あかねが淵から(第22章C面母は一人)
りんの予想では、多少ぎこちなくとも、目の覚めるような青色の竜となったかいが、姉妹の塔へ勇ましく飛び込んでいくはずだった。
いつものように、姉妹の塔へ飛び込んでいったりんは、すでに塔の三階近くまでが、泥水に浸水されているのに、気が付いた。
「もう、ここまで水が来ているのか?あれ、カー、お前、いつの間に、、」
りんは水のなかにあぶくを吐きながら、もがいているかいとあらしを救いあげた。
「まったくもってお前は厄介なやつだな。こんなときに人間のかたちにもどったのか、、。よし、水の上に出るぞ。」
りんはつばさの内側にかいとあらしを抱えて、屋上の階へと飛びあがった。自分の慌てている姿を見下ろしている白竜の暗い視線をひしひしと感じていた。
(おかしいな。なんでこの俺がこいつのかたちが変わることを、じいさまに対して、後ろめたく思うことなど、これぽっちもないはずだのに、、おれの責任じゃあないんだけどな。)
りんはつばさで人間の姿のかいを隠そうとしている自分の心の動きにおどろいていた。
「りんよ、お前はこの塔に何を持ちこんだのじゃ。」
すぐ傍で、白竜の厳しい声がした。
「なにって?じいいさま、カーだよ。連れて来いって言ったじゃないか?随分てこずったけれど。ほれここに。」
つばさの内側を見せようとした隙をついて、飛び出した黒山羊のあらしが白竜の足に飛びついた。そして、猛然と得意の足蹴りを始めた。
「ああ、ぎゅうぎゅうぎゃあ、、」
普段の厳めしさもどこへやら、白竜は態勢を立て直すひまもなく、あらしの蹴りに奇妙な声を出しながら、怒り狂った。
「こりゃあ、りん、これはどうしたことじゃ。わしら、竜がこの生きものを好かんことを知っていように。」
「ごめん、じいいさん。これはもともと、母さんのものだ。今はかたときもカーの傍をはなれない奴なんだよ。ここにも強引についてきたんだ。あとで、俺が処分するから、こっちへほおっておくれ。」
白竜はとがった爪でくし刺しにしかねない勢いで、あらしをつまみ上げた
「よし、この狼藉者、よくわしの顔を見ておくのじゃな。わしの足を蹴ったことがどんなに大変なことじゃったかを思いしらせてくれよう。さあ、りんよ、お前のつばさのかげで震えている、その情けない人間、あかねの息子の顔をよく見せろ」。
「見てどうするんだよ。こいつは母さんの傍に連れていくんじゃあなかったのかい。」
かいはりんの身体が緊張するのが感じられた。
「大丈夫だよ。りんさん」
そこで、かいは言い直した。
「兄さん、もうかばってくれなくてもいい。とうとう、ここまで来てしまったのだ。おれはおれのやりかたでやってみるよ。」
かいは抱きすくめようとするりんのつばさから逃れた。
そして、白竜とりんとの間にたつと、今更ながらに、自分の人間としての頼りなさを知った。比べて、今さらに竜という生きものがいかに大きいかを知った。それと同時に年老いた白竜の苦痛に満ちた目、汚れた姿が目についた。
こうしてみれば、若いはずのりんにも覆うことのできない疲労がこびりついている。
智にさとき一族のあかねが淵を出てから、慣れない人間の土地での生活、思いがけない苦労のつみかさなりが、この瞬間、くっきりとかいの胸に刻み込まれた。そして、自分が存在することの意味を知ったといえよう。
あかねが淵という水の楽園からの追放、誇り高い竜の一族の見た穢れた水の世界。それもこれも人間たちが積み重ねてきた水への冒涜、自然への思いあがりから来ているのだ。あかねの筆頭巫女としての不十分な力を頼ってでも、洪水を起こすことを願った白竜たちが間違っているはずがない。それに今、地下から噴きあがってきている地底湖の水は汚れてはいない。
「まちがいは人間たちの方にあるのだ。まだ、間に合うはずだ。きっと間に合う。」
かいは文蔵で読んだ詩の一節を思いだそうとした。
かいは白竜に呼びかけた。
「白竜じいさま。おれはあなたに会えてよかった。自分は今までとんでもない間違いをしていました。あの文蔵に残されていた古文書は滅びに向かわないために用意されていたもの、私の使命は今一度、すべてを元の世界に戻す手立てを知らせるものだったのです。」
かいは白竜が力なく、首をふるのを見た。
「かいよ。そのようなごたくはもう、聞きとうもない。すべてはわしらの願っていたことから、違う方向へと変わっていく。もうすぐこの姉妹の塔は水の中へ消えてしまうだろう。」
「明日の満月、約束の夜の満月。あかねが淵の水の衆、この五山の精霊たちや人間の願いが一つとなれば、やがての暁に、寿ぎの歌が、約束の舞が姉妹の塔で水の神に向かってささげられるはず、、。」
かいは歌うように呟いた。
白竜とりんはかいの顔をのぞき込んだ。
「かいよ、お前はじいさまのいったことが聞こえなかったのか?もうすぐこの塔は水のなかに沈むのだぞ?」
「白竜じいさま、母さんに会せてください。」
白竜は沈んだ声でつぶやいた。「それはもう、叶わぬことじゃ。お前の母はもういない。」、
(22章C面終わる)