蔵にあった古文書になにが記されてあったかを知るのは、本来、かいだけのはずであったものを、あかねであるとよが、先に読んでしまったこと。それが、かいが何も行動しない理由の一つのようだ。
どうやら、かいはあかねに本来の力を与えるまことの名を、まだ、知らないからと思えるのじゃ。そして、それを見つけるすべもないと見える。」
赤毛の狼は、又もや楠の木のおばあが薄く微笑を浮かべるのを見た。それを同時に見た山うばの目に、炉の炎がかっと燃え移ったように見えた。
「あかねが淵の筆頭巫女、あかねの真の名を知る者がこの五山の地に他にもいるはずよのう。おばあ、」。
「そうともよ、山うば。あかねが淵とはいえ、五山の一つ、この五山にあるあらゆる聖なる力を、吾らは分け持っているのじゃ。
遠い昔から、今の世にいたるまで、それは聖なる場所である歌にされ、今に至るまで伝えられているのじゃ。山うば、わしが眠っておる間に、お前は、五山の他の者に動いたか?」、
「もちろんじゃぞ。もう、かいには迷いはなかろう、、」
山うばが吠えるように答えた。
 いつの間にか、赤毛の狼の姿が消えていた。
(十七章B面終わる)

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