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脊髄を信じろーー作品を「見る」技術 #0

 もしあなたが美術館に足を運んだことがあるのなら、作品を前にして「これをどう見ればいいんだ?」と思ったまま立ち尽くしてしまった経験が少なからずあるはずです。「どう見ればいいのか」。これは不思議な問いです。だって日頃、わたしたちが何かを見るとき(この文章では聴く/触れる/香る/味わうなどの知覚行為全般を含めて「見る」と呼ぶことにします)、それを「どう見るか」を敢えて意識することなんてほとんどないから。わたしたちが日頃目にするものは、それを視野に収めれば、音が耳に入れば、手肌が接触すれば、その時点で「見た」「聴いた」「触れた」ということができるでしょう。しかし芸術作品はそうではない。

 これは「知覚」と「理解」の違いのせいかもしれません。平たく言えば、「見ること」と「分かる」ことは違うということです。しかし芸術作品の「鑑賞」は特殊で、「分かる」ことが「見る」ことのうちに含み込まれてしまう。ある絵をただ視野に収めただけではダメで、そこに秘められた何かを「分からない」ままでは、その絵を十分に「見た」ことにならない。そういう構造が芸術の「鑑賞」と呼ばれる行為の中には含まれています。その「秘められた何か」は、作者の意図や生い立ちかもしれないし、あるいは絵が描かれた時代/地域の歴史社会的背景かもしれない。絵が制作された方法や技術の巧拙かもしれない。そういうものを読み取り、判断することが、広く「鑑賞する」と呼ばれる行為の中に、達成すべきゴールとして含まれている。

 これは今まで多くの批評家や美学者、哲学者が指摘し批判してきた構造です。本来「見る」と「分かる」は別物で、別に分からないまま見ていたっていい。しかし、わたしを含め現代のハイスピードな資本主義社会に生きる人間にとっての問題は、わたしたちにとって「分からないまま見る」ということ自体がじつはけっこう難しくて、テクニックが必要なものになってしまっているということです。安くない入館料を払って「分からないまま見る」より、無料の「分かる」動画を見ている方が楽だし安いし手軽です。なのになぜ美術館になんか行くの?…

 わたし自身、暇な日には死ぬほどyoutubeを見て時間を浪費するタイプの人間です。芸術系の大学院に在籍してはいるけれど、研究テーマは音楽のリズム/グルーヴ/ノリの身体論みたいな感じで、美学や美術史のアカデミックな教育を受けてきたわけでは全然ない。美術館もちょこちょこ行くけれど、毎週のように通って作品を分析的に見るようなことはできていない。でも音楽は雑食的に、そしてある程度分析的に、聴いている方ではあります。そして自分自身もミュージシャンとして制作を行う立場でもあります。

 このnoteを書こうと思ったのは、大学院での研究や授業、それに付随する芸術鑑賞や批評の経験の中で、音楽を聴く/分析する/制作する際の感覚が、芸術作品を「見る」方法、さらには日常世界のあらゆる出来事やものを「見る」姿勢に敷衍できるという実感を得てきたからです。この論考ではそうした方法論を「脊髄で見る/脊髄を見る」という言葉で定式化し、誰もが実践可能なツールにすることを目指します。これはわたし自身が研究生活の中で鍛え上げてきた感覚を今後の自分のためになんとかつなぎとめておこうとする試みでもあるし、研究生活そのものの(抽象的な)振り返りでもあるかもしれません。そういうものと思って読んでみてください。

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 ここまでを書いてわたしは今、「この記事、思ったより長くてクソ重そうじゃね?」と怖気付きはじめています。修論を書き終えてまだそんなに間がないし、疲れもまだ取れきってないし、意外とこれからやることもいっぱいあるし、また一気に何万字も書くのが億劫だし、そんな長い記事を誰が読むんだ?…と思ったので、あえて短い記事を連載していく形式にします。読みやすさと書きやすさがいちばん大事。今日はイントロダクションということでここまでにしましょう。これから何回かに分けて、各回ごとにキーワードを設け、それをもとにして「脊髄で見る/脊髄を見る」メソッドについて書いていこうと思います。

 ちなみに今日は友達の家で真っ白な犬を死ぬほどモフりました。楽しかったです。おわり。

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