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書く/信じる/諦める

書くことは信じることだ、と書いてみる。

「書くことは信じることだ」と書くことで、そう信じる。書くことを信じる。書くことで生まれる「信じ」を、信じてみる。

僕はいま大学から駅へと向かうバスの中でこの文を書いている。僕が座っているのは運転席のすぐ後ろ、右の前輪の真上に位置する席で、車体の設計上ほかの席よりも一段高くなっている。だからそこに座る時は、手すりに掴まって大きく脚を上げ、馬の背に跨るようにして席に着くことになる。

高いところにあるものは位置エネルギーが増えるらしい。重くなる。高ければ高いほど。高いところで、しかし深く椅子に座り腰を落ち着けるということ。高いところで安定するということ。音楽やリズムがもたらす時間や身体の感覚は、たぶんそういうものだと僕は思っている。

1週間前、僕は修士論文(といいつつ実際は論考を含んだポートフォリオなのだけど)を書き終え、出した。出した、というより、出た、という方が正確かもしれない。12月、本格的に執筆を始めてからも頭の中は未検討のアイデアや概念で散らかるばかりで、そうしたテーマの一つ一つが僕を新しい別な場所へと引っ張って行こうとしているようだった。ひょっとしたらそうしてあらゆる方向に引き裂かれ続けたまま、永遠に収束しないのではないか、と不安を抱えたまま年を越した。

この時僕を悩ませていたのは書く内容だけではなかった。むしろ内容の外にある形式や筆致の方が問題だった。どういう文体を用いるか、そもそも一人称を何にするか? 

文体や一人称を選ぶことは、自分が何者であるかを選ぶということでもある。ジェンダー的なアイデンティティや、他者(読者)や対象に向き合うアティチュードを選びとること。

けれど1月に入り、締め切りが迫ってくるといつまでも悩んではいられなくなってきた。文体も一人称も、仮固定した状態で次へ次へと進まなければならない。何せ書くべきことは無限にあるのだから。ただ、書く。溺れるように。地を這うように。

書くべきことは無限にある。書くことは、無限にある「書くべきこと」から「書けること」を選び取ることでもある。書く中で有機的に生成されていく文の流れ・つながりが、自然と「書けること」を選択していく。僕はその流れに身を任せつつ、時折抵抗する。まだ書けることがあるはずだ。どこかに入れ込めるはずだ。この文献も引用したいし、こういう拡張の仕方もあるし……。

そうして溺れるように書き上げた8万文字の草稿は恐ろしく可読性が低くて、論の運び方もめちゃくちゃだった。文体もバラバラで、口語的でカジュアルな語り口で始まったかと思えば途中で論文式の固い文体になったり、ポストモダン的ともスピってるとも取れない「詩的」っぽい文体になったりしていた。男性的になったり、中性的になったり、事務的になったり、馴れ馴れしくなったり……。

全てを再構成する必要があった。提出締め切りまで1週間を切っていた。

新しい白紙のプロジェクトを用意する。そこに箇条書きで書くべきキーワードを書き出す。そして草稿の中から、そのキーワードに関する部分を切り取って貼り付ける。そうして草稿からサンプリングしてきた断片に対する自己言及を加えて、断片同士を繋ぎ合わせ、論の構造を立体的なものにしていく。そういうサンプリング/リミックス的な仕方で論考を再構成していった。

そうして6万6千字の完成稿が出来上がった。我ながら上々の出来だった。

面白かったのは、そのリミックスの過程で、元の草稿のどの部分とも違った、新しい文体が現れてきたことだ。それは少し茶目っ気があって、じゃっかん嫌味っぽかった。しかし独特の軽やかさがあって、それまで溺れるように書いていた僕自身をもっと高い場所へと導いてくれるような、そういう文体だった。高いところで安定する。それは自由な文体だった。そしてその文体こそが自分のアイデンティティともっとも自然な形で重なり合っているような気がした。

それは生の自分に近いものというより、自分にとって理想の状態がその文体の人称性なのだということだろう。そこにたどり着くにはやっぱり、まずは地を這い、溺れるようにして断片を作り出すプロセスが必要なのだ。

書くことは一本線のプロセスではない。それは断続的で断片的、しかも多声的なプロセスだ。文章は一本線なのに。不思議だ。僕はもうとっくにバスを降りて、タイ料理屋でフォー入りのトムヤムクンを食べ終えた。異なる時間が共振して一つの流れを作る。そうした時間の断片のあわい、現実の生活の中では経験することのできない「時間の外」に、軽やかでお茶目で、自由な自分が住んでいる。零度の自分? 現実の僕が溺れるように情報を飲み込んで吐き出す断片を、軽やかに結びつけ、流れを作っていく自分がーー「リズミカルな」自分がそこにいる。

そいつを信じること。そいつを信じて、一瞬一瞬を地を這うように、溺れるように、メタでなくベタに、全うすること。

書くことは信じることだ、ともう一度書いてみる。最初に書いたそれと、ここまでのあらゆる過程を経て書いたこの文は、確かに何かがつながっている。信じて書くことが、はじめには見えていなかった地点へと連れて行ってくれる。それは今この瞬間の自分が全てを完成させるという理想を手放すことでもある。

書くこと、信じることーー諦めること。

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