帰り道で思った
緑の巨大な扇を全開したような樹が見える。見上げる山並みの一角にぬきでて、その樹は立っている。天界の園遊会の後、不用意に置き去りにされた観覧車のようにも見える。
この観覧車からは、素晴らしい天界の景色やドラマを一望できるだろう。例えば日没の茜に顏を染め、例えば月光のとぎれない編み模様に夢を占い、たとえばゴンドラをゆすぶる荒々しい風の荒びに遠くにある戦争の声を聞く。
あるいは時間の薄絹を払って、過去の数日へ、そして未来での一日と時をも経巡る観覧車となることもできそうな。
そして、そこからはきっと在原村も見えるだろう。鶴の胸毛のように、歴史に隠された真実を、ひそかに守り続けてきたであろう在原村のこと。
在原業平は光源氏のモデルだと言われる。たしかに、十代の頃のもっとも光源氏が破滅的に魅力的だった頃のモデルとして業平は相応しい。その行動は現実の人間でありながら、より恋物語のヒーロ然としている。
時の帝の寵姫をわがものとする、神に仕える斎王と夜を共にする。その容赦ないデカダンスぶりはたしかに源氏の魅力の源泉といえよう。
源氏の最後は帖に題名を残すのみで判らない。業平の没地も京都となっているが、没年には二年の誤差がある。
そして、ここに、業平の終焉の地だと言われる在原村がある。その地には業平の墓も守られてきている。
ある青年に聞いた在原村のこと。
「いや、はじめて訪ねていったのは雪の頃でした。細い道を辿って、村に着きました。荷物を配達して、、戻り道でした。なんども迂回して、そして、ふと思いました。自分はいったい?どこへ行ってきたのだろう?なにか、振り返るのが恐い気がしました。」と。
すぐ、身近にある風景。昨日に続く今日を生きていながら、こともなげに歴史の真実を守ってきている村がある。
観覧車よまわれ。
靡き伏す心と水無月思ふとき夜の扇はにはかに重き
長電話切りて淋しき鳥となる 雨降る一本の樹となる
表情の消えたる野仏もとあるは歓喜 ときは背後へと澄みゆく