あかねが淵から(第21章B面呼び出したのか?)
「た、頼む。命を助けてくれ。ただの愚かな人間のばばじゃ。」
山うばは杖を投げ出すと、岩の上に頭をこすりつけた。片手で楠の木のおばあの肩を掴んで、押し倒した。手がぶるぶる震えている。
「なんとこのわしが愚かなただのばばあじゃと?」
楠の木のおばあは、山うばの手を払いのけると、胸をそらして、水うばだという美しい少女を見つめた。
「いったい、なんのことやら、とんと見当がつきませんなあ。わしらはあんたにあやまらならん、、うむ、うむ、うー」
山うばが楠の木のおばあに飛び掛かると、がっしりとした手で口元をおさえた。
「何をする。」楠の木のおばあはその手を払いのけた。
「いったい、何がおきたのじゃ。山うばよ」
「水うばにたのみごとがあって、呼び出したものは命をかわりに差し出すのじゃ。山うばを呼ぶのとは訳が違う。誰も水うばを呼び出す方法を知らんのは呼び出したが、おのれの最後じゃからよ。わしが傍についておってのこの始末、おばあ、さらばじゃ、すぐに冥途で会おうよのう。」
「冥途でじゃと?さらばじゃと?」
楠の木のおばあは、山うばが涙を浮かべて、悲しそうに、自分を見るのを見返した。
「ほっほっほっほ、ばばが二人でどたばたと、わしのせっかくの土産が台無しになるでないか?」
「土産じゃと?」
山うばの目が大きく開いた。焚火の傍でくすぶっているアマゴのくし刺しを見た。
「そうともよ。今どきこのような魚が川で釣れるか?」
「そうですとも。それではこれは山うばの杖の力ではなく、水うばさまの、、」
楠の木のおばあは深く頭を下げた。
「ばばどのよ、私は名を呼ばれたから、やってきたのではない。ここでお前たちを待っていたのだ。それゆえ、「水うばを呼ぶまじない」はなかったものとするぞ」。
水うばは美しい少女の姿とは違った深く神さびた声で話しをした。
水うばは太古の水の雫の一滴から生まれたものと、神話で伝えられているように、私たちのうかがい知ることのできない謎に満ちた不思議な命の一つなのだ。翡翠色の手鏡に写し出された姿は、そのときそのときに水うばの創り出した美しい幻にすぎなかった。
「どうやら、私が待ったかいがあったようだな。お前も水の世界に入ってくるつもりのように聞いたぞ。」
山うばは顔を俯けたまま、手探りで、杖を握りしめた。
「御意のままに、水うばさま、どこへなりとも参りますぞ。」
楠の木のおばあもはっと頭を下げた。
さっきまで消えていた渓谷を流れる水の音が強まり、牙をむいた波が高く膨れ上がった。すぐに、頭上高く盛り上がった波が二人の姿を包んだ。
一瞬、冷たい空気の層が割れたような音が耳元でした。ほんの一瞬だったろうか?気を失っていたのだろうか?
二人は深く霧の下りた森のなかで目が覚めた。楠の木のおばあと山うばはそっとあたりを見回した。ゆったりと緑の枝を広げた樹々、その根元には白と黄色の水仙が群れ咲いている。顔を濡らす細かい水滴には甘い花の香りがした。白柳に囲まれた泉はうっすらと,乳色の湯気に覆われているようだ。揺れるともなく揺れる水面から、温かい空気が立ち上っている。
「ああ、ここは暖かい水の泉と冷たい水の泉のあるという水の森なのか?」
「どうぞ、心ゆくまで、お湯浴びをなさってください」。
霧のなかから美しい黒髪を肩まで流した乙女たちが現れて言った、
二人は勧められるまでもなく、泉の中に入って行った。山うばが水が嫌いだといったのはうそだったのか?
しばらく、夢中で湯浴びをした二人は、さっぱりとした姿のお互いを見て驚いた。
「この温かい水の泉には年月の疲れを流す力もあります。」
水の乙女たちは翡翠色の着物を手早く二人に着せかけた。
「水うばさまがお待ちかねです。お急ぎを。」(21章B面おわる。)