森の無言歌
絶え間なく水の流れる音がする。
突然の闖入者を威嚇するように蛙の鳴き声がする。いつもは水の流れなど、気にもしたことのない散歩道なのに、夜の闇の中では,いやでも水の音に籠る森の不機嫌さが感じられる。
たしか 沢沿いの斜面をたどっていくと、この森の奧には古代から翡翠色の水を深く湛えている池があるのだと聞いた。
夏至が過ぎたのに、まだ蛍が飛んでいるという噂が届いた。低くなだらかに続く山の稜線を背景に隠したブナの森のあたりだという。
「ああ、飛んでいる、飛んでいる」
思いがけないほどに小さな光りの点滅。鬱然と茂った大木の葉陰から葉陰に、思いついたように飛び交う蛍の青いひかり。
和泉式部の「我が身より憧れいづる魂かとぞみる」と、闇に飛び交う蛍に哀切な恋の破たんを詠じた名歌。あれは洛北の清滝のせせらぎのなかであったか?
闇の中に冷たい情熱の軌跡を見せて飛ぶ蛍には、決して甘やかな情熱の燃焼は感じられない。
「こっちの水は甘いぞ」
無邪気を装った歌声のなんと誘惑的なひびきを持っていることか?蛍の恋を抱く森の無言の重さ。
夜の森の巨木の胸には、取り残された蛍のこぼした泪もいくつか光っているのかもしれない。
今夜、蒼く胸にたまってしまった森の無言歌をどうしよう。
消してゆく心ほのかにもあらはれて夜の種子のごと蛍とぶかな
祖先とふ水辺に光るたましひのそのみなもとの蒼白ぞ蛍
夢なればぼうと蛍は動かざるまぼろしの位置に君いたまへや
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