あかねが淵から(第十章後段)
ひろはかいの手を引っ張ると、自分も流れに引きずり込まれそうになりながらも頑張って、ようやく、岸辺に引き寄せた。かいは背に大きな袋を背負い、白っぽい木の枝を腰に結すびつけられていた。
「ありゃあ、これはなんじゃ。どうして、こんなに重いのかと思ったよ。」
「いや、おれもよう、覚えておらん。」
かいの唇が野葡萄のように青く膨れ上がっている。、身体の震えがとまらないようだ。ぼうっとした様子ながら、しきりにまわりを気にしている。
「いかん。おれはここでグズグズしているわけにはいかん。おれは追われているんじゃ。お前もおれに構わんほうがいいぞ。」
かいは急にひろを突き飛ばして歩きだそうとしたが、ふらふらと、その場にうずくまった。
「いかん、ここでこうしているわけにはいかん。早く、逃げなくては、お前はおれを見たことを誰にもいうなよ。その大袋は楠の木のおばあのものじゃ。おばあはいったいどうなったんじゃろう。」
かいははっとしたように、顔をあげると暗く翳り始めた川面を見つめた。(ほうれ、やっぱり、あいつが追いかけてきている。あの水が盛り上がったところ、あそこからおれを見ている金色の目が見えるじゃろうが、、)
「おい、かいよ、大丈夫か、しっかりしろよ。さあ、これを飲んでみろ。きっと元気になるからな。なにしろ随分長い間、水の中にいたようだ。まずは身体を温めることが先じゃぞ。」
ひろの小さいけれども、温かい手がしっかりとかいの手を握りしめた。かいは手にいい匂いのする木のお椀を握らされた。瞼が重くて目があけられない。ひろが横で途方に暮れているのが判った。
(おれは夢を見ているのだろうか?身体が動かせられない。ああ、これはなんだろう。甘くていい匂いがする。)
かいは切れぎれではあるが、それでも、いつのまにか自分が、濡れた着物から、ゴワゴワとした肌触りだが、乾いた着物に着替えさせられ、濡れた川岸から、ひどく粉ぽい寝床へと運ばれたこと。だれか、男の低い声が、ひろに指図して、薬湯を煎じさせているのをぼんやりと感じていた。
(駄目だ。おれはこんなことをしていては駄目だ。)
焦るかいの心とは逆に、かいの身体は急にまばゆい光りのなかに、引っ張り出され、大勢の目で注意深く見られているのを感じた。その目の持ち主たちは強い力を持った目で、かいの身体を見つめていた。そして、かいはその、それぞれの目から注がれる光りで、身体の痛みが素早く癒されていくのが感じられた。
やがて、陽気に笑い合う声が聞こえたと思ったら、かいは又闇のなかに、深い眠りへと落ち込んでいった。
「おい、かい、いつまで眠っとるんじゃ。お前は追っ手からにげとる最中じゃろう。おいかい、グズグズしとってはいかんぞ」
ひろがぴしゃぴしゃとかいの頬っぺたを叩いた。ゆっくりと目を開けたかいをのぞき込んでいる二つの顔があった。ひろとひろの父親の水車番の顔である。
「おい、のんきに眠っとる時じゃない。とよが山羊小屋を開けて、山羊を外へ放りだした。うるさく山羊が鳴いとる間にお前は姉妹の塔へ向かうんだぞ。」
耳をすますまでもなく、すぐ近くの水車小屋の外からも、遠くの森からも、遠く近く山羊の鳴く声が聞こえてくる。
「行きましょうや。竜は山羊が嫌いですじゃから。」
すっかり身支度を整えた水車小屋の番人とひろの姿があった。そして、その横には山羊のあらしが暗い目つきで立っていた。
〔十章後段終わり)