黄昏どきのスーべニール
プロローグ
あの夜は夢だったのだろうか。
愛し子の柔く少しく汗に塗れた髪の束を指ですくって彼女は部屋の内側の夜に目を向ける。申し訳程度に開いた子供部屋のドアから射し込む廊下の明かりが部屋に少うしだけ陰影をつける。上から二段目の取っ手の引き具合に多少のがた付きの見える子供向けの衣裳箪笥、その横にポンと無造作な風体で置かれている、近所の量販店で購入したような渋い辛子色のカラーボックスケースの中には、歪な、この齢の子供が親しむには少しだけ歪な形をした塩化ビニルモノマー製の怪獣や、作り手に嫌気がさしてしまったのか、少し、と云うかかなり目の付け所を損なってしまった出来損ないのパンダ(愛し子は数あるまともなぬいぐるみたちの中から敢えてこれを選んだ)や、幼児が持つには些かリアリティに重きを起きすぎている四十センチほどのビニル製のワニ、フランケンシュタインの手を模したマジックハンドは関節に砂つぶが挟まって、とうにマジックハンドの体はなさず、海を知らない異国人が耳にした特徴だけで想像し、繕い綿を詰め作製したようなタコのぬいぐるみはそれでも何とかタコの体は成している。
凡そ「普通の」「あどけない」「こども」が収集しないような宝物で詰まっているその箱は。
なんてことのないように見える石(きっと彼女にはなんてことのない石の照り返しすらも光り輝いて見えるのだろう。若しくは光を受け形取られた影の部分が闇のように暗く蠢き、そしてそれはまるで深淵を覗き込むような)、かつて彼女が近在の海辺で拾った犬の下顎骨は愛し子の一番のお気に入り。いつでもどこでも愛用のポシェットに潜めて出かけ行く。いつだったか「ウルトラマンが現れたらこれでやっつけるんだ」と真剣な眼差しで少し顔を上気させ、尚得意げに骨を掲げて宣言した際は笑いを噛み殺すのに必死だった。 幼児にいとも容易く犬の骨で撃退される正義の味方を想像してしまったのだ。馬の骨だったらまだどこのモノとも分からない者になどと云った云い訳も出来たろうに。あれはウルトラマン何だったかな、失念してしまったけれど、何ともかわいそうなM78星雲からの使者。たった三分間だけの偽善者。わかるよ、倒したいよね。
ボックスの中には他にも、蛇の抜け殻に蝉の抜け殻、住人のいなくなった蜂の巣、カマキリの鎌部分だけ、対を無くしたたくさんの烏貝はクロスグリの色を放ち、よく違いの判らない枝々とアベマキの帽子。形状記憶合金で出来た小さなゴルフクラブのマドラー、二度と明滅することのない豆電球、美しく紅葉を遂げた枯葉、ただ枯れただけのように見える紅葉、甲虫たちの亡骸、鴉の羽、鳩の産毛、蟹のハサミ−−−。
あげつらえばキリがないほどに細々とした果敢無いモノものを乱雑に仕舞った、誰かしらからのイギリス土産であるロンドンバスを模したブリキの空き缶。彼女にしか分からないたくさんの什宝の詰まった二階建てのバス。
夢の中でバスに乗る。
外観は二階建てのロンドンバスの体を成しているけれど、中に這入れば吹き抜けの夜が見えるそれは床にも座席にも大切な収集物が有象無象に敷き詰められ、一歩一歩踏み締めるたびに、
烏貝はザリっと云う音を立てて砕け
抜け殻はクシャリと潰れ
枝はポキリと心を折って
豆電球は陽気に弾け
形状記憶合金は全ての記憶を喪失してしまい
蜂の巣からは慌てた幽霊蜂の子たちがまろび出て
美しくも、美しくもない枯葉たちは散り散りに破け舞い
下顎骨はもろもろと崩れ灰となる
その様を、妙にひしゃげた塩化ビニルモノマー製の人形たちがやはり歪な笑みを揶揄うように浮かべ、見守っている。
なぜだろう、なぜか悲しいとは思えない。モノが壊れて失うことをひどく厭う愛し子だが、目についた烏貝のザリザリとした残骸を手のひらに乗せ、ああ、壊れても一緒なんだなと感じ始めている。姿形が変わるだけ。一緒にいるよ。
元の形を失ったモノと元の世界とは違う景色を多分に元とは違う姿で、あえて宝物を退かさずに、そのまだまだ小ぶりで愛くるしい臀部で愛おしそうにゆっくりと踏み潰しながら腰掛ける。
夜を駆けて行くのが楽しみでしょうがない。
ああ、この子は夜を怖がらない子だ。あの頃の私のように。
小夜子はそっと視軸を扉の向こうの居間へと向けた。
大鳥小夜子・八歳
小夜子は小夜子と云う名前が嫌いじゃなかった。
小学校の同窓生などは今時の「ひな」やら「さゆみ」やらと云ったような可愛らしい名前に溢れ返っているし「小夜子なんておばさんみたい」と云うあからさまな中傷や嘲笑を受けたりもするけれど、人と変わっていると云うことは小夜子にとってスタンダードであり一種のアイデンティティでもあった。だからと云って変わっていることをひけらかさないだけの分別もこの年齢にしては持っていた。人と違うと云うことは良きにつけ悪しきにつけ溝を生むし、揶揄いの的にもなるし、度を越せば敵も作る。だから小夜子は名前以上に目立たぬよう、名前のように地味な体をして教室の片隅でひっそりと息をしている。
そう、小夜子は近年一般的に知られるようになった『ギフテッド』であった。
ギフテッドとは−−−同い年の子どもより、多分に能力の秀でた子どもを指す言葉で、その能力を神から贈られたとする『ギフト』を語源とし、一つの能力、またはあらゆる能力にと秀でた者に与えられる称号のようなもの−−−であった。小夜子は特に小学校で習う『国語』や『道徳』に長けていて、理系の父からは「なんだ、文系か。つまらん」などと云う暴言も受けていた。確かに学校の授業は同じことの繰り返しで退屈で、だからと云って手を抜けば母に罵られ、その通りに解けばクラスメイトに疎んじられると云う、厄介な性質であった。
水風船が弾けるような声を立ててはしゃぐ教室の真ん中は、黄色いひよこのような新入生がランドセルにのしかかられて、朝露の道々のあちらこちらにヨチヨチと目につくようになってから急に生まれ出でた、小学校もとうに二年目であり自分たちはもう立派な先輩なんである、もういっぱしの小学生なんである、と云う小学校二年生独特の大人ぶった感性で今日も一通りかしましく、髪を美しく結い上げその上に華やかなリボンを添えてもらっていたり、寝起きのままのボサボサ頭に安っぽいプラスチック製のカチューシャを施しただけだったりする彼女らは、昨日も今日も明日もきっと同じ話しかしていないように思える。いや、きっと同じ話なのだろう。主役の名前が変わるだけだ。まあ彼女たちの話しているそれはその通り日曜日の朝に見たテレビアニメの魔法少女の顛末だったり、好きなアイドルの噂話だったりする訳だけれど、そう云った嬌声や叫声は水風船が割れたように音を立て飛沫を上げて、ほつれたスカートの布地やら美しく結い上げられた髪の毛やらきちんとアイロンがけをされたハンカチーフやら洗い忘れた給食袋なんかに吸収されて、乾いて宙に舞ってほんの少し中身を変えてまたこの教室に降り注いで来る。なんてことない日常の、日々の、飛沫。
小夜子は別にそれらを厭いやしないし、そんな風に華やかに眩しくあっけらかんと日々を過ごしている彼女らをむしろ羨ましく思う(もちろん彼女らにだって人並みに、またそれ以上に日々悩み事はあるだろう事は分かっているのだけれど。小学校二年生と云う年齢はそれはそれでそれなりに多感な年頃なのだ)。だからと云って己の趣味嗜好を曲げてまで彼女たちの輪に入りたいとは思わなかった。
小夜子はどうしたって魔法少女にも男性アイドルたちにも興味が持てないのだ。
キラキラもひらひらも綺麗だし可愛いとは思うけれど、わたしにはちょっと違う。わたしには、もっと、こう。どろどろと。した。
小夜子は物心のついた頃から、世間一般的に見て主に「気味が悪い」と思われてしまう類の物事を好む傾向にあった。
小夜子の記憶にある限り、彼女が一番最初に好んだモノは元は父の所有物であった「水木しげるの妖怪入門世界編」だったように思う。奥付に「初版昭和五十三年」と明記されているので父が二、三歳の折に購入して貰ったものであろう。並みいる世界のモノノケたちを後ろに中国の妖物である女夜叉がドドンと表紙を飾っている逸品で、水木しげるの描く各国の魔物たちはどれもユーモラスさと恐ろしさ、凛々しさに溢れており、中でもニューカレドニア島の妖怪『カボ・マンダラット』やユーゴスラビアの『フォービ』、メキシコ妖怪の代表格である『ヨナルテパズトーリ』などの見てくれが好みで、当に字も読めた小夜子はその特性や造形をこよなく愛し、よく眺めていたように憶えている。
小夜子の祖父は終戦の翌年の生まれ、どうにも道楽の過ぎた収集家で、書闍と云わないまでも読書家であり、その年代の男性にしては漫画本の好きな質で当時の人気作をそれなりに揃えていた。主に青年向け成年向けの内容が多かったそれらはやがて父へと引き継がれ、のちに幼児の小夜子でも手の届く範囲に鎮座まし、見慣れた絵本ののっぺりとした平面世界から、小夜子をより輪郭の伴った二次元空間の中の三次元世界へと旅立たせた。
他にも、ヘビやカエル、トカゲにコガネムシ、イシガメやカマキリにタガメなど、凡その女児が好まぬような生き物を好んで愛で、近在の同じ年頃の子どもたちと遊ぶよりもそれらと(一方的な戯れではあったのだけれど)過ごす方がずっとずっと好きだった。
「小夜子ちゃんは変わっているわね」
そんな風に、所謂ゲテモノたちを選んで好み一人楽しげに遊ぶ幼い小夜子を目にしては、時に面白がるように時に少し気の毒がるような素振りで親戚のおばさんやら近所の大人たちは声を揃え、その台詞を発するのであった。それは小夜子のまだまだ幼くきちりと確率の出来ていない自我の芽に、元日の朝にいただいたアルコールの飛ばし切れていないお屠蘇のようにじんわりと熱を持って身体に沁み、小夜子を少しだけ得意気な心持ちにさせるのであった。
小夜子の通う小学校の道沿いには近所でも有名な古い洋館があった。
元は瀟洒で美しかったであろう庭は雑草にまみれ鬱蒼と茂り、建物の外観により一層不気味な蔭を落とすのであった。それ故に子どもたちからは「化物屋敷」と恐れられ、前を通る際に目を瞑ったり、走り抜けたりする生徒も多かった。もちろん、小夜子を除いては。
小夜子はその家の前を通ることを強く好んだ。立ち止まって繁々と中を覗き込みたい欲求をなんとか押さえながら出来るだけ怪しまれないようにゆっくりと前を歩く。そして必ず一定の位置で靴紐を結び直す振りをする。愛しい人が、そこにいる。
わらわらと息付く植物群の隙間から、少しく覗くモノがいる。
鼻面は長く、大きく開いた口の端から出ずる牙は片方だけぽきりと折れている。
べろりとした長い舌、小夜子を捕食する獲物と定めるかのように見つめる目は、長い風雪にも負けずその力を失っていない。(食べてくれたらな)と思う。食べてくれたら良いのに。その大きな口でパクリと頭から小夜子を飲み込んで欲しい。小夜子はそれを知らないけれど、小夜子のそれは恋であった。
そう、小夜子ははるか昔に、古ぼけた庭に設られたであろう一体の石像に恋をしていた。
一体の異形なるモノの石像に。
小夜子の転機
「転機が訪れる」と云うのは良くない意味でもあるらしい。
ある日小夜子に転機が訪れた。いやさ、もしかすると小夜子の知らぬまに水面下では竹の根がずりずりとその根を地中の中で横へ横へと這わせ行くように広がっていたのかも知れないが。それは小夜子にとっては青天の霹靂であり瓢箪から駒であり足元から煙が立つような出来事であった。
築何年か定かではない古ぼけたコンクリート製の第三校舎は通路の窓や大きく開かれた昇降口のガラス扉を以ってしても尚薄暗く、小夜子はこの建物の冷たい質感を嫌いではなかった。むしろ新校舎のバタークリームのような色をした外壁や白々とした廊下やピカピカとした教室の清潔感より余程好みであった。
その、第三校舎の下駄箱で、下校時刻、小夜子はいつものように独り上履きから上靴へと履き替えんとしていた。神聖な時を得てくれるそれは小夜子にとってはまさになくてはならない相棒の様な、でも見た目はどこにでもあるカンバス地の、灰色に白の縁取りと同じく白い紐の付いたスニーカーで、紐を解かなくてもずりずりと足をたわませれば履けるような代物だが、小夜子は敢えて紐を解き、年齢にしてはまだ少しく幼めな足をするりと忍ばせ、踵まで綺麗に設たのちしっかりと靴紐をリボンの形とする、小夜子にとっては下校時の一種の儀式のようなものであった。
その日も小夜子は儀式に則り小夜子より少しく高い位置にある下駄箱の『大鳥小夜子』と自身の名前がテプラで打ち込まれ貼られた、しかし既に煤けたように見えるシールをそっと右手の人差し指でなぞり、両靴の内側をそのまま右の手で摘んで、今にもささくれの立ちそうな足元のすのこの外へそっと置いた。ゴム製の靴裏がコンクリートの床にことりと立てるその音が耳に心地良い。
最初に目についたのは『色』であった。違和感のある色。いつもはそこにいない色。
ドキリとする。それと同時に心臓が一気に波打ちだってドッドッドッドと小夜子の身体中に血を送り出す。小夜子の神聖さを犯すかのように見慣れないモノが靴の中敷きの上にちょこんと置かれている。ぎょっとした瞳を今度はぎゅっと堪えて、小夜子は少しく震える手でそっと胸元あたりに手を置きふうと一息吐く。うん、大丈夫。
すのこの上にゆっくりとしゃがみ込み中敷きに置かれたソレをまじまじと目にする。初めて見る虫を観察するようなじりじりとした高揚感はそこにはなく、むしろそこにヒヤリとした感情を覚えるのはソレが放つ悪意的なものを感じるからだろうか。ソレは妙に黄緑色をした直径二センチほどの丸い物体だった。見た目は少し艶としており弾力のありそうな質感をしている。おもちゃのスライムを丸めたものか、それとも安物の風船ガムの類であろうか。どちらにしても好意を以って置かれたモノではないと幼い本能が告げている。 自分の神聖さの一部を穢されたようで悲しくなり、小夜子はソレを人差し指と親指でそっと摘んで下駄箱の前に投げつけた。小さな手で摘まれたわりに飛んだソレは傘立ての群れの中にコロコロと転がりやがて見えなくなった。見えなくなっても小夜子はしばらく傘立ての隙間の闇を凝視していた。悪意。これは悪意だ。誰とは知れぬ、でも小夜子を小夜子と識っている、臆病者が明確に現した悪意。これなら靴いっぱいに泥でも詰められた方がまだマシだ、と小夜子は思う。だってその方が目一杯怒ることが出来る。
この悪意には怯えも含まれているように感じて、小夜子は少し憐れんだ。臆病者の悪意には憐れみが一番似合う気がした。
そして小夜子の世界は一転した。
『いじめを受けている』と云うことはどうにもこうにも肉親には云いにくいものである。
云いにくいどころか知られるのが恐ろしいくらいだ。恐ろしく、そしてとても恥ずかしい。出来ることなら知られたくはない。自分の娘がいじめられているだなんて。
小夜子に対するクラスメイトからの『いじめ』が始まってから十日ほど経っていた。
最初はすれ違いざまに「おばあちゃん」などと云われた気がする。くすくすと云う笑い声。と共に、小鳥たちはその嘴から毒性を強めながら次々と泥のような言葉を放つ。「ババくさい名前」「何あの恰好」「ダサいよね」「男の子みたい」。ひっそりとした罵声は主に一部の女子からで、男子からは聞こえない。むしろ男子には知られたくない体で、よくあるターゲットに対する机への落書きや靴を隠されたりといった『行動』は最初の『スライム事件』(と、小夜子は勝手に呼ばわっていた)以降は起こされずにいた。最初は務めて気にせずにいようと強がっていた小夜子だったが「独りが好きなこと」と強さは違う。独りでいても寂しくはないけれど、尖った言の葉には心が抉られる。自ずから独りになることと強制的な孤独は違う。一部の男子がいつもと違った独りの小夜子を見て声を掛けて来たことが一度だけあったけれど、いじめっ子たちの耳元で囁く罵声がより酷いものとなっただけだった。
恨み、辛み、妬み、僻み、嫉み。
恨み、辛み、妬み、僻み、嫉み。
小学二年生たちにはまだその感情の姿形ははっきりとは分からなかったけれど、それはきっとそう云う感情の発露であったのであろう。小夜子の興味のないクラスのアイドル男子が、あの『スライム事件』の前の日、小夜子のことを好きだと公言していたのだから。
今日は珍しく移動教室での帰り道、廊下でのすれ違いざまに後ろから「この男たらし!」などと大声で罵られ髪を引っ張られた。廊下の狭い通路の空間にざわりとした波が立つ。生徒たちの目が若干(否、かなりの)好奇を持って小夜子たちに一斉に集まる。嫌だな、目立つのは大嫌い。
『男たらし』の意味は知っているけれど、とても小学生が小学生に使うような言葉じゃないと思い、小夜子は周囲の視線を気にしつつも呆気に取られてしまった。あと引っ張られた髪が痛かった。その女児は小夜子をいじめるグループの女ボスだったけれど、少し涙ぐんでいるようにも見えた。小夜子は小夜子をいじめている女の子が泣いていたとして同情するような出来た人間では無いけれど、小夜子の知らないところで何かが起きて小夜子は怒られ罵られているのであって、それははた迷惑な話だし、そんな迷惑な本当だか嘘だか分からない話で泣いて罵る女ボスには憐れみを感じた。ちょっとだけ。ちょっとだけだけれど。ね。
そんなこんなで今日はやたらと難癖をつけられたりわざとぶつかられたり担任教師からの残酷な注意があったりとして、小夜子はもう疲れ切ってしまった。女ボスはどうやらもう他人の目も厭わなくなって来たようだ。このままではいじめが増長するばかりなのではなかろうか。巣の中で、居場所をなくしてしまったツバメの子のように小夜子は孤独であった。いっそ巣から落ちた仔ツバメにでもなれたらいいのに。
そんなことを考えて、心虚ろにとぼとぼと地面ばかりを見て歩を進めていると、見慣れた路地の際に辿り着いた。もうこんなところまで。いつもは襟を正すくらいの気持ちを以って佇む路地に、小夜子はただぽつねんと立っていた。そんな自分がとてつもなく悔しかった。心って、もろい。
いつものルーチンが忌々しいくらいの無鉄砲さとむやみやたらな無神経さで崩れてしまい、小夜子はかなり投げやりな気分になった。こうなったらもう、全て破ってしまおうか。
平素だったら息を整えて少しずつゆっくりと歩くはずの通りをずんずんと歩く。
実際に他所から見れば普通に歩いている小学生児童なのだがそれは小夜子にとってはかなり型破りな行動で、いつものルーチンをいつものようにこなせなかったことへの憤りが小夜子をより大胆とさせていた。
神聖な領域が急に目の前に現れて、小夜子は思わずたじろいだ。
アスファルトの上に惜しげもなく並んだ有象無象の砂利たちが小夜子の小さな足が感じた戸惑いを受けザリっとした音を立てる。行き過ぎるつもりなんて到底なかったけれど、時間と距離と感覚がチグハグなのだ。汗水一つ垂らしていないのに身体の内側だけが妙に熱い。
興奮しているからか木々はいつもよりいっそうその深みを讃えて見え、小夜子は少しくくらりとする。濃い緑の匂いが鼻腔から入り脳みそをぐるりと回って両肺と胃の腑を満杯に満たすような感覚。己の息は浅いのに空間の密度が濃いのだ。これで深呼吸でもしたら爪の先や肩や膝、髪の一本一本まで蔦となって葉っぱ人間になってしまうのではなかろうか。などと子どもらしい妄想に静とひたり少しクスっと笑って、小夜子は目を瞑りえいやっと云う心持ちで深呼吸をして緑をたくさん肺に詰め込みながら、一応葉っぱ人間にはなっていないなと確かめるべく指先に目を落とし、もう一呼吸して洋館の門の前に立ちはだかった。
こんなにはっきり正々堂々とこの場所を前にするのは初めてかも知れない。
小夜子は敢えて庭内部の右側に視軸を向けぬよう目の前の門扉に集中した。
左右対称に対となり、上下に渡る黒い横棒に細めの縦棒と飾りのような湾曲を描いた鉄の棒がくっ付いたそれは、赤黒い錆に所々侵食され崩れ落ち、時折斜めにひしゃげていたり折れていたりとする鉄製で、元は塗装でもしてあったのかそれすらも分からないほどに黒と赤錆に覆われて、しかし瀟洒であったであろう洋館を、それでも尚未だ守ろうとしているのか、毅然と屹立している。
小夜子はそっと右手を前に出す。少しく震えるそれはひらひらとして真っ白な蝶を思わせる。ゆらゆらと揺れる蝶はその触覚でつうと門扉の細い枝に触れてみる。鉄の質感。
ざらざらとした時間の流れの集合体。触れる感覚にちょっと力を込めて見る。堅さと、重さと。自然と蝶は翅をすぼめ、まるで最初からそうするのが当たり前だったかのように鉄の棒をぎゅうと握り、くっと前に押し出した。
大人にとってはただの錆くれた鉄柱も幼な子から見れば堅牢な鉄の塊だ。そこに時の重みが加われえば尚のこと。しかし小夜子の思惑を無視するかのように鉄の扉はギギギと云う音を立ててその甲冑をいとも容易く解いてしまった。小夜子は拍子抜けをした。開くはずがないと幼心にずっと思っていたモノだったのだから。
鉄の棒を握る手はとうに蝶からその姿を芋虫へと退化させ、門扉の錆びた鉄と手の内側から発する汗でトロトロとした澱みを作っている。普段の小夜子なら芋虫を潰してしまったかのようなその感触に悲しみを覚えるけれど、今はただただ「雪見だいふくみたい」と耳元で囁かれたその頬を、その女子に云わせ謀るならば「いちご大福」のように上気させ、扉を開くことに集中していた。
ついと押す。
ギイと鳴る。
ついと押す。
ギイと鳴る。
余りに力を込めて一気に開くのもなんだか勿体無いような、じりじりとした高揚感に浸されて、小夜子は漸っと自分が何とか通れるくらいまで門と門の隙間を開けた。
力を込めていないとは思っていたもののやはり握る力は強かったようで、自分の手を鉄棒から引き剥がすのに若干苦労した。右の手のひらを開いてみると、ほんの少しの赤錆が申し訳程度に付いているだけで、自分が想像していたほどに悲惨な状況にはなって居らずこれまた拍子抜けをした。でも鉄錆の匂いは鼻を近付けると咽せるほどで、嗅いだことをちょっとだけ後悔した。
開いた門の隙間から中へとゆっくり視軸を向ける。
家主が贅を尽くしていたころは美しく整えられていたであろうその庭も、今は全く面影もなく、取り残された樹木や住処を見つけた雑草群が群雄割拠を繰り広げている。
小夜子の父は寡黙な植物学者で、いつも書架のみっしりと詰まった書斎に詰めているか、たまに大きな荷物を持ってふらりと出掛けては何日かしてまたふらりと戻って来るような変わり者で、小夜子の年頃の父親としては少しく年齢に嵩があるように思えた。
父の書斎には植物の他にも小夜子の小さな世界では見たことのないような不思議な形の貝殻やら何某かの頭骨やら変わった形の実のようなものや古いガラス瓶の列、ちょっと間の抜けた顔をした木彫りの魚や様々な生き物の図鑑たちが所狭しと並んで居り、小夜子は父の書斎に入り浸るのが好きであった。小夜子の家は海沿いの町にあったから、時折海岸に訪れては色々な形の貝殻やらイカのふねやらカニのハサミやらを拾っては帰るけれど、父の書斎にあるそれらは小夜子のコレクションでは到底追い付けないような代物ばかりで、時に小夜子を恍惚とさせるのであった。
父も小夜子が書斎に入ることに対して特に何も云わなかった。小夜子に対して大した興味がなかっただけかも知れないけれど。
故に小夜子も自然と植物には詳しくなり、父には程遠いけれどそこいらに生えている草花には多少の知見があった。あれはツユクサ、ハゼランにムラサキカタバミ、ヤブジラミがふわりと吹いた風に揺れる姿が美しい。大勢のヘクソカズラ、肩身の狭そうなオオブタクサ、少し奥にムラサキツメクサの畑がちらりちらりと目に映る。小夜子はあらゆる生き物を愛する娘であったから、世に『雑草』と呼ばわれ邪魔者扱いされるそれらも、同じく『園芸植物』と呼ばわれる植物群と変わらずに好きだった。むしろ、当時どんなにか美しく気高い庭園だったかは知らないけれど、今の方がずっと好い。
小夜子はいつか寡黙な父がふいにぽつりとこぼした「雑草は決して強くはない、弱いから、肥沃な土地から爪弾きにされ生きられないものほど飛ばされ飛ばされ風に流されて、より育ちにくい土地に行き着くのだよ。強いからそこにいるんじゃない、弱いからそこで生きて行くしかないんだ」と云う言葉を思い出したが(少なくともここにいる植物たちは弱くても幸せものだ)と思った。たとえ時期が来て諍いがまた起こっても、花開けたモノたちは幸せな生を遂げられる、きっとここはそう云う場所に違いないのだから。
そうしてそうやって小夜子はあらゆる植物たちを好んでいたけれど、彼らのことを考えるふりをしつつももはや心はここにあらずであった。意識をしないようにしても、どうしても意識をしてしまう。身体の右側が火照って熱い。平素は下から見上げる顔も、今きっと右側を向いてしまえば視軸がつうと合ってしまう。そのくらいの位置にいる。この門をくぐれば触れられるほどに。近い。
真夏に差し掛からんとしている風は、時折ひゅるりと小夜子を揶揄うように、時にくすぐるように小夜子の栗色の髪を絡めてすくって元いた場所にサラリと戻す。陽の翳った場所では未だ少しく肌寒いそれも、今の小夜子には心地良い。愛しい人が、そこにいる。
小夜子は目を閉じふっと一息吐いてランドセルを半ば乱暴に背負い降ろした。門の端にそっと置く。お尻の部分が汚れちゃうけれどしょうがない。小学生の持ち物は、汚れるためにあるのだ。「ちょっと待っててね」とランドセルの蓋あたりをぽんぽんと叩いてスクっと立ち上がる。母親が「割り箸みたいね」と時に揶揄う白くて細い足。スカートは苦手だからキュロットか長ズボンしか履かない。今日はキュロットだから、この庭に一足踏み入れたら鋭い草の鎌で足を切ってしまうかも知れない。でも子供の冒険に怪我はつきもので、そしてそれは時に勲章でもあるのだ。行き過ぎれば罰則でもあるのだけれど。
まずは頭を入れてみる。頭が通れば全身も通れる生き物は猫だったかな、などと思いながら、まだまだ薄い体を横にしてカニ歩きの体で横這いに歩く。一歩踏み出し、また一歩。
何となく目を瞑りながらゆっくり歩を進め、五歩目を数え終えたところで足元にピリッとした感触がさくりと走って小夜子は思わず「ひゃっ」と小さく叫んだ。植物群の使者のお出迎えだ。どうせならもっと優しく出迎えてほしい。タンポポの綿毛がやわりと触れたなら、これまたびっくりして声を上げてしまいそうだけれど。
–––ああ、これは踏みしめて行かないとどうしようもないな。
草花を踏むのはどうにも抵抗がある。そこいらの公園に生えている芝生だって踏みしめるのが申し訳なくて、乱暴者が蹴って穴を開けたのであろう芝生の抜けた泥の部分をぴょんぴょん跳ねて通る小夜子だ。今まさに生きづかんとするものを踏むのは抵抗がある。
でも。
「ごめんね」とぽつり一声かけて、小夜子は植物の海に歩を分ける。
敢えて下は見ないように、でも視軸をどこに合わせたら良いのか分からなくて小さな小夜子は頭を振った。途端にくらりと目眩がして世界がホワンと歪んで見えて、慌ててすぐ横にある門扉の鉄を掴み、自然と目を向けたまさに目の前に、それはいた。
長い鼻面、
大きくあざ笑うように開いた口吻、
端から覗く牙は片方だけぽきりと折れていて。
べろりとした長い舌と、
鋭いひとみは爬虫類のソレのよう。
今は見える馬のような耳は対となり、
額には毛のようなものが一房掛かっている。
小夜子はあまりの出来事にドキドキとすることも忘れ、ただひたすらにその像を眺めていた。細部まで漏れのないように。細胞のひとつひとつまでを識っていたい。
それは無意識な行動だったように思う。
小夜子は細長い腕をゆっくりと像に向けて差し出した。無意識の中の意識。恋する者が持つ当然の衝動。『触れてみたい』。
震える指が折れた牙の残った部分を労るようにそっと摘む。途端にビビビっと衝撃が身体中を駆け巡り、股間の辺りでヒュッと止まって小夜子は少しだけ漏らしてしまった。石から電気が流れるだなんて学校でも習ってやしない!
それはもちろん石像からではなく小夜子の脳がもたらした『恋する者の通過儀礼』と云うちょっとした悪戯だったけれど、幼い小夜子はそんなことは知らないし、お漏らしだって何年も前に卒業したので久しぶりで、何も愛しい人の目の前でこんな目に遭わせなくても…と少し恨みがましく思えたけれど、このままこの指を離してしまったらまた触れる際に電流が走るかも知れないし、何より指先に触れるがさりとした石の質感が肌に心地良くて、そのままそっと肌身離さず牙から口の端に指を沿わせ頬の辺りをゆっくりと手のひらでまあるく撫ぜた。ドキドキは既にドクドクとなって、小夜子の身体中の血液を沸騰させそうだ。舌先の血管まで膨張しているように感じて小夜子は溜まったつばきをごくりと飲み下した。
左手で触れたらまたあのような電流が走るのかしら。
もう一度あのビビビっを浴びたら完全に漏らしてしまうかも知れない。それでも幼い心に芽生えた衝動はあまりにも情熱が過ぎて、小夜子は震える左手を恐る恐る石像の左頬に近付けた。さっきは気にもしなかったけれど、静電気が走る様子はないみたい。そもそも石は電気に弱いんじゃなかったっけ?雷が石に当たって亀裂を施したような話を何かの本で読んだ気がするのだけれど。
小夜子は少しく逡巡したあと、左手の人差し指でチョンと像の左頬を突いてみる。ピリッとした刺激が走るかと思ったけれどそんなことはまるでなく、石像は右手と同じくざらりとした感触を左指の先にも与え、小夜子はまた拍子抜けをした。大丈夫みたい。一回きりだったのかな?それにしても一体全体どう云う仕組みなのだろう。
もう一、二回指先でチョンチョンと突いたあと、未だ震える左手を右手と同じように像の右頬に添える。捕まえた。これでもう私のものだ。今、この瞬間だけは。小夜子はより一層喜悦にまみれ、像に顔を近付けようと小ぶりな足をきゅうと伸ばして爪先立ちとなり、鼻と鼻がくっ付くくらいの勢いで前に乗り出した。
目と目が合う。ような気がする。急に頬がかあっと熱くなり恥ずかしくなって、慌てて像の額へと目を逸らす。一房の前髪だと思っていたものは近くで目にすると馬の立髪のようで、頭の後ろの方まで続いているようだ。耳や立髪を見ると馬のようだけれど顔立ちは爬虫類のそれで、小夜子はこんな生き物を見たことがなかった。もちろん水木しげるの妖怪図鑑にも載ってはいないし…あ、でも背中に翼が見える!鳥よりもコウモリに近いような羽の先に爪のついた大きめの翼。下の方まで見たいけれど惜しいかな、茂りに茂った植物群がその視線を阻んでいる。「前足はどうなっているのかな…」照れる気持ちを隠すかのようにわざと思いを口に出し、爪先だった足を下ろして像の前足の辺りを繁々と見てみる。
像にしつこく絡みついた蔦は(しかもその蔦の意地悪なことと云ったら!)ぐるりぐるりと石像を縛り付けるように巻き付きしかも鋭い棘を持っていて、小夜子の柔らかな頬やきらりと大きく見開かれた目の端を、いとも容易く引き裂いてしまうぞと嘲笑っているかのように見える。
それでも何とか意地悪な棘の目をくぐり、頭をあっちへ傾げたりこっちへ傾げたりとしながら石像の前足の先へと視線を届けることが出来た。尖っている。随分と鋭い、でもこの棘のようには意地悪さを感じさせない爪はグッと力を込めて何か丸いものを抱えている。爪に続く指はやはり爬虫類のソレに似ていて、小夜子は恐竜か何かなのかなとも思ったけれど、小夜子の持つ子供向けの恐竜図鑑には載っていない容姿であるし、小夜子の知らない恐竜なのかも知れないとも思ったけれどそれもまた違う気がした。石像が大事そうに抱える丸いものは丸さだけしか伝わらない、もしくは丸くないのかも知れない程に蔦に覆われていて、小夜子は像が蔦からその丸いものを守っているようにも見えて、蔦に抗う術を持たない自分の非力さにガッカリとした。助けられたら良いのにな。そして私も助けて欲しい。
そう、小夜子は助けて欲しかった。陰口を叩くクラスメイトの女子たちから、小夜子に興味を持たない父から、弟にばかり視軸を向ける母から、「遊んであげる」と云いながら小夜子を嫌な目で見、近寄って来る(昔は兄のように慕っていた)近所の中学生から。
そう。いつからだったろう、ソレが始まったのは。
下校帰り、いつもの帰り道。小夜子の白い足がヒュルリと伸びて、そうして小夜子はスカートを履けなくなった。
元から特に俗に云う「女の子らしい格好」が好きだったわけではないから、洋服を買いに店へと赴いた際に男の子向けの服を選ぶ小夜子を母は別に咎めなかったし、むしろ弟へのお下がりとなるので喜んでいるようにも見えた。ただ半ズボンにはかなりの抵抗があったのでキュロットや長ズボンを選ぶようにしてはいた。あいつのあの目。小夜子の足を好奇を持って見るあの目。昔はあんな風じゃなかったのに。何が彼を変えたのだろうか。小学生までは普通だった気がする。当時は園児だった小夜子を「小夜ちゃん、小夜ちゃん」とよく構ってくれた。そうして小夜子が小学校に上って、お兄ちゃんも、たまに近所の中学校の学生服を着た後ろ姿を見るくらいになりしばらく姿が見えなくなって、そうして久しぶりに見たお兄ちゃんはだいぶん姿形が変わっていた。最初は誰だか分からなかった。学校帰り、玄関の外扉を開けようとすると後ろから「小夜ちゃん」と聞き慣れない掠れたような声に名を呼ばれ、小夜子は一瞬びくりとしたのちそうっと後ろを振り向いた。
脂っこく少し癖のついた黒い髪。頬にはニキビやその痕がパッと散ったように咲いていて、少し肥満気味な肉体と合間って歪んだ食生活が伺える。誰だろう、こんな人近所にいたっけ。なんか、こわい。小夜子は野生動物的な危機管理能力を以って身構えた。そんな小夜子を見て彼はくへへと笑い、
「なんだよ、忘れちゃったの?冷たいなあ小夜ちゃんは」
「昔はあんなに遊んであげたのに」
と云うその一言で、小夜子はやっと相手があの幼馴染のお兄ちゃんだと気付いたのであった。小夜子の驚きを他所に「ちょっと肥ったからかなあ」などと古ぼけたトレーナーの上からお腹を撫でくりまわし、宣っている。ちょっとどころではない。だいぶだ。
お兄ちゃんは昔は「すわ、神童か」と近所の大人から噂されるくらいに出来た少年だった。勉強もスポーツも常に一番だし、優しくてすらっとしていて女の子にも随分とモテていたように思う。小夜子も幼心に少し憧れていたし、そんなお兄ちゃんに「小夜ちゃん」と可愛がられることはちょっとした自慢でもあった。そう、そんな、素敵なお兄ちゃん、だった、のに。
人を見かけで判断してはいけないと小さな小夜子だって幼心に解ってはいるつもりだ。でもお兄ちゃんの小夜子に向ける視線の中には何か嫌な気持ちにさせる色があって、ソレが小夜子のスカートからスラリと伸びる腿と膝の間だったり白いブラウスの胸あたりだったりに落ちるのがどうにも気持ちが悪くって、小夜子は、「ねえ、小夜ちゃん。昔みたいに遊ぼうよ。二人でさ」と近付き伸びて来る手腕から逃れ、「ごめんなさい、今日は用事が」とか何とかモゴモゴと呟いて素早く開きかけた門の内側に逃げ込んだのであった。早足で玄関まで去る際に「チッ」と舌打ちが聞こえたような気がする。舌打ちなどしなかった。私の知るお兄ちゃんは。そうして小夜子の日々の憂鬱がまたひとつ増えたのであった。
「助けて欲しい」
一度口から出すと、もうそれは止まらなくなった。
愛しい人の両頬の辺りに手を添えて、小夜子は大きく見開かれた瞳から大粒の涙をポロポロと零れ落ちさせながら、石像に対して祈るように助けてと唱えた。
助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて欲しい。小夜子がその茨の鎖を解いたなら、そのコウモリの羽のような両翼で小夜子を遠く知らないどこかへと運んでくれはしないだろうか。
大鳥家
いつもより帰るのが遅くなったからか、帰宅する小夜子を待ちくたびれたのであろう近所のお兄ちゃんはもう小夜子の家付近には見当たらなかった。あの後小夜子はしばらく泣いていたけれど、小夜子に対するいじめや付き纏いや小夜子の日々の動揺や悲嘆に無関心な両親に対しての理不尽さを考えるにつけ憤りが増して、石像をぐるりと取り巻く茨の群れに無謀にも挑みかかったのであった。蔦をかき分け掴みかかり引き千切らんとしたけれど、小夜子よりも年月を長く越したであろうそれはあまりにも強靭で、結果はもちろんの大敗。腕や足のあちらこちらに傷を作って、手のひらなんぞは半ば血まみれで、我に返った小夜子はあまりの痛みに少々悶絶をしたけれど、最後にもう一度石像の頬辺りに両の手を添えて、しばらく見詰め合ったのち一言二言呟いてから名残惜しげにでも決して振り返らぬように屋敷の庭を後にした。振り返ってしまったら、きっともう戻れなくなる。
「ねえ、愛しい人。私があなたを救ったら、あなたも私を救ってくれる?」
小夜子がそう呟いたその時に、小夜子の手からつうと一筋流れた赤い血が一滴の雫となって石像の抱える玉に落ちた。小夜子はそれを気付かなかったけれど、彼らにとっては救いの一粒の雫となった。そう、もう何年も何十年も待ち侘びた。生命という名の救いの赤い一滴。
家に帰るとほうほうの体の小夜子を見てびっくりした母は、夕飯の準備をする手を止めて、怒り叱りながら容赦も無く消毒液を小夜子の身体にバシャバシャとぶちまける勢いで、しかししっかりと手当てをしてくれた。小夜子が小さな冒険をして生傷をこしらえて帰って来るのは半ば日常茶飯事であったけれどここまで血まみれなのは初めてで「一体何をしたらこんなことになるのかしら、暴れん坊のおチビさん」と母は呆れながらに小夜子の手にくるくると多少手際悪くも包帯を巻いていった。確かに家の明るい蛍光灯の下で改めて見ると小夜子は散々な有り様であった。洋服から出ている素肌部分は擦り傷と切り傷にまみれていて、着ていたTシャツもところどころ穴が開いたり破けたりとしていた。キュロットにも擦ったように血が付いている。
着替えるよう母に促され、時折ピリッと走る痛みを堪えながら部屋着に着替えると「これはもう着られないわね」と母は何も臆することなく小夜子のTシャツをゴミ箱の中へがさりと落としてしまった。そう云うところ。そう云うところが小夜子の小さな胸を押しつぶすのだ。汚して傷つけて破ってしまったのは無謀な小夜子の無謀な行いの所為だったけれど、小夜子はそのTシャツが大好きだった。薄卵色の地に派手ではない水色の、少しかしいだ文字で「iChao !」とプリントされたTシャツは、家ですれ違った際に珍しく父が「スペイン語だ」と話しかけて来たもので、スペイン語で別れ際の挨拶に気軽に使う言葉だと教えてくれたものであった。「捨ててもいい?」の一言くらいあっても良いではないか。それでも小夜子は「うん」としか返せないけれど、勝手に廃棄されるよりはずっと良い。チャオ。さよなら。ごめんねあなたを助けることが出来なかった。
夕ご飯が仕上がるまで少し部屋で大人しくしていなさいと云われ、項垂れた小夜子はリビングの横の廊下を通りかけ、賑々しく映る居間の中の光に気がついた。小夜子より四つか五つほど歳の離れた弟はテレビの前に陣取ってピンク色や水色に染められた、何だか正体の分からない動物の着ぐるみたちがあっちへわちゃわちゃこっちへわちゃわちゃとする番組を放心するかのように見つめており、何かに夢中になっていると害のない生き物だななどと酷い感想を頭に浮かべて、それなら自分は何かに夢中になると害のある生き物となるのかなと包帯をぐるぐる巻かれた両手に視線を落とした。母には転んで空き家の生垣に突っ込んだと説明をした。あながち嘘でもないし、あの洋館に侵入したなどと馬鹿正直に話したら、雷が石をも砕く勢いで落ちて来るのは想像に難くなかった。母は異様に世間体を気にする性格《たち》なのだ。なのできっと小夜子の日々の奇行にも苦々しい思いを抱いているに違いなかった。それに比べて弟は「手のかからない一般的な三〜四歳児」で、戦隊モノやヒーローものや幼児に向けた番組を好み、レストランではお子様ランチに大はしゃぎをし(小夜子はお子様ランチなんて馬鹿にされているようで好きではなかった)、もらったおもちゃを次々と飽いては放り出し、そんな放り出された尖ったプラスチックの欠片などを踏んで小夜子が悶絶するのもよくある日常の一コマであった。
小夜子が幼い頃から家族でよく通ったレストランは大手のチェーン店のひとつで、一匹の鳥が悲しげに寂しげに空を飛ぶロゴマークが特徴のなんてことのない洋風レストランだったけれど、その鳥のロゴを見るたびにいつも小夜子は悲しくなって、涙がポロポロと流れてしまうのであった。どうしてあんなに悲しそうな顔をして飛んでいるのだろう。仲間とはぐれてしまったのだろうか。もっと仲間をたくさん描いてあげれば良いのに。それともああやって空を飛んでいれば、いつか仲間の元にたどり着ける日が来るのだろうか。
小夜子は変わった娘ではあったけれど、それと同じくして変わった繊細さと優しさを持った娘でもあった。そんな娘が孤独を愛するならば『向かうところ敵有り』なのは必然で、でも幼い彼女にはまだ分からなかった。恨み辛み妬み僻み嫉み。群れを離れた子羊は狼に襲われるのではなく離れた群れに厭われるのだ。弱いから群れるのにその弱さから逸脱する強さ。その強さへの嫉妬と羨望。ああ、なんて面倒臭いのだろう。
トストスと爪先だけを使い忍び足で階段を上る。特に意味はないのだけれどこうすることが好きなのだ。大きくぐるりと回る階段を登った先は部屋が四つに分かれており、正面奥に父の書斎、手前左が夫婦の寝室でその向かい側のふた部屋が小夜子と弟に割り振られていた。
階段の手すりに触れる。重厚な木の感触。小夜子はこの古く趣のある、和洋折衷の様相を呈した邸宅が好きだった。蝶番の軋む音。子供には少し重たく感じる扉の頼りがいのある厚み。細かな草花の彫刻の施された鈍色をしたドアノブを傷む手のひらで握りかちゃりと回しグッと力を入れて自室の扉を開ける。古い匂いと新しい匂いと少し甘ったるい匂いと渋い匂いが小夜子を待ち侘びていたようにむわっとした空気に乗せられ混ぜられて鼻腔に押し寄せる。おかえり、ただいま。会いたかったよ。
母に何度「片付けなさい!」と叱られても一向に片付かない小夜子の部屋は、瓶や小瓶に分けられた種や実、木箱に雑多に振り分けられた虫たちの崩れかけた屍と抜け殻、父に旅行土産でもらったどこかの国の部族のお面やおもちゃの刀、サソリの標本にクリスマスプレゼントにもらったお気に入りのE.T.のぬいぐるみとさまざまな子供向けの図鑑。
古本市で買ってもらうため巻数が揃わず歯抜けだらけで揃っていない少年漫画や少女漫画、お気に入りのキャラのプリントされた浮き輪はタツノコプロのアニメキャラで塩化ビニルモノマー製の玩具はいつも如何しても正義の味方にやられてしまう怪獣のソレだ。
積まれるように積まれた本、そこにあるべくそこにある玩具。白雪姫の七人の小人は一人だけ小夜子の部屋に取り残されて、それでも笑顔を絶やさずに飾り棚にちょこんと座っている。小夜子はディズニーアニメに大した興味はなかったけれど、七人の小人の中でもこの一人だけ丸きり髪も髭もない、ちょっとおっちょこちょいで陽気なキャラクターが妙にお気に入りだった。
ベッドの上に洗い立ての小夜子の服がきちんと畳まれて積まれている。しまうのは自分でやりなさいと云うことなのだろう。甘い匂いを放っていた正体はこれか、洗濯物の匂い。シャボンの匂いは爽やかだとみんな云うけれど、小夜子には少しく甘ったるく感じられた。爽やかと云うのはそう、もうちょっと冷たさを持った、元日の朝の空気のようなしんとした透明感のある…と、そこまで考えて何処かから呼ぶ声で目が覚めた。また現実から逃避をしていた。それはただの思考であったけれど、小夜子は時に自分が現実から離れているように感じられることがあった。そう云う時、世界は光に包まれてぼんやりと形を歪ませ小夜子の視界を無きものとする。もう一度、今度はより強く呼ぶ声がして、小夜子はやっとそれが夕餉を告げる母の声だと気付いた。
夕食は『急遽カレーに変更』らしく、階段をトストスと上って来た時と同じくして忍び足で下るにつけ強く香り始めるスパイスの匂いが、小夜子のお腹からキュルルルと云う音を鳴らし、それは南国に暮らす鳥の鳴き声のようにも聴こえ、小夜子は己の胃の腑の中に南国の景色が広がっている様を想像して胃の辺りを少しくすぐったく感じた。あの鳥はなんて云ったかな、嘴の妙に大きい、つぶらな目をした、鴉のように美しい黒地の羽に色鮮やかな嘴と羽を生やした−–−あ、オオハシだ!あんな大きな嘴を持つ鳥が胃の中にいたなら動くたびに嘴が胃壁に当たって随分と痛むだろうな、でもそれはそれで楽しそう。オオハシはカレーを好んで食べるかしら…などと考えていると小夜子を見下ろし立ちはだかる大きな影に気が付いた。しまった、またぼうっとしてしまった。母は片方の手を腰に当てる少しく不機嫌な時のポーズで小夜子に云った。「考え事なら夕飯を食べ終わってからにしてくれるかしら?先生」。
夕飯が弟の好物であるハンバーグからひき肉の多めなカレーへと変化したのは小夜子のぐるぐる巻きの包帯に包まれた手に対する一種の配慮のようで、確かにこの手ではお箸を上手く扱うことは出来ないし、母が弟よりも小夜子に気を配ってくれたのが嬉しく、いつもは食の細い小夜子も珍しくお代わりまでしてしまった。
小夜子を囲む食卓はいつも静寂だ。
元々父が寡黙であるし、夕餉の席でテレビを点けるのも嫌っており(と云うかテレビ番組自体が嫌いだったのかも知れない)母はまだ口に運ぶその指先もおぼつかない弟に付きっきりであるし、そんな二人が会話を交わすこともなく、たまに母が弟に躾けるように話しかけるくらいで、あとは食器群がかちゃかちゃと音を立てる不揃いな音符がダイニングに響くだけであった。
なので今日の夕食も小夜子と母の「お父さんは?」「まだ良いって」と云う会話と弟のハンバーグに対する執着くらいでまこと静かなものであった。父がいると何となく緊張してしまう小夜子であるから、今日は余計に食が進んでしまったのかも知れない。食べ過ぎたのかケフッとゲップを出してしまい、慌てて母の方を見るけれど、こちらはなかなかスプーンの進まない弟と格闘しており小夜子ここにあらずと云った心境なようで、小夜子はぽつり「ごちそうさま」と呟いて食器を下げてシンクに置き、両の手に巻かれた包帯が濡れないように細心の注意を払って食器群を水に浸し、自室へと戻った。母は小夜子がお代わりをしたことに気付いてくれたであろうか。実は余り得意としていない母の手作りカレーをいつもよりたくさん食べたことに。
階段を上りかけるとちょうど入れ違いに父が降りて来るところであった。
父はすれ違いざまに小夜子を軽く一瞥し「その手はどうした?」と短く訊いて来た。父は学者であるからか小夜子の見てくれの些細な変化にも聡い。その聡さが善きにつけ悪しきにつけ、気にかけてもらえるのは小夜子を少しく嬉しくさせた。「ちょっと、あの、生垣に突っ込んで」そう辿々しく答えると、父はスンと少し笑ったような振りをして「随分と乱暴な生垣だな」と宣った。いつもより少し砕けた口調の父が嬉しくて、小夜子はつい調子に乗ってしまい、実はあの洋館に這入ったこと、茨の鎖と格闘したことを半ば興奮し時にどもりながら早口で父に伝えてしまった。話し終えてから(しまった!)と思ったが口から出た言葉は消せないし、いつも割と小夜子の小さな冒険を好ましい目で見てくれているような父なので、きっと今日も大丈夫だろうと祈るような思いで恐る恐る父の顔色を伺うと、父はいつになく厳しい顔付きで小夜子の頭の上あたりを睨んでおり「あの洋館に這入ったのか?」と重ねて訊ねて来た。そのピリッとした冷たい声音に小さく怯えた小夜子が小さい声で「うん」と肯定すると、しばらくの沈黙のあとに「いいか、小夜子。二度とあの場所に這入ってはいけない。あそこは善くない場所だ」と鋭く云った。小夜子は父の静かな迫力に圧倒されまたもや小さく「はい」と答えるしかなかった。「あと、その茨の傷はしばらく傷む。心しておくことだ」と背中で云い、考え込むような素振りで降りて来た階段をまた上って行ってしまった。小夜子は階段の途中、手すりに寄り掛かり凍りついたように動けぬまま父の書斎の扉が静かな音を立てて閉まるのをそのままの姿勢で聴いていた。
小さな夜の子ども
いつものベッドの変わらぬ感触の中で、小夜子は寝付けずにいた。
茨に触れた手のひらが嫌にじくじくと傷んでいたし、憧れの洋館に這入り石像に触れたことへの興奮や、父の冷たく厳しく放った言葉の意味やらがぐるぐると小さな頭の中を出たり這入ったり浮かんでは消えたり耳元で囁くように鼓膜を揺らしてみてはかしましく、本来だったら歓喜に満ちて震えているであろう胸の内をもやもやと濃い霧の中ように小夜子を思考の中の迷子へと導くので、まんじりとベッドに横たわり天井を見上げていた。きちんと敷かれた清潔なシーツ、陽を浴びてふかふかの掛け布団と枕、カバーからはシャボンの甘い匂いがぷうんとして、小夜子は身体を返し枕に顔を埋めて思い切り甘い匂いを吸い込んだ。
最初は「コンッ」と云う音がしたと思う。
窓ガラスに石をぶつけるような音。
いつもと違う異質な夜の出来事に、小夜子は枕に埋めた顔を少し横にずらして身構えた。右の目だけで窓の方角を伺う。なんだろう、夜更かしなカラスかリスのいたずらだろうか。この家に越して四年ほど経つけれどこんなことは初めてで、一瞬小夜子をいじめる女子たちの顔が浮かんだけれど、こんな夜更けに家を出られるわけがないし、小学校二年生の腕力で小夜子の部屋の窓に投げられた石が、小さなバルコニーを越え小夜子の元に届くとも思えない。木の枝か何かが風に揺られて当たっているのだろうか。いつもならとっくに夢の中の時刻であるから、今まで気付いていなかっただけなのかも…とそこまで考えていたその時にまたひとつ、
「コ、コンッ」
と云う音がして、小夜子は傷めた手のひらの痛みも忘れガバッと両手で上体を起こした。恐ろしさよりも好奇心、いつでも不思議な出来事や興味深さは小夜子から恐れ慄くと云う感情を吹き散らばしてくれる。もし相手が妖怪や幽霊や怪物だったとしても、小夜子は絶対に友達になってみせる!
パサリと上掛けを除けて左の足からそっと床に足を下ろす。裸の足がカーテンの隙間から射す僅かばかりの月の明かりに照らされて、落ちてくる明かりがくるぶしの辺りやそこから続く足の甲を滑らかな石のように青白く映えさせる。さらりと落ちる栗色の髪を両手で払い、足裏に触れる木の床の冷たさを愛おしく思いながら、興味と好奇心で頬を桃色に染め、逸る気持ちを抑えるように一息付いて、そうっと忍び足で窓の近くまで歩を進める。忍んでいるのに歩くたびに「キュッ、キュッ」と鳴ってしまう床板を今度は少し恨めしく思い、怖いわけではない、と強く思う。小夜子は待ち遠しいのだ。そこに確かに何かが潜んでいる気配を小夜子はすでに感じている。何がいようと恐れはしない、恐れぬ小夜子を見て欲しい。小夜子は認めて欲しいのだ。恐れぬ小夜子を誰かにしっかりと目にして欲しい。
シンプルな木綿色の薄手のカーテンに手を添える。布地の向こうに影が見える。満月も近いのに月の光が僅かばかりだったのは、この大きなモノのさえぎりであったのか。カーテンを通してはそのモノの姿形ははっきりとは見えず、小夜子の胸をよりワクワクとさせる。
敢えてカーテンを開けず、その隙間から窓についた真鍮製のネジ式の鍵をくるくると回して外し、カーテンを開けると共に一気に窓の両扉を外に開いた。
バサリ、と云う音がした。
続いて小夜子の長い髪を後ろに流すように、まだ梅雨の名残を添えた瑞々しい風が窓枠の形に沿ってびゅうっと吹き入り、冷えた流れが小夜子の火照った頬を白く染めた。思わず目を瞑る。向夏の夜風が目に沁みて小夜子の視界を滲ませる。深い緑の匂いが夜露に濡れて色を濃くしてなだれ込み、身体に纏わりつくようで小夜子は軽く頭を振った。
「タイミングが悪かったな」
頭の上からいきなり太い声が降って来て、小夜子はびっくりして頭を上げた。
十四番目の月の光を背負ったその身体は夜空のそれよりもずっと暗く、その面差しは見えないけれど輪郭に確かな陰影を与えている。コウモリのような翼。馬のような耳の間には立髪のような毛が風にそよぎ宙にゆらゆらと揺れていて、月の光に染められて少し透けては水銀のようにキラキラと明滅しくらくらと眩しく映る。小夜子の小さなバルコニーの枠を止まり木のようにして支える両の足は滑らかさを持った無骨な形の鋭い爪と、そこから続く爬虫類の鱗のようにギザギザとした足指とでみしりと音を立てるかのように石造りの塀をと掴み、小夜子を見下すように膝立ちをして止まっている。私はこの形を知っている。つい先だって飽いるほどに網膜に刻み、細胞のひと摘みまで逃さんとした愛しい形。石のそれとは質感が異なって見えるけれど間違いなくそれはあの石像で、小夜子の大きく見開かれた目を縁取るように緻密に生えそろった睫毛から、滲んだ視界を取り戻すかのように涙の雫がぽろりぽろりと零れ落ちた。
「ちょうど翼を整えたところであった」
像は続けてそう云って、少し照れ臭そうに左耳の辺りを指先で掻いてから、
「助けて欲しいと云ったろう?」
と、少しく小夜子の方に身体を傾げて宣った。
小夜子は普段はサクラの花のような色合いの唇をケイトウの花の如く紅く染め、開いた口から何か言葉を発しようとしたけれど、喉の奥は石が詰まったように引きつられているし、火照った頬は触れた髪をも焦がす勢いで、心臓の音ばかりが身体の中から陣太鼓のようにどこどこと鳴り響き、こんなにも鳴り続けたら像に聞こえてしまうのではなかろうかと恥ずかしく、いっそ鼓動が止まってくれたら良いのにと強く願った。
一見上の空に見える小夜子に対し(実際上の空に近い状態ではあったのだけれど)業を煮やしたその生き物は、小夜子の綺麗に揃えられた前髪を掻き分け、額を爪先で軽くつんと小突き「耳に血は通っているのか?」と訊いて来た。途端に小夜子の身体に昼間と同じくしてビビビっと電気が走り、小夜子はまたもや「ひゃっ!」と叫んで飛び上がった。幸にして今度はお漏らしをしなかったけれど、みっともない所を見せてしまったのと「なんだ?」と不思議そうな体でいる像を見て、これは自分の身体のみに起きている生理現象なのだと合点がいった。どう云う仕組みか分からないけれど、小夜子はどうやら彼に触れたり触れられたりすると稀に電気が走る体質らしい。なんてけったいで面倒な体質なのだろう。でもその電気のおかげとも云うべきかびっくりして緊張し固まっていた身体の力が少し緩んで、小夜子は「ふああ」と変なため息を一息吐いてから、続けるように「た、助けて欲しい、と、云いました」と辿々しく答えた。
目の前の像の濃い影にもだいぶん目が慣れて来て、この辺りが腕、あそこに光るのが左眼、ここが口でその上に鼻…と少しずつその陰影の別も付いて来て、小夜子は少し楽しくなり自然と笑みをその愛くるしい顔立ちの上に転がした。
像はそんな小夜子に少し見惚れたような素振りをしたあと、呆気に取られたような呆れたような様相で「オレが怖くないのか」と不思議な生き物を見る目付きで小夜子に問うた。
怖くない、怖くなんてあるものか。どれだけ欲したか分からぬ姿形が生身を持って目の前にいる。小夜子は自然と両の手を突き出して彼の左腕辺りにそっと触れた。
カナヘビのようなざらりとした感触。つうと指を滑らすとそれが小さな鱗の一片一片だと解る。続けて小さな手のひらでは掴みきれぬ前腕辺りに手を滑らせて肉の感触を探る。随分と硬い。こんな腕で叩かれたら小夜子なんて弾け飛んでしまいそうだ。そんなことはないであろうけれど。でも、きっと。
少し下って、この辺りが手首。身体の先に向かうに連れ鱗の形も小さくなる。手首と手のひらの境目に行きついて小夜子は臆さずに彼の人の手の辺りを両手で持った。手のひらの内側は少しツルツルとしていてその滑らかさがとても心地良い。皮膚の温度は冷たく、外気温とさして変わらぬ気がした。包帯を巻かれた手では指先にしか感覚が伝わらなく、もどかしさを覚えた小夜子は像の手のひらを両手で包み、持ち上げるようにして己の頬にそっと添えた。なんて冷たくて気持ちの良い肉体だろう。小夜子の火照って熱を帯びた身体は喜んでその冷ややかさを出迎えた。つるりぬるりと頬を擦り付ける。そうして最初からそうするのが当たり前であったかのように小夜子は像の手のひらに口付けた。小さな小夜子の初めての口付けは、のちに魔物と呼ばわれるソレの手のひらの上にあった。
はっと無意識の行動から目を覚ました小夜子は己の行動の大胆さと無神経さと恥ずかしさでまさに顔から火も出ん勢いで、とてもじゃないけれど像の顔など見られずに「ごめんなさい」と小さく呟きながらおずおずと像の手を元あった場所へと戻した。小夜子にされるがままにして動かず声も発しない彼の人の心境が気になって、それでもやはり上を向けぬ小夜子はへどもどしながらもう一度小さく「ごめんなさい」と呟いた。
像は像で困惑をしていた。
こんなことは初めてであったのだ。
像はもう人間の時間で云えば何百年と過ごして来たけれど、恐ろしい醜い穢らわしいなどと厭われこそすれ好意を向けられることなぞ一度たりとてなかったのだ。身体に唾を吐きかけられても、口を付けられるのは初めてのことで(これが世に云う口付けと云うものか)と妙に他人事にように感じていた。しかし小夜子に口付けられた部分は柔らかなくすぐりを持って、像に他人事ぶることを許さなかった。そう、像は照れていたのだ。それは小夜子を目にしたその時から像の中に初めて生まれた感情で、彼本人ですら未だ気付けずにいる厄介な代物であった。
彼は彼の中にあるこの厄介さを振り切るように、
「救うから救って、と、そう云う約束であったな」
と威厳を保つかのよう、やや強めに問うた。
そう、確かにそう云った、あの時、小夜子は。
恥ずかしくて上げられなかった顔を少し上に傾けて、上目遣いで像の様子を伺う。影は未だ暗さを持って微動だにせず佇んでいて、まるで何もなかったかのようにその姿勢を保っている。何も気にしていないみたい。小夜子の無意識な好意の現れは像に何をも感じさせなかったようで、小夜子は丸切り無視をされたような気分になって随分と気落ちをしたけれど、一方的な好意の押し付けは良くないと付き纏われ学んでいたので、傷付けた手のひらよりも随分と痛む胸の内が小夜子の小さな胸を破って溢れて流れ出ない内にと慌ててコクリと首を振り、像の瞳の辺りをしっかりと見据えて「約束を、しました。救うから救って、と」と、漸うに言葉を返した。
「さて、どうしたものかな」
像は顎の辺りに手を添えて、考えるような素振りをした。実際考えてはいたのだろうけれど、仕草の一つ一つが人間と変わらないのでそれがなんだか嬉しくて、小夜子の胸の傷を少しく埋めた。そう、こうやって言の葉を交わしていることがもうすでに奇跡みたいなものなのだから、それより多くを望むなんてあまりにも傲慢が過ぎる。傷付くよりも楽しもう、今のこの瞬間を。と、小夜子は思い、「私は何を救ったらいいの?」と像に問うた。敬語も敢えてやめてみた。あの像がこうして動けるようになったこと、それ自体が「小夜子の救い」であったのなら話は悲しいほどに早いのだけれど、像の醸し出す雰囲気からはそれ以上のものが感じられ、小夜子に何かが救えるのか、像の役に立てるのだろうかと、ワクワクとドキドキが合わさって上気する肩の辺りをそっと押さえた。その仕草を鋭く突くかのように「寒いのか」と像が問う。寒くはない、熱いくらいだ。でもその労いのひとつひとつがとても嬉しい。小夜子は小さく首を横に振って「寒くない」と短く答えた。小夜子に救える何かを知りたい。だってあなたがこうしてここにいるだけで、私はもう充分に救われているのだから。
「ここから少し上に行ったところにオレの故郷があるのだが」
像はそう云って指の視軸を宇宙へと向ける。その視軸を追うように小夜子も窓から乗り出して視線を真っ直ぐ宙へと乗せる。その格好はまるで像に身を寄せるようで像の内心を大いに取り乱させたけれど、楽しもうと決めた小夜子はもう気にしてはいられなかった。
「見えないよ?」
「ああ、まだここからではな」
乗り出す小夜子が落ちぬよう、自然と支えられた二の腕の辺りが熱を帯びて、小夜子はこのまま彼に触れたり触れられたりしていたら熱を発し過ぎて己が干上がってしまうかも知れないとも思ったけれど、もしも干上がってしまったらお酒のおつまみにでもして貰えばいいと思い付き「ねえねえ、もしも私が干上がってしまったのなら、あなたが私を食べてしまってね」と口に出した。像は些かギョッとして小夜子の真意を計りかねたけれど、幼い瞳はただただ無垢な色味を湛えているばかりで、像は「ああ、もし干上がったのならそうしようか」とはにかんで答えた。像は気付いていなかったけれど、はにかむ表情を浮かべると云う行為もまた、像にとっては初めての出来事であった。
像はングっと咳払いのような音を発してから、
「如何やら、その故郷に危機が訪れているらしくてな」
と、深刻な色を浮かべた瞳を小夜子に向けた。
月の光を受けた彼の左半身はもうすっかりとその姿形を小夜子へと見せびらかしていて、やはり爬虫類を思わせる彼の瞳はクロスグリ色の角膜を中心として青みがかった翠から浅葱色へとグラデーションを描くように美しい色味を放っている。ああ、小夜子はなんてうっかりしていたのだろう。彼に似ている空想上の生き物がいたではないか。唯一無二の空の王者とも云われる西洋の怪物、ドラゴンが。美しくたなびく銀色の立髪も鈍色に光る鱗の一枚一枚までもがそう見えて、しかし大きさが丸切り違うことや耳から生える飾り毛、本物のドラゴン(とは云ったって小夜子だって本物のドラゴンを目にしたことなどなかったけれど)より短めの口吻がやはりドラゴンではないと告げており、小夜子は首を捻りながらもその横顔の美しさの虜となっていた。そんな風に見惚れていると、その視線をくすぐったく感じたのか、像は小夜子に後ろを向いて腕を上げるように指示をした。
小夜子の宇宙
小夜子は宙を舞っていた。
像に脇から胸の辺りへと腕を這わされ抱きすくめられて、ばさりばさりと翼の脈動する振動に足をぶらぶらとさせながらバルコニーから羽ばたいた小夜子は空を飛ぶと云う子どもなら一度ならず二度までも夢に描く空想の出来事を現実としても尚、その意識は像へと固く結ばれていた。なんて贅沢な小夜子だろう。己をそう叱咤して、こんな風に風を切って宇宙を舞うことはもうないかも知れないと意識を無理矢理飛ぶことに集中させて、遠く光る街々の灯りに目を凝らす。真夜中を過ぎた小夜子の海沿いの町はもうすでに暗く、ぽつねんと佇む街灯と時に民家の灯りがぽつりぽつりと明滅するくらいだったけれど、遠く人の入り乱れる街の辺りであろうそれはまだ眠らないぞと云わんばかりにきらりきらりと輝きを放って(さすが都会は違うなあ)などと呑気な感想を小夜子に抱かせるだけなのであった。人工的な灯りよりも星空が良い。イルミネーションよりも夜光虫の輝きを。そう思って上を向いた小夜子はばちりと像と目が合ってしまい、敢えて考えないようにしていたのに思い切り意識をしてしまう。ちがう、楽しむんだ。大好きな人に抱きすくめられていると云うことが、裸足で空を飛んでいると云うことよりもよほど重要且つ大事で、敢えてそこから意識を飛ばしていたと云うのにこの体たらく。逸る胸の鼓動は像の腕にもきっと伝わっていて、小夜子はやはり恥ずかしく、なんとかこの状況を打開できる何かはないかと模索した。
「ねえ!自己紹介がまだだわ!」
ばさりばさりと翼の音が大きく響くので普段よりも気を張った声で小夜子は精一杯の話題を振り撒いた。名を知りたくもあったのだ。もう像ではないのだし、いつの時代だって『君の名は』とみんな問う。異性であろうと同性であろうと異類であろうと変わりなく。
しかし愛しい人はそんな小夜子を挫かせるように「名など無い」と云い放った。
名前がない。
名前がない!?
そんなことってあるの!?
「だ、じゃ、どう」
「落ち着け」
困惑し混乱する小夜子を諌めるかのように「あまり暴れると落ちるぞ、ここから落ちたら…ぺシャリ、だ」とピシャリとした声が上から降って来る。だって、そんな、名前がないなんて聞いたこともない!それでも確かにこの高さから落ちれば小夜子は姿形も木っ端微塵に砕けるほどにぺシャリなはずで、像がそうさせるはずはないと分かっていても、その気遣いを無碍にすることは出来ず、小夜子はきゅうとしおらしくなってゆっくりと言葉を紡いだ。
「あのあと家に帰ってから、あなたのことを調べてみたの。持っている本や図鑑を総動員させて。でもあなたに似ている…その、気分を悪くしたら申し訳ないのだけれど…妖怪や怪物はちっとも見当たらなくて。
「似たようなのはたくさんいたの、中国の羽民やアルプス山中に現れると云うグレムリン、フランスのタラスキュにアルゼンチンの鳥人…でもどれもあなた本人ではなくて…。
「一番近いのがヨーロッパの雨樋の守り主と言われるガーゴイルの石像だった…でもあれは人間によって創られたモノだし…」
「オレもこの世界では石像であったし、人間に造られたモノだったかも知れんぞ」
「でも今現にこうやって生きて動いているじゃない!」
「生きている?このオレが?」
半ば嘲笑うかのように発せられた像の言葉に呆気に取られ小夜子はひどく悲しくなった。生きていなければ今ここにいるあなたは何なのだろう、小夜子を強く優しく抱き寄せてくれている腕からは確かに脈の鼓動を感じると云うのに。たとえ切り開いた彼の皮膚の先に血肉の色が無かったとしても小夜子は同じ生き物として彼を想いたいし、たとえ石像のままでいたとしても愛しく思っていたい。小夜子はまた大粒の涙を零し、零しては雨樋を伝うように像の腕にそれは流れ、一筋二筋と流れを作った。
「ガーゴイル」
急に言葉を振られ、もはや鼻水まで垂らした散々な有り様の小夜子は彼の腕を掴んでいた手を片方ほどき、ぐしぐしと乱暴に袖先で目鼻を拭いて、鼻の詰まった声で繰り返した。
「ガーゴイル?」
「ああ、ガーゴイル。今からオレは自分をそう名乗ることとした」
「それでいいの?」
「ああ、響きが気に入った」
途端に小夜子の顔に花が咲いたように笑顔が散らばる。乱暴にこすったせいで赤くなってしまった目の際や鼻の下を見て、ガーゴイルは身を切られるような思いに駆られる。泣かせたくないのにわざと泣かせた。この娘にはいついつだって笑っていて欲しいのに。どうしたら泣くのか試すように、否、試したのだ。己の地を救える唯一の希望。その喜怒哀楽を、実り豊かな大地の如く携えたこども。
そこまでして守る程のものなのかと何度も考えた。このまま奴らの意のままにしてしまっても何ら差し支えのない冷たく澄んだ名も無き石くれの群れ。しかし小夜子が解いてしまったのだ。呪うべき封印を。その血を持って。
手元を見ると小夜子は足をぶらぶらとさせながら「ガーゴイル、ガーゴイル」と謳うように己の新しい名を口ずさんでいる。少し、意地悪をしてみようか。そんな気分になってガーゴイルは小夜子に問うた。
「さあ、サヨコ。今度はお前が名乗る番だ」
小夜子はプリプリとしていた。それはもちろん先ほどのガーゴイルのちょっとした意地悪のせいで、名前をいつ知られたのか、もしかして心の中を読めたりもするのかしらと恐ろしいことまで考えて、そうだとしたらそれを黙っているのも失礼な話だし、小夜子は実際子どもだけれど、子ども相手向きな揶揄いが小夜子とガーゴイルの差を明確に表しているようで悲しくもあった。でも悲しがるのも何だか悔しくて、小夜子は当然の権利として怒ることに決めたのだ。
ガーゴイルはガーゴイルで困惑していた。まさかここまで怒るとは思っても見なかったのだ。どうやら人間の子どもの八歳と云う年齢は、なかなかもって難しいお年頃らしい。
「なあ、サヨコ。何をそんなに怒る必要がある」と問うてみる。
返って来たのは小夜子の小さな足による大きなスイングで、ブランコを大きく漕ぐようなその思いもよらぬ攻撃にガーゴイルは少しだけ体勢を崩し、しかし大袈裟に「おおびっくりした」などと宣った。その馬鹿にしたような反応が余計に小夜子をカチンとさせ、小夜子は今度は本当に驚かしてやろうとガーゴイルの手から逃れるごとく大暴れを始めた。
足をバタバタとさせ手を闇雲に振り回す。これではただの駄々を捏ねている子どもそのものだと思い、でも自分はまだ駄々を捏ねていい子どもなのだとも思い返して、小夜子はより一層暴れる勢いを増した。振り回された手や足がガーゴイルの体のあちこちにぶつかっては跳ね返り、今となってはもう小夜子が暴れているのか小夜子が触れては跳ね返るバネ人間にでもなってしまったのかと云う体たらくで、そのすらりと小さな手足を振り回せば振り回すほどにガーゴイルの堅牢な鱗に跳ね返されて、身体中のあちらこちらに大損害を喰らう小夜子なのであった。なんて硬い身体なの。これじゃあ明日は今日作った切り傷擦り傷に加えて打撲痕も追加されるに違いない!
「よせ!本当に落ちるぞ、サヨコ!」とガーゴイルのかなり大慌てな声がして、小夜子はやっと満足をして漸うと駄々っ子を卒業した。どうだ、恐れ入ったか。
冒険に出かける以外は普段は大人しめな小夜子が大暴れをしたものだから、息はゼエゼエはあはあとまるで五十メートル走にでも出場し終えた後のようで息を整えるのももどかしく、しかしガーゴイルは小夜子の息が平常に戻るまで、先ほどまでの小夜子の暴挙を諌めることもなく静かに宙を漂ってくれていた。ガーゴイルのその真冬の静けさのような優しさに、己の行動を省みた小夜子は漸うと整った息で「ごめんなさい」と首を垂らした。ガーゴイルはそれに答えずぎゅうと小夜子を抱え直すと、ばさりと翼を震わせて「まったくいちいち驚かせる娘だ」と呆れたように微笑んだ(ように見えた。小夜子には)。実際ガーゴイルは呆れ微笑む気持ちでいたし、しかしそれとて初めての感情であることに彼はもうイヤになるくらい気付かされていた。目まぐるしくくるくると回る小夜子の心の動きやその表情の、もうすっかり虜となってしまっている己の変化に。
「ガーゴイルはなぜ私の名前を知っているの?」
小夜子は小夜子が疑問を呈するに資格のある質問を、恐る恐るガーゴイルに訊ねた。ガーゴイルはしばし考えるような素振りを見せたあと「黄色い帽子を被っていたことがあったろう」と答えた。黄色い帽子?ああ、小学一年生は登下校時に必ず身に付けなければならないあの帽子。通学帽。ポリエステル製ですぐに色褪せ汗染みにも敏感なあの不恰好な帽子。二年生になってからは自然と同窓生も同級生もみんな被らなくなって、小夜子ももちろんそれに倣った。そうして少し、みんな大人になったような心持ちとなるのだ。よちよちひよこからの脱却。それは時に大いなる波乱も含んでいることもあるけれど。しかしあの帽子がどうしたと云うのであろうか。
「帽子に書いてあったのだ『オオトリサヨコ』と」
なるほどと小夜子は合点がいって、そしてそんな小さな頃から小夜子は見られていたのかと恥ずかしくなり、でもガーゴイルを立ち止まって見つめていたのは小夜子も同じことなので、感情の行き場をなくして「おばあちゃんみたいな名前でしょう」と心にもないことを云った。直ぐに「そんなことはない」と云う鋭い声が落ちて来て、小夜子はびくりと身を揺らしたけれど、そんな小夜子を和らげるように「漢字はどう書く」と優しく問われ「小さな夜の子どもと書くわ」と素直に答えた。
「小さな夜の子どもか!それは良い!」
と、ガーゴイルは急に嬉しそうに声を上げ、一気に空の真上を目指し始めた。余りにも疾く駆けるので目をしょぼつかせるしかない小夜子は、それでもガーゴイルが自分の名前を気に入ってくれたことがとても嬉しく、小夜子は小夜子と云う名前が大好きになった。
酸素が薄い。
まるで食道や肺が小夜子に息をさせぬよう萎んでしまったかのように、口からも鼻からも酸素が入って来ない。高い山の上では酸素が薄くなると何かの本で読んだ小夜子は、いま自分が相当な高さを飛んでいることを自覚してガーゴイルの腕から身を乗り出すように地上を見下ろした。
小さな口がひゅっとした声を上げ僅かばかりの酸素を取り込む。地上の光はすっかりと遠いものへと光度を下げて、それは都会に僅かに散らばる星のようでまるで天と地がひっくり返ってしまったような感覚を小夜子に授けた。途端に、この高度には季節も天候も時刻もその何もかもが関係がないのだぞ、と云うような白々しい寒さを知覚して、小夜子はぶるりと身を震わせた。カチカチと歯が自然と鳴って、小夜子はこのままここで凍ってしまうのかも知れないけれど、凍って死んでしまったならば、凍った小夜子をかき氷にでもして食べてねと云うべきだったと後悔し、でも彼の人の故郷を救う前に死んではならぬと己を叱咤して、ぶるぶると震える腕にぎゅうと力を込めた。
そんな小夜子を気遣ってか、「すまない、随分と冷えるだろう」と声が落ちて来て「もうすぐあそこに入る、そうすれば幾分かは楽になるさ」と鼻先で先を示し、小夜子を労るよう勇気づけるようにより一層ぎゅうと小夜子を抱く力に柔らかな深みを込めた。
小夜子は未だ震えていたけれど、その優しさを湛えた腕へ「ありがとう」と返すよう握り返して、冷たく顔をぴしゃぴしゃと舐めてくる風に逆らうように上を向き、開いた瞼を険しくさせて、その端から流れる涙も厭わずにガーゴイルの云う「あそこ」に向けて目を凝らす。十四番目の月はだいぶんその大きさを際立たせ、小夜子はこんなに大きく力強い光を照らし出そうモノが自分の暮らす地の星よりも余程小さいなんてと信じられない気持ちになった。小夜子は浅い息を精一杯溜めて「月に向かうの?」とガーゴイルに問うた。ガーゴイルはハハハと一息笑い「ちがう、その手前だ。黒いモノが見えるだろう?」と逆に小夜子に問いかけ返した。黒いモノ。月の光があまりに濃くて、そちらにばかり目を奪われていた小夜子はその黒いモノにやっと意識が向いた。最初の感想はいかにも小夜子らしく「バックベアードみたい」で、西洋妖怪のボスなどと云われアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』にも登場するバックベアードは、真っ黒な丸い身体に枝のような触覚のようなものを生やし、その中央に「目が合うと最悪死んでしまう」と云われる大きく禍々しい瞳を据えて、鬼太郎たちを幾度となくピンチへと向かわせる。そんなバックベアードが後ろを向いたらこんな感じなのだろうなと思わせる黒々とした「あそこ」に小夜子たちは入ると云うのだ。小夜子は俄然ワクワクとして、そこはどんな場所なのか、入ると一体どうなってしまうのかと矢継ぎ早に質問を返したかったけれど、今や浅く呼吸をするのも精一杯で、小さな小夜子の好奇心の芽を酸素はいとも容易く摘んでしまうのであった。
「今だ!入るぞ!」
と一声掛けて、ガーゴイルはやにわにその羽ばたきを強めた。宇宙がグンと間近に迫って、その衝撃で後頭部をガーゴイルのお腹の辺りにコツンとぶつけた小夜子だけれど、一瞬何とか開けた小夜子の瞳と目が合うように、大きく見開かれたソレの大きな瞳に吸い込まれて、世界は一瞬で真っ暗になった。
いま、のは、本物の、バックベアードだった…しかも小夜子はその西洋妖怪の瞳の中に這入ってしまったのだ!こんなこと、鬼太郎だってしてやしない!
バックベアードの中は確かに寒くなかった。と云うか、小夜子に気温と云うものを感じさせず、しかし肌に触れる圧力はマシュマロのようにふにゃふにゃと小夜子の身体に纏わりついて、小夜子を妙な気分にさせるのであった。小夜子の家には『水木しげるのおもしろ妖怪大図解』と云う本があって水木先生の手によって随分と細かく妖怪たちの中身が描かれていたけれど、バックベアードには内臓みたいな器官はないのかしら。そう考えて「ねえ、ガーゴイル…」と言葉を紡ごうとした先に「おい!悪戯が過ぎるぞ!」と云うガーゴイルの怒気の大きく膨らんだ声が乗って、小夜子は開いた口もそのままに呆気に取られてしまった。
ハハハハハ。
とこもったような笑い声が四方八方に谺する。
「なあに、『救う者』の形がちょいと知りたかっただけだ」とこもった声は続けてそう云って、尚も息を荒くするガーゴイルを宥めるかのように「邪魔者はここで消えよう、繋ぎも取れたはずだしな」と小夜子にはよく意味の分からない言葉を発し、そしてその瞬間にマシュマロのような纏い付きも姿を消した。ふっとした感覚があり、辺りは尚も暗かったし外気も感じさせなかったけれど、ガーゴイルの表情は未定められるほどには視界が開けた。
「すまない、不快な思いをさせた」とガーゴイルは前を見据えたままそう謝って、小夜子の方に本当にすまなそうに視軸を向けた。そんな表情は初めてで、確かに小夜子はちょっとイヤな気持ちになったけれど、ガーゴイルの細やかな気遣いとこのような表情を見られたことがこれまた嬉しく、「大丈夫だよ」とガーゴイルの目を見つめて微笑んだ。
「ここは一体どう云う場所なの?」
訳も分からぬまま(まさかの)バックベアードの体内に吸い込まれ、吸い込まれたと思ったらまたどうやらちがう空間へと置き去りにされ、小さな小夜子の頭の中は疑問符でいっぱいになったけれど、あまりに質問攻めにするのもどうかと思い、ひとつひとつ丁寧に言の葉を放とうと「さっきまではバックベアードの体内にいたはずなのに」と続けた。
「バックベアード?」
ガーゴイルが訝しげに訊き返す。
「そう、あの、さっきまでいた黒くて大きな丸いモノはバックベアードと云う名前でしょう?」
ガーゴイルはしばし考えるような素振りをしたあと、
「知らんな、なんせオレたちに名前はないからな。だが小夜子がそう云うのならば、奴は『バックベアード』なんだろうさ」とさも面白くもなさそうに呟いた。ガーゴイルが急に不機嫌になったので小夜子はこれまたびっくりとして、すわ、自分が何か失礼なことを口走ってしまったであろうかと考えたけれど、どうにもその気配が見当たらなくて、不安そうに静々とガーゴイルを見上げた。
ガーゴイルはガーゴイルで戸惑っていた。己の胸の内に湧くこの感情の正体が掴めずにいたからだ。小夜子が奴を「バックベアード」などと忌々しく呼んだ際に沸いたこの胸の内の熱を持たぬ熱は、ガーゴイルの身体を中心から焼いてピリピリとした心持ちにさせた。怒り?オレは怒っているのだろうか。怒っていると云うのなら何に怒るか考えて、世界中のあらゆるモノに怒っているような気分になったガーゴイルは、滅多に揺らす事のない、鱗にまみれ銀色の立髪を添えたその尻尾をぐわんと大きく弛ませた。
音のない世界に音のない沈黙が訪れて、小夜子は大いに不安となった。ガーゴイルの尻尾の動きは明らかに怒気を含んでいたし、そしてそれは小夜子にも小夜子を取り巻くその全てにも向けらているようで、小さな小夜子の償いでは落とし切れぬ染みをガーゴイルに与えてしまったらしく、でもその正体が分からなくて、分かりもしていないのに謝罪の言葉を唱えるのは甚だ失礼なような気もし、小夜子の小さな口を糸で縫い合わせたかのようにぎゅっとつぐませるのであった。
「すまない」
と、天から救いの言葉が降って来て、やおら小夜子は振り返り、空を見上げた。ガーゴイルの視軸は真っ直ぐに前を向いていたけれど、言葉は間違いなく小夜子に向けられていて、小夜子はほうと一息吐いた。ガーゴイルの中で始まりガーゴイルの中で決着が付いたのであろうソレはどうやら小夜子を赦し、尚も謝罪までしてくれるモノへと変化を遂げたらしい。きっと無知なる小夜子のうっかりで怒らせてしまったであろう彼の人の、心の広さに小夜子は敬服する心持ちでいっぱいであった。これがウルトラマンであったなら、小夜子なんて三分も持たずにデュワッとやられていたに違いないのだから。
そんなこんなで時が満たされている間にもガーゴイルの翼は粛々と躍動を続けており、小夜子を微かな暗闇から仄かな暗がりへと誘うのであった。
少しずつ物の形が視えて来る。
どうやらこの辺りはゴツゴツとした岩場のようで、幽けき蛍のような灯りが時折明滅しては小夜子に視界を開かせるけれど、それらの力はあまりにも弱々しく、小夜子を少しく果敢ない気持ちにさせるのであった。ああ、もし小夜子に夜空を駆けるフクロウのような鋭い眼光があったのならそこに彼を見出だしたであろう。もう残り少ない力をなんとか振り絞り、我が身ここにありと存在を謳う『セント・エルモの火』が。
「岩が多いのね」
なんだかなんでだかなんとなく居心地の悪いような雰囲気に包まれたまま、小夜子とガーゴイルは飛び続けていた。紡ぐ言葉もなんとなく短くなる。気恥ずかしさが口をもごもごとさせなんとも気まずい気分とさせる。依然、前方を見据えた彼の人は一度は小夜子を敬服する気持ちにさせたけれど、そのあとすぐに「小夜子が奴に名前を与えたのが癪に触った」と宣ったのだ。小夜子はびっくりとして己の耳を疑った。驚いてもう一度問い返したほどだ。なんせ小夜子はその心の具合を知っている、何度もあの茨の蔦に感じた、あの感覚。
それは『嫉妬』と云う感情で、きっとこの世で一番厄介な代物であった。
ガーゴイルが小夜子に嫉妬の感情を抱いている。それは−−–小夜子の勘違いでなければガーゴイルが多少なりとも小夜子に好意を抱いていると思わざるを得ないもので、小夜子を大いに動揺させた。その揺れる心の動きに合わせるように脈動が惜しみなくどくどくと小夜子の身体を震わせて、そのどくどくとした胸の高鳴りは小夜子のまだ幼く薄い胴の辺りからガーゴイルの堅固な腕へと伝わり、やがて互いが互いの脈動を追いかけ追い越すかのように重なり、それは互いの胸の内に全くもって同じ旋律を譜面に書き記した、小さな恋のメロディを奏でさせている。それでも尚、互いが互いに「恋」をしていることに気付いていない小夜子とガーゴイルは、妙な気まずさを纏った気配に混乱しながら短く言葉を交わし合うことに必死なのであった。
「ここいら辺りは全て岩さ」
ガーゴイルはそう呟いてばさりと翼を震わせた。そう、全てが岩だ、岩と石。この世界にあるものはみんなそうなってしまった。ここいら辺りなんてのは嘘っぱちでこれから先もずっとずっと小夜子をげんなりとさせるくらいに岩と石くれだらけだけれど、その幼さを備えた可愛らしいであろう妄想を蹴散らしたくないガーゴイルは、敢えて「ここいら辺り」と嘘を吐いた。否、嘘ではない。真実でもある。岩でも石くれでもないモノたちが、蔓延り奪い消し去らんとする場所が。小夜子の救うべき場所が。そこに辿り着いた時、小夜子は救ってくれるだろうか。そうして己も救えるだろうか。自分の本来の居場所を。見失っている互いと互いを救うことが出来るであろうか。
いきなり視界がパッと開けて、小夜子の暗闇に慣れ親しんだ目に鋭い痛みをほとばしらせた。それはまだまだ暗がりと呼んでいいモノだったけれど、小夜子の瞳を眩ませるには充分過ぎるモノであった。小夜子はしばし目を瞬かせて、ようやっとその薄暗がりに目が慣れた頃、そこは見たことのある景色を彷彿とさせる静けさに包まれていた。恐山、賽の河原と云われるそこは確か『日本の幽霊現象怪奇現象百選』とかなんとか名付けられた文庫本の恐怖シリーズモノの一冊に、冒頭のカラー写真に選ばれた場所のひとつで、小夜子はもちろん訪れたことはなかったけれど、イタコと呼ばれる死者と生者を繋ぐ人々が生者の気持ちを慮ってかもしくは本当にその身体に求めるモノを降ろすのか(小夜子は降ろしていて欲しいと切に願っていたけれど)幾ばくかの金銭を持って生者の思いを助ける場所で、小夜子にはなぜそのような場所が『恐山』などと恐ろしげな名で呼ばわれているのか分からなかった。
小夜子の辿り着いたそこは洞窟の中にふいと現れた湖の湖畔のようで(事実小夜子の住む世界の恐山にも宇曽利山湖と云う湖がある)小夜子はガーゴイルに下に降りて歩いてみたいとお願いをしてみた。実際小夜子のこの地に対する好奇心は溢れ出んばかりだったし、それにあまりに長いことこうして後ろから抱えられていると小夜子の内から溢れ出ん熱で身体中が汗みずくとなり、小夜子は本当に干上がってしまうかも知れなかったし、そんな汗だらけの自分をガーゴイルに見せるのも恥ずかしかったのだ。しかし実際には、小夜子は汗の一雫すらかいてはいなかったのだが。
ガーゴイルは一瞬戸惑ったような表情を見せたのち、小夜子のお願いを快く受け入れてくれた。「足元には充分に気を付けろよ」と優しげな一言すら添えて。事実小夜子は裸足であったし、下着にリネン製の上下のパジャマ姿のみと云う無防備な出立ちであったから、その防御力を数値で例えれば100を上限として3程度であったし、それはガーゴイルの堅牢な鱗一枚にだって叶いやしないものであった。
ガーゴイルはしなやかに翼を羽ばたかせ、触れればほろほろと崩れ落ちてしまう宝石のように、そうっと小夜子の小さな足を彼の地へと誘った。もちろん、小夜子の頼りなげな足元を傷付けぬよう、石くれの一つすらもその指に触れぬよう細心の注意を払って。
そうして小夜子はその足の裏を久方ぶりに地面と名の付くものへとゆっくりと着陸させたけれど、宙を舞っていた時間が小夜子から地上に立つと云う当たり前の動作を奪ってしまったが如くふらりと傾き、慌てて差し出されたガーゴイルの腕にしかとしがみ付いた。足裏の感覚がない。まるで足のない幽霊にでもなってしまったようだ。
今の小夜子が柳の下から「恨めしやあ」と姿を表したなら、いじめっ子の一人や二人撃退出来るかしら。そんなことを考えてくすりと笑い、しばらくガーゴイルの堅固な腕に身を預けていた。
「足の裏の感覚がないわ」
「もうしばらくこうしていればじきに戻るさ」
ガーゴイルがそう答えてくれたので、小夜子は大義名分を得た気分となって、甘えるようにその身をますますガーゴイルへと傾けた。この鉛のような硬さが好きだ。ゴツゴツとし小夜子を馴染ませることはないけれど、熱を帯びれば小夜子の身体に沿ってくれそうな鱗片。決して小夜子を跳ね除けることなどしないと云う確かなる安堵の感触。小夜子の欲しかったもの。小夜子の全てを受け入れてくれるモノ。
そうしてる内に望んでもいないのに足の裏の感覚は小夜子とガーゴイルの隙間に入り込み、小夜子を至極残念な気持ちにさせた。なんだったらこのまま周りの石たちと同じように、二人して石となってしまっても良かったのに。それは、小夜子の「ずっと一緒にいられたならば」と云う願いと相反するように、心の奥底で眠らせ気付かないようにしている「ずっと一緒にいられるわけがない」と云う確かなる現実の発露でもあった。小夜子はその発露の予感をはっきりと感じて頭を思い切りブンブンと振り、「もう、大丈夫」とガーゴイルへと告げた。小夜子の消し去りたい小さな予感が本当だとするならば、より一層立ち止まっていてはいけない。私は彼を、彼の地を救うと約束したのだから。その先にどんな未来が待ち受けていようとも小夜子は抗うことなく受け入れてみせる。ガーゴイルが小夜子にそうしてくれたように。小夜子も全身で受け止めてみせる。
地面はまるで磨き上げた黒曜石のようにつるつるとして、しかし小夜子の辿々しい歩きぶりを嘲笑うでもなく受け止め、小夜子の足の裏を随分とご機嫌にさせた。こんなに裸足の足を気持ちよく思うことなどそうはない。小夜子は俄然強気になって、跳んだり跳ねたりと踊るようにその感触を楽しみだした。先ほどまでの辿々しさが嘘のように歌い踊る小夜子は、ヒラヒラとパジャマの裾をはためかせ、指の先をツンと羽を思わせる形に変化させ、艶々とした髪の毛一本一本までにサラリとした躍動を与えて、ガーゴイルをなんとも云えない気持ちにさせるのであった。これが世に云う妖精と云うモノなのか。ガーゴイルの見知っている妖精(のようなモノ)は随分と醜い容貌をしていたが、もし小夜子が本物の妖精ならば、妖精学者もうっとりとその頬を緩ませるに違いない。
小夜子が足の裏の喜びに悦となり、思うがままに躍動を続けているうちに、随分と時は流れて(実際はものの数分であったろうけれど)小夜子は湖のような場所の岸辺近くに辿り着いていた。通って来た道を振り返ると、小夜子のいる場所より幾分かの暗がりにガーゴイルはその羽を休め佇んでいて、小夜子をちょっとだけ不安にさせた。着いて来てくれているものだとばかり思っていたのだ。ガーゴイルが傍にいない寂しさよりガーゴイルを置いて来てしまった悲しみの方が強くて、泣き虫な小夜子はまた泣いてしまうかと思ったけれど、なぜか涙は出なかった。
どうしたものかと途方に暮れた小夜子は何となく彼の人に向け胸元で小さく手を振ってみた。それを見たガーゴイルが嬉しそうに羽を震わせたので、小夜子は途端に元気になって、今度は両手を頭上に掲げ、大きく手を振り返した。ついでにぴょんぴょんと跳ねても見せたので、跳ねた足がちょうど小夜子の後ろにあった岸辺のゆったりとした砂つぶのような流れに突っ込み、足を釣られてしまった小夜子は大きく尻もちをぴしゃりと云う音と共について、小夜子の動作に微笑んでいたガーゴイルを随分と慌てさせたのであった。
まさに光のような速さでばさりと飛んで来たガーゴイルは「大丈夫か?小夜子!」と狼狽した体でつんのめるかのように小夜子の面前で止まり、その勢いはまるで小夜子の髪の毛をぶわんと後ろへとたなびかルカの如くであった。そんな風に慌てるガーゴイルを眼前にするのは初めてで、小夜子は嬉しいやら楽しいやら申し訳ないやらと気持ちの整理に忙しく、でも自然とその顔には笑みが浮かぶのであった。
「ごめんなさい、ちょっと調子に乗っちゃった。でも大丈夫だよ」
そうガーゴイルを安心させるように言葉を紡ぎ、「ならば良かった」と安堵するガーゴイルを見て自らも安心し、先ほどから指先に感じるサラサラとした感触に意識が向いた。 小夜子は自分が湖の岸辺近くに立っていると思っていたものだから、転んだ拍子に水に浸かってしまったと感じていたけれど、指に触れるそれは砂を思わせる質感で、尻もちをついたお尻の辺りも濡れた感覚はなく、どうにも不思議に思えて突いている手元に目をやった。小夜子はこの広い洞窟のような場所で湖の辺りだけ仄かに光を帯びているものだから、ここいらにだけ光が差し込んでいるのかと想像していたのだけれど、そうではなかった。手元の砂をひと掬い掴んで目の前に引き寄せる。小さな手のひらに置かれた無数のそれはキラキラと明滅し、先ほど目にしたヒカリゴケのようなものの明滅を思い出させたが、いま目の前にあるそれは小夜子の手のひらに巻かれた真っ白な包帯の上に乗せられて尚青白い光を放ち、小夜子の瞳を爛々と輝かせた。
「これ…この粒、粒のひとつひとつが水晶だわ!」
そう、湖の水だと思っていたものは自ずから僅かばかりの光を発露させる小さな水晶の大群で、小夜子はその小さな手のひらに乗った儚げな砂つぶを繁々と見つめた。どんなに美しかろう鉱石も、光を浴び、その内で光を乱反射させなければその美しさの真価は問われない。でもこの水晶のような礫のひとつひとつは己の内側からその存在を心細げに訴えるかのようで、小夜子はその訴えに耳を傾けたけれど、どうしても聴き取ることが出来ず、申し訳ないような悲しいような気分になった。さらさら。さらさら。下に置けば手のひらで幾らでも掬えるそれを優しく撫ぜながら「この砂は誰かで在ったものなのね」とぽつりと呟いた。
青白い光の中で、白い肌を尚青白く染めながら砂と戯れている小夜子をただただ見つめていたガーゴイルは、小夜子から目を背けぬまま「ああ」と短く答えた。小夜子だったらきっと名を識っているであろうそれは、ここでは海の主だと自らを宣っていた。海の主らしく大きな身体を海の中から出たように彼の地の水(らしきもの)から浮き出た彼女は「私は海の女王なの」といつも誇らしげであった。そう、あの日、あの時までは。
忘却の彼の地
そこは名も無き世界であった。
名も無き場所に名も無きモノが戯れる名も無きところ。
それらはただ単にそこにいるだけで各々が満たされていたし、時に賑々しくもあれば静謐さで侵されることもあり、言の葉を紡いでいたかと思えばフッと消え、またフッと元いた場所へと還って来たり、ついといなくなったかと思えば多少姿形を変えてふらりと戻って来たりとする、忙しいと云えば忙しくもあり、暇があると云えばあるようなどうにも自由な場所でも在った。夜になると湧き出でるモノ、昼にしかいられないモノ、草木の中にしか身を置けぬモノ、水の中でしか息の出来ぬモノ、それぞれがそれぞれにそうした特徴を備えて居り、大抵は自分の居心地の良い場所を離れることはなかったけれど、それでも上手くやっていた。幸いであると云えば幸いで在った。己を「不幸だ!」などと嘆くモノがいなかっただけでもあったのだが、こうしたモノたちは基本陽気な気質を持ち合わせ、己に不遇など持ち合わせていないのだから、こうしていられるだけで幸いであったし、呼ばわれ此処から消える際もそれはそれで楽しくもあった。
そう、魔の物、物の怪、あやかし、妖怪、化け物、怪物、モンスター、幽霊、エトセトラ−−−幾らでも総称を持つそれらは、人の住む世界で名を呼ばれたり、その脳内に思い描かれるとふいと湧き出て、彼らの望む(否、大抵は望まれぬ事の方が多かったけれど)それなりの事をしでかしたりしでかした素振りをしたりして、用も無くなればこの世界に還って来る、そう云う存在であった。彼らは人の世で、モノによっては個で在りながらもたくさんの名を持っていたけれど、それ故にこの世界では名を持たぬモノとして生きていた。己がなんと呼ばわれているかなんてついぞ知らぬし、知らない方が気楽でもあり、互いに呼び合うこともないこの地では、名など無くて良いのだ。むしろ「名前」と云う概念を持たぬモノの方が多かったかも知れない。「自分がナニか」とすら考えぬモノの方が大半で、でもそれはそれで良かったのだ。静寂さとかしましさで培われた喧騒無きその場所は、人の世の求める『平穏』そのものでも在ったのかも知れない。
いつ頃からだったであろうか。
人々がそれらの名を口に出さなくなったのは。
暇が増えて、滅多に姿を消さなくなったモノは忘却と云う魔術に侵されて少しずつその姿を石くれへと変えていた。人に呼ばわれれば消えることが出来るのに、呼ばれなくなると塵芥が如く扱われる、それならばいっそ全ての世界からその存在を消してくれれば良いのに。しかしそれでもまだ石くれから元に戻るモノもいたのだ。人々の『思い出す』と云う行為や『思い出』と云う思念は石の塊を元の姿であったり多少見場が変わっていたりするモノへと置き換えたりして、この世界へと蘇らせた。だからと云って喜ぶモノもいなかったけれど。そう、何某かが石くれに変わり果てたとしても悲しむモノもいなかった。個々に対する興味がないのだ。此処はそう云う場所だった。それでもやはり、石くれへと変わり行く恐怖のようなものはその数が増えるにつけ、この場所にも増えて来た。恐怖と云う感情を、人に与えはするものの己で感じたことのない彼らは当惑するばかりであった。
そうして忘却と云う魔法が過ぎて、為す術もなく彼らは次から次へとその姿を石へと変えて行った。
『忘れる』と云う呪いはなんと強固で赦し難く、しかし時として救いとなることなのであろうか。
女王は海の女王としての尊厳を持って最後まで石くれになることに抗っていた。抗い、争い、抗い続けて、女王の強い思念と忘却の鋭い理念はぶつかり合い、己の身を粉々とした骸へと変えた。最後まで抗った彼女を称えるかのように、その残滓は水晶のようにきらきらと明滅し、その身を一面の湖のように横たえた。そうして今、彼女の一部はひとりの少女の手のひらの上で微かに震えている。否、小夜子が震えているのか。
己の長いようで短い思念から小夜子の手へと視軸と思考を取り戻したガーゴイルは「小夜子、何を震える事がある」と問うた。この場所に寒さなぞあるはずもない。もう何も残されていないのだから。この美しい貴婦人の骸以外には。
小夜子は小さく震える肩で「涙が出ないの」と呟いた。
呟き上げられた彼女の顔は濃い悲嘆の色で染められていて、確かに今にも大きな涙の粒が落ちて来ても不思議ではない様相を示していたけれど、その大きく悲しみに暮れながらも愛くるしさの抜けぬ瞳からはたった一滴の涙も零れず、小夜子はその悲しみの逃げ場所を失い途方に暮れていた。
小夜子は、
「この水晶の一粒一粒に悲しみが宿っているようで、私、今、泣きたいくらいに悲しいの。でも涙が少しも出やしなくて」
と、申し訳なさそうに眉を顰めた。
ガーゴイルは小夜子の心の繊細さと敏感さに改めて慄き、己の手を貴婦人の骸の上へと誘った。ただの石粒。ザラザラとした砂の集合体。手のひらはガーゴイルにそう告げるだけで小夜子の何千分の一でもその悲しみを掬い取ってはくれなかった。聡い子だ。そう思う。その聡さ故にこれから受けるであろう悲哀や絶望の色を少しでも薄めたくて「ふむ。オレには何も感じやしないが。しかし小夜子が石くれと話せたなんて驚きだな!」と大仰に揶揄うように驚いてみせた。それがガーゴイルの優しい気遣いだととうに気付いている小夜子は「お話しなんて出来やしないわ!」とわざと怒ったフリをして、でもその小夜子を元気付ける優しい揶揄いにきちんと答えてあげたくて、揶揄い返す言葉を発した。
「ねえ、ガーゴイル。私はあなたとよくお話しをするから、あなたのあだ名を考えてみたの。こんなのは、どう?」
意気消沈しているかのように見えた小夜子から思わぬ反撃を喰らったガーゴイルは、こんな風に呼ばわれているのかと他の誰かに知られたのなら小っ恥ずかしくて口から気炎ならぬ炎を吐けるやも知れぬなどと思い、しかしそんな誰かはいないのであったと我に返って、ガーゴイルと手(と云うか、ガーゴイルのそれは指であったけれど)を繋ぎ、そのあだ名とやらをやけに楽しそうに唇から紡ぎ出し続ける小夜子に恨むような視線を向けた。
「ガァちゃん♪」
「ガァちゃん♪」
と、謳うように名を呼ぶ小夜子は、最初は自分でもこれはどうかと思ったけれど、付けたあだ名を口に出すに付け嬉しくなって、今やガーゴイルが…いやさガァちゃんが古い古い昔からの幼馴染のように思え、だから人と人とはあだ名を付け合うのかと合点が入った。
そう云えば小夜子も幼稚園に通っていた頃は周りの園児から「サヨちゃん」や「サーちゃん」などと呼ばれていたっけ。小学生に上がってからは、とんと呼ばれなくなってしまったけれど。
そこで「小夜ちゃん」とイヤな声で名前を呼ばれたような気がして、小夜子はビクッと身体をすくませた。ああイヤだ、こんなところまで追って来なくても良いのに。
小夜子のビクリとした反応に釣られピクっと翼を震わせたガーゴイルは、小夜子が急に押し黙り周囲を伺うようにしたので、恨む気持ちも何処とやら「どうした小夜子」と己も横目で周囲を気遣いつつ問いかけた。何もいるわけがないのだけれど、仮令石くれであっても小夜子を脅かすものがあるのならば放っては置けない。顔を上げた小夜子の頬辺りは微かに青白く、瞳には怯えと戸惑いの色が混じっているように見えて、ガーゴイルは重ねるように「どうした?小夜子」と優しく問いかけ直した。
「…何か声のようなものが聞こえた気がして」
そう云う小夜子の手はより一層強くガーゴイルの指を握り締め、ガーゴイルは己の鋭い爪が小夜子の柔らかな指先やその小さな手に巻かれた包帯を傷付け破りはしないかと細心の注意を払いつつ、「ここいら辺りに声を出せるようなモノはもういないはずだが」と小夜子を安心させるよう宣った。そう、この辺りもその先も、もう此処には何もいないのだから。ガーゴイルは思い出したかのように「そうだ、小夜子。良いものをやろう」と己の堅固な鱗を一枚、小夜子と繋ぐ方の手の前腕辺りから引き抜いた。ブチっと云うような音がして小夜子は随分とびっくりしたけれど、ガーゴイルが摘んだ鱗を指先でくるりと一回転させるように回しギュッと一握りしたのちに、小夜子に開いている方の手を出すよう宣い、それに素直に従った小夜子はガーゴイルに向けて手を広げ、ガーゴイルはそのモンシロチョウのような手のひらにそっと鱗を摘み置いた。
小夜子はガーゴイルの一連の動作を不思議そうな面持ちで(鱗を引き抜いた際は痛そうな顔をして)見ていたけれど、手のひらに置かれたものを見て更にびっくりした。そこに在ったのはガーゴイルの鱗と同じ鈍色をした、でも不思議な形に姿を変えたバッジで、その右側の中央には顔面の周囲をたくさんの花や葉などで囲まれた男とも女ともつかない顔をした人物が据え刻まれ、その左横には小夜子の目にしたことのない文字のようなもので何やら言葉のようなものが三行ほど刻まれている。
「これは…?」
そのバッジに心を奪われ、ガーゴイルの魔法のような手捌きに放心した小夜子は漸っと言葉を紡いだ。
「小夜子にとってのお守りのようなものだ。身に付けておくと良い」
小夜子は尚もバッジに目を置き、アルファベットとも似つかないその文字をガーゴイルに「読める?」と訊ねてみたが、「わからん」と云う無下な一言が返って来たのみで、製作者が分からないなら一生知りようもない!と小夜子の余りある好奇心は悲嘆に暮れたけれど、お礼の言葉がまだだと云うことにハッと気付き、慌てて「ありがとう!」とガーゴイルの顔をしっかりと見据え伝えた。ガーゴイルは照れたように小夜子を一瞥し「止め置く針で手を刺さぬようにな」と一言添えた。小夜子は俄然ウキウキとした手付きでバッジを左胸の辺りにしっかりと止め付け、ああ、この場所に鏡がないのが残念だ、と切なく思った。このバッジを身に付けた自分はきっと誰よりも勇ましく勇敢にその姿を鏡に映したに相違ないであろうに。
そんな一方でガーゴイルは途方に暮れていた。この場所に小夜子を連れて来れば自然とそれらは始まると思ったのだ。しかし依然として状況は変わらず、ガーゴイルと小夜子を声を決して撥ね返すことのない薄暗がりの洞窟の、石くれだらけの奥へ奥へと誘うのであった。
小夜子は小夜子で過ぎ行く石くれを省みてはガーゴイルに何か云いたげな視線を送るけれど、言葉は小夜子の綺麗に整えられた歯の裏側にしがみ付いて離れず、小夜子をやきもきとした気分にさせた。石くれたちはその大部分をほろほろと崩れさせていたり、すでに石礫となってしまったものが多かったけれど、中にはまだ多少形を保ったモノもいて、そして小夜子はそれらを見識っていたのだ。小夜子の知る形とは少しく違っていたりもしたけれど、それは確かに小夜子の識るソレらで、小夜子はその名を呼びたかったけれど、またガーゴイルの機嫌を損ねるようなことになるのは御免だし、それが救いの形にならなかったらと思うともどかしくも恐ろしくもあり、(どうしたらいいの?)とガーゴイルに視線を送ることしか出来なかった。
三年前
あの日あの時、ガーゴイルが呪いの込められた玉を半ば強引に受け取らされた瞬間に、いつものように名を呼ばれたのか、気が付けばガーゴイルは一軒の洋館の庭先の虜となっていた。何故ガーゴイルが玉を受け取る先として選ばれたのかも、この玉を守るべきなのか壊すべきなのかも聴かされず、人の世界で石像のままでいざるを得なくなったガーゴイルは、この世界では簡単に朽ちることも許されず、しかし他の地で名を呼ばわれても石像の身体はなぜかガーゴイルに行き先を与えさせずにいた。
玉を守るか破るか、それはある意味簡単な選択肢であった。
玉を守れば人の世からあやかしらは消え、彼《か》の地でも其々が石礫へと姿を変える。
玉を破ればそこから数多の名前が彼の地へと降り注ぎ、石くれたちを元の姿へと蘇らせる。
どちらが良いのかガーゴイルには分からなかった。いくら蘇ろうとも、人の子らは時代が進むめば進むほど己らを必要としなくなる。ならいっそ潔く消えてしまうべきなのではないか。消える恐怖に慄くこともなくあのままただの石くれから礫へと姿を変えて、いつの間にか色褪せぬ草も枯れぬ木も、感触無き水も場所をなくし、堅牢な石の洞へと姿を変えたあの場所に、ただただ横たわり続ける。それも平穏の一つなのではないかとガーゴイルは思い、それならばと己の身も為すがままにと、ただの庭先の石像でいることへと身を据えた。
雨が降りしきっては風が吹き、嵐が過ぎては雪が舞い、花びらが散り葉が青々と茂る頃、それは密かにガーゴイルの身体を蝕み出した。世界中の憎しみをその棘の先に一身に集積させたように鋭く尖るそれは、ズルズルと地を這い、ぬらぬらとした緑をガーゴイルの煤けた乳色の肌へと尖らせた。それはもしかするとガーゴイルがこの庭先に身を置いてから既に芽吹き出していたのかも知れない。ガーゴイルを他の地へと赴かせないように。
茨の蔦はガーゴイルの石造りの身体へ棘をみしみしと這わせ刺さりながら締め上げては登り続け、しかし一方では未だ届かぬ玉を愛し子を守るかのように包み込もうと必死なようで、その思惑をガーゴイルへとはっきり見せつけた。玉を壊したくないのだ。彼の地を失くしてしまいたいのか、ただただあやかしたちの身が憎いのか、その思いは分かりはしなかったけれど、明確な己らに対する破滅破壊と云う意志は伺えた。このまま玉をその忌々しげな茨の棘で守りながらもガーゴイルを破壊したいのだ。
壊したいなら壊すがいい。
ガーゴイルは捨て鉢な気分でいた。空は朝から重たげな雲に覆われてどんよりと世界を灰色に染め、植物たちの光合成を求める苛立ちが庭中に溢れているようでその焦燥感にうんざりとしていたし、同じくして苛ついている茨の蔦どもの、八つ当たりのように我が身を軋めかせる力に抗う術もないし、己の抱える玉を破る力もない。後は野となれ山となれ、とらしくもない気分でもう幾度となく見飽いたガーゴイルの中の小さな世界を鈍い瞳で見据えた際に、門扉の外を歩く乳飲み子らしきものを胸に抱いた人間と、それに引かれる小さな子どもに目が行った。
手を引かれる幼な子はそのあどけなさを眉の辺りにひそませて、引く母であろうその人の手から抗うように立ち止まり、こちらを見つめる瞳にはその幼さに似つかわしくない爛々とした輝きを灯しており、しばし互いは見詰めあった。ように思えた。幼い瞳は尚もその光を強くし、ガーゴイルはその輝きに茨の群れが苛立っていることをも感じ取っていた。
「行くわよ、サヨ」と云う声がして、小さな手を苛立たしげに強く引っ張られ、名残惜しげに立ち去るその幼な子が発したぽつりと云うひと言が、ガーゴイルの前に懐かしくも厳しい姿を発露させた。「バイバイ、ドラゴン」。そのひと言で空の王者がこの地に舞い降りたのだ。
「久方ぶりの邂逅であるな」
「まさか主と間違われ、顕現するとは思わなんだが」
と、宣うそのモノは、ばさりばさりと此処に有るもの全てを吹き飛ばし、塵芥へと化してしまいそうな、しかし白妙が如く繊細で大きな翼をはためかせ、陽の光を浴びずとも白銀に輝く鱗の一片一片までもを煌めかせながら、長い首をしなやかに弛ませる。翡翠石を思わせる色をした鋭い眼差しからは何故か慈愛の表情が見て取れて、その鋭い爪先の一本一本までもが何者をも傷つけぬ聖者のように見目好く安らかに映る。
オレの知る彼とはまた随分と違った姿で現れたものだ−−−とガーゴイルは彼を顕現させた幼き者の想像力に感服した。
「この度は些かに端整が過ぎるようではあるが」
と、己の全身を長い首を使い見遣ったドラゴンは暫し嘆息し、
「しかし、今この時この場に呼んで呉れた事には感謝せねばならぬな」
と、小夜子の歩み去った方向を見遣り宣った。
「あのモノは与えられし者なのやも知れぬな」
「そうだとしたら、神も過酷な贈り物を施したものよ」
ガーゴイルはドラゴンの呟きにも耳を傾けず、らしくもなくその横顔に見蕩れ、しばし言の葉を発すると云う動作を忘れていたけれど、そんな事にはひとつまみの興味もなさげな『ドラゴン』と呼ばわれ顕れたモノの視線はいつの間にやらガーゴイルを縛る茨の蔦の上へと落ちており、「なるほどな」とひとり合点がいったように真珠色の長いまつ毛を震わせて呟き、またひとつ息を吐いた。
「ここが始まりなのかは解らぬが−−−」
「−−−どうやら鍵である事には間違いはなさそうだ」
と、含みを持たせながらガーゴイルには分かったような解らぬような言葉を吐き、しかし彼の口ぶりからは彼の地で何かまた別の災いが起きていることが垣間見え、ガーゴイルは「一体何が起きている」と短く問うた。
一体いつほどの事であっただろうか。『ソレ』が始まりの音をみしりと立てて告げたのは。
誰も気付かなかったのか、もしくはもう気付くモノなどとうにいなくなっていたのか、それすらも分からないほどにひっそりとソレらは彼の地に根付き始めていた。
最初は一片のか弱き種子、その一欠片であったのであろうソレは、肥沃な土地では爪弾きにされ、不毛な土地でもその争いに巻き込まれ犯されて、行き場を失ったのであろう。
弱きもの、環境に適さないもの、または侵略されしものたちは、いつの世だって流れ流された末に縮こまり、その存在をみるみる内に矮小化させ、やがて滅び行く。そこはそう云う星であったし、その星の地で一つの種族により自然と呼ばわれる場所の中で、少しくも健やかに生きて行くと云う事は、多かれ少なかれ他の犠牲を持ってしか有り得ないものであったから、ソレらもまたその他の弱きもの、挫けきものどもと同じように消え去る定めであったのだ。しかし時として生きとし生けるものの「生きたい、子孫を残したい」と云う儚くも強い欲求はその身に綻びをも覗かせる。そこに魔の物がつけ込んだ。のだ。きっと。多分。あるいは。もしかして。
そうと云うのも彼らあやかしどもはもうきっと何千年もの長い間こうして彼の地に在ったけれど、こんな事態は初めてであったのだ。その身を石くれと化させ朽ち果てる、朽ち果てては新しきモノが湧いて出る。あるいは一度朽ち果てたモノが時代を超えて蘇る、そう云ったことは少なからずあったし、そう云うモノだとして過ごして来たけれど、時代が進むに連れ石くれから石礫へと姿を変えて、二度と戻らぬものが増え、そうして石と岩とに大半を変えたその場所は、静謐さを称えたまま朽ちぬモノたちに居場所を少しく分けて、そうしたモノたちは己もいつか石に変わるのであろうと多分に恐れ慄きながらに過ごしていた。
その場所を。
その場所を少しずつ今度は土くれへと姿を変えさせながら茨の群れが進行し始めたのだ。
大いなる悪意を持って。
ガーゴイルは彼の地にいる際もまだその事に気付かずにいた。否、先ほども記したように誰をもが気付いていなかったのだ。ソレほど密やかに悪意は音を立てずその地に根を張り、その棘を地に這わせ続けていた。それは長い年月を費やす作業で有り根気のいるものであったけれど、未知のウイルスという魔に侵され今や恐ろしい茨へと進化を遂げた、その元は小さく脆くか弱き種子で在ったであろうモノは、水を得た魚のようにその身には有り余る力を以ってして、今も尚進軍を続けていると云うのだ。
ガーゴイルは己がこのような身になってから幾月ほどの時が過ぎたかも知れぬし、元々彼の地に時の流れのようなモノはなかったとも思ったけれど、生命を持ったモノの力は時に時空をも曲げてしまうのか、あらゆる変化が起こっていると云う。奥へ行けば行くほどにその力は増しており、「まるでこの地のようになって来ている」とドラゴンは忌々しげに云った。そうしてそこは我らにとっては死をも意味するほどに居心地が悪い、とも。
そう、彼らは心象の権化のようなモノであったから、飲み食いもせずともいられたし、息をすることもなく、年を経ることもなく過ごしていられた。
そこには争いも憎しみも憂鬱も後悔も懺悔も何もなく、そしてため息を吐くことの無いように、大気もなかった。時の流れも枯れ行く花も、干からびる海も波打つ泡も、捻れた僻みも、澱んだ嫉みも、吹き荒ぶ風も揺れる穂もなく、それ故にただただ平穏であったのだ。その地が生命によって侵されている。ガーゴイルはなんとも口惜しい気分になった。その茨は寡聞にしても己を縛る茨と同じモノであったし、この今となっては忌々しいほどに憎らしい茨の蔦が彼の地までをも脅かしていると云うのだ。彼の地がいずれ滅びる定めにあるのならば、それならそうと滅び行くままにと思っていたガーゴイルではあったけれど、それはこのような悪意に脅かされ消え行くものではなかったはずだ。ただただ、静かに。その石くれを礫に変えても、海の女王の水晶の礫がやがて砂となったとしても、静かに在るべきものだったはずなのに。
「お主、その玉を誰から受け取った」
と、憤り悲嘆に暮れるガーゴイルを無視するようにドラゴンは問うた。
ガーゴイルは一瞬考え込むような間を作ったのち、
「名など知らぬが水辺の生き物だ。あの時は半身が魚のようであったか」
と答えた。確かそうであったはずだ。彼の地には似つかわしくない必死の表情をその美しい眉間の辺りに刻み込ませ、彼女は−−−
「それではやはりその玉はセドナが造りしモノであろう」と、ガーゴイルの思考を遮断するように空から言葉が降って来て、ガーゴイルは拾った言葉を短く発した。
「セドナ?」
「判らぬか、確か彼の地では自らを『海の女王』と宣っていたはずだが」
そう、云っていた。海水が如く泡立つものからその巨大な顔だか身体だかを覗かせて、『私は海の女王であり、人の子らの祖先の霊でもあるのよ』と、誇らしげに宣っていた。
ガーゴイルはそれの何が誇らしいのか、ただ自分が何者であるかを知っていることそのものが誇らしいのか見当が付かなかったけれど、彼女が『誇り高い』ことだけはよく知っていた。そうか、『セドナ』と云う名であったか。ガーゴイルが彼の地から消え去る直前に砕け散った女王が、最期の最後まで必死に抗っていた姿を思い出し、ドラゴンの云った『セドナが造りしモノ』へと視軸を向けた。ガーゴイルと同じ乳色をした玉はガーゴイルの手の内に丸々とした幼な子の頬を思わせる丸みを持って鎮座しており、未だ玉へとは伸びぬ茨の蔦は己の成長の遅さに苛立っているかのようで、ガーゴイルはもしこの蔦がこの玉を奪おうとせんとしているのならば、このままこの玉を両の手に携えたまま空を飛び茨の蔦に「ざまあみろ」と云う視線を投げかけられたのにと己の不遇の身を恨みつつ、この玉を渡された際に半身を魚と変えた彼女はなんと云ったのか、と先ほど止められた思考の続きを思い出し、
「セドナが造りしこの泡玉には忘れられし全てのモノの名が込められています」
「どうか、これを安全なるところに」
彼女がそう云い終えた瞬間にセドナの身体は砕け散り、それを見終えるか見終えぬかも分からぬうちにガーゴイルはこちらの世界へと呼ばわれたのだ。否、呼ばわれたわけではなかったのか。あの時の情景を今となってはすっかり思い出したガーゴイルは、泡玉と呼ばれたそれがカッと光りその光がガーゴイルの身体を包み込んだことを、自分が消えると同時に目の前にいた美しい半身と醜い半身を持つモノもすうと消えたことを、その瞳には悲哀の色が濃く映っていたことを、そうして自分は庭先の石像の内に閉じ込められたことをはっきりと自覚した。そうか、これは誰かの意志であったのか。その意志が呪いなのか祝いなのか今となってはすっかり分からなくなってしまったけれど。その祝いだか呪いだかなんだか分からぬもので皆んな消えてしまったのか。あの場から。心地良いあの場所から。そうして何処ぞかに閉じ込められているのだろうか。己と同じように茨の蔦に身を侵されて。ああ、なんと嘆かわしいことであろう。
しかしなぜドラゴンはこうして顕現出来たのだろうか。ドラゴンと云う輩は余りにもその歴史存在が強大過ぎて、忘れられることも忘れさせることも、蔦で縛ることも棘で止め置くことも出来ぬからであろうか−−−
「そうではない」
と、また上方から声が降って来て、ガーゴイルはこいつはオレの心の声が聞こえるのかと嫌な気持ちになったけれど、それすらも、
「嫌な気分にさせたなら申し訳ないが、今の主は思念のようなものだ。吾は思念を読めるから、今のお主の声は全てダダ漏れと云うわけだ」と、その身なりに似つかわしくなく茶化したような台詞を口に乗せ、流れるように言葉を続けた。
「名前を忘れられておらぬモノは皆以前のようにその場その場に出現している」
「還る場所を失っただけだ」
その言葉は大いにガーゴイルを困惑させた。
還る場所を失い、尚もこの世界に留まり続ける、それはそう云うことなのであろうか。
ではなぜ、ドラゴンは今も尚忌々しきモノどもが彼の地を進行し続けていると識っている?疑問だらけだ。
「吾も原理は分からぬ。だがそう云う風になってしまったとしか云いようがない」
と、一息に宣ったのち、
「吾を顕現させたるモノが去ったのちもこうして主の前に留まり続ける、このことが既に事の変異を現して居るであろう」と宣った。
確かにそうだ。以前、彼の地が彼の地として機能していた際は斯様にして留まり続けることなどそうはなかった。余程のあやかしモノ好きが延々と己らのことを語るような場でもなければ大抵は一寸二寸の隙間程度の事であった。湧く際も消える際も己の意思なぞ問われもせず、呼ばわれればそこに湧き、用がなくなれば戻るだけ、それだけの存在であったはずなのに。
「吾のようなモノは始終湧いているようなモノではあるからな」
そうであろうよ。と、ガーゴイルは心の中で答える。
ドラゴンと云えば今や、ゲームに漫画、ドラマに映画、小説、アニメ、諸々のグッズに入れ墨エトセトラと枚挙にいとまがない。今現在もこの星の数多の場所で湧き出でているに相違ない。と、そこまで考えて、ガーゴイルは己がこのような知識を何処で手に入れたのか知らんと妙な気分になった。この庭から逃れられぬ自分には、眼前に広がる今やその全てが忌々しく映る植物群しか見るモノはないはずなのに。
「それも変異のひとつなのであろうよ」
と、己の思念を汲み取ったドラゴンは宣う。ガーゴイルはそう云うモノなのかと何か釈然としない思いを抱えながらもその意見に同意せざるを得なかった。ドラゴンの方がよほど今の自分達の状況を理解しているのだから、そう云われてしまえばもうどうしようもない。例えば、知らず知らずの内に、ガーゴイルが道行く人々の思念を読み取れるようにでもなっていなければ。
「そう云うこともあるやも知れぬな」
と面白くもなげに呟いたドラゴンは、些か疲弊して来ているようにも見えた。タイムリミットのようなものでもあるのであろうか。それとも彼の地への茨の群れの進行が何某かの影響を我々に与えるのであろうか。
「どちらかと云えば後者であろうな」
もう会話にもならぬ禅問答を繰り広げているような心持ちになり、これならこれで楽で良いかと思い始めたガーゴイルは、敢えて口に出さず思ったことを思うがままに伝えることと決めた。どうせ思念は読まれてしまうのだから。ならばこのまま考え続ければいい。
きっと己の傍に、と云うかこの忌々しい茨の傍に顕現した影響も強いのだろう。
こうして己が身を蝕まれているのが苦痛ではないのが不思議なほどに、茨の棘や身を這う蔦は日ごと毒々しさを増しており、この洋館から住まう人間が立ち去ったのもこれらが蔓延り出してからだったように思う。その住人たちは慎ましやかで優しげな、でも時としては苛立たしげな声をその内から発し合ったりもするけれども、それでも善良な人々であったが、徐々に茨の毒気に当てられたように、その言動や行動、身なりに至るまでもが刺々しくなり、いつの日か雲散霧消するかのように家族としての絆は無くなり、この家からも散り散りとして去って行った。そうして今や近隣住人から「化物屋敷」なぞと呼ばわれ、肝試しや度胸試しなどをする輩にすら相手にされなくなったこの廃屋は、きっと得も云われぬ毒気のようなものを庭内から発しているのだ。大抵の人々はこの屋敷の前に来ると足早となり通り過ぎる。そう、この美しくも果敢ない様相を呈したドラゴンを顕現させた、あの幼き者を除いては。
四年前
その日小夜子は珍しく、父と新しい住処からすぐ傍にある海辺へと足を運んでいた。
引っ越したばかりの邸宅は、煤けた深い緑色をした三角屋根を頭上へと乗せ、三百坪ほどもある大きな庭の中央に畏まるように据え置かれて居り、その壁は、元は昨年父の所用ついでに旅をしたサイパンの地の海辺で拾った真っ白な珊瑚を思わせる色をしていたのだと、雨樋の極の辺りや風雨の当たらぬ土台と壁の隙間から発しており、しかし今やその面影もそうしたものの中にしか見て取れず、屋根と同じように煤けた乳白色を全面に際立たせていた。
その邸宅は元は何某と呼ばれる外国人の建築家が日本に来た折に住む仮住まいの宿として自らデザインし建てたもので、貸家ではあったけれど、小夜子はひと目でその邸宅の虜となった。もう何年も人が足を踏み入れていなかったであろう前庭には小さいながらも噴水が設えてあり、しかし裏庭を回れば痩せ枯れた農耕地と、戦前からあるようなもう既に使われなくなって久しい井戸なども封じられず留め置かれて居り、広い中庭には小さいながらも丘が据えてあって、小さな小夜子の胸をワクワクさせるには申し分のないものであった。庭には海辺の町らしく松の木が多かったけれど、イチジクやザクロと云った実の成る樹々やツツジの花、見渡す限りの芝生にはショウリョウバッタやカマキリ、ニホントカゲやカナヘビがわらわらと息付き、カナブンやコフキコガネは小夜子の一番の友達になってくれたし、門柱にアオダイショウが巻き付いては小夜子の胸をよりドキドキとさせた。
しかし腹に子を−−−小夜子の弟だか妹だかになる子どもを宿した母の身では、その時期の引っ越しなど余りにも無為無策無謀であり、自分の書斎を片付けることさえ儘ならぬ父と全く頼りにならぬ(むしろ足枷となるような)小夜子との三角関係で、朝起きてから夜寝るまでの間始終苛立っており、いると邪魔と云わんばかりに掃除機の柄で突っつかれ、ほうほうの体で逃げ込んだ父の書斎では、父が何某かの木の実とその実の付いている枝を指先で摘みくるくると回しながら途方に暮れているようであった。普段小夜子に大した気をかけぬ父も、母の不機嫌の的となっている小夜子を哀れに思ったのか、この惨事を引き起こしてしまったことへの謝罪か、それとも自らが逃げる口実であったのか、小夜子に「近所の浜辺へ行かないか」と珍しく声をかけたのであった。
台所でガチャガチャと盛大な音を立てさせながら、八つ当たりと云わんばかりに食器やらカトラリやらを片付けている母の背に一言二言言葉を投げ掛けた父は、小夜子に対してか己に対してかは分からないけれど、くるり振り返っては肩をすくめる仕草をし、小夜子をクスクスと笑わせるのであった。その雰囲気を悟ったのであろう母が台所の戸をバタン!と勢いよく閉めたのでびっくりした小夜子と父は今度は揃って肩をすくめる仕草をし、思わず互いにプッと吹き出した。父とのこんなやりとりは初めてで、浮足だった小夜子は早く父と二人で出掛けたくなり、父の袖の辺りを摘んで早く行こうと促した。すると父は捕まれた袖をついと振り払いさっきまで笑い合っていたのが嘘のような口ぶりで「行くぞ」と短く発し、ひとり玄関へと向かってしまった。
小夜子はそのまま手を取られると思っていたので拍子抜けをし、父の急な心の変化に動揺し、そして酷く落胆した。さっきまでのウキウキが重苦しげなドヨドヨとなって小夜子の足を重たくしたけれど、台所からはカップやお皿やスプーンたちの悲鳴が戸を隔てても尚聴こえて来るし、支度が遅くなっては置いて行きかねん父であったので、小夜子は鉛のようになってしまった足を引き摺ってポシェットを肩へと掛けズックを履き玄関を後にした。
父が海辺ではなく浜辺と云ったのは、ここいらの海の浜辺に咲く花や草の種類を確認するためで、父の後を離れぬよう半ば早足に歩いていた小夜子は、浜辺に着いた途端「遠くへ行くなよ」と捨て置かれしばし途方に暮れたけれど、しばらく海辺を行きつ戻りつし、それなりに宝物を拾い集め愛用のポシェットに詰め込んで行った。とは云ってもここいらの海はプラスチック片やペットボトルにその蓋、ビニル袋と言った人間産のゴミが多く、小夜子の求める宝物はなかなか出現してくれず小夜子は随分とがっかりしたし、海をよく見れば(これはここいらの海底が砂地だから波に巻き上げられた砂が海中に漂いそうなってしまうのだけれど)底が見えないほどに灰色に濁っていて、小夜子が少しく前に過ごしていた、もっと南の方の底の底まで見える透明な海とはまさに雲泥の差であり、またしても小夜子をがっかりとさせるのであった。
そうして海辺の探索にも飽いた小夜子は、父のいる辺りを確認し(父は朝顔のような形をした淡いピンク色の花の群生の、生えている砂地を何やら掘り返していた)ひとり砂浜に座って、父の部屋からせしめて来た大のお気に入りの本を、その若干大きめなポシェットから取り出した。小夜子は母の英才教育のおかげもあって三歳の頃からひらがなカタカナを熟知していたし、父の書架に鎮座している青年向けの漫画にも手を出していたから、意味の分からぬものの方が多かったけれど、それでも振り仮名さえ付いていれば大抵の本は読めた。
しかしこの本は出版社が子ども向けに出している入門百科シリーズで、活字よりも絵の方が多く、何より小夜子の胸をワクワクとさせる強者どもが勢揃いで、小夜子はもうそこに載せられている大体のモノは憶えてしまっていたけれど、それでも飽くことなくこの本の中を旅することが大好きであった。
その表紙には『小学館入門百科シリーズ★76 妖怪入門世界編』と記されており、小夜子はそう云えば海の妖怪が幾つか記載されていたことを思い出し、もう載っている順番をも憶えてしまっている体《てい》の小夜子は迷うことなくページを開き、この海へ対する鬱屈や父の心変わりや母の八つ当たりなど、その小さな身体には背負いきれない失望を振り切らんばかりに、開いたページに載るそのもののけの名を大きな声で発した。
「セドナー!」
その刹那、海にはごうっと風が吹いて波が立ち泡となり、小夜子は本当に海の女王がその顔を海面から覗かせたのかと思った。吹き荒ぶ風と波音は小夜子の声を父までには届かせなかったけれど、別に父に気にかけて欲しくて発したわけではないし、大声を出したからかなんだか心持ちスッキリとした気分となった小夜子は、次から次へと大きな声で海に関係あるなしに、妖怪たちの名を呼んで行った。
ブイイ、ピクラス、ケースマンテル、ルーガー、ルサルカ、金翅鳥、ツァジグララル、ペータラ、レプレコーン、ケルピイ、エルフ、アトバラナ、シンナテテオ、フォービ、ウストック、ゴーレム、パック、チョンチョニー、樹霊、夜叉マラ、歯痛殿下、カルマ、ウイプリ、半魚人、ラクシャーサ、ピクシー、ベヘモト、カボ・マンダラット−−−
謳うように小夜子は名を呼び、その度に遠く見える沖は応えるように波を泡立たせ、その掛け合いのようなやり取りは小さな小夜子をより悦とさせ、小夜子の声を上擦らせた。
そうして己の識っている全ての妖怪の名を呼び果て、大いに満足をした小夜子はほうっと一息ため息を吐き、何気なく向けた視線のすぐ先に少しく照りの入った太めのコーデュロイのズボンを履いた二本の足が立っていることにびくりとし、その過分に見覚えのある姿の父がいつの間にやら小夜子の妖怪の謳を聴いていたことに恥ずかしいような苛立ちのようなものを感じた。父は別に何を云うでもなく、ただ小夜子の手にある本に目を遣り「また持ち出したのか」とひと言呟き、だからと云ってそれを咎めるでもなく「帰るぞ」とまた短い言葉で小夜子を促した。帰り際、ふと振り返って見た海は、先ほどまでのうねりが嘘のように静まり返っていた。
彼の地にて、妖怪 小夜子
小夜子はあの海での出来事を思い返していた。
先ほど触れた水晶の粒ひと粒ひと粒が、今より余程小さな小夜子が海で妖怪たちの名を呼ばわり、癒しを得ていたあのひと時へと還したかのように、その記憶をより鮮明とさせていた。波寄る海辺のじくじくとした踏み心地、あの日集めたサクラガイやカラスガイの欠片たち、何某かのカニの甲羅、灰色とも薄水色とも付かない小さなシーグラス、どこからか流れ着いたのかも分からぬすっかりと色褪せてしまったクルミの実、あの日拾ったそれらは時を経るに連れ、小夜子の宝箱からいつの間にやらその姿をほろほろと崩し行きてしまったが如く消えてしまっていたけれど、小夜子は今やそのひとつひとつの姿形や触れた際のカラスガイのざらりとした感触、サクラガイの姿と己の指の爪の大きさを比べて見たこと、浜辺へ座った際の腿の辺りへ当たる砂つぶの擽ったさなどまでもを微細に思い出していた。
あの水晶の礫は一体誰のものだったのだろう。小夜子はガァちゃんに問いただそうとしたけれど、そうだ、この地には名前と云うものがないのだと思い返し、名がないと云うのはなんと不便なことだろう、その名もなき世界で彼らはどう過ごしていたのだろうと想像し、己の想像力の乏しさに肩をすくめる思いであった。でも先ほど、バックベアードとガァちゃんは言の葉を交わし合っていたし、ここでもきっとそうやって妖怪同士がお話しをしたり、笑い合ったり時に喧嘩をしたり、各々が自由に過ごしていたのだろう、と推測し、それならガァちゃんは小夜子と出会わぬ長い年月をどのように此処で過ごして来たのだろう、お友達はいたのかしら、いたとしたらどんな会話を交わしていたのかしら、と好奇心がむくむくと頭をもたげ、何やらそちらはそちらで思案げなガーゴイルへと言葉を向けた。
「ねぇ、ガァちゃん。この世界ではあなたはどう過ごしていたの?」
不意の小夜子の設問に、こちらはこちらであの日のドラゴンとの邂逅を思い出していたガーゴイルは、声のした方を見遣り、未だ己の指をしっかと握る小夜子をギョッとしたような素振りで見詰め、己が彼の地にいることすらも忘れるほどに追憶に潜んでいたのかとしばし呆然とした。
その追憶の狭間に身を置いていた間、歩いていたのか立ち止まっていたかも定かではなく、全てを石や岩へと変えてしまったこの地はその深さまでも混沌とさせて居《お》り、ガーゴイルは今や自分たちがどの辺りにいるのかをも完全に見失ってしまっていたのだ。
そんな無防備さを己が身に纏っていたこと、そんな不用意な姿を身に付けてしまったこと、そうしてその間にもし魔の手が小夜子を奪い去らんとしていたらと考えるだにゾッとしたガーゴイルは、いつになく乱暴に小夜子を抱え上げその胸へと抱き止めた。
好奇心に目をキラキラと輝かせてガーゴイルを見上げていた小夜子は、平素なら壊れもののように自分を扱ってくれるガーゴイルの突然の大雑把な行動に「ひゃっ」と声を上げ、目を白黒とさせた。
掲げ上げられた顔が互いのすぐ近くに在ることをガーゴイルは気付いているであろうか。
小夜子は温度のない世界で己が身体の熱が急激に上がるのをはっきりと感じ、大気のない世界で呼吸鼓動を早馬の駆ける蹄が如く速めて、合わさった視線の行く先を反らせるのに慌てふためいて、視軸を下へと向けた。ガーゴイルの大きな手は小夜子の腿の辺りを柔く掴んでおり、小夜子はなんとも気恥ずかしくなって、その辺りに急激に汗をかいたような気分となったけれどそんなこともなく、こんなにも、ガーゴイルの端正な顔の近くにまるで息がかかるほどに身を寄せているのに−−−と、そこまで顧みて、小夜子は自分が息をしていないことに漸っと気が付いた。
「ねえガーゴイル!私たち息をしていないわ!」
ガーゴイルは失念していた。
小夜子が余りにも呆気なく自分や自分を取り巻く環境を受け入れたように見えたものだから、小夜子自らが置かれている状況を説明することをすっかりと忘れていたのだ。
「落ち着け、小夜–––」
と、云い終わる前に、目の前の小夜子の瞳が無邪気な色へと変わっているのを見て取ったガーゴイルは、
「すごい!吸い込んでいるのに何も入って来ないだなんて、私こんなの初めて!」
と、楽しそうにはしゃぐ小夜子に呆気に取られた。
そうだ、こう云う娘なのだ。普通はパニックになって怯えるような状況をも受け入れ、溢れんばかりの好奇心をもって楽しむ。そんな小夜子だから気に入ったのだ、とガーゴイルは改めて顧みつつ、目の前で大きく深呼吸をする真似をしたり、己の髪の毛に息を吹きかけようと愉しみながら四苦八苦する小夜子の仕草を愛おしげに見詰め、一旦飲んだ言葉を体内で変化させ、続けた。
「余りはしゃぐな、小夜子。落ちるぞ」
なんとなくデジャヴ感のある言葉を吐きながら、一から説明するから聴くようにと諭すよう続け、そう云われると一点して大人しく耳を傾け出した小夜子の純粋さと生真面目さ、そしてやはり瞳に映る好奇心と云う名の輝きに胸の辺りをきゅうと軋ませたガーゴイルは、己の内のその初めての感覚に得も云われぬ感情を抱き、さらに己の内を軋ませた。
それが『切ない』と云う感情だとガーゴイルが身を以って知るのは一体いつのことになるであろうか。
ガーゴイルは小夜子の好奇心に溢れた真剣な瞳からわざと視軸をずらし、此処には小夜子の住む世界と違い大気がないこと、故に息もする必要もなく、もちろん草木が根を張ることもなく花が咲くこともなく、小夜子を濡らす水滴の一雫すら存在しないこと、大凡『生きている』モノが存在することの許されない土地であること、をゆっくりと唱えた。
そう、そうであった、かつては。
「じゃあ…私は死んでしまったの?」
と問いかける小夜子にチラリ目を遣ると、その瞳には微かな怯えが見て取れたけれど、それに勝る怖いもの見たさのようなものがやはり色濃く宿り、全く困った娘だと笑みが溢れる思いであったガーゴイルは、
「そうではない」と一言に付し、一瞬躊躇するような間を作ったのち、
「あのモノの中を通っただろう」と敢えて名を呼ばわず、さも忌々しげに小夜子に問いかけた。やはりそのモノの名を呼ぶのは癪であったガーゴイルは、小夜子が考えた名ではなく小夜子の世界ではそう呼ばれているのが当たり前だと分かっていても、小夜子が名を呼んだと思うとなんだか無性に腹は立つし、通った際の奴の小夜子に対する挙動も未だ腹に据えかねていたのだ。
そんなガーゴイルの心中を慮ったのか小夜子は短く「うん」とだけ応え、こんなに幼きものに気遣われる己の心のせせこましさにもうんざりとした。
小夜子はガーゴイルの思惑をなんとなく分かっていたし、何よりガーゴイルの尻尾がぶおんぶおんと右へ左へと揺れていて、ガーゴイルが何かを(多分にあの時のことを)思い返し苛立っているのが見て取れたので、小夜子も小夜子で敢えて「バックベアードのこと?」とは返さなかったのだ。だって、私だってガーゴイルが−−−そう、例えば美しきセイレーンなどとここで楽しげに過ごしていたなんて知ってしまったならヤキモチのあまり頭が沸騰して爆発しちゃう!
「どう云う原理かは分からぬが−−−」
ガーゴイルの声に己の無意な妄想から醒めた小夜子はちょっと恥ずかしくなり、まだ見ぬ美しきセイレーンの歌声を打ち消すように今度は力強く「うん」と返事を返した。
「アレを通ってこちらの地に入って以降、小夜子は我らと同じモノとなったようだ」
小夜子はまさに「ポカーンと云う顔をさせたならばこのような顔であろうな」と云う顔をし、しばし先ほどまでセイレーンと力戦奮闘していた頭の中を整理して、ガーゴイルの言葉を脳内へと設えた。ガーゴイルたちと同じモノになった?私が?
妖怪物の怪あやかし化け物モンスター妖物怪獣幽霊エトセトラ−−−小夜子がいつも欲しているモノ、小夜子が憧れてやまぬモノ、小夜子が愛してやまないモノに小夜子が仲間入りをした−−−こんな、こんなこんなこんな、こんなことが起こるだなんて、きっと京極堂だって想像出来やしないに違いない!と、小夜子の歳にしては重量のあり過ぎる、しかし小夜子の大好きなシリーズものの小説の、憧れの主人公の名を思い出して、京極堂だったらどう応えるのかしら、まず原理を知りたがりガァちゃんに納得の行く説明を求め、そうして十分に納得が出来たのなら素直にこの状況を受け入れるのだろうな…『妖怪 京極堂』はなかなかに手強そうだ−−−などと想像をしては少し笑い、はてそうなると小夜子は『妖怪 小夜子』となるのかしらん、そうだとしたら一体何を仕出かすのかしら…。
ちょっとした悪戯や冒険はお任せな小夜子だけれど、特に特技があるわけでもなし、きっと『妖怪 小夜子』を怖がる(と云うか厭う)のは母ぐらいだろうな…と寂しく思い、そうしてハッと思い立ち、詮無いことを考え込んでいたその面を恐る恐る上げた。
「ねえ、ガァちゃん。私がガァちゃんたちと同じモノになったのなら、なれたのなら、それなら、もし、もしも私が忘れ去られてしまったら、私もやっぱり石になってしまうの−−−?」と辿々しく問い掛けた。
その面立ちはらしくないほどに悲壮感に満ちており萎れた花をも思わせて、大いに戸惑ったガーゴイルは「小夜子は忘れられなどしないだろう」と慰めるように返すことしか出来ず、小夜子はその面を殊更青白く染め、心持ち下を向いたままふるふると頭を振り、ぽつり「そんなことないわ」と答えた。
それきり小夜子は黙り込んでしまい、ガーゴイルは殴れるものなら己を殴ってしまいたい気持ちでいっぱいであった。伝え方を間違えた。別にありのままそのままを告げずとも良かったのだ。「此処には空気がない」とか何とか伝えればそれで良かったではないか。
しかしそれは出来なかった。この素直で繊細でしかし好奇心の塊のような心を持った美しい生き物に隠し事をすることはもはやガーゴイルにとっては何百年何千年と過ごして来たこの世界での一番の罪悪であったし、何より小夜子を喜ばせたいと云う浅はかな想いが強かったのだ。小夜子なら喜ぶだろう、己らと同じモノとなることを。ガーゴイルのそんな軽々しい予想の、まさに想像通りに小夜子の顔は驚きと喜びに満ちていたし、ニマニマと笑み考え込む表情は今までに見たことのないものであった。
しかし、『忘れられる』。
小夜子が忘れられる可能性が微塵をもあるとは考えてもいなかったガーゴイルは−−−今でもそんなことがあるとは思ってはいないけれど−−−小夜子の、時に、ほんの時に見せる翳りの奥に潜んでいる悲しみの琴線に、己の発言が触れてしまったことを海ほどにも深く悔やんだ。
小夜子は別にいつの日か己が石となることには厭いはなかったはずだった。
このままこの地でガァちゃんと過ごせたならどんなに幸せだろうと願っていたし、小夜子にとっての救済はそれそのものでもあったのだから、ガァちゃんと同じモノになれたことは喝采するほどのことであったし、ただ喜んでいられればそれで良かったのだ。なのに、もう捨てても良いと思った世界にこんなにも未練があったのかと愕然とし、そして落ち込んでいた。捨て切れもしないのに救いを求めてしまった自分に随分とがっかりとし、ガァちゃんに対しても申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。私の彼への救済の思いはこんなに軽々しくも萎んでしまうものなのか。いつか石となる日が来たとしてもそれまで一緒に過ごせる時間があるのならばとそれを祝う気持ちより、忘れられて石となることをより憂いてしまった。『忘れられる』。誰かから忘れられると云うことはこんなにも辛く悲しいことなのか。それならば、数多の石くれとなってしまったモノたちはどれほどの思いを抱え、己が身が徐々に石へと変わり行く姿を目にして行ったのだろう。
父や母や弟や、祖父や祖母に親戚や、クラスメイトに先生や、と知った顔が次々と現れは消えて、小夜子は己の世界の小ささを改めて思い知らされた。小夜子を知る人間はこんなにも少なくて、そうして小夜子なんてすぐに忘れ去られてしまうだろう。小夜子に興味のない父も、弟にしか興味のない母も、小夜子に懐くでもない弟も、一番近くにいる家族ですらそう思えるのだから他人なんて殊更であろう。クラスメイトは正直どうでも良い気持ちが強かったが、小夜子は逃げ出したいと思っていた人たちに、それでも忘れられるのを恐れ悲しむ自分が心底嫌だった。そんな自分を図々しいとまで感じ、小夜子が最も嫌う人種、図々しくて無神経な人々の仲間入りをしてしまったことへの絶望感をも持った。
それならば。
いっそのこと忘れ去られてしまっても良いのではないか。
徐々に石くれへと変わり行く小夜子はきっとガァちゃんを悲しませてしまうかも知れないけれど、それは本当に申し訳のないことなのだけれど、それでも小夜子を小夜子として必要としない世界にいるよりはずっと良い。石に変わった小夜子はいずれ礫となり、その姿すら失ってしまうけれど、きっとガァちゃんならその礫すら大事にしてくれる。と、そこまで考えて、自分でもそんな自信が何処から出て来るのか分からなかった小夜子は、伏せていた面をおずおずと上げて、
「ねえガァちゃん、もしも私が石になって、やがて礫になってしまっても、ガァちゃんは私を傍に置いていてくれる?」と頼りなげに問うた。
顔を伏せ考え込むような、さもなくば落ち込んでいるかのようにも見えた小夜子を心配げに見守ることしか出来なかったガーゴイルは、上げられた小夜子の瞳から悲しみや惑う色が失せ、おずおずとした所作の中にもはにかむような匂いが感じ取れて、一体この長いようで短い思考の旅の狭間にこの娘の中に何が起きたのだろうと、その移ろいに躊躇いつつ、小夜子の望む答えを己が口から導き出した。
小夜子は先ほどのガーゴイルの言葉を心の内で反芻していた。
−−−砂つぶの一欠片すら手放すものか。
それはまごう事なき愛の言葉であったけれど、今まで意識下で『愛情』と云うものを感受した記憶のない小夜子にはどうにも擽ったいような、それでいてどんな宝物でも叶いやしない、ほわほわとした温もりを持った出来立ての綿菓子のように、口に含むと緩やかに尾を引きながら蕩けて小夜子と交わりその身体に沁み入って来る魔法のようで、思い出すだに小夜子の胸の内をじんわりと暖かくさせた。
温度も湿度もない世界でこの身を暖かくさせるモノ。
小夜子の心に安堵と言う名の寝台を築き上げしモノ。
茨
ソレは己が身にもじくじくとした痛みを伴わせながらも尚、前進を続けていた。
凶モノ、忌じくモノ、邪なるモノ−−−そうした名を冠するに足る容貌を身に纏ったソレは、己が身から滲み出る毒素でその身を腐らせては修復し苦晒せては繕い、まるで責め苦そのものの体で地を這いずり続けた。
最初は僅かばかりの思念であった。生きとし生けるものなら大抵は持つ「生きたい」と言う思念。肥沃なる土地で爪弾きにされ不毛たる土地でも生きることを許されぬソレは、一時は諦念の虜となった。諦めと云う感覚は時として持たぬモノに恍惚とした味わいをも齎せる。その隙間に魔のモノが潜み込んだのだ。
じくじく。
じくじく。
己を腐らす棘を持ったソレには、もう考える力もない。
いや、そんなものは初めからなかったのか。
じくじく。
じくじく。
茨の群れは己が身を傷付けながら、もう何の為に進んでいるのかも解らず、ただただその毒気を地に交わせ青みを帯びた静謐なる大地をただの土くれへと姿を変えさせながら、今尚ゆっくりと進軍を続けていた−−−。
かっぱ池のなんたるや
「ねぇガァちゃん、『妖怪 小夜子』にはどんな能力があると思う?」
先ほどの、地に初めて舞い降りた際のようにパジャマの裾を翻しながらヒラヒラと舞う小夜子は、実にご機嫌な調子でガーゴイルにそう質した。実際小夜子は飛び上がりたいくらい上機嫌であったし、それは園児の頃に初めてあのすばしっこい仕草でいつも小夜子を翻弄するニホントカゲを素手で捕まえて、その黒光りするツルツルとした鱗に触れ頬擦りした時以来、否それ以上の舞い上がりぶりで、小夜子はガーゴイルのように己にも翼が着いていたらと至極残念にも思えた。今の小夜子なら、きっとヨタカよりも高く高く空に舞い上がってみせるのに。
「『妖怪 小夜子』の能力を決めるのはオレじゃない、人間さ」
ふわふわと、まるで心ここに在らずと云った体で舞う小夜子をただ見守っていたガーゴイルからの返答は、幼い小夜子には余りにも意外だし難問でもあり、小夜子をしばし混乱の渦へと招き入れ、その小ぶりな足を止めさせた。
「人間…人が−−−決めるの?」
「そうさ、小夜子も云っていただろう、『ガーゴイルは雨樋の守り神として人が造った石像だ』と」
「でもそれは石像のガァちゃんのことだわ、妖怪のことじゃない」
「おんなじ事さ」
小夜子はますますわけが分からなくなって、
「どう云うこと…?」
と、果敢無げに問いかけ直すことしか出来なかった。
ガーゴイルは小夜子の顔が不安な色に染められるのを見てとり若干慌てたが、ここは少し分かりやすく解きほぐして行かないと埒がないし、この好奇心旺盛なくせにカルメ焼きが如くほろほろと繊細な娘の心に僅かばかりの傷も作りたくないと云う己の強欲さにうんざりしながら、どうしたらこの娘に上手く伝えることが出来るかと考えあぐねた。
「小夜子の身近に何か妖怪にまつわるモノやコトはないか?」
「私の廻りに?」
小夜子は京極堂のファンなくらいだから日本の妖怪もある程度はお手のものだけれど、いざソレが自分の廻りにとなると考えたこともそうはなかったので、今度は小夜子が考えあぐねる番であった。
「うーん、家からそう遠くないところに『かっぱ池』と云う池があるとクラスの子が云っていたわ」
小夜子はかつてクラスメイトの男子が、小夜子の妖怪好きを知り教えてくれた情報を何とか頭の片隅から引っ張り出した。その時確かその男子は「夏休みに一緒に行こう」と小夜子を誘ってくれたのだけれど、小夜子は元来人見知りをする子どもだし、そもそもその男の子自体と今や校内で接するほど仲良くもなかったので、返事をなあなあにしてしまったのだった。かっぱ池、ものすごく行ってみたいけれど。もしここから無事に帰れたとしたら一人で行ってみようか。ん?無事にってなんだろう。そもそも私は帰りたいのだろうか。あの場所に、あの家に、彼処に。戻りたいと思っているのだろうか。
否、帰りたくない。このまま『妖怪 小夜子』でいられるならばそのままがいい。
流れるように湧いた己の思考を叱咤するように頬をペチペチと両の手で挟んで叩き、小夜子はガーゴイルにかっぱ池の詳細を伝えた。それは全国津々浦々によくある河童譚と同じくして、池に遊びに行くと河童が出て来ては尻子玉を抜くので余り立ち入ってはいけない、と云ったものだったけれど、ガーゴイルは興味深げに耳を傾けてくれていた。
「なるほど、小夜子の暮らす地には斯様な妖怪がいるのか」
「そうだでよ」
と、突如どこからともなく聞き慣れぬ馴れ馴れし気な声がして、咄嗟に小夜子を庇うように身構えたガーゴイルであったが、そのモノの姿を認め愕然と力が抜けた。
『妖怪 河童』がこの地に顕現したのだ。
ソレはなんとも奇妙な出立ちをしていた。
ぬらぬらと粘膜に塗れてでもいるような表皮は緑青色とも見えるし青鈍色が如く燻んでも見え、それらには痣のような斑点が処々に散っている。にょろりとひょろ長い手足と胴体には似つかわしくなく膨れた腹、その胴腹と繋がる手先足先には指一本一本の合間に水掻きが付いており自ずながら水辺の生き物だと語っている。顔は菱を形取っており、半分に開かれ、端から涎を垂らした嘴が如く口吻と、死んだ魚のように空《うつろ》な瞳が鎮座まし、頭周りには申し訳程度に毛が生えている。そしてなんとも珍妙なのは頭頂部だ。白緑色のそれは窪んだ皿のような外観をしており、僅かばかりか水を張っているようにも見え−−−、
と、ソレは唐突に、
「オラば呼んだンはこォの娘っ子だな」
「まぁた随分珍妙なとっころに呼ばわれたもんだー」
「なんだぁ、廻りに水っけのひっとつやふたっつもないんじゃかー」
と奇妙な言葉遣いで独り言ち、
「なーオマエ、見たっこともねーだでなー」とガーゴイルを見て素っ頓狂な声を発した。
ガーゴイルはガーゴイルで小夜子の想像力のたくましさと云うかなんと云うかに恐れ入った気持ちでいたし、小夜子は小夜子で初めて(まさか!)初めて目にする河童に興奮を隠し切れないでいた。河童って、こんな変な喋り方するんだ!
「んー。なぁんかおっかしでなぁー?」
「なぁんでこォの娘っ子にはオラが見えてるーんだズラ?」
「って云うかーなんでーオラはーこんなに喋れるんだっぽ?」
珍妙な話し方の割に表情が変わらない河童は相も変わらず空な瞳でぬらぬらと、小夜子をまるで珍しいものを目にしたが如く舐めるように眺め回した。ガーゴイルはその不躾な視線を少し(否、かなり)嫌ったけれど、小夜子がそれを諭したかのように己が指を握って来たので気炎をグッと呑み込んだ。ガーゴイルは些か構えつつ、
「貴様が河童なのだな」と、問うた。
河童は小夜子観察にも飽いたのか、己が指先を弄りながら「そだよー」と答えた。
「あんたが河童云うんならー河童じゃろがいのー」
「しかしーこんなー話せるなんておかしのー?」
「ソレにーなんでオラはソレがおかしいとー知ってるんじゃろべ」
小夜子が顕現させたからなのか元からこう云う性分なのか分からないけれど、その態度や話し振りに若干イラついていたガーゴイルであったが最後の河童の言葉に強く頷いた。
「小夜子、コレだ」
「コレって…?」小夜子のガーゴイルの指を掴む手が少しく強まる。
「今ヤツが云ったろう?己は何故に話せるのか、そして何故それが平時と違うことだと知っているのか、と」
小夜子はコクリと頷いた。河童と話したい気もするけれど、今はその時ではないみたい。
「元々オレらには顕現させられた際に何かを『思う』とか『感想を抱く』なんてことはないんだ。ましてや人に−−−人の子らに見られると云うこともない。だからもちろん話すこともないし、それを疑問に思うことすらない。
「だけど目の前のヤツは−−−もちろんオレもだが−−−それがおかしいことだと知っている」
「ソレは−−−小夜子が、あ、私が妖怪になったからじゃないの?」
小夜子は思わず幼少期の頃の己の一人称が出て来てびっくりした。小学校に上がった際、恥ずかしいから止めなさいと母に云われてから必死で直したところだったのに。
「確かにこの地に戻って来た際は、妖怪同士でたわいも無い会話とも付かないような話しはしたさ。でも仮令妖怪のような身の上になったとして小夜子は人の子、人の子に顕現されてこうなると云うのは今までになかったことなんだ。そしてソレは日本の妖怪たちの間にも広がっている−−−」
と、云いながら視線を河童に送ると、河童は既に半身を砂つぶのような流動体に変化させ、この地から今にも消えようとせんでいた。
「オデはそろそろ次のとこさ行くだでー」
「人気者はつらいんじゃろーっピ!」
小夜子とガーゴイルが一斉に「あああ〜!」と叫ぶも虚しく、人気者の河童は別の何処かへと呼ばわれて行ってしまった。小夜子は一言でも良いから河童と話しておくべきだったと大いに後悔した。「尻子玉ってなに?」って訊きたかったのに!
「まあ何を訊いてもヤツには答えられんだろうよ」
と、小夜子の思念を読んだかのようにガーゴイルから言葉が降って来て、小夜子はビクッとした。ガァちゃんは、私の心が読めるのかしら?もしも読めたのなら−−−などとまたもや恐ろしい方向に思考を持って行かれそうになった小夜子はブンブンと頭を振り、そうしてもはやその行動とセットになっている目眩をくらり起こしてガーゴイルの腕に寄りかかった。
「小夜子、なぜ人間たちが河童がいるから池に近付くな、などと云って河童を作り上げたと思う?」ガーゴイルに寄りかかったままその顔を見上げんと顎をつうと上げた小夜子は、
「河童は本当にいるんじゃないの?」と問うた。
「いないだろう、ああ云う意味での河童はな」
聡い小夜子も流石に妖怪が本当にいるとは思っていなかったけれど、本人から直接はっきりとそう云われてしまうとちょっと落ち込んだ。
「昔は特に今ほどに管理されていなかったから、溜め池などに落ちて死ぬ子どもなどが多かったのだろう。そう云う時に子ども避けとして機能するのが異形なるモノ−−−得体の知れぬモノ、恐ろしいモノなんだ。
「そう云う風に、時に災難除けとして、そして人間の知恵では解決出来ない不思議な出来事や事象に名前や形を与えたモノがオレら『あやかし、モンスター』などと呼ばわれるモノたちなんだろう。まあ、そう一概にも云えないが−−−」
小夜子はなるほどと云う体で、ガーゴイルの語り口を邪魔せぬように首だけでコクリと返事をした。
「だが、人間の文明が進むに連れ不思議だった物事は不思議ではなくなり、怪異は正当化され、その正体がバレていつの間にか怪異の名を呼ぶ者も少なくなって行った。
「そうして余り名の知られぬモノ、崇める種族が潰えしモノ、他のモノにとって変わられたモノなどが次から次へと忘れ去られ、こうして石くれへと姿を変えている−−−まあだがそれ自体は昔から当たり前にあることなんだ」
そう云って、ガーゴイルは少しく懐かし気な眼差しを岩だらけの地に向けた。
「いつからだったろうな、ここまでの有り様になってしまったのは」
ガーゴイルに寄せた肌から感傷のようなモノが朝霧のように小夜子の身体へと沁みて来て、小夜子は泣きそうな気持ちになった。仮令忘れ去られて行くモノがいたとしても、それでも賑わいのあったであろうかつてのこの地に思いを馳せてみる。小夜子は生まれた頃から父の仕事の事情で方々を転々としていたようで、郷愁と云うものはよく分からないけれど、きっと今ガァちゃんの胸の中を占めているのは間違いなく郷愁の思いで、その隙間を埋めてあげられる術を小夜子は一欠片も持っていやしないのだ。どうしたらガァちゃんの故郷を取り戻すことが出来るのだろう。どうしたら、どれほどの憎しみを持っていたらこんな酷いことが出来るのだろう。小さな小夜子の胸の内は、怒りや悲しみや憎しみや祈りやよく分からない後悔の気持ちや懺悔の思いで一杯になって今にも弾け飛んでしまいそうで、胸の辺りで己の手をぎゅうと握り、押し付けるようにした。
御大
小夜子の父が幼い頃は幽霊現象や怪異現象を扱う番組がよく放送されていたそうだ。
そう云った怪異を専門にする雑誌も今よりもっとずっと多かったし、テレビの特設番組なんかでは、わざわざ怪異否定派と肯定派を集めて議論と云う名の口喧嘩を囃し立てる内容のものなんかもあったそうで、アレは随分と馬鹿らしかったななどといつだったか珍しく御酒に酔いご機嫌な体の父が口走っていたように思う。近年はCG技術の促進や映像合成技術の向上でそう云った心霊や怪異には欠かせない『心霊写真』や『未確認飛行物体やUMAなどの未確認生物の動画』などが容易く作り上げられてしまうので、怪異や心霊と云ったものはすっかり形を潜めてしまい、かろうじて残っているものは『心霊現象を伴う事故物件モノ』や物語としての『転生モノ』で、科学至上主義を掲げる輩や無闇矢鱈なオカルト否定論者と云った合理主義者たち、利己的な大人たちの思惑のお陰で怪異・心霊モノたちは随分と手荒く消費され廃れ去られてしまった。
日本の妖怪たちがまだそれでもこうして忘れ去られずに成り立っているのはきっと、小夜子の父が生まれるよりも前から放送され、今も脈々と続いている人気不動のアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』のお陰、云うなれば作者の水木しげる先生のお陰と云っても過言ではないと思う。
小夜子ももちろん『ゲゲゲの鬼太郎』は大好きだし、水木しげる先生の漫画『河童の三平』なんても殊更好きで、これまた父の書架から盗み出しては食い入るように読んでいた。父がいつだったかボソリと「水木先生は、アレはきっと妖怪の類なんだろうな」と宣った一言が忘れられず、水木先生が妖怪ならきっといつまでもこの世に止まって漫画を描いてくれる!とその一言に大層喜んだものだったけれど、水木先生は−−−水木しげる先生は小夜子が六つの折に亡くなられてしまわれたのであった。
小夜子は未だ幼稚園児だったけれど、幼い頃から生き物と遊び戯れていた小夜子には『死』と云うものがどう云うモノだか分かりすぎるくらい解っていたし、父は小夜子の水木しげる好きを知っていて敢えてはっきりと小夜子にその事実を(母にはだいぶん強く止められていたようだが)告げたので、小夜子はその日も、明くる日も、そのまた次の日も、幼稚園には行けなかった。空を見上げると空一面に水木先生の顔が広がっているようで、それが嬉しくもあり悲しくもあって、随分と泣いた。
そんな日が何日か続いたある日、小夜子は庭内に在る水の張られていない噴水の淵に腰掛けて、師走の曇り空の下、身を切るような寒さも感じることもなく、見えない水の張られた噴水の水面を眺めていた。ゆらゆら。ゆらゆら。張られてもいないのに揺れるそれはきっと小夜子の瞳から溢れる大粒の涙の群れだったけれど、小夜子はそれを水面だと感じていた。そうしている内にその水面にもやはり水木先生がゆらりと映し出されて、小夜子は「先生はどこにでもいるんだ」と確信した。肉体が無くなっただけ、思い出せばいつでも出て来てくれる、と。
大鳥啓輔
バサリ、と云う音が小夜子の部屋から聞こえたような気がして、伏せていた面を上げた大鳥啓輔は、しかし娘の安否を確認するでもなく、そのまま目の前の窓硝子に映る自分の影をなんと無しに見据えた。暗闇を鏡にしても無精髭が目立つ。元来端正なはずのその顔面も、常日頃の不摂生や生活リズムの乱れもあり、随分と窶れ年齢よりもだいぶん年老いて映える。きちんとしていれば緩やかなカーブを見せる癖毛も、寝相の悪さを思わせるほどにくしゃくしゃとあちらこちらへその先端を歪ませて、長年愛用している草臥れた銀縁の丸眼鏡の奥に据えられた目は黒々とした隈に縁取られ、何とも生気のない澱みを宿している。確りと整えられた鼻筋、薄く引かれひび割れだらけの唇はへの字と曲げられ、本来なら安らぎとも取れそうなその日常への鬱屈が見て取れる。
啓輔の専門は植物学の中でも植物病理学で、一応博士号なども取ってはいるが、生来の人見知りや口数の少なさ、表情の乏しさなどからなのか中々植物のようにひと処に根を張ることが叶わず、都内の某大学の客員教授などをして糊口を凌いでいる。妻からはいい加減世捨て人のような生き方は辞めて地に足を付けてと散々っぱらに云われるが、どうにも囚われるのがいけない。根を張り生きるモノを糧として生きているのに根無草のような生き方しか出来ぬのだ。
本来ならば啓輔は、民俗学の在野のモノとして、あちらへふらりこちらへふらりと独歩しながら生きて行くはずだった。しかし何をどう間違えたのか−−−否、生家のものの反対が多分にあったのか、行き着いた果ては農学部の植物病理学で、気が付けば植物病原糸粘菌の感染器官形成やら病害抵抗性機構、病原性の分子学生物研究などを学んでいた。その際も「根無草気質が根を張るモノを」などと随分と周りの学徒に囃し立てられたものだったが、学んでみればそこそこに楽しく、時に野外などで植物を採取しに出るのも性に合い、偶然極まってか研究の成果も華々しく、奇しくも博士号を取るまでに至ってしまった。
妻の加代子とは学外のサークル活動のようなもので出会った。啓輔は民俗学を学びたかったほどなので、当然が如く妖怪・化け物や柳田國男の遠野物語などを好み、日々摂取出来ないそれ等への枯渇感を埋めるが如く、数少ない知人から耳にした都内某所の某サークルの門を何日かは行きつ戻りつしながらもやっとの思いで叩いた。
これは人見知り−−−共あれば人嫌いとまで思われがちな啓輔にとって、清水の舞台から飛び降りるような心持ちであったし乗るか反るかの大博打を打つ思いでもあった。が、そんな心持ちで叩いてみた門は割とすんなり開かれて、その中身は濃密であり伽藍堂でもあり、纏まっているように見せかけては散らばっていて、元が胡乱な啓輔をなんとも居心地良くさせた。
何より部員のそれぞれが己以上に変わり者だらけであったし、その妖物に対する知識の豊富さに圧倒させられる思いで、大学生活の大半は学外のサークル活動に捻出していたと云っても過言ではないほどであった。
一方加代子の方に至っては特にそう云ったあやかしモノが好きな訳でもなく、ただ友達の付き合いで一度暇潰しに部内に訪うた、云わば異端児であった。
この異端児は謁見して直ぐに啓輔の美貌の虜と成ったけれど、啓輔は特に加代子を意識していた訳でもなく、むしろその端正な顔立ちに似合わず恋愛関連にはとんと疎かった故に異性を畏れ厭う気配があった。その整った顔立ちに厭いの影を滲ませた啓輔は自ずと知らず内に異性に関わらず同性をも惹きつける魅力を図らずも備え、しかし寄るモノ全てを拒絶するような視線に屈し倒れる者ばかりが啓輔の前に山と積まれ、そんな中最後まで諦めずに啓輔の懐中に忍び込もうと必死だったのが加代子なのであった。
啓輔は啓輔で曽祖父が宮内庁の人間であったような出自であったから、ぼっちゃまぼっちゃまと上げ膳据え膳で育てられて来た『持つ者』側の人間で、それ故にのらりくらりぼんやりと、あっちへふらふらこっちへふらふらと生きて来た云わば世間知らずであり(それ故に民俗学の在野で生きて行こうなどと考えていたし、家のものは我が家系から斯様な者を!となったのであろう)、加代子は加代子で山口県は下関市の老舗呉服問屋のお嬢様の出であったから、こちらはこちらで蝶よ花よと育てられ、おっとりとした(そして幾分かにわがまなな)お嬢さんへと育って行った。そんな地方育ちのお嬢様が親の反対を押し切って都内の全寮制短期大学へと入学し、暇がてらに訪うた先で出会してしまったのが、当時大学三年生である啓輔なのであった。啓輔は東京都は中野区で生まれ育ち、己が見てくれにそんなに目を向けずとも何処かしら洗練された、しかしどうにも気怠げな雰囲気を纏っていたので、その眉目秀麗さも相まって加代子を一瞬で虜にさせた。加代子は啓輔にとっては目端の先にも掛からぬような存在ではあったけれど、加代子も加代子で引く手数多の美貌の持ち主であったし、己が若く美しく育ちも良い『持つ者』側であると自覚していたので、まさか箸にも棒にもかからないような扱いを受けるとは微塵とも思っておらず、その共すれば高慢とも取れる誇り高き鼻っ柱を思い切り殴られた思いで、己の想像以上に啓輔への執着心は高まるばかりであった。
それはもはや恋愛ではなく意地であった。しかし加代子には己の想いが既に執心に取って変わられていることを気付けるほどの人生経験はなかったし、それは啓輔にしても当て嵌められることであった。ついに啓輔が己の魅力胆力に屈した日、加代子は喝采を上げる思いであった。あの大鳥啓輔を手中にしてやった!と世間に大声で宣言したい気持ちで一杯であった。
そこには恋する者の喜びやためらい、切なげな吐息や恥じらいもなく、ただただ肉と肉、それのみで、加代子は勝利の階の一等級を得た気持ちでいただけだし、啓輔は啓輔で面倒なことになったと云う諦念と後悔ばかりが胸中を締めていた。
そうして、恋人同士になったと声高に主張する加代子に流されるまま、その地位を築いた啓輔であったが、やはりその胸中には常に後悔の二文字が行きつ戻りつとし、啓輔を鬱屈とさせて行った。
啓輔は己が結婚などと云う制度に到底向いている人間だとは一欠片も思っていなかったし、それだけは常々加代子に伝えていた。別段子ども好きな訳でもなく、むしろどちらかと云えば苦手な方で、ひと処に留まるのも性に合わないし、他人と居を構え共に暮らすなどとはもはや拷問に近いものがある、と。己が口で発しながら己に向かって最低だと苦笑しながらも、啓輔の中にある最大限の良心で以って、加代子が思わせぶりな態度を取る度に幾度となく伝えた。
しかし、人は人生の一大事に置いて最も愚かな期待を抱いてしまうものである。加代子もまたその内の一人であった。『そうは云ってもいざ婚姻・懐妊となれば相手も変わってくれるはず』。
やはり自分には結婚など向いていなかったのだ、と啓輔は己の窶れ疲れ果てた相貌を見て思った。結婚して変わる輩もいるであろうが、啓輔はどうしても変わることは出来なかった。妻とは云え他人と暮らすのはどうにも窮屈であったし、だからと云って妻を幼少期に育ててくれた乳母や家政婦と同等に扱えば波乱が起こる。子どもの扱いはやはりどうにも分からないので出来れば接したくないし、しかし身近にいると己の良いように動かない子どもに腹が立って仕様がない。要は大人に成り切れていないのだ。己が子どもだから子どもの仕草に腹も立つし、時に鬱陶しいとも−−−思ってしまう。
我ながらに最低だ、と啓輔は思う。
しかし啓輔には己の中にある−−−そもそも己の中に愛情があるのかも分からなかったけれど−−−娘や息子に対する思いを表現する術を持たなかった。
小夜子のことは可愛いとは思う。我が子ながらにかなり聡い子でもあるし、妖怪や植物、昆虫や他の生き物を好くところなども多分に合っていると思う。たまに書架から本を持ち出されると−−−己の機嫌の良し悪しの範囲内ではあるけれど−−−イラっとするが、しかしそこも可愛さの内だと何とか己を誤魔化している。
だが『お父さん』と呼ばわれると戸惑う。自分は『お父さん』として足り得《う》るのかと惑い−−−そしてどう振る舞えば良いのか分からなくなる。結局威厳の有りそうな振る舞いをして逃れ、そのような仕草で回避する自分に己が父を重ね鬱屈となるのだ。人は育てたようにしか育たないと云うのであれば、己がまさにその見本足り得るのではないか。
今の自分はまさに己が父そのものだ。
『お父さん』
そんな小夜子の呼びかける声が聞こえたような気がして後ろを振り返った啓輔だったが、そこに小さな小夜子の影は見当たらず、少しがっかりしたような妙な気分になった。
−−−そう云えば、あの洋館に這入ったと云っていたな。
四年ほど前、啓輔が一家と共にこの地に越して来た理由はまさにあの洋館にあった。
小夜子が手を傷付けたと云う件《くだん》の茨、まさにその物に興味があったのだ。出来得るならば採取して大学に持ち行き調べたいほどであったが、空き家廃屋と云っても他所の誰かの持ち物である。これが門でも開いていようものならこっそりと(否、不法侵入には変わりはないのだが)持ち帰ってしまうのに、門が、仮令半分崩れたような門であろうとも門が閉まっていれば境界となる。線を引かれてしまったのなら、その境は安易に超えてはならぬのだ。
なので啓輔は非常に億劫ではあったけれど、近隣の住民や不動産業者を当たり役所を当たりして、何とか持ち主探しを始めたのだったがこれがまた難儀であった。登記されている人数が半端ではなかったのだ。
どうやらあの土地は古くから在るものらしく、持ち主が何度も変わったり、その際に再分配されたりなどして、そうしてその当時の当人は既に亡くなったりもしていて、門ひとつ開けるにも膨大な人数からの許可が必要となった。そうして四年以上経つ今も未だ登記された人数の半数にも辿り着けていない、とのことだった(役所の人間の怠慢がなければの話だが)。仲間内の話では妙な形に変化を遂げていると云うその植物の。原始病原体の類か宿主特異的毒素の変異なのか。調べたい。思い出すだに尻が浮きそうになる。気持ちが逸る。まるであの茨の毒気に当てられたような焦燥感。結局己も学者の端くれとしかままならぬ。
そんなことをつらつらと考えて、大鳥啓輔は視軸を読みさしの本へと戻した。
大鳥加代子
加代子は加代子で寝付けずにウトウトとしては覚醒するを繰り返していた。
最近は専ら息子の子供向けベッドに無理矢理這入り、身体を丸め愛し子を抱いて寝かし付け、そのまま己もその場所で眠ることが多く、夫婦の寝室は冷え冷えとした空気に包まれて、空虚なままの日が続いていた。
小夜子の部屋で何某かの音がしたようにも思えたが、起き抜けの頭は状況をはっきりと知覚せず、ぼんやりしたまま腕の中でトクトクと眠る息子の和毛に顔を埋めた。幼子特有の汗の匂いとシャボンの匂いが混じり融け合い、むわっと鼻腔に押し寄せて来る。
愛しい子。愛しい我が子。
俗に「男の子は発育が遅い」などと云われるが、小夜子の五つほど下の悠介もその類なのかなかなかにきちんとした言葉を発しなかった。言葉どころか行動も多分に幼稚で、おむつ離れもなかなかに進まず、いつまでも赤児が如く無垢な瞳をキラキラとさせながらも芒洋とした様に日々焦りは募るばかりで(小夜子の時はあんなに手がかからなかったのに)と心の中で比較してみては落ち込んでいた。夫は「男の子はそんなものだ」と知った風な口を利くばかりで育児に参加はせず全く役には立たないし、姉の小夜子−−−
−−−小夜子、あの娘は。
多分に夫に似たのであろうあの娘は、自分の子供の頃とは余りにも趣味嗜好が違って居り、加代子にはその常が理解不能であった。加代子は虫や爬虫類と云った世に云うゲテモノは苦手な質であったし、小夜子の好きな妖怪なんかもただ気味の悪いモノとしか映らず、お人形さん遊びやおままごとなんてを好まずに野原を駆け回っては気味の悪い生き物を捕まえて得意げな顔をする我が子を異端とすら思った。
小夜子は口も達者で物覚えも早い子どもであったから、今の悠介と同い年の時分には夫の書斎から本を持ち出しては読み耽っていたように思う。小夜子は幼児期から加代子の好むもの、小夜子に好んで欲しいものに全く興味を示さなかったし、近頃は服装も男の子寄りのものを好むようになって来て、余計に加代子を苛立たしくさせた。美しく着飾れば華やぐものを、あの娘はわざと穢す。小夜子を見ていると己の生まれ育ちを否定されているようでつい苛々としてしまう。
それは多分に悠介の発達の遅さや日々の世話、夫の無関心さなどが蓄積されたものの発露でしかなかったけれど、己が常に正しいと信じて止まぬ加代子には己の領域に侵入した者の中で己の意に背く者は皆敵だし、そしてその領域の中に常に敵がいないと気が済まないと云う厄介な質で、蝶よ花よと大事に育てられ、仙姿玉質とばかりに褒めそやされ、我儘放題に生きて来た加代子にとって、今の敵は小夜子そのものであった。大人しく家の中でぬいぐるみでも抱いていてくれようものならば波風など立たぬのに。
先だっても小夜子の通う小学校のクラスの担任教師(これがまた新卒なのか若いばかりでなんとも頼りがない)から注意とも勧告とも取れぬ云わば告げ口めいた電話があった。
−−−小夜子さんがそちらの近所の××地区にある廃神社へ通っているそうですが…
−−−あの辺りは人気もまばらなので注意するようお家の方からも云って頂けますと…
−−−いやあ、昨今厭な事件も多ございますから…
どうにも話し振りが慇懃無礼な感じを抱かせるその担任の、未だ痘痕の消えない間の抜けた面立ちを思い出して受話器を持っていない方の手の爪をキリリと噛んだ加代子は、「あの娘は強い子ですのでお気遣いなく」とピシャリ電話を切ってしまったのであった。ちょうど夕餉の支度をしている最中であったし、悠介はテレビを見飽いてかこちらに来ては何やらもそもそと言葉らしきものを発し、ニコニコしながら己が着用しているエプロンの裾を汚すので、加代子はなんだか何もかもが嫌になってしまったのだ。普段、小夜子の前では気丈に母親然とした態度を取ってはいるが、結局己は子を成した今となっても大人に成り切れていないのだ。
子を持つ資格のないもの同士が子を成した末路がこれか−−−
と、加代子はひとつ嘆息して、湧いた欠伸を堪えることもなく、浅い眠りの底に堕ちて行った。
小夜子八歳・梅雨時
小夜子がその神社を見つけたのは全くの偶然であった。
蒸し蒸しと湿気ばかりが募る空梅雨の、薄暗い雲の切間からほんの少しの抜けるような青がちらほらと映る午後。日曜日であったが特に予定もなく、家にいてもなんだか居心地は悪いし、開けた窓からほんのり通り行く風は室内の空気を澱ませるだけで一向にすっきりとはさせず、どうせ部屋でもやもやとしているだけならば外にでも行こう、と当てもなく家を出た。
小夜子は梅雨の季節も好きだったけれど、こうもすっきりはっきりとしないと湿度ばかりが気になって、じめじめとした大気が身体中に纏わりつくようであったし、気のせいか己の普段はサラサラと風に舞う栗色の髪もその毛先までもおどろおどろしく感じられて、いい加減うんざりもしていた。梅雨だと主張するのならば、潔くこの世界をずぶ濡れにしてくれれば良いのに。
小夜子は雨の日も晴れの日と同じくらい好いていたし、様々なもの達が雨粒に打たれ、その匂いを変化させる様子も好んでいた。中でも雨音の歌声を耳にするのは格別であった。屋根をトントンと鳴らす音、外壁にヒタヒタと打ち付ける音、庭のポリバケツをタンッタンッと小気味よく鳴らす音、シトシトとした擬音、ザアザアと云う擬態、気持ち良さげに謳う蛙の鳴き声、植物群の歓喜の雄叫び、紫陽花の葉から垂れる雫の一滴、ちょいと摘んで離せばのんのんと腕を這うカタツムリ達の足音−−−そう云ったものを小夜子に与えずただ湿度ばかりを上げて行く今年の梅雨に、小夜子は辟易とした気持ちでいた。
居間に置いてある共用パソコンで天気予報をチェックした小夜子は「降雨予報三十%」の文字を見て、傘をぶら下げるのを止めようか迷ったけれど、雨と傘の立てるセッションも大好きだったし、なんせ傘の模様が目玉の親父と云う大のお気に入りのものだったので、三十%の望みにかけて傘を手に取りぶらり出た。
Tシャツの上に長袖のシャツを羽織りデニム地の長ズボンと履き慣れたズックを履いて、髪の毛は丸めてお気に入りのキャップの中にしまうと云う出立の小夜子は、元の華奢さも相俟って男女の別を目立たなくさせた。これは彼女なりの自衛の手段でもあった。『お兄ちゃん』が現れてからは小夜子は殊更服装に気を使うようになっていた。とは云え人通りも多くなる日曜日の昼間に『お兄ちゃん』が出て来ることは経験上なかったのだけれど。それでも自衛は必要だと小夜子の野生的本能が告げていた。なので、傘は護身用とも云える武器でもあった。ああ、私も鬼太郎のように霊毛ちゃんちゃんこを持っていたら、あの『お兄ちゃん』の顔にぐるぐると巻き付けて前を見えなくさせてやるのに−−−などと子どもらしい妄想をぶらぶらとさせて、なるべく家からは離れないよう、でも何処か居心地の良い場所はないものかしらんなどと考えながら、小夜子は普段侵入ったことのない路地を曲がってみた。
うらぶれた−−−と云うのはこう云うところを云うのであろうか。
小夜子は一筋曲がっただけなのに、その景色の、色合いの、空気の、さめざめとした変わりようにドキリとさせられた。決して怖いとか恐ろしいとか云うのではなく、何となくいじらしいとでも云うのか。
右側の家のトタン屋根の赤黒い錆はところどころ腐食が進んでおり、庭先の土埃に塗れた植木鉢の累々は半分は枯れたように萎んでいて、今にも雨が降り出しやしないかと待ち侘びているように見えた。コンクリートブロック塀は目地も整っておらず、もし次に台風でも来たら崩れてしまうのではないかと他人の小夜子ですら案じてしまう頼りなさだ。
そんな風な、少しく古びた家が連なった通りを小夜子は音を立てないようにしずしずと歩き、横目で観察してはそのひとつひとつを愛おしく思った。色褪せた物干し竿、玄関先にポツネンと置かれた陶器製のキャバリア犬とドワーフうさぎは喧嘩でもしているかのようにお互いそっぽを向いている。用無しとなってしまったであろう横倒しの三輪車、庭先の方々から咲き出でているドクダミの美しさ、生垣に取って代わろうと猛々しいハルジオン、軒先の木造りの棚に無造作に置かれたサザエの貝殻の群れ、取り入れ忘れて久しげな洗濯物の黄ばみ、未だ木製の電柱は今にも傾かんと頼りなく、その軋みを早めるようにカラスが一羽、電線の上に立ち小夜子を見張るような目付きで佇んでいる。否、隅に置かれ網を無造作に掛けられた幾つかのゴミ袋を見遣っているのか。
と、そこまで見て視軸を前に向けると小ぶりな十字路が目前に在った。
十字路まで、まるで喰らいつくように真直し、右に曲がろうか、左へ向かおうかと左右に目を向けていた小夜子だが、目の前の真っ直ぐな道の奥に階段の高く聳えるのを目にし、すぐさま足先を前方へと向けた。ずんずんと足を地に打つ。好奇心に溢れた小夜子は先ほどまでの静けさを持った足取りは何処へやらと思わせるくらいに大胆だ。
階段を前にしてみると、思っていたよりも段数は少なく些か小夜子をがっかりとさせたけれど、見るからに古そうな石造りのそれはところどころに亀裂が侵入り、ともすれば角の辺りが欠けていたりもして、散り散りではあるけれど苔生したそれは人の往来のなさを物語っていた。階段の横を見ればそこは緑深い雑木林となっており、樹々が階段に合わせ坂なりに生え、小夜子はうらびれた住宅街の中に突然現れたこの鎮守の森のような出立に少しく呆然となった。まるで十字路を渡ったら異世界に辿り着いてしまったように思えて、慌てて後ろを振り返るも元来た道は在ったままにうらぶれており、ひどく小夜子を安心させた。
右足を一段目に掛けてみる。ジリッとした石造りの感触。苔を踏むのは嫌だからなるべく避けて歩を進める。上には何があるのだろう。ドクリドクリと心臓が波打つ。この感覚が好きだ。未知なるものを前にした時の胸の高鳴り。一歩、また一歩と歩を進めるごとに上方の視界も開けて来て、しかし小夜子は勿体ぶって、わざと上を見ないように足先に視線を集中させた。苔を踏まないように。決して彼らを傷付けないように。
やっと最後の段を上り終えた小夜子はそうっと顔を−−−まるで誰かの機嫌でも伺うように−−−そうっと上げた。
まず目に付いたのは両脇から覆いかぶさるように生えた一面の緑。晴れの日にはきっと木漏れ日がキラキラと差し、新緑の中の宇宙を垣間見させてくれそうな葉っぱの大群。そこからグッと下がって小夜子のすぐ両脇に、階段と同じくして苔生した石造りの灯籠が二つ、対となるように左右に据え置かれている。そうして目の前にその赴きを朽ち果てることへと身を置いた木製の−−−これは、お堂?
些か小ぶりではあるが、神社仏閣の本堂らしきものがその地の中央に鎮座していた。
小夜子はごくりとつばきを飲み込んだ。
仄暗い。
本堂の辺りだけがどんよりとした空からの明かりをも受け付けず、ひっそりと闇に染まるように奥の暗がりへと馴染んでいる。鳥居も手水場も鐘楼もないそこは、小夜子には神社なのかお寺なのか区別がつかなかったけれど、間違いなく元はそれらだった処で、そのひっそりとした空気が妙に小夜子の肌に馴染んだ。
見渡せば敷地内の至る所に石が在り、まるで石と云う石は全て我らが覆ってやろうぞと云わんばかりに苔に侵されている。苔が湿気を好むからか、湿気が苔に受け入れられるからか、先ほどまで鬱陶しいと感じていた空梅雨の湿度も気にならなくなった小夜子は、キャップを外し一応ぺこりと頭を下げて、その地に足を踏み出した。
もうだいぶん人が通っていないであろうそこは、足を踏み入れる度にかさりぱきりと枯れた枝葉を踏みしだく音がして、小夜子をほんの少し心細げな気持ちにさせたけれど、鼻から思い切り吸い込んだ空気は湿気と緑の濃い匂いに塗れていて生き物の気配を其処此処へと感じさせた。小夜子は思い出したように傘の先端で地面を弄ってみたけれど、枯れた枝葉の下に広がるのは土の地ばかりで石畳のような整えられた地面はなく、もう、本当にもうだいぶん前に廃れてしまった神社仏閣であることが窺い知れた。そのままお堂の方へと歩を進め、正面へと立つ。賽銭箱もなく、しかし尚もきっちりと閉められた扉の奥からは何か荘厳な趣が感じられて、建てられてから何年何十年、もしかしたら何百年をも経っているかも知れないこのお堂の、齢を帯び風雨に晒され草臥れても尚凛とした面立ちに小夜子は背筋の伸びる思いであった。暫くそうして放心した体でいた小夜子であったが、ふと左目の端に浮かんだ涙に滲む淡い光に気が散った。
緑深く、星空が如く散りばめられた葉の群れの切れ間にソレは在った。曇り空の白々とした明かりをまるでスポットライトのように円錐形に当てられ、白花色に輝くソレを小夜子は一瞬神々しく映える『おとろし』かと思ったけれど、おとろしがこんなに白いはずもなく、しかしそんな妖物がいても何ら不可思議はないくらいにその場所は澄み切っていた。小夜子が映画『ネバー・エンディング・ストーリー』を観ていたならば、きっとそれを丸まったファルコンだと思い込んだであろう。小夜子は目をこしこしと擦って、尚もよく観察しようと恐る恐る足を踏み出した。怖かったわけではない、なんとなく穢してはならない場所のような気がしたのだ。
この世には人の踏み入れてはならない領域があることを、小夜子は素肌で感じていた。
小夜子の歩いている辺りは昼尚昏く、踏み締めると柔らかい感触がズック越しからも感じられ、ふと目を足下に置くと小夜子の足元は枯枝から苔の絨毯へと取って代わっていた。心の中で小さく「ごめんね」と呟く。命を踏み躙る行為はどうしても頂けない。
そんな小夜子の心持ちに応じたわけではないであろうが、ゆっくりと足を苔の上に置くたびにまるでヒカリゴケのように苔が微かな光をも反射し、小夜子の振動に合わせフワッと舞い上がるそれはいつかテレビで観た珊瑚の産卵をも思わせて(苔の森が生み出す海中の息吹)と云う不思議なフレーズを頭の中に浮かび上がらせた。
小夜子はもっと苔たちの海中舞踊を楽しみたかったけれど、ソレは苔自身を傷付ける行為となってしまうと思い立ち、その欲求をグッと堪えた。その代わり、殊更ゆっくりと大股に歩を進め、その度に立ち上がる森の息吹を楽しんだ。
そうしてその場所に近付くにつれ苔の光反射も終わりを告げて、小夜子の不思議な森の中の海中旅行は終わってしまったけれど、小夜子の瞳は目の前に佇む白花色をしたソレに心を奪われていた。目の前に鎮座するソレは妖物でも何でもなく、一本の大きな御神木であったろう木の切り株であった。小夜子は今までにこんなに大きな切り株を目にしたことがなかったので大層驚いた。なんせ直径が幼い小夜子を横にして二人分はありそうだ。
切られたのか。
何某かの理由でもって伐られたのであろうその切り口から地へと続く根に向けて、もうすっかり石のように硬く、そして白く様子を変えてしまっているソレは、時が経ち過ぎていっそ造りもののように小夜子には見えた。樹木の石化。そんなことがあるのだろうか。 あるとすればどれだけ長い年月をこの老木のなれ果ては過ごして来たのであろうか。己の腰辺りにまである切り株の横に佇み、そっとその表面に手を伸ばしてみる。石のようなざらりとした外観に沿うようにざらりとした感触を手のひらに与えて、しかしその感触は満更でもない心持ちを小夜子にもたらした。ヒヤリ、ざらり。もしも御神木であったのならば、腰を掛けたら不敬だろうか。それとも神様は、こんな幼な子の悪戯心など気にも止めずにいてくれるであろうか。もじもじがうずうずに変わって、それがわくわくに変わるころ、小夜子は切り株の上にズックを脱いだ小さな足を乗せ、横たわっていた。両の腕を真横に広げ足を投げ出し、まさに大の字の体になった小夜子は、頬を紅潮させ空を見上げていた。世の中のどれほどの子どもが木の切り株に寝そべることが出来るだろう。見上げた空はやはり少しく斜め上の辺りだけ枝葉の宇宙が切り取られていて、そこから丁度雲の切れ間と青空の隙間が見える。この切れ間から、晴れの日にはどれほどの日差しが降り注ぐのだろうか。そうして夜になったら幾許かの星が垣間見られるのであろうか。小夜子の家を澱ませていた隙間風もこの地では心地良い微風へと変わる。これだけ樹木が多いと鳥や虫の息づく声が聞こえても良さそうなものなのに、ただ風が葉をさする音だけがさらさらと耳に当たるのみで小夜子は少し首を傾げたけれど、これ以降この地は小夜子にとっての居心地の良い逃げ場所となった。
七月、未だ梅雨の明けぬ学校帰り、または休日のいとまを縫って、小夜子は廃神社に通うようになっていた。
本当は、あの学校帰りの洋館に入り浸りたい気持ちも多分にあったのだが、あそこはあくまでも他所の家の敷地内であるし、それほどに人通りが少なくとも住宅街故に余りにも人目に付きやすく、しかし自宅にも寄り付き難い気配を抱え、かと云って遊び友達もなく、むしろ最近はクラスメイトの大半に陰口を叩かれたりすれ違いざまに小声で罵られたりと精神的ダメージの蓄積している小夜子は、学校からの帰路、家の前を通らずにこの地へと(多少迂回することにはなるが)訪うことの出来る道筋を発見し、足繁くと云わないまでも足を運んでいた。そうして時に光放つ苔や老い朽ちた切り株に身を横たえ、茫然自若とすることを好んでいた。
寂しさに身を侵された時は冷たい苔の、じんわりと己の髪や衣服に染みる露の一雫すら暖かく思えたし、傷付き、虚しさを覚えた際は切り株の上で大となり、その身を空っぽの器へと変えた。そうして、切り株の上で横を向き、今ここにあの石像が並んで寝転んでいてくれたならばどんなに素敵だろうと想像しては悦となるその度に、己が周りを囲う昏がりがザワリとした波音を立てて迫って来るような気がして、小夜子はハッと身を起こし振り返るけれど、そこには只しとしとと瑞々しく水を含んだ苔が暗がりに落ち着いているだけで、小夜子を不思議な心持ちにさせた。
切り株や苔類はいつだって小夜子を歓迎するでもなく、だからと云って厭うわけでもなく淡々とそこにあるのみで、その佇まいがいっそう小夜子を住み良くさせた。
そう、あの日までは。
叩かれる悪口や陰口も十日ほども経つとレパートリーが少なくなって来るのか妙に雑となり、しかしその雑さが余計に小夜子の心を傷付けていた。小夜子は朝が来るのが何とも億劫で、しかし「学校に行きたくない」のその一言が誰にも伝えられず、行き帰りに一瞬目にするあの石像を心の糧として、その一瞬一瞬のために鉛のような足を引きずって、今日も玄関扉を力なく開けた。今にもつっかえそうな喉の奥からやっとこさっとこ捻り出した「行ってきます」と云う果敢ない声はリビングでテレビに釘付けとなっている弟の嬌声にかき消され、宙を漂い煙のようにふわりと消えた。当然返す言葉は降っては来なかった。
「行ってらっしゃい」。
そのたった一言がクラスメイトにいじめられている小さな女の子の心を幾計りか救うことだろうか。
小夜子の住む辺りでは、防犯上登校時、近隣の子どもが班となって学校へ向かうこととなっていた。一応先頭と後尾に上級生と保護者が付くものの何となく背丈も揃わぬぞろりばらりとした集団は、外国の絵本の『はらぺこあおむし』を思わせて、最前までは小夜子を楽しくさせていたものだった。その代わり代償として、石像を帰り道ほどには目に出来なかったけれど、もしこの登校班がなかったら、小夜子はとっくに学校をスケープゴートしてしまっているところだったであろう。登校班には今年入学したての一年生が二人と、小夜子より一つ年上の三年生男子が二人、二つ上の四年生女子が一人、あとは五年生と六年生の女子が一人ずつ、そして小夜子と同じクラスの男子が一人いた。男子は名前を『山本くん』と云い、親切で優しく頭も良く、体育の授業もお手のもの、尚且つ顔立ちも可愛らしいまさに『スーパー小学生』なのでクラスの女子たちから大層人気があるようだった。
「大鳥!おはよう!」
元気な声が伏せがちの頭の上に降って来て、小夜子は(ああ、山本くんは今日も元気だなあ)と云う平凡な感想しか抱けなかった。きっと山本くんはこれから先も一生いじめとは関係なく生きて行くんだろうな。などと羨む気持ちくらいしか持てなかった。
小夜子はぽつり「おはよう」と返し、とぼとぼと登校班の列に並んだ。さりげなく小夜子の横に並んだ山本くんは毎朝いつもそうするように今日の時間割に対する文句や、昨日あった教室での滑稽譚などを一通り喋り、−−−しかしいつもとは違った調子で間を取って、「大鳥さ、…なんかあったの?」と尋ねて来た。
山本くんの話に適当に相槌を打っていた小夜子は、山本くんの突然の質問に返す言葉を失い、しばし固まった。
あり過ぎる、何もかもがあり過ぎる。
陰口を発するクラスメイト、
悪口を伝うクラスメイト、
小夜子を見ない母、
小夜子を疎う父、
気味の悪い笑みを浮かべ迫り来る『お兄ちゃん』、
気付いてくれない先生、
気付いてくれない母、
気付こうともしない父、
ケラケラ笑っているだけの弟、
助けてくれない大人たち、
救ってくれない子どもたち、
小夜子を除け者にするすべての者たち、
そうして、−−−誰にも助けを求められない自分。
「止まらないで!歩いて!」
後尾を歩く上級生からのピシャリとした声にハッとした小夜子は少し頬を紅潮させ、
「何もないよ、ありがとう」と、山本くんの顔を見ずに答えた。
もし話せたとしても、あなたみたいな人には分かるまい。そんな感情を添えて。
なんとなく気まずい雰囲気に包まれたまま学校まで辿り着いた山本くんと小夜子であったが、小夜子が下駄箱でズックから上履きに履き替えんとしたその時、靴箱のちょうど左側でとうに上履きへと履き替え終わっていた山本くんが小夜子に向かい再度話しかけて来た。
「大鳥さ、…あの、近くの神社で遊んでない?」
小夜子はぎくりとした。
なんで山本くんが知っているんだろう。小夜子は小夜子だけの秘密を知られてしまいドギマギとしたし、そんな秘密を知りつつも、ついさっきまで訳知り顔で黙っていたのかと思うと山本くんの無礼さに少し腹を立てたりもした。
「違ってたらごめん。で…でも、大鳥が神社の方に向かってくの、見たから…」
小夜子の雰囲気が変わったのを見て取ったのか少し慌てたような山本くんは弁解するように宣った。
小夜子は背負っているランドセルの紐をぎゅうと握り、絞り出すように「…後を付けたの?」と訊き、そうではありませんようにと祈った。ストーカーは『お兄ちゃん』だけでうんざり!
なので山本くんからの、
「ち、違うよ!…近所なんだ、うち。あの神社の」
「たまに窓から見えて、大鳥が歩いているところ…」
と云う、か細い声を聞いて幾分か安堵した。
小夜子はほうと一息付くと山本くんに向き直り「たまにだけど、行ってる」と答えた。
山本くんは小夜子の気配が少し和らいだのを知ってか知らずか少し調子を取り戻して、
「あそこは『善くない場所』って云われてるから、あんまり行かない方が良いよ」と云い、「人も少ないし危ないから」と続けた。
小夜子は山本くんの『善くない場所』の一言が気になって仔細を尋ねようとしたけれど、小夜子に忠告をして満足をしたのか、幾分か頬を赤らめた山本くんは「じゃあ!また教室で!」と爽やかな笑顔を残し、タタタと足音も軽く去ってしまった。
小夜子はクラスメイトに秘密を知られていたことや山本家が近かったことにすっかり動揺していたし、山本くんはその人気っぷりからかあまりにも能天気過ぎた。小夜子と山本くんの会話の隙間に潜んでいるものの、その翳りの、その姿に二人はとんと気付いていやしなかった。
小夜子が二年三組の教室の扉を開けると賑わっていた室内が一瞬シンとなった気がした。しかしそれもあっという間の出来事で、途端に一部の、否多数の女子たちがヒソヒソと小夜子に向けて何かを囁く声が散らばる。小夜子はそれらを気にしないよう、耳にしないよう心の目を瞑って、窓際の、自分の席までスタスタと歩いた。ランドセルを机の脇に下げて教科書を取り出す。その刹那、先まで話しをしていた山本くんの姿がチラリと目の端に映った。山本くんはクラスの目立つ男子たちの真ん中で何やら楽しそうに身振り手振りで話し込んでいる。あなたのような人には分かるまい。再度そう心の内で呟いて、小夜子は一時間目の授業の支度を始めた。
その日は土曜日で、学校もお昼までで終わりとなるし、翌日は休みなのもあってクラスの大半は浮かれていた。四時間目は音楽の授業で移動教室となる為、小夜子は教科書を持ってひとり音楽教室までトボトボと歩いた。一人なのは慣れている。でも今の状況で独りでいるのはやはり辛いものがあった。小夜子たちの教室は古い校舎の二階で、音楽教室もその棟の三階にあったので大した移動距離ではないのだが、キャッキャうふふとわざと寄り添いあって小夜子の脇を嘲笑うように走り過ぎていくクラスメイトの、たったそれだけの行動で深く抉れる己の心の弱さに小夜子はうんざりとした。傷付いて見せたらより増長するのか、それとも溜飲が下がるのか、どちらが正解か分からない小夜子は、平然を装うことしか出来なかった。途端に耳元で「バーカ」と云う醜い囀りの音が聞こえ、そうしてまたキャッキャとした足音と言霊が廊下に反響しては音の楽しさへと向かう扉を小夜子の目の前でピシャリと閉めて、小夜子はげんなりとしながら閉まったばかりの音楽室への扉を開けた。黒板に白々と書かれた今日の練習曲は『手のひらを太陽に』で、何がみんなみんな生きているんだ友だちなんだ、と小夜子は胸の中で毒突き、真っ赤に流れる血潮なんていらないからあの石像と友だちになりたい、と強く願った。小夜子は口パクをして合唱に混ざらなかった。それが小夜子に出来る唯一の反抗であった。
練習の合間合間に一部の女子が小夜子を睨みつけ囁く声も、音楽室の中ではその防音壁に吸収されて、小夜子の耳までは届かなかった。
キンコンカンコンと音楽の授業が終わりを告げ、大半が『終わりの会』に向けて滑り出すように音楽室から姿を消し、小夜子もその波に飲まれるように教室を後にした。狭い廊下の隅にある音楽室から正反対にある階段まで歩を進める。今日は少しゆっくりあの石像を眺めよう、人に咎められたらお腹が痛くてうずくまっているとかなんとか云えばいい。
そう云えば山本くんの云っていた、元は神社だったと云うあの切り株の地の『善くない場所』とはどう云う意味なのだろう。本人に訊ける機会があるだろうか、とそんなこんなをつらつら考えているうちに、ふいに頭にビリリと走った痛みに思わず「痛い!」と声を荒らげた。たまらず後ろを振り返るとそこには小夜子の悪口を広める渦中の女ボスがいて、小夜子をきつく睨むその瞳は怒りと憎しみと涙で縁取られて居り、そうして小夜子の髪の毛を抜けるほどに強く引っ張った右手には小夜子の髪の毛が幾本か巻き付けられて居り、小夜子を幾許かゾッとさせた。
「男たらし!」
「なによ、ちょっとばかり可愛いからって!」
「アンタなんて大嫌い!」
「アンタなんて…アンタなんて、いなくなればいいのに!」
そう泣きながら叫んだ女ボスは仲間に慰められながら小夜子の横を、わざと小夜子にぶつかりながら通り過ぎて行った。小夜子はぶつかられるがままにふらりとよろめいて、しばし呆然としたけれど、そうしている内に周囲の視線が気になって、ぶつけられた辺りを手で払うような仕草をし、わざとなんでもない風を装った。小夜子は何が何だか分からなかったけれど、そんな蛮行に及んだ女ボスに憐れみすら感じて、そうしていなくなられるものならとっくにいなくなっている、と強く思った。山本くんの云う『善くない場所』が神隠しの場所でもあるならば、小夜子は喜び勇んで隠されるのに。
帰りの会では、いつも胡乱な顔をした担任教師から、さも皆に注意を促すように「あまり人気のないところには行かないように、特に寂れた神社やお寺には」と云うようなお話しがあって、小夜子はハッとして右横の廊下側に座る山本くんの顔を見た。山本くんも小夜子の視線の意味を感じ取ったのか「俺じゃないよ」と云う風に焦った様子で身振り手振りで伝えて来たので、小夜子は冤罪を詫び、そうしてクラスを慎重に見回すと、小夜子の斜め前に座る女ボスとその取り巻きが小夜子を睨み付け何かを囁いているので、小夜子はなんとなく合点がいった。朝の山本くんとの会話を女ボスの手の内の誰かに聞かれていたのだ。そうしてその話しをおもしろおかしく歪曲して伝えたのだろう。なんせ山本くんはクラスの女子たちのアイドルであったし、そして女ボスももちろんそのファンの一人であったのだろうから。大方小夜子と山本くんが二人、神社で遊んでいるとかそんなことを吹聴したのだろう。でなければ女ボスだってあそこまで怒ったりはしない。
恨み、辛み、妬み、僻み、嫉み。
ああ、なんて面倒臭いのだろう。
とにかくこれで確かなのは、小夜子にとっての安らぎの場がまたひとつ、消えてしまったと云うことだ。
現在地
小夜子が己が手のひらを懐で合わせ祈るような形を取った時、ガーゴイルもまた祈るような心持ちでいた。もしこの地を再びあの頃のような、賑々しくも果敢ないモノたちの依り代として調えることが出来るのなら、かの星空に映るサソリの火のように己が肉体を、命を投げ出しても良いとさえ思った。そう、まことのみんなの幸のために。
などと、らしくもなく殊勝な心緒でいたガーゴイルであったが、幸も不幸もないのがこの地の居心地の良さであったことを思い返し、己が心内の変化に大いに戸惑うた。
あの時ドラゴンはなんと云った−−−?
ガーゴイルが未だ茨の蔦に絡まれ取られ、庭先のひとつの石像であった頃−−−それはつい先日の事のようでもあり、何十年、何百年も前の事のようにも思えるが−−−幼き小夜子の可愛らしい勘違いで己が目前に顕現されたドラゴンは、ガーゴイルの抱えた玉を見て、
−−−彼の地を清浄に戻し、その玉を破ればいずれ彼の地に彼のモノどもが降って湧くであろう。−−−しかし、それには些かの…
「ガァちゃん」
小夜子の呼び掛けに、続くドラゴンの言葉は掻き消され、ガーゴイルをひしゃげた緑の庭先から硬い石造りの堅牢な王国へと呼び戻した。
「どうした、小夜子」
無垢なる祈りから醒めた小夜子をガーゴイルは目で追った。小夜子はガーゴイルより少しだけ前に出て、石と岩だらけの青味がかった灰色の地を懐かしむような視線で眺め回し「この地で…貴方は、そしてみんなはどう云う風に過ごしていたの?」と、
先ほどの設問に「みんな」を足して、小夜子は再度問いかけた。
俗に『妖怪』と耳にするとどのようなイメージが湧くものであろうか。
恐ろしい、
怖い、
不気味
不可思議、
不安、
醜い、
不吉、
不幸、
穢らわしい、
疾病、
そして、死。
大凡の、世の中の有りとあらゆる不平や不幸を、そして時に死をも司るモノ、そんなイメージが大抵の人々の脳を過り、そうしてほんの少しの不安の翳りを残して去って行く。そんな人々の恐れや不安や苛立ちが、彼らの糧でもあったのだ。
そうしてそうやってここに在った彼らは−−−驚くほどに平和であった。
昼に潜むモノは太陽のない昼間に、闇を慕うモノは月のない暗がりに、水に棲まうモノは水辺に、森に巣食うモノは森林の木陰や木々の虚に、他にも納屋に住むモノ、屋根裏を居とするモノ、床板の隙間から覗くモノ、それぞれに与えられた場所があり、それを好むとも好まざるとも拘らず、有るべくして在った。
例えば−−−
主に北欧はスコットランド地方に顕現されていたケルピー。
彼は馬のような外観を持ち、時にその半身を魚にすら変え水中から湧き出でるモノで、水場で人死にや水死体が上がると大抵は彼らのせいとされ、人肉を好み、人を水辺に導いては引き入れたり、その美しい容姿で虜とし、美しさにそぐわぬベタベタとした体表で人の身体を己が肉体にくっ付けては水の中に己が身体ごと突進し、そうして窒息死させた人や人の子らを水中にて食らい、時に鉄を嫌うので心臓や肝臓だけは残し岸辺に寄らせるだとか、鉄ぐしが大の苦手だとか云われ恐れられていたが、その姿は白銀の立髪と紺碧の瞳を持つ美しい白馬や、黒々と濡れた蒼く光るカラス色の毛並みを持った雄々しい黒馬とも語られていた。
故にこの地に湧くケルピーは雨の多いと云われるイギリス諸島の、些か鬱屈とした空を背景として、色濃い緑豊かな森の中にふっと湧いた透き通るような小さな湖にその身を遊ばせたり、時にふっと川岸や海辺に湧いたりとしながら、色が白黒と変わることすら厭わずに、ただ水辺にいることを楽しんでいた。
ガーゴイルはその馬のようなあやかしの名すら知らなかったけれど、それがなんとも奇妙な水棲の馬で、時に口の端に血糊のようなものを付けて還って来ることもあることから、人の子らにとって『善いあやかし』ではないなと云うことだけは窺い知ることが出来ていた。でもそれきり。いつだって彼らに対する各々の知識はその程度で、若しくは全く関心のないものの方が余程大半で、ガーゴイルは名も知らぬソレらがどう過ごしていたかを小夜子に伝えるのに大層な時間を掛けた。しかし小夜子はそれらの特徴や住処や居場所を教えただけでもソレらの名に合点がいったようで、ガーゴイルはまたしてもこの幼きものの知見の広さや聡さに恐れ入る心持ちであった。
「水に棲む妖怪ばかりなのね」
少し怪訝な面持ちを眉間に忍ばせた小夜子の一声に、ガーゴイルは声のする方向に顔を寄せた。不思議そうでいて不穏な声色を乗せたその声は、伏せがちでその表情は見えないけれどいつに増して暗く、いつもの小夜子と印象を隔てていた。
暗闇に紛れ込んだような小夜子は昏がりから滾るように「だって、貴方は空を得意とするモノじゃないの?」と続けた。「なのにどうして水に潜むモノばかりを見知っているの?」
小夜子はガーゴイルの話す妖怪の特徴が全て水棲のモノであること(そしてその中には小夜子の心のライバルでもある美しきセイレーンらしきモノもいたこと)を不思議に思い、それはもしかしたらガァちゃんが美しきセイレーンの元へ足繁く通っていたからなのではなどと邪な憶測をしては己にがっかりとしたり苛立ったりとし、設問の仕方が少しなおざりに、否、感情的になったことを悔いた。
恨み、辛み、僻み、妬み。ああ、己の中にも確りと息付いている。
小夜子はもう一度胸に手を当て深く深呼吸をして、己の中の邪さを吐き出そうとした。
実際に大気はないと云われても、その気になれば思い切り深呼吸を出来たような気もして、心が少しくすっきりとした。小夜子は長い栗色の髪の毛をサラリと宙に漂わせ、くるりとガーゴイルへと向き直り、「ガァちゃんは、どうやって過ごしていたの?」と三度問うた。
ガーゴイルは呆然自若とした。
小夜子から何度か向けられた設問にやっと向き合えたと思えば己の中は伽藍堂なのだ。この地でどうしていた…?オレは一体どうやってこの地で過ごしていた?どんなに頭の中を振り絞ってみてもまるで中身の空っぽな玩具の達磨のように記憶の器はポッカリとしていて、思い出せるのはやはり最後に女王が砕け散った場面とその前後くらいなのだ。羽が付いているからには飛んでいたのかと夢想してみるが憶えになく、地表を見下ろす景色すら持っていない。ここがどんな風だったかは昨日見たかの如く思い出せるのに、その景色の中に己の姿が見えぬのだ。まあ視線の中に己がいるのも可笑しな話ではあるが。だが、しかし。
「困ったな…小夜子」
「どうしたの?ガァちゃん」
立ち尽くした考える人の像みたいな体になっていたガーゴイルを心配気に見守っていた小夜子は、慌ててガーゴイルの前に駆け寄った。
ガーゴイルは己がこめかみの辺りを爪の先で突つきながら、
「オレのここにはこの地での暮らしの記憶が思っていた以上になさそうだ」と宣った。
ガーゴイルは近くの手頃な岩へと腰を掛け、少し項垂れた。
人々から忘れられ、己の記憶まで失ったのならいよいよ己はただの伽藍堂だ。木偶の坊と云っても良いほどだ。今となっては最前まで思い出していたこの地の景色もただの書割のようにも思えて、ガーゴイルは何が本当で何が嘘なのか分からなくなっていた。記憶と云うものは脆いもので、一つを疑いだすと二つ三つと次から次へ、ほろほろと崩れ行く。 「ガァちゃん…」
ガーゴイルの腿の辺りに手を添えて、心配気に顔を覗き込んでいた小夜子がそっと呟く。 「忘れちゃうって寂しいよね…」
ガーゴイルの膝に己の両手をそっと重ねて置き換えて、そこに頬を寄らせた小夜子は八歳とは思えない表情で言葉を紡ぐ。この娘は時に己を年齢不詳として化けさせる術でも持っているようだ。
「私もね…もっと小さい頃から度々記憶を無くしちゃうことがあるの。大抵はお父さんやお母さんが怒っていたり機嫌が悪かったりする時なんだけれど。心がね、そこではないどこかへ飛んで行ってしまうの。これは解離障害とか云う病気なんだって。
でも、私の場合は消えちゃうのは嫌な記憶だからそんな記憶は憶えていなくてもちいとも構いやしないのだけれど、ガァちゃんのここで過ごした記憶はきっと愉しくて、かけがえのないものだったのよね」
ガーゴイルは小夜子のハラハラと流れるように謳う声を聴きながらも、その眼差しの庇となる長い睫毛に見惚れていた。言葉を吐き出す度に同調するようにふるふると震える煌めきが眩しい。まるで星屑でも乗せているようだ。涙の出せぬこの土地で、小夜子は泣いているのであろうか。己のために。そしてきっと小夜子自身のために。ガーゴイルは無意識に小夜子の小さな頭に触れて、サラリとした髪に指を分け入れ頭の形を測るようにそうっと撫でた。撫でるたびに髪の毛はさらりはらりとガーゴイルの指から離れ、重力のない青い空間へと落ちて行く。
そんなガーゴイルの手の動きに小夜子は今にも泣きそうになった。
そうして涙の出ない土地で良かったと安堵した。きっと涙が出てしまうのならば、小夜子は赤児が如く大泣きしてしまったであろう。ずっと欲しかったものをガァちゃんはまたもや小夜子にくれたのだ。優しく頭を撫でられること。警戒心の強い犬以外で、この行為を嫌う生き物がいるであろうか。小夜子は『普通』では手に入らないものをたくさん持っていたけれど、一番欲しいものは『普通』に与えられるものだった。頭を撫でられること。日常のたわいのない会話。抱きしめてくれる腕。安心していられる場所。
小夜子はガァちゃんを慰めるつもりが自分が慰められてしまう展開になってしまったような気がして申し訳なく思い、尚も頭を撫で続けてくれるガァちゃんに目一杯の感謝の気持ちを捧げながら、「ガァちゃんが、この地で最後に覚えていることはなぁに?」と訊ねた。
ガーゴイルと小夜子は再びセドナの地へと戻っていた。ガーゴイルの(今となっては)不確かな記憶が確かならば、己が最後にいた辺りはここいらと云うことになる。
小夜子が云うには記憶を無くした際、その直前に取っていた行動を真似ると記憶が戻り易くなるらしい。「どこでそんなことを知った?」と問うたら「ブラック・ジャックが云っていたから間違いない」と云う言葉が返って来た。
彼女に云わせると、そのブラックなんたらは『世界一最高のお医者さん』らしい。だから間違いないんだ、とも。ガーゴイルは訳が分からなかったが、今となっては自分自身よりも余程一番信用に足るこの幼き者の云うことならば何でも聞こうと云う心持ちになっていた。道々憶えている限りのことを小夜子に話しながら、そうして二人、来た道は曖昧なれど何となく気の向くままに歩いていると、青灰色を帯びた薄暗がりの地面から、ぼうっと勿忘草色をした灯りがしみじみと湧いているのを見て取って、小夜子は「セドナが呼んでいるみたい」とぽそり呟いた。
「もう一度彼女に触れられるとは思わなかった…」
小夜子は『セドナであったモノ』を優しく撫ぜ、やはり少し切な気な表情を浮かべた。
「貴女がこんな風でなかったら、私たちお友達になれていたかも知れないのに」
小夜子の手の中できらきらと果敢無気に内側から明滅する水晶の粒群のようなソレは、一瞬ほうっとした光を発したように見えて、ガーゴイルと小夜子は互いの目を見合った。
「…応えて、くれたのかな?」
「どうだろうな。どちらにしろ気位の高いあやかしだったから、小夜子の提案も飲んではくれなさそうだ」と、ガーゴイルは揶揄うように云って小夜子の頬をぷうと膨らませた。
「それで!?」
膝を折った姿勢から急に立ち上がった小夜子は、それでも優し気に女王の欠片たちを元いた場所へとそっと払い落とし、片手を腰へ当てるポーズを自然と取りながらガーゴイルに向き直り云った。「ガァちゃんは何か思い出せたの?」
ガーゴイルはどうにも大人びて見せようとする小夜子のその振る舞いに出て来る笑いを堪えながら「やはり思い出せるのはこの前後くらいだな」と宣った。
実際先ほども今もここにいて思い出せるのはあの時の半身を魚に変えたモノとのやり取りくらいで、小夜子が何故かプリプリしながら名を教えてくれた、そのマーメイドと云う人魚に無理矢理泡玉を押し付けられた、その事柄の前に己が何をしていたかもあやふやであった。
少し考える素振りを見せていた小夜子は、周りをぐるり見渡した後「ここら辺りは海だったの?」と訊いた。
ガーゴイルは小夜子に倣うように周囲をぐるりと見渡し「そうだな、海…と云うか水のようなモノの広がる地ではあった」と答えた。
海と云えば波が泡立ち纏わりつく生命の痕跡と塩気を含んでいたような、しかし川と取れば淡い青臭さの残る静かな流れでもあったような、そこいら当たりもあやふやであった。それはこの地特有のものでもあったのかも知れないが。
「セドナ、サルード、ケルピー、ゼーオルム、サルガッソー、マーメイド、ニクス、タラスキュ、レビヤタン、オーガ、カボ・マンダラット−−−」
指折り数えながらブツブツと言の葉を発した小夜子は、「ガァちゃんが話してくれた妖怪の特徴を考えると…私のわかる範囲だけれど大抵は…と云うかほとんどがやはり水に棲むモノだわ」と云った。
ガーゴイルは小夜子の呟いた言葉の中に何となく懐かしい響きを感じたような気がしたが、それがどれに対してだかは分からなかった。
「それにしても今回は名を呼んでも出て来ないのね」
「みんな忘れ去られて玉に込められてしまったのかも知れん」
「でも『マーメイド』辺りは有名だから今の世界でも通じそうなのに」
「その『マーメイド』とやらは−−−」
と、ガーゴイルが言葉を発しかけた刹那、二人のすぐ足元からぶくぶくと大小の泡が立ち、やがてそれは青く小さな水溜まりのような大きさとなって、ボコボコとした泡群の隙間からニョッと先端が湾曲された棒のようなモノが二本覗いた。ガーゴイルがギョッとしながら見据えているとその水溜まりの小ささに少し苛立ったようにざぶんと飛沫を上げ顔を現したソレは、魚のような大きな頭部に、何ものでも飲み込んでしまいそうな大きな口を持ちその中に鋭い牙を生やして、目は穴を穿ったように黒々とし大凡感情の一つでも汲み上げられなさそうな、奇妙な出立ちをしたあやかしであった。最初に出て来た棒のようなモノはどうやらこのあやかしの角であるらしく、前方に向かって傘の柄のように何かに引っかかりでもするかの如く曲がっている。
「なんだ…このあやかしは…」その奇妙な見てくれにガーゴイルは言葉を失った。
一方、小夜子は両の拳を握り締め「水木しげる先生の描いたマーメイド!!」と大いに興奮をしていた。
「小夜子、知っているのか、この−−−」
「不気味なって云うンならその口を閉じな」
まるで海の底から割れ出たようなブクブクと濁った声音にガーゴイルと小夜子はビクッと身構えた。
「そこの小娘だね、何のつもりかは分からないがわざとこの姿を想起しながら名を発したろう
「別に己の見てくれなんて何だって構いやしないンだがね、どうもこの見場だけは慣れないもんだよ」
と、ゴボゴボとした音を混じえ口端から泡を発しながらマーメイドは宣った。
「こんな口じゃあ喋るのも一苦労だ」
小夜子は水木しげる先生の描いたマーメイドがユニークで好きなこともあったけれど、それ以上にガーゴイルに美しい姿のマーメイドを見せたくなくて、より強く願って名を呼んだ自分の浅ましさを恥じた。小夜子は顔を耳まで赤くして俯き、小さく「ごめんなさい」と呟いた。
マーメイドは虚のような目に感情を浮かべず、「まあどうだっていいサ」と云い、「それよりもアンタだ」とガーゴイルの方を見て云った。
「ドラゴン様より仰せ使っていたのサ、全く自分で来りゃあ良いものを『我は多忙な身の上であるから』とか何とかスカした物云いしちゃってサ。忙しいのはこっちだって変わりゃあしないンだ全く」
「大体言付かったって、名を呼ばれるかどうかも分かりゃしないンだからサ」
ガーゴイルは何のことやらさっぱり分からずそのまま「何のことだ?」と問うた。
「アンタ…アンタもあの時とだいぶん見場が違うようだが、まぁあのドラゴンがそう云うンならそうなんだろうサ。それ、忘れ物のお届けだよぅ」云うなりマーメイドは口を顎が外れんばかりに開け、おゴボボボぉと声を上げながら尚も皮膚が裂けてしまうほどに大きく口を開けた。
小夜子は突然のマーメイドの奇行にこちらも口をあんぐりと開け放心するしかなかった。私、もしかしてとんでもないマーメイドを呼び出してしまったのかしら…。
ごボボオボボボと苦し気な声を発しながら虚な瞳をギョロギョロとさせていたマーメイドの口の中から白っぽくて丸い何かが顔を覗かせた。マーメイドは己が鋭い牙で玉を傷付けぬよう更に口を大きく開けて、一気に玉を吐き出した。ゴボォと云うえずき声と共に吐き出された玉は、まるでセドナが優しく受け止めたかのように水晶の地に転がることもなくぽとりと落ちた。
この玉、見覚えがある。
小夜子はセドナの上に吐き出された玉を相変わらず口を開けたまま放心して見ていた。
「ア、アンタは口開けてなくていいンだよ」と、ゲボゲボとえずきながら小夜子に放ったマーメイドは、「あン時アンタに託しただろう、何忘れてってんだい」とガーゴイルに向かって悪態を付いた。
ガーゴイルと小夜子は互いを見合い「あの時?」と同時に発した。
「あなたが…」
「貴様が…?」
「ちょっと待て。オレが玉を受け取った時とだいぶ姿が違うようだが…?」
混乱し己の額に手を当てたガーゴイルを見てマーメイドは呆れたように「だからさっき云ったろうサ。そこの嬢ちゃんの想像の賜物だよ」と宣った。
「イヤ、なんか性格もだいぶ…」
「それこそこっちの知ったこっちゃないね。それに見た目に関しちゃアンタだって相当なもんサね」と相も変わらずゴボゴボと口の端から泡を出しながら、面白くもなさそうに宣った。そして小夜子に向き直り、
「そもそも嬢ちゃんが庶民的なマーメイドとして顕現させてくれりゃあこンな苦労もせずに済んだンだ。一般的なマーメイドにゃあ手があるからね」
小夜子はまた耳まで顔を赤くして再度「ごめんなさい」と謝った。確かに先ほどのえずきぶりはとてもとても苦しそうで、小夜子まで一緒にえずきそうになったほどだった。
「まあ、お役目も果たせたし、アタシも忙しい身だからここいら辺りで失礼するよ。ああアンタ、名は知らないけれど兎に角ソレはアンタに託したンだから、アンタもしっかりお役目を果たしておくれよぅ」
云うなりマーメイドは河童の時と同じように己を流動体として、サラサラと時の彼方に流れて消えた。
ガーゴイルと小夜子はマーメイドの残して行った玉を呆然と見下ろしていた。
それは確かに石像であった時分にガーゴイルが抱えていた玉で、しかし今は洗われたように艶々と、真珠色の滑らかな外殻を持った丸い蛇の卵のようであった。
小夜子はその場にしゃがみ込み、触ってみても良いかとガーゴイルに尋ねた。ガーゴイルは小夜子に穏やかな視線を送り、それを是と取った小夜子は玉に向き直ってマジマジと玉を見つめた。玉は傷一つない滑らかさとどこか赤児の肌を思わせるぷっくりとした愛らしさも備えられていた。セドナの滲ませるほの灯りに照らされて青光りする辺りなどは、いつか母に見せてもらったアコヤガイの銀色に輝く真珠のネックレスを思い出させ、小夜子を少し物悲しい気持ちにさせた。小夜子と母の間にも、かつてはそう云う時間はあったのだ。「これは小夜子が大人になったらあげる」と、その時いつにも増してご機嫌な母は、大ぶりのバロックタイプのシルバーパールが一粒付いたネックレスを摘んで小夜子の目の前に掲げ、約束してくれたものだった。小夜子はその真珠の雲のような魚のような不思議な形を大層好み、喜んだものだった。
母は憶えているだろうか、あの時の、母の宝箱を二人で内緒話でもするかのように覗きあった瞬間を。小夜子にとってはどんな宝物より美しく感じたひと時であったあの時間を。
小夜子は人差し指を恐る恐る前へ出し、一瞬躊躇したのち、玉の側面につうっと指を走らせた。それは不思議な感触だった。その玉には明らかに毛は生えていなかったけれど、小夜子はいつか中庭に遊びに来た野良の黒猫の、黒光りする前足を同じように指で撫でた際の感覚を思い出した。つるりとして、ふわりとして、なめらかで、愛おしい。
母がこだわって設えた、居間に掛けられたビロードのカーテンの重厚な手触りよりも余程に美しい黒猫のそれは小夜子をたちまち虜とし、何度も触れては、野良にしては人当たりの良い黒猫の、い草のように強い辛抱を切らして手に引っ掻き傷を付けられるに至ったほどだった。思い切って手のひら全体で玉を撫でてみる。やっぱり猫のそれみたい。世の中にこれほど手触りの良いものがあるだろうか、と小夜子はうっとりとしてしばらくその感触を楽しんでいた。
「サヨ…」
ざわりとした声が耳元で聞こえた気がして小夜子はまたビクッとし、身を竦ませた。
「どうした?小夜子」
小夜子が玉と戯れる姿を微笑ましく見守っていたガーゴイルは、小夜子の突然の変異に身を強ばらせた。小夜子は自然と左手をガーゴイルの足に寄せてぶるりと身を震わせた。
ガーゴイルがその場に片足立ちでしゃがみ込み「大丈夫か?」と覗き込んだ小夜子の顔は先ほどまで嬉々としていたとは思えないほどに青白く、月明かりを浴びたビスクドールのように生気を失っており、ガーゴイルは小夜子の肩にそうっと手を置き先ほどよりもゆっくりと「大丈夫か?小夜子」と問うた。小夜子はしばらく放心したような素振りをしたあと、スミレの花のような色合いの唇を戦慄かせながら
「変な…何だか恐ろしいような、悲しいような…変な音に名前を呼ばれて…」
と、漸っと声を振り絞るように告げた。
ガーゴイルは首を捻りながら「オレには聴こえなかったが…」と困惑しつつ答えるのがやっとだった。それほどまでに小夜子は怯え震えていた。
「小夜子も色々あって疲れているんだろう、少し休もうか」
ガーゴイルの提案に軽く首をこくりと下げた小夜子は、しかし辺りを気にしているようで一向に落ち着かず、ガーゴイルは、
「セドナの上にでも乗せてもらうといい、彼女の上ならきっと落ち着く」
と、小夜子の背中をそっとセドナの方へと押した。小夜子は押されるがままにセドナの上へとふわりへたり込み、そんな小夜子の小さな衝撃で水晶の灯りが明滅して、小夜子をほの青白く染め上げた。その色めきにしばし放心した小夜子は、
「ガァちゃん、私、真珠みたい?」とガーゴイルに訊ねた。
真意の解らぬその問いかけに一瞬戸惑ったガーゴイルだったが「小夜子は真珠よりも綺麗だ」と思った通りの言葉を返した。
ガーゴイルの意外な返答に放心したままの視線を送っていた小夜子は、一気に顔を赤らめて、
「そ、そう云えばこの玉はどうするの?」
と、己の問うた質問内容の恥ずかしさも相まって誤魔化すように宣った。小夜子は先ほどまでの身も凍るような恐ろしさや悲しさが吹き飛んでいることに気が付いた。
やっぱりガァちゃんってすごい。小夜子の守り神みたい。
そんな小夜子の想いを知ってか知らずか、しかし明らかな小夜子の顔色の変化に心の中で胸を撫で下ろしたガーゴイルは「さぁて、どうするかな」と茶化すように宣い「どうやらこいつは相当大切なモノのようだから、さっきのあやかしに倣うとするか」と云い終わるか終わらないかのうちにセドナの上から玉を指先でヒョイっと掴み、大口を開けてパクリごくりと飲み込んでしまった。小夜子は息つく暇もなく一連の動作を呆気に取られながら見たのち「え!ええー?」と驚いた。
ガーゴイルは「ここなら安全だ」と己のお腹辺りを見遣りながらポンポンと叩き、
「片手が塞がるともしもの時に困るからな」
と、振り向いたがガーゴイルの視線の先に小夜子の姿はなく、小夜子の形に窪んだセドナの、セドナだったモノだけがガーゴイルを憐れむように悲しむように静かな明滅を繰り返していた。
翁
小夜子はポカンとしていた。
つい今し方、ガァちゃんと話して(と、云うか奇行を見て)いたはずなのに、目の前からガァちゃんが消えてしまったのだ。座った姿はそのままに、しかし足元のセドナすらいない。辺り一面は夜の森のように昏く、己の手のひらさえ見えぬほどだ。完全に夜の中に取り残された。小夜子は狐につままれても分からぬほどの暗闇に身を潜めるのは初めてで大いに不安となったが、もしかしたら何処かにガァちゃんもいて自分を探してくれているかも知れないと思い「…ガァちゃん」とか細く名を呼びながら、取り敢えず四つん這いの格好になって辺りを探ってみることにした。手を着いた地面はじくじくと湿った水の感触を小夜子に与えた。何となく憶えのある触り心地に懐かしむ気持ちが湧いたけれど、今はそれどころじゃないと己を奮い立たせ、一声大きく「ガァちゃん!」と叫んだ。しかしまるで闇が声を吸い込んでしまうかのように小夜子の呼び声は響かず、小夜子は己が声を出せなくなってしまったのかと訝しむほどであった。
声が届かないなら手で探るしかない。
小夜子は右手をそっと前へ出し、地を平すように半円を描いた。途端にぼうっとたんぽぽ色の光の粒が地面から小夜子の手の軌道に沿って降って出て、小夜子の顔をほうっと照らした。光の粒は己が潜む地面にすら色を与え、小夜子は懐かしさの正体を見て取った。
「ヒカリゴケ…」足先や着いた膝や指先に湿度を与えるそれは、あの廃神社に生えていた苔と同じ感触で、小夜子はいつの間にかあの場所に戻ってしまったのかと混乱したけれど、見上げてもそこに空はなく、目が痛くなるほどの闇がのし掛かって来るばかりで、小夜子は目を開けているのかいないのか分からなくなりそうになってしまい、苔の方に集中することと決めた。最初に森と感じたのは苔の緑の匂いが密だったからか、手探りで辺りを探っても樹木のようなものには触れることがなく、小夜子は四つん這いの格好をやめ、立って歩くことに決めた。裸足の足で歩くたびに苔は小夜子を歓迎するかのようにふわりふわりと胞子を舞い上がらせて、ガァちゃんもこの暗闇の中を歩いてくれていたら居場所が分かるのにな…と頭の中で独りごちた。一応何かにぶつからぬよう手は四方八方に広げながら、ゆっくりと歩を進めていると、遠くに白く霞んで滲む光が微かに目に映り、小夜子は暗闇の中まさに光を見出したような気分になって、その霞のような光の元へと歩を早めた。もしかしたら、あそこならガァちゃんがいるかも知れない。もしいなくとも、ガァちゃんが小夜子を見付けやすい場所には違いない!
小夜子の早足が駆け足に代わり、その度に踏みしだかれる苔群の悲鳴が聴こえるほどになる頃、やっと辿り着いた霞の先にソレを見て、小夜子は愕然となった。
「これって…あの廃神社の御神木だ…」
小夜子がこっそりと忍び込んではよく寝転んでいたあの御神木のなれ果て。暗闇の中でぼうと光っているからか余計に大きく見えるその切り株は、あの廃神社にあった時と同じように、否、あの時よりも威厳を持って根を張っているように見えた。
肌に触れる大気からビリリとした圧を感じる。妙な緊張感に支配された小夜子はごくりとつばきを飲み込んだ。なんか、こわい。金縛りにでも遭ってしまったかのように佇む小夜子は瞬きすら許されず、しかしそんな状況にも気付くことが出来ないくらい恐怖の虜となっていた。なんか違う、全然違う。見た目は一緒なのにあの廃神社に在った時とは怖さの格が違う。
「サヨ…」
またもや耳元で恐ろしげな音に名を呼ばれた小夜子は「ひっ!」と声を上げた。
「驚かせてしまったか」
また違う方から聞き慣れぬ声がして、小夜子はギョッと声のする方へ顔を向けた。
切り株の上に人が立っていた。
その−−−ヒトと呼んでいいのか分からぬヒトは、一見好々爺然とした、つるりとした禿頭に白い顎髭を長く伸ばし、ボロボロの作務衣に素足と云う出立ちで、ニコニコしながら小夜子を見ていた。しかし、割と近くにいるはずなのに顔の印象はどうにもよく分からなくて、能面の翁が一番近いような気もした。
「小夜子だな」
繁々と観察していたら当人から突然名を呼ばれびっくりした小夜子は、思わず大きな声で「はい!」と返事をした。気が付けば先ほどまでの妙な怖さは無くなっており、なんともまったりとした空間が広がっているように感じる。小夜子は恐れている自分をガァちゃんに見られなくて良かったと安堵しながら、目の前にいる老人への好奇心の虜となりつつあった。
「あの、あなたは…?」小夜子はなるべく失礼に当たらぬようと考えあぐね、無難な問いに行き着いた。
「ワシか。ワシはアレだ。この木に長々と棲みついているもの、とでも云うのかな」
「棲みついている…?」
「いや、この木そのものと云った方が分かりやすいかな」
「それは…この木の霊みたいなもの、と云うことで良いですか…?」小夜子は神の依代ともなる御神木の霊となったらそれはもう神そのものではないか、と畏れ入った。
「ハハハ、小さい身体に似つかわず中々に賢い娘だ、このモノたちが気に入るのも分かる」
「このモノって…」
と、小夜子が云いかけた途端、小夜子の周りにぼんやりと黄緑色に光る丸いモノが多数出現した。ホタルよりも淡い光を発するソレは、目が光に馴染んで来るに従い人型と見て取れて、異様に大きな頭にちんまりとした手足を付け、しかし目鼻のようなものは見当たらず、小夜子は昔父からお土産にもらった岐阜県名物の『さるぼぼ』のキーホルダーを何となく思い出していた。さるぼぼと違うのは、これらは服を着ていないことと、何となく身体を通して奥が透けて見えること。そしてどうやら異様なほどに小夜子を好いていそうなところ。
短い手足を使って不器用に小夜子へとにじり、登ろうとする姿が何ともいじらしく、小夜子はその場にぺたりと座った。途端にソレらは小夜子の膝や腿の上によじ登り、小さな声で「サヨ…、サヨ…」と呟くのであった。
「この子たち…私のこと、知ってる…?」
座っては見たものの触れるとパッと光を放ち、小さな光の泡となって雲散霧消してしまう身体をどう扱って良いのか分からず途方に暮れてもいた小夜子は、半ば縋るような思いで老爺の方を向いた。
「知っとるはずだ小夜子。あの地で何度も戯れたであろう。そいつらはあのコケの精霊みたいなもんだ。
「触れて散ってもすぐに元に戻る。扱いに気を付ける必要もない」
にべもなくそう云われ、しかしだからと云って気を付けないことも出来ない小夜子は、出来るだけ触れることのないように注意しつつ、ヒカリゴケの精霊をまじまじと観察してみた。ヒカリゴケの精霊…不思議なことは何度もあったけれど、まさか精霊を目の前にするなんて思いもよらなかった。口がないのに言葉が聞こえるように感じるのは思念みたいなものが漏れ出ているせいであろうか。それにしても思考はまるでしていないように見えて、わらわらと小夜子の身体を這い回っては小夜子の名を呟く精霊は、ただ『好意』と云う欲のみで動いているように感じられた。小夜子は精霊と戯れる小夜子を見たらガァちゃんはやっぱり焼き餅を妬いてくれるのかしら、と思い、そこでハッとした。
「あの…!あの私、人と、と云うか人ではなくて、お、大きなモンスターと一緒にいたんですけど、ガァちゃんって云う名前の、
「彼は…彼はここにはいないのですか?突然消えてしまって」
慌ててつんのめるように質問する小夜子を相変わらずよく分からない顔付きで見ていた老爺は、「ああアレか。アレはここには居らんよ」と当たり前のように云った。
小夜子は慌てふためいて、「え?え?ど、どこに行ってしまったんですか?」と、ヒカリゴケたちが霧消することも厭わずに膝立ちとなって老爺に詰め寄った。
「分からんかな?」
ニコニコとした顔付きに見える老爺は続けてこう云った。
「小夜子が隠されたのだよ」
「隠された…?私が…?」
小夜子は呆然となって、老爺の言葉を鸚鵡返しすることしか出来なかった。
「いわゆる『神隠し』と云うやつだ、知っとるだろう」
「そ、それは、し、知っていますけれど…」
小夜子は何で私が隠されなければならないのか、と云う強い怒りに似た混乱を憶えたけれど、それと同時に怖気のようなものにも支配されてしまい怒りを口に出すのも憚られて、そうして、と云うことは私が突然ガァちゃんの前から消えてしまったこととなってしまったことに思い至り、ガァちゃんは今どれほど心配してくれていることだろうと悲しくなった。
「泣くのか、小夜子」
老爺は特に巫山戯る口調でもなく、淡々と小夜子に訊いた。
小夜子は先ほどまで可愛らしく思っていたヒカリゴケの精霊もが煩わしく感じられて、少し乱暴に立ち上がると「どうして、どうして私を隠したんです?」と強く尋ねた。ヒカリゴケたちはぽやぽやと崩れては現れ、小夜子の足の周りに集っては消えて行く。
「なぁに、特に意味はない。まあ此奴らが会いたがっていたのもあったが」
「じゃ、じゃあもう目的は果たしましたよね?還してください!」
「ワシに命令するな」
突然放たれた強い語気に辺りの空気が棘のように小夜子の全体を刺し、小夜子はヒュッと息を飲み込んだ。
小夜子がそのまま動けずにいると、老爺は「この声が聞こえんか?」と問うて来た。
途端に幾度か耳にしたあのおぞましい「サヨ…」と云う呼び声が耳元で響き、小夜子は再びヒュッと息を吸い込んだ。ソレはヒカリゴケたちの放つ呼び声とは似て非なるもので、やはり小夜子の背筋を充分に寒からしめた。
「これ…この声は、に、苦手です…」
小夜子は震える首元で漸っと言の葉を紡ぎ出した。
「さぞ凶々しく己の耳元へと届くだろう、これが毒されたモノの声だ」
老爺は相も変わらず読めない表情で、しかし飄々とした口振りでそう云った。
「あの…毒されたモノって…?」
小夜子は腕に鳥肌を立たせながら、尚も辺りを警戒することを止められず、ソワソワとした素振りで老爺に問うた。老爺は「ホホッ」と笑い声のようなものを発したあと「なんだ、その為に連れて来られたようなモンだろうに、未だ何も知らんのか」と半ば呆れ口調で宣った。
「お主の連れ合いは余程のんびりしているのか、ことの次第をよく分かって居らんのか、もしくは伝えるのが怖いのか、どうだかは分からぬがいずれにせよ愚かだな」
「ガァちゃんは愚かなんかじゃないわ!」
小夜子は先ほどの怖さも忘れて老爺に牙を剥いた。
ガァちゃんの、あの優しくて聡明で勇敢なガァちゃんの悪口を云うだなんて木の精だろうと神様だろうと許せない!
途端に足元に群がっていたヒカリゴケたちは方々へと散って弾け、辺りの空気がザワザワと波を立てた。小夜子自身も青い炎のような光を全身から滲ませ、髪はふわりと宙を舞い漂っている。
「ホホ、怒髪天を突くとまでは行かないいが、あやかしに見染められることだけはあるな。善い気を持っている」
小夜子は自分でもらしくないほどに憤っていた。
こんなに憤るのはいつぶりほどだろう。
大事にしていたぬいぐるみを為す術なく捨てられた時?
集めていたセミの抜け殻を「汚らしい」とゴミ箱にぶちまけられた時?
大切に見守っていたドクダミの花を抜かれてしまった時?
大好きだった塩化ビニルモノマー製の怪獣を弟に取られてしまった時?
なんか違う。それらの時もそれぞれに憤ったけれど、小夜子は怒りよりも悲しみが勝ってしまう質の人間だ。だからそうきっとこの憤りは。
小夜子が生を受けてから、初めてと云っても過言ではないほどに純粋な怒りであった。
ふいに隅の方からバチバチっとした音が聞こえ、老爺は怒る小夜子をそのままにそちらへと顔を向けた。「やはり人間らしさ、感情に反応するか」そうボソリと呟いた老爺は小夜子へと向き直り未だ怒り冷めやらぬ小夜子に「さて小夜子」と声を掛けた。
初めての怒りの制御がどうにも上手くいかない上に、何だか身体から青い光までをも立ち上らせてしまっている小夜子は、フーフーと肩で息をしながら、何とか自分の心を冷静にしようと努め上げていた。老爺の放った言葉はとても許せたものではないけれど、今は冷静に話を聞いたほうが良いと判断したのだ。それはきっとガァちゃんが小夜子に望んでいる「救い」の一部の話に違いない。本当はガァちゃん本人からきちんと聞きたかったけれど、老爺の「伝えるのが怖い」の一言が妙に引っ掛かり、小夜子は不承不承に耳を傾けようと努力した。
「耳の奥まできちんと届くならそう無理はせんでもよい。じじいの話は長いと相場が決まって居るからな。それに怒りと云うものはそうそう長くは留まって居られんものだ。記憶に長く留まることはあれどな。そうして、思い出しては過去に怒る、人間とはまこと不憫な生き物なものだ。ホホ。さてさて何の話だったか。そうかアレらの話だったな。
「アレらがこの地全体に蔓延り出してからどのくらい経ったかはワシもよく分からん。正直興味もないでな。侵略されて無くなるならばそれはそれで別段構いやせん。
「そのくらい長い時間をここで過ごした、正直云えばもう飽いた」
小夜子は老爺の云っている『アレら』の正体が分からず「アレらって何ですか?」と問うた。怒りはいつの間にか冷めて居り、身体から出る青い光も波のようにうねる髪の毛も何ごともなかったかのように元通りに戻っていた。
「ああ、アレか。アレは毒草だ。蔓のような出立ちで棘のついた、まあ茨かな。愚かなことに己の身までもを毒に染め苦しみながらこの地を戦略せしめんと行軍して居る。哀れなものだ」
「ソレが…この地の危機なのですか?」
「まあ危機と取る輩は取るであろうよ。ワシは先ほども云ったようにどうでもいいのだが。ほれ、先ほどお主の怒りに反応した辺りも毒素に侵されたコケどもの末路だ。おどろおどろしい声で名を呼ばれたろう?まあもうお主の怒りに触れて焦げてしまっただろうがな、ホホ」老爺は相変わらずニコニコした体で楽しそうに語った。小夜子には今の一連の何が楽しいのかさっぱり分からず呆然としていた。
ガァちゃんの大切なこの地に毒の茨が蔓延って、ガァちゃんたちの棲家を奪おうとしていると云うこと?確かに幾度となく「サヨ…」と呼んで来た毒に侵されたと云うコケたちの呟きは余りにも凶々しくて、そんな毒気に直に当てられてしまったらと思うと、とてもじゃないけれど小夜子は恐ろしくて生きた心地もしやしない。小夜子は妖怪もモンスターも幽霊もUMAも怪獣もちっとも怖くはなかったけれど、この毒気はどちらかと云うと「人の怖さ」に似ていて、小夜子には余程恐ろしかった。先ほどから名を呼ばれる度に頭の隅にチラついていた『お兄ちゃん』のあの視線。虚なのにギラギラと輝く死にたての魚のようなあの眼。そう、どうしても受け付けられない『欲望』のようなものが潜んでいるように思えて、小夜子には気持ちが悪いほどだった。その『欲望』をこの毒気にも感じて、小夜子はぶるりと怖気立った。ガァちゃんが、望むこと。それは小夜子がアレらに立ち向かうことなのだ。小夜子はその考えに至りもう一度身体をぶるりと震わせて、そうして尚も小さく震えている自分に気付いた。
「アレらが怖いか」
老爺の問いにすらビクッとした小夜子は、正直にコクリと首を項垂れるようにして下げた。ガァちゃんのためなら何でもすると誓ったはずなのにいざとなったらこの体たらく。小夜子は自分が情けなくて、消えられるものなら消えてしまいたいくらいだった。でもそれじゃあガァちゃんたちの地を取り戻せない。さっきの老爺の言葉が本当ならば、小夜子の力でないと、この毒気には立ち向かえない。私にはそんな力はないと云い切ってしまいたいけれど、その力があることは先ほど証明されてしまった。でも−−−
「あの…焦げたって云うことはもう元には戻らないって云うことですよね?」
「そうだな。お主が怒りに任せて殺したからな」
小夜子はグッと唇を噛み、敢えて小夜子が考えぬよう避けた言葉を飄々と口にする老爺を恨んだ。そうしたくてそうしたんじゃない。それに小夜子を怒らせたのは老爺じゃないか。
小夜子は恨み節の一つでも吐きたかったけれど、どうにも表情の読めない翁の面のような顔を見ることすら何だか凶々しく思えて来て、先ほど小夜子が焦がしてしまった辺りに顔を背けた。よく見えないけれど、確かに煙水晶の色をした煙が暗闇の中半透明な茶色の帯となってゆらゆらと揺れている。殺してしまった。小夜子が。
小夜子は小さく「ごめんね」と呟いたあと、痛む胸に手を当てて、きゅううと切なく走る感情が過ぎ去るのを待った。こんな思いを何度もしなければならないのであろうか。何か他に方法はないものであろうか。毒素だけを抜くだとか−−−何か彼らを清浄に戻す方法が、何かないものであろうか。小夜子は老爺に訊くのも何だか癪だったけれど、こんな思いを何度もするくらいならと心を折って再び老爺に向き直り、「他に何か方法はないのでしょうか。焦がすよりも、こう、毒素だけを抜くような…」と問うた。
「さあてな」
老爺は実につまらなそうに返事をし、小夜子は予想はしていたけれどやはり随分とがっかりした。そんな小夜子の心情を知ってか知らずか老爺は、
「しかし人の子の感情に反応することは分かっただろう。あとは色々とやってみれば良かろうよ、泣いたり笑ったり怒ったり…はしたか」と言葉を添えた。
小夜子はなるほどと思ったけれど、重要なことも同時に思い出した。
「私、この地にいると涙が出ないんです」
「ホホッ」
老爺はさも愉快そうに笑い、「なるほど、なるほど」とひとり得心がいったように頷いた。小夜子は訳が分からないし、どうやらこの老爺とはとことん性格が合わないような気がして、小夜子には珍しくイライラとして来、つい声を荒らげがちに「何がなるほどなんです?」と訊いた。
「イラついている割に言葉遣いが丁寧なのは親の躾が良いからかの。しかしその親には疎んじられ、学校でも蔑ろにされて、やっと居場所が出来たと思ったら魂を抜かれた上に使い捨てられる運命か。おお不憫じゃ不憫じゃ」と、謳うように翁は紡ぐ。
紡がれた言葉に小夜子が呆然としていると、
「今のお主は魂のない人形のようなものだ。感情はあるがな。いや、逆なのか、器のない魂なのかな。奴らはどうにもややこしくて叶わん」
「ガァちゃん…私が一緒に旅をしているモンスターは私を『妖怪になった』と云っていましたけれど…それに…、
「それにガァちゃんは私を使い捨てるなんてことはしません」
「しない、絶対に」
小夜子は老爺を真っ直ぐ見て云い切った。
老爺は「ホホッ」と笑ったあと「またもや逆鱗に触れたかな?」と茶化すように訊いて来たが、小夜子の中に怒りはなかった。小夜子は分かっていたからだ。ガァちゃんが小夜子をその様に扱うことは仮令天地が引っくり返り、空から山が生えて雷が地上から湧いて出ても絶対に起きやしないと云うことを。
「さぁてお主の相手もそろそろ飽いて来たようだの」
小夜子はやっとガァちゃんの元に還してもらえると思うと安堵で胸がいっぱいになった。今頃必死に小夜子を探してくれていると思うとしきりに胸が痛む。ここに連れて来られてもう随分と経ったようだし、きっと途方に暮れているだろう。早く還りたい。一秒でも早く。
「さてさて、ではではどうするか。消してしまおか、殺してしまおか」
またしても謳うように紡ぐ老爺の言葉に小夜子は耳を疑った。
「え、…なん、なんでですか…」
どうしていきなりそんな方向に思考が傾くのだろう。最初からそのつもりで連れて来た?それとも小夜子が無礼な仕打ちを知らず知らずの内に働いてしまっていたのであろうか。折角ガァちゃんの地を救える手立てが朧げにも分かって来たのに、ここで消されてしまうなんて、そんなのって、ない。
「なんでとな?特に意味はありゃせんよ。そうしようかなと思ったから言葉にしただけだ」
「で、でも私がいないとあの毒素がこの地をも侵してしまうんでしょう?」
「ホホッ、さっきも云ったろう。ワシはそんなことには興味がない。滅びるものは滅びればいい。それが定めだ」
「ほ、滅びればいいと思っているんですか?」
「別にそうも思っとらんよ。ただお主のことは思い付いただけだ」
小夜子は戦慄した。山本くんの云っていた『善くない場所』の意味が分かった気がした。妖怪たちとは圧倒的に違う、この分かり合えなさ。このヒトは人の形を取っているだけで人ではない。人を、命を、道端の石ころほどにも思っていない。人どころかこの世の何もかもを何とも思っていないのだ。
なんて悲しい存在だろう。
小夜子が心の中でそう同情した時、老爺の雰囲気がざわりと変わった。
「同情だと?虫ケラにも及ばぬ小娘がワシに同情だと?小賢しい。良いだろう、還してやろう。お前の望む場所その時間に。そうして思い知るが良い、選ばれた人間だと驕っている己の浅はかさを。そうして踠《もが》き苦しむが良い。恐怖に打ち勝てず慄く己を。身を捩らせて嘆くが良い。大切なものを失う真の喪失感を。その全て、全てを身を以て味わうが良い。得とな」
その瞬間小夜子は淡い消し墨のような塵に包まれて、一瞬にして視界が消えた。
そうして元の、セドナの身体の上へ元居たままの形で座り込んでいた。
邂逅
「あれ?」
「小夜子?」
同時に声を発したガーゴイルと小夜子は、呆然とした顔付きで互いを見合った。
ガーゴイルは目をごしごしと擦りながら「さ、小夜子、おまえいま一瞬消えなかったか?」と問うた。
小夜子は小夜子で本当に戻って来られたのか確認しようと、まだ少しく震える手でセドナ(だったモノ)を少し掬い上げその煌めきを確認してからそうっと戻し、ガーゴイルへと向き直って、「…一瞬だったの?」と逆に問い返した。小夜子が長く長く途方もなく長く感じたあの時間がガァちゃんにとって一瞬のことだったなんて。でもそう云えばあの老爺は云っていた。『望む場所その時間に』と。と云うことはガァちゃんが小夜子を求めて探し回るようなこともなかったのか。そう考えると小夜子は胸をホッと撫で下ろした。全く、親切なのか非道なのか分からない翁だ。
「大丈夫か?小夜子」
ずっと聴きたかった声が天から落ちて来て、小夜子はガーゴイルの顔を見た。ああ、ガァちゃんだ。小夜子は自分でも不思議なくらい自然とガーゴイルへと両腕を差し伸べた。
ガーゴイルは一瞬逡巡したのち、少し照れながら小夜子の両脇に手を差し入れ、小夜子をふわりと抱き上げた。幼い手付きでガーゴイルの首にぎゅうと腕を回した小夜子にびっくりしつつ、その後頭部を優しく撫ぜながら「ほんの一瞬の間に何かあったようだな」と優しく尋ねた。小夜子は未だ小さく震えていたけれど、ガーゴイルの堅牢な鱗と、それに相反するような優しい手の動きに少しずつ緊張も解け、ガーゴイルの柔らかな立髪を指先で弄いながら『ほんの一瞬の間』に何があったのかをガーゴイルへとゆっくりと話し出した。
気が付いたら真っ暗闇にいたこと。
コケの精霊に出会ったこと。
元いた世界で時折通っていた廃神社の御神木の霊に会ったこと。
どうにも気難しい老爺で小夜子は幾度となく腹を立てたこと。
この地に毒が蔓延っていると聞いたこと。
そうしてそれは−−–小夜子でなければ立ち向かえないモノだと聞いたこと。
小夜子は老爺に『消してやろうか』と云われた件は敢えて話さずにいた。
もしもそんなことをガァちゃんが耳にしたら怒り狂って老爺をとっちめに行くであろうし、そしてそんな気まぐれな老爺の一言でガァちゃんを振り回したくなかったのだ。
ガーゴイルはしばし呆気に取られた顔をしたあと、
「よくぞ無事に戻って来られたものだ…」と呆れつつ安堵の表情を見せた。
その一言に「ガァちゃんは彼らを知っているの?」と尋ねた小夜子はすっかり身体の震えも融けていて、心なしか少し大人びたように感じられた。ガーゴイルは「ああ、知っている。だがどうにも我らとは相容れん。神だか霊だか知らんがどうにも気に食わん。あいつらは人の子を隠すからな」
「私も隠したって云われたわ」
「ああ、だから驚いている。神隠しは日本のあやかしのお家芸ではあるが、奴らは大抵元の場所に還す。奴らにとっては遊びのようなものだからな。だがあやかしと違ってあいつらは本当に人の子を隠す。そうして還さない−−–」
ガーゴイルにまじまじと見られ恥ずかしくなった小夜子はその肩に顔を埋めるようにした。「よくぞ還してくれたものだ」ガーゴイルはそんな小夜子の頭を愛おしげに、そして安堵したように再び撫ぜ、ほうと一息吐いた。ガーゴイルの安堵の気持ちが伝わって嬉しくなった小夜子は「あのね、実は私その老爺のご機嫌を損ねたの」と笑いを堪えながら云った。ガーゴイルは再びびっくりして「機嫌を損ねたのに還してくれたのか!?」と思わず大声を出した。小夜子は耳元で大声を出され耳内をキーンとさせながらも「ふふふ、そうしたらね、お前みたいなのは還れ!って」と呪詛の言葉は省いて答えた。これからきっと老爺の呪詛は形となって小夜子に襲い掛かるのであろう。それでも今、この平和な時はガァちゃんと出来るだけ笑っていたい。ガーゴイルは「そりゃあいい!」と大笑いをし、心なしか足元のセドナも楽しげに煌めいて見えた。
一通り報告も済んだあと、ガーゴイルは小夜子に詫びた。毒の茨の存在を話していなかったからだ。と、云ってもガーゴイルにもドラゴンから聞いた程度の知識しかなかったし、小夜子の力を借りたとて、どうやって奴らを排除すれば良いのかも分からなかったのだが。
「と、云うことは、いきなり連れ去られたのは癪だったけれど、あそこに行けたのは成果でもあったのね」と、ガーゴイルの腕に未だ抱かれながら、顎に手を添え考えあぐねる仕草をした小夜子は本当に幾つか大人びて見え、ガーゴイルを少し不安にさせた。時の流れに変に乗せられてしまい、歳を取ってしまったのではなかろうか。あいつらの地でならあり得る。しかし己が腕で抱き締める小夜子のやんわりとした重さや表情の幼さは変わったようには見えず、ほんの一瞬の(小夜子にとっては長い長い時ではあったけれど)少女の息づかいの変化に戸惑った。
小夜子はそんなガーゴイルの戸惑いなど露知らず、どうしたらガァちゃんの地を元に戻せるか考えていた。焦がすのは、嫌だ。例えソレらが悪いモノであったとしても、そんな都合の良い手段など早々はないであろうけれど、元が(そして今もなお)生きているモノならば出来るだけ救いたい。そう思うのは小夜子の傲慢であろうか。でも小夜子は仮令傲慢だと思われようとも自らの手で命を屠るのはもう金輪際ごめんであった。それに、その茨の規模がどのくらいだか知れないけれど、あまりにも広大過ぎたら小夜子が怒り狂って血管が切れるほどでなくてはならないし、そんなに怒るようなことがそうそう起きるとも思えないし、焦げた場所は元に戻らないとも聞いた。ガァちゃんの地を焦げ焦げにするのはどうにも避けたい。
「どの辺りまで来ているのかしら」
「そうだな、ここいらでは未だ気配は感じないからもうちょっと奥の方ではあろうが」
「ここはどのくらい広いの?」
「どう…なんだろうな」
そうか、そうだった、ガァちゃんはここでの記憶を喪失してしまっているのだった。小夜子は己のうっかりを詫びる気持ちでいっぱいだった。忘れられるのも相当に辛いけれど、忘れてしまうのも同じくらい辛いに違いない。
「『隠された地』での毒の規模はどのくらいだったんだ?」
反省している小夜子を他所に、ガーゴイルは小夜子の髪を撫ぜながら問うた。
「暗くてよく見えなかったけれど、ほんの一部だけだったみたい」
小夜子は煙水晶の色をした焦げた流れを思い出しながら、少し胸を切なくさせた。アレらもヒカリゴケだったのだ。きっと毒されずにいたならば、小夜子の足元でふわふわと明滅していたに違いない。そう考えて、小夜子はハッとした。
「ね、ねえガァちゃん。ヒカリゴケに精霊がいるのならば、毒の茨にも同じように精霊がいるのかな」小夜子はガーゴイルの出す答えを分かり切りながらも訊かずにはいられなかった。声を聞いただけでもあんなにも戦慄させるモノの姿を見て、小夜子は正気でいられるだろうか。
「そうだな、いるだろうな」
やはりと云う回答がガァちゃんの口吻から放たれて、小夜子は空恐ろしくなったが、相手のことを知らなければどうにもしようがない。
「オレがまだ石像に囚われていた頃、巻き付いていた茨があったろう。小夜子の手にも盛大なるダメージを与えた。アレが奴らだ」
小夜子は毒草のこととなると恐怖がどうにも勝ち過ぎていて頭が思うように回らなかったので、ガーゴイルの言葉にひどく合点が入った。そうか、あの茨か。ガァちゃんを己のものだと云わんばかりに絡み付いていた、あの憎々しい茨の群れ。確かに小夜子はあの時果敢に挑みかかり、見事撃沈した。包帯は痛々しく巻かれたままで、しかし不思議と痛みは伴わずにいた。元の世界ではガァちゃんを我が物顔で縛っておいて、この地でも侵略しようとするなんて、自分勝手も甚だしい!
小夜子は未だ恐ろしくもあったけれど、俄然闘志がむくむくと湧き出《い》でて来た。
ガァちゃんが側にいてくれるのならば小夜子はきっと闘える。方法は未だ分からないけれど、二人で考えればきっと何かしら方法が、良い解決方法が見つかるはず。
小夜子はガーゴイルの頬を両手で挟んで「ガァちゃんとこの地は絶対に私が守るからね」と宣った。小夜子が余りにも真剣な顔付きで宣うのでガーゴイルはプッと吹き出してしまった。
「なんで笑うのー?」と云う小夜子の叱り声に笑い返すガーゴイルの、その二人のやり取りを石くれの陰で覗くそのモノは、自分も一派の仲間気取りで「イシシ」とほくそ笑んでいた。
迷路
先ほど小夜子が無理矢理に隠された地とどう云う風に繋がっているかは定かではないが、あちらこちらに岩や石の塊はあるものの広大な一本道とも取れそうなこの地も、よく見れば大小様々な隧道のようなものが垣間見え、それらは大きなものは見上げるほどに、小さなものは小夜子が屈んでやっと入れる程のものまでと様々な大きさがあり、二人を途方に暮れさせた。
「ここだけでこんなにも広いのに更に脇道があるなんて、この地に果てはあるのかしら」
小夜子は半ば呆れたように言葉を放った。現に二人は試しに一つの隧道を抜けてみたのだ。そこはセドナのいた地と同じように青く暗く薄暗い岩と石とに囲まれた場所で、セドナのあの悲しげな煌めきがない分余程陰鬱に見え、しかしセドナがいなかったらきっと違いが分からぬ程に酷似していた。見渡せばその場所にも更に隧道は繋がっていて、これは闇雲に進んでも迷い子になるだけだと判断した二人は、一度、もう目印と化しているセドナのいる地へと戻って来ていた。
「困ったね」
ガーゴイルと手を繋ぎながら歩いていた小夜子は、セドナの光が遠く淡く立ち上る辺りで止まりガーゴイルに向かってなんとなしに呟いた。いつもだったら「ああ」とか「うむ」とか返事をくれるはずのガァちゃんの答える声の届かないことを不思議に思った小夜子はガーゴイルの顔を見上げて見た。ガァちゃんはいつになくそのトカゲのように鋭利な瞳を更に鋭くさせて、辺りの気配を伺っているようだった。小夜子が「ガァ…」と呼びかけようとすると、ガーゴイルは小夜子の口先に己の人差し指を添え、小夜子はそれに倣って口を「あ」の形にしたまま沈黙した。ガーゴイルは小夜子を見ず、何やら一点を注視して居り、その厳しい横顔に小夜子は場違いながらに見惚れてしまった。やっぱり父の書架で目にした数々のガーゴイルとは違う面差し。云うならば竜族に近い。もしレプティリアンがこの世に存在するのならば、ガァちゃんのような見た目なのではないかしら。
「尾けて来ているな」
ガーゴイルが突然鋭い声を発したので小夜子はビクッとした。
「そこの岩陰だ。気付いている。さっさと姿を晒した方が幾分かマシだぞ」
小夜子はガーゴイルが何を云っているのか分からずポカンとした表情で、しかしガーゴイルに指示された通り声には出さず、目線だけでガーゴイルの見遣る方向とガーゴイルの表情を追っていた。ガーゴイルが鋭く見つめる先は少し大きめの、かつては誰かであったであろう石くれで、小夜子にはそこに潜んでいるのであろう気配がちっとも分からなかった。
「出て来ないつもりなら実力行使で行くぞ」
云うや否やガーゴイルは己の二の腕辺りから鱗を数片ぶちぶちと抜き、指の間に挟んで石くれに向かい構えた。
「ちょ、ちょっと待って!ガァちゃん何をするの?」
ガーゴイルの構えた腕に手を伸ばし、縋るようにして小夜子は必死に問うた。
「岩ごと壊す」
「だ、ダメだよ、そんなことをしたらあの何かだったものが崩れちゃう!」
「どうせいつかは崩れる運命だ」キッと前を見据えたままそう吐き捨てたガーゴイルを今にもこぼれ落ちんほどに目を見開いて見た小夜子は、
「本気で云っているの…?」とガーゴイルに問うた。
そこでやっとガーゴイルは石くれに向きっぱなしだった視線を小夜子へと下げ、泣けないのに泣きそうな顔をしている小夜子の顔を見て、己の気持ちの昂《たかぶ》り具合に気付かされた。
ガーゴイルは構えた腕をすんなりと下げ、その拍子に指から離れた鱗たちがきらりことりと金属質の音を立て、地へと落ちた。小夜子は下げられた腕に己が手を添え視線もそのままに「ガァちゃん…」と一言呟いた。
「すまない、警戒する余り心にも無いことを云った」
ガーゴイルはそう謝ったけれど、本当に心にも無いことなのかは分からなかった。思念のどこかで諦めているような、もしくは滅びを期待しているような自分もいる、少し前からそんな気がしていたのだ。それはあの石像に囚われて諦念の虜となっていた時の自分に似ていて、ガーゴイルはこんなにも純粋無垢な生き物を前にしてこのような思考をも持つ自分に嫌気が差していた。そうして、そんな自分を決して小夜子にだけは知られたくなかった。そんな小狡い己にも、もちろん嫌気が差していた。
「あのォ〜」
石くれの影から間の抜けた声がして、二人はビクッと身構えた。よく見れば石の表面に枝のように細い手腕が片方だけ覗いている。ガーゴイルはもう一度身構えて「誰だ!」と叫んだ。
「そんなに大きな声ェ出さんでも、充分聞こえてますゥ」
「一応ここいらでは害はないと思うんでェ、あんまり警戒しないでくれますとォ」
小夜子はその喋り方で一瞬河童を想起したけれど、ガーゴイルも小夜子も何者をも想像していなかった。ので、誰かがここにいること自体が稀有な事例であったのだ。ガァちゃんが警戒するはずだ、これは異常自体なのだ。もしかしたらあの老爺の手下みたいなものなのかも知れない。小夜子はそう思うとあの時の嫌な気持ちが蘇って来た。
「姿を表しますからァ、鱗で刺したりしないでくださいよォ」
のんびりした口調に似合わぬ金属質な声音でそう囁いたソレは、ゆっくりと石くれの影から身を覗かせて来た。
最初に見えたのは毛であった。
蓑を頭から被ったような、毛、毛、毛、毛の塊。
頭頂部の真ん中だけ剃ったように毛がなく、ざらりとした感触を想起させる。
その大量で丸々とした毛をモノともしないほどの目は大きく二つに見開かれ、まるで瞳孔が開いているかのように見える。
その下に申し訳程度に穿たれた鼻の穴。
よくもそんな毛量と眼球を支えられるモノだと心配になるほどに手足は枯枝の如く細く、
そして歯抜けばかりの大きな口はニタニタと笑っているかのように大きく開かれている。
小夜子はやはりその姿を知っていた。
「ヨナルテパズトーリ…どうしてあなたがここに…?」
メキシコの悪魔と呼ばれるヨナルテパズトーリがそこにいた。
「小夜子、知っているのか」
小夜子はヨナルテパズトーリに向かって目を剥いたまま「知ってる…」と短く答えた。
「…でも、でも、私が呼んだわけじゃないわ」
「それは分かっている」
ガーゴイルと小夜子の混乱振りを興味深げに見ていたヨナルテパズトーリは、
「オラァさっき着いたばっかでなァ。ドラゴンさんの奴は乱暴だからいけねェや」と、のったりのったり近付きながら宣った。ガーゴイルはその動きに即座に反応し、小夜子を庇うように立つと「近付くな」とまた語気鋭く言の葉を放った。
「なんだよゥ、別に怪しいもんじゃないよゥ。あやかしだけんど」と云って「イシシ」と笑うヨナルテパズトーリに苛立たしさを大いに感じながら、ガーゴイルは「尾けていただけで充分に怪しいだろうが」と返した。
ヨナルテパズトーリはモジモジとしながら、
「だでどもオラ、だでどもオラ、どう話しかけていいんか分からんでェ」と恥ずかしげに云った。
その姿を見た小夜子は「ねえガァちゃん、どうやら悪い子じゃなさそうだし、ドラゴンさんのくだりも気になるから、お話だけでも聞いてみようよ」と提案した。実際初めて見るヨナルテパズトーリは動きから話し方からなんとも可愛らしく、小夜子は先ほどのもじもじとする姿にキュンキュンとしてしまったのだ。
「まあ…小夜子がそう云うのなら…」とガーゴイルは溜飲を下げ、ヨナルテパズトーリに向かい「どう云うことだか初めから説明しろ」と凄んだ。
会合
その日ヨナルテパズトーリは日本のとある民家に顕現されていた。最近は日本のアニメに出演した際に想起されることがほとんどでそしてそれもまた稀な出来事であり、母国メキシコに還ることも早々になかった。その昔メキシコで顕現されていた際は、大抵は大きなカラスのような外観で、誰かが病気であったり死んでいたりと暗い場面が多く、そして「ヨナルテパズトーリのせいだ!」と怒りに満ち溢れる遺族なぞも多くて、何となく申し訳なくも思ったような気がするが、だからと云ってヨナルテパズトーリに郷愁なぞなかったし、いつものようにぼうっと想起され、その場にしばらく佇んで、そうして砂のように消えるのを待つのみのこれと云った思考もない概念であった。はずだった。のだが。
最初に感じたのは「窮屈だなァ」と云う思考であった。狭い部屋の片隅で、ぼうっとパソコンの配信動画を眺める人間の脇に同じようにぼうっと佇むヨナルテパズトーリは、画面の中では主人公に楯突く役で、何やら悪巧みをしているようだし、まあやっぱり好かれるようなキャラクターではないよなァなどとも思った。外観は、自分でもこの日本のキャラクターの外観の自分が好きなのだけれど。なんせ表情がある。悪役でも愛嬌がある。そう云うのって素敵だ。ただの鳥なんかよりずっと良い。さてさて今日はどんな手を使って主人公たちを苦しめるんだろうか。ヨナルテパズトーリは日本のアニメにふたつも出演していたけれど、どちらも面白くて好きなのだ。画面を見ては「イシシ」と笑い、そうしてヨナルテパズトーリはやっと疑問を持った。余りにも自然に思考が湧いて出たので元からそう云う存在なのだと認めてしまうところであった。何だこれは、どう云うことだ。そう思う間も考えている。考えている。考えている。
「考えたところで詮無きことだ」
突然言葉が降りて来て、ヨナルテパズトーリは「ヒェ!」と驚いた。
天井の近くにふわりふわりと浮かびヨナルテパズトーリを見下ろしながら、
「今回は白容裔か…」とうんざりとした声を上げたドラゴンは、霞んだ白地の鱗に鰻のようなひょろながい身体、そして手なのか足なのか妙なところに二肢を生やして、大凡西洋のドラゴンに似つかわしくなくどちらかと云えば東洋の龍を思わせる姿で、ヨナルテパズトーリに向かい「こいつが何の付喪神か知っているか?古びた雑巾だぞ?何故そんなものに我がドラゴン様ともあろうものが顕現されねばならぬのだ」と、平素よりは何だか愚痴っぽいドラゴンは苛立たしげに、「しかも同じく顕現されたのがお主とは何ともついていない」と若干失礼なことまで云った。「しかも、しかも貴様、間抜けな方のヨナルテパズトーリだな?」
間抜け。確かにヨナルテパズトーリは先ほど意思を持った生まれたての赤子の如くなモノだけれど、初対面の相手に対しこの云い様は如何なものだろうと思うくらいには知性はあった。なので何か対抗する言葉を発してやろうと思ったけれど、口から出たのは、
「あ、あんたァ、失礼なやつだなァ」と云う何とも間の抜けた台詞だった。どうやら考えたことを上手く言葉で表現するのが苦手らしい。これは何とも厄介な質《たち》だ、とヨナルテパズトーリは心の中で嘆いた。
「間抜けというのは誤謬があったようだな」
ヨナルテパズトーリの心の内が読めるのか、しかし暴言を謝ることもしないドラゴンは「奇縁と云えども縁は縁。お主に頼みたいことがある」と云った。
「彼の地ィに、毒…?アンタさんの身体も随分毒っけがありそうだけんども」
ヨナルテパズトーリのその一言に心底嫌そうな顔をしたドラゴンは、己が体臭がこう顕現されても臭うことに心底うんざりとしながらも、
「こういう変化をおかしいと思うであろう」と、務めて冷静に宣った。
「確かにィ、オラがこうして喋れんのも、アンタさんと喋れんのもおかしな話だなァ」
「そうであろう」
己が体臭を気にするように足の辺りをクンクンと嗅ぎながらドラゴンは続けた。
「先ほども云ったように彼の地に毒気が潜んでいる。そうして今この時も侵略を続けている。我らがあの地に還る手立ては他にあるが、還れたところで毒に侵されていては嘗てのように彼の地にて過ごすのは無理からぬことであろう。そこで使者を送った」
「ほェ〜」
ヨナルテパズトーリは随分前から彼の地に還ることが出来ていないのは気付いていた。しかしそれも朧げなことで、顕現される時も消える時もいつだって明け方に見る夢のように靄に包まれて居り、そうした異変に考えを及ばすことも出来なかったのだ。そうか、ある意味彼の地は封じられてしまったようなものなのか。それが一体誰の意志なのかは分からないけれど、ヨナルテパズトーリは彼の地で仲間たちと歌ったり踊ったりとした日々を徐々に思い出しつつあった。あの棲み心地の好いあの地が今も尚毒に侵され無惨な土くれへと変えられてしまっている。生あるモノが息付いてしまったならば、我ら概念的存在に安息の地はなくなってしまうも同じこと。ヨナルテパズトーリは共に過ごした名前も知らない仲間たちのことを思い歯噛みする気持ちになった。
「しかしその使者どもが少し突飛でな。後先考えず赴いたものだから通ずることも叶わなんだ」そう云ったドラゴンは深く嘆息をした。途端に悪臭が部屋中に放たれる。
「なのでお主に彼の地へ赴いて欲しい」
ドラゴンから放たれる悪臭に辟易としていたヨナルテパズトーリは突然の提案に「ホェ?」っと素っ頓狂な声を出した。
「だ、だでどもオラ、だでどもオラ、どうやって還ったら良いか分からんしィ」ヨナルテパズトーリが大きな目をさらに見開きギョロギョロと狼狽えていると、「入り口までは我が送ってやる」とドラゴンが宣った。
こうしてヨナルテパズトーリは枯枝のように細い腕で何とかドラゴンの背にしがみ付き、酷い体臭に鼻を曲げながら一路バックベアードの浮かぶ空まで向かうこととなった。
「そんでなァ、随分とお空を上へ上へと昇って行ったら、バックベアードの旦那が夜空にぷかぷか浮かんでるんよォ。オラびっくりしたでなァ」
小夜子は自身も随分と驚いたことを思い出しクスクスと笑った。
「そんでェ近付いたと思ったらァ、ドラゴンさんに尻尾でクルクル〜って巻かれてなァ。バックベアードの旦那の瞳の中にぶん投げられてしまったんよォ」
「あのドラゴンが随分とガサツなことをしたものだ」ガーゴイルは半ば呆れながら呟いた。「多分、あの顕現された姿が相当イヤだったんだと思うよォ」と、ヨナルテパズトーリは己が身体にあの悪臭が染み付いていないか腕の辺りをクンクンと嗅ぎ「クサッ!」と吐き捨てた。その一連の行動に小夜子はまたもやクスクスと笑い、ガーゴイルも苦笑を隠しきれないでいた。
ヨナルテパズトーリが己の体臭チェックをしている間、小夜子は「ねえガァちゃん」とガーゴイルにこっそりと話しかけた。「ドラゴンさんの言伝だって云うし、悪い子じゃなさそうだよね?」そのドラゴンの悪臭とやらを想像してあからさまにイヤな顔をしていたガーゴイルは「そうだな、確かにあの茨への道を知っていると云うのならば願ってもないことだ」と返した。
「ヨナちゃん!」
嬉しそうにヨナルテパズトーリに向き直った小夜子は「これからあなたを『ヨナちゃん』って呼ぶわ!ヨナルテパズトーリじゃ余りにも長いんだもの。良い?」と訊いた。
ヨナルテパズトーリは身体を嗅ぐことも忘れ嬉しそうに頷き、歯抜けだらけの口を目一杯広げて嬉しそうに「イシシ」と笑い、二人のやり取りを見たガーゴイルは何とも珍妙な顔付きをしていた。
「それにしても、ヨナちゃんはこんな広いところの地図を全部憶えたの?」
と、小夜子は純粋な質問をぶつけた。ヨナルテパズトーリと小夜子は大体同じくらいの背の高さなのでどうにも話しやすいらしく、ガーゴイルはそんな二人を見下ろしては嫉妬の気持ちをムクムクと湧かせていたが、喋り方の割に聡そうなこのあやかしに己のそんな欲を知られたくなくて、わざと知らんぷりを決め込んでいた。
そんなガーゴイルの胸中を知ってか知らずかヨナルテパズトーリは「流石のオラでもそいつは無理だァ、コレを貰ったんよォ」と、右目の横辺りの毛に手を突っ込みワサワサと掻き混ぜ、一本の小枝のようなものを摘み出した。ソレは直径十五センチメートルほどの細い小枝で先端が斜めに二股に分かれており、何処となく凶々しいような、紫色の靄のようなものを滲ませていた。
「ソレって…」小夜子が恐る恐る訊くと、ヨナルテパズトーリは「そうよォ」と云った。「これはァ、毒の茨の小枝にドラゴンが魔法をかけたものでェ、地面に置くと本体のいる方向を向いてくれるらしいんよォ」ガーゴイルと小夜子はびっくりして同時に「ヘェ〜!」と感嘆した。ガーゴイルは「そんなモノが作れるのならば、ドラゴン一匹でどうとでもなるんじゃないか」と独りごちた。小夜子も(確かに…)と思ったけれど、あの老爺は『小夜子でないと立ち向かえない』と云っていた。そしてマーメイドはガァちゃんにも使命があると。
小枝を摘んでイシシと笑うヨナルテパズトーリを見て、小夜子は「ヨナちゃんはソレを持っていて大丈夫なの?なんか毒素みたいなものが出ているけれど…」と心配気に云った。「ん〜?」と首はないので身体全体を傾げたヨナルテパズトーリは、「ドラゴンさんのあの毒みたいな悪臭で慣れちゃったのかものォ〜」と呑気に宣った。
来雷
ぽつり。
最初に洗礼を受けたのは、咲き終わった花弁の茶紫色を覆うように茂る一株の紫陽花の葉の、その一枚であった。
ぽつり。ぽつ、ぽつ。
先ほどまでの満面の星空を無かったことにするように、夜空の濃紺を錆色に変えながら嵐が迫って来ていた。ぽつぽつと葉を打つ音はやがてしとしとと葉の一面を濡らし始め、ざあざあと葉を揺する音に変わるとやけに無造作に萎れた花弁を振るい落とし始めた。紫陽花の萎れた花弁にはそれに抗う術はなく、朽ち果てた花びら一枚一枚をその葉や宿る大地にぺたりぺたりと貼り付けて行った。
窓を叩く雨の音に、大鳥啓輔はやっと外の天候不順に気が付いた。読み物に没頭すると途端に世間との回路が遮断される。「夏の嵐か…」何となしにそう呟き、遠くピカリと光る雷雲を見るでもなしに見て、停電になった際に読むことに困らぬよう、書斎の引き出しに仕舞ってある蝋燭の有り様を確認した啓輔は、小夜子の部屋からであろうパタンパタンと何かが旗めく音にも特に気を止めず、読み差しの本に目を落とした。
外には確実に雷雨を伴った嵐の群れが差し迫っていた。
二匹と一人の道行き
ヨナルテパズトーリを先頭とし、その後ろに着いて歩くガーゴイルと小夜子は、ヨナルテパズトーリの手前何となく手を繋げずにいた。小夜子はガーゴイルに触れていると心底安心出来たし、ガーゴイルとて(仮令一瞬でも)小夜子を二度と見失わずに済む手段の一つとしても小夜子の身体を繋ぎ止めておきたかった。小夜子は(ガァちゃんがお洋服を着ていたならなあ)と残念に思った。そうしたら袖口の辺りをちょっと摘ませて貰えたのに。ガァちゃんなら不機嫌になどならず、小夜子を優しく受け止めてくれる。
そうして、どうしてあの時父は不機嫌になったのだろう。と、引っ越ししたての頃、父に浜辺へと誘われたあの時分を思い出した。もう随分と昔の話だけれど、小夜子の胸には心的外傷として深く刻み込まれていた。自ら率先して他人に触れられないほどにそれは根深く、小夜子から『友』と名の付くものが去って行ったのもそれが一因であった。人との距離感が分からない。近付き過ぎて厭われるのが怖い。幼稚園児の際、近所のお友達から「サアちゃん」と手を握られても、小夜子はどのくらいの力で握り返したら良いのかすら躊躇うほどであった。でも、なんでだろう。ガァちゃんだけは違った。戸惑いも、厭われる怖さも、距離感も何も気にすることなく、実に自然と触れることが出来た。
小夜子はガーゴイルを見上げ、ヨナルテパズトーリの後頭部辺りを真剣な目付きで見詰めているその横顔から、頑健な鱗に覆われた肩口、逞しい二の腕と前腕二頭筋、そうして小夜子の手のひらでは掴みきれない太さの手首まで視線を落とし、ちょうど小夜子の肩辺りに来る手の甲を眺めた。小さく均等に並ぶ滑らかな鱗の煌めきが眩しいほどで、小夜子は先ほどガーゴイルが自ら抜いて落とした鱗を拾っておくべきだったと後悔した。こんなに美しいものを放ったらかしにして来てしまった。あの鱗たちは寂しくはないかしら。
「なァーアンタ」
ヨナルテパズトーリが前を向いたまま突然話しかけて来たので、ガーゴイルの鱗に気を取られていた小夜子はビクッとした。
「お嬢ちゃんじゃなくってェ、大きい方のアンタ。アンタ見かけん顔よねェ」
ガーゴイルはその言葉に一瞬ビクリとしたが、なぜ自分がビクついているのかは分からなかった。ヨナルテパズトーリはガーゴイルの反応を見るでもなしに、
「オラは結構自由な身でねェ、この地ではあっちへフラフラこっちへフラフラ出来てたもんだからァ、大抵のあやかしの顔は憶えているはずなんだけんどねェ。なァんか、アンタだけは記憶にないんよねェ」と云った。
何となく漂う不穏な空気に焦った小夜子は、
「ガァちゃんはガーゴイルだから!だから…雨樋の守り神だから、色んな顔や身体を持っているの!きっとそのせいよ!」と辛うじて助け舟っぽいものを出した。
実際小夜子もガァちゃんが本当にガーゴイルなのかは分からなかったし、あの時マーメイドの云っていた『アンタの見てくれもあの時とは随分と違う』と云うような台詞を忘れられないでいたのだ。ガァちゃんの閉じ込められていた石像は間違いなくガーゴイルだけれど、本当のガァちゃんは違うのかも知れない。小夜子はどんな形であれガァちゃんがガァちゃんならば何も構いやしなかったけれど、ガァちゃんから、この話題は禁忌的なニュアンスが感じられたので、小夜子はこれ以上話を広げたくなかった。
「そうなのかのォ〜、まァオラもけっこう適当だからのォ」
イシシと笑いながらそう宣ったヨナルテパズトーリに小夜子はほうと胸を撫で下ろし、ガーゴイルを再び見上げた。ガーゴイルは小夜子を見るでもなく、虚空を凝視しているように見えた。
小夜子は急に不安となって、ヨナルテパズトーリの視線も気にせずにガーゴイルの指を力一杯ぎゅうっと握った。小夜子の幼い力ではガーゴイルの堅牢な指はびくともしなかったけれど、ガーゴイルの気を紛らわせるには充分であった。ガーゴイルはハッとした表情で小夜子を見下ろし、小夜子の心配そうな表情を目にして「すまない」と一言詫びた。
小夜子はふるふると首を振ると「ガァちゃんは、ガァちゃんだから、だから、大丈夫。大丈夫だよ」と云って微笑んだ。
「今度はこっちみたいなのォ」
ドラゴンが魔法をかけたと云う不思議な小枝は、分かれ道などに行き合った際に地面に置くとふるふると細かく震えたのちにくるっと方向を変え、小夜子たち御一行を確実に行くべき場所へと誘った。「私たちだけじゃ絶対辿り着けなかったね」小夜子はガーゴイルに向かってそう云い、辺りを見渡した。隧道を潜ったり、岩場の道を曲がったりと何度もあちこちを折れたけれどさして景色は変わらず、たまに小夜子の見知った妖怪の慣れ果てが在るくらいで、もし『さあ、ここから一人で元いた場所へ戻りなさい』と云われても戻ることの出来る自信は小夜子には到底無かった。ガーゴイルは「そうだな」と一言返し、「この地がここまでの規模だとは想像もしていなかったな」と呟いた。もしかして同じ道を堂々巡りしているのでは?と思ってしまうくらいに景色に変化がないので、小夜子はヨナルテパズトーリに「ヨナちゃんはここでの暮らしを憶えてる?」と尋ねた。
「憶えとるよォ」と云う声が返って来て、小夜子は記憶を失くしているガァちゃんに少し悪い気もしたけれど、妖怪たちがどんな風に過ごしていたのか聞きたくて仕方がなかったので「どんな?どんな?」と思わず急くように促してしまった。
そんな小夜子の気も知らず、ヨナルテパズトーリは相変わらず呑気な声で、
「そうねェ、オラは基本住み心地の良い場所が森の中だったから、そう云うところは森が多くって、森に棲むあやかしなんかも多くって、行き会ったら歌ったり踊ったり、呑気に暮らしていた気がするねェ。
「でも森を抜ければ、砂ばっかりのところだったり、草っ原だったり、人間界で云うところの墓地みたいなところもあったり…家も其処此処に建っていたなァ。
「家なんか入ってみると、一見何もいない風なんだけんど、床下にみっしり小人が詰まっていたりねェ。あれはビックリしたなァ」と云ってヨナルテパズトーリはイシシと笑った。その他にも気まぐれに昼へと変わったり夜へと戻ったりする時間の変化のこと、突然雪の降りしきる場所があったこと、海は先ほどのセドナの地辺り一遍に広がっていたこと、大抵の水棲妖怪は海へと集っていたこと、日暮れあたりになると、セイレーンの歌声が澄み渡るように美しく、この地へと響いたこと。
「綺麗なねェ、本当に美しいところだったんよォ」
ヨナルテパズトーリはそう云って、変わってしまった彼の地をぐるり見渡した。そうして大きな瞳から大粒の涙をぽたぽたと零れ落ちさせた。
ヨナルテパズトーリの話す嘗てのこの地の風景を想像していた小夜子は、ヨナちゃんのそんな姿を見て胸がキュウっと苦しくなったけれど、同時に大粒のなみだをハラハラと零し続けるヨナちゃんを見てギョッとした。
「ヨナちゃん!ヨナちゃんは泣けるの?」
びっくりした小夜子はヨナルテパズトーリに大声で問いかけ、その小夜子の勢いに同じくびっくりとしたヨナルテパズトーリは「な?ななななななな泣けるよォ?」と大慌てで返した。
「なんでェ、なんでそんなこと訊くのォ」と目を赤く腫らせたままのヨナルテパズトーリは、萎れた罌粟の花のようにしょんぼりとしてしまった小夜子の顔を心配気に覗き込み、次いでガーゴイルを見上げた。その視線を受け取ったガーゴイルは、
「小夜子はこの地に入ってから、泣けぬのだ」と、眉間に皺を寄せ宣った。
「泣けない…って涙が出ないってことォ?」ヨナルテパズトーリはどちらへともなく訊き、「でも悲しい時は悲しいんよねェ?」と続けた。
小夜子はコクリと問いに頷き、泣けないと云うことがこんなにも苦しいことだと初めて身を以て知った気がした。小夜子は生来泣き虫だったから、わんわんと泣くことは早々にはなかったけれど、夕焼けの燃えるほどに赤い色を取り込んだ部屋の片隅で、体育座りをしてはしとしとと抱え込んだ膝に涙を落としたり、夜のしじま、毛布を添えてもまだ冷える布団の中で天井を見上げながらさらさらと涙を零し枕を浸したりした。
涙を流すことは小夜子にとっての救済とも云えた。他所の子らに比べれば余り感情を吐露させることが苦手な小夜子の、唯一の砦。それはとてもとても小さなお城ではあったけれど、小夜子にとっては悲しみを伴った安らぎの場でもあったのだ。胸の中に潜み始めた小さなしこりも涙を流せばその塩分で溶けてしまうような気がしたし、無神経な所作に惑わされ悲しむ夜も眠りに就けぬ時間を涙が埋めてくれた。
今だって、忘れ去られ、石と化したモノたちやこの地での記憶を失くしてしまったガァちゃん、記憶があるが故に郷愁に暮れるヨナちゃんや、セドナの発する煌めきの内の悲哀、そう云ったものが小夜子の胸の中をこんこんと湧き出でる泉の流れのように揺らめきながら漂っていた。小夜子の悲しみは海をふらふらと漂うクラゲのようで、99.9%の水分と0.01%の感傷で出来ているようにも思えた。そしてクラゲに含まれる0.01%の有機物が彼らを漂わせるように、またその0.01%の感傷が小夜子の悲しみを、涙を、心を生かす原動力でもあるのだ。今ここでもしもわんわんと泣けたとしても、ガァちゃんやヨナちゃんやセドナの悲しみを救ってあげることは出来ないけれど、小夜子はヨナちゃんの大きな瞳から溢れる涙を見てそれを美しいと思い、誰かが誰かのために泣くことの(それが仮令自分自身のためであったとしても)その尊さを改めて思い知らされた気がした。
「どうして私は泣けないんだろう…」
そう小さく呟く小夜子を見て互いに顔を見合わせたガーゴイルとヨナルテパズトーリは、どんな慰めの言葉も今の小夜子には届かない気がして、見合わせた顔を難しげに顰めた。
「アンタ、アンタァは泣けるんかいな?」間を継ぐようにしてヨナルテパズトーリはガーゴイルに問うた。実際知りたくもあったのだ。ガーゴイルと小夜子、そして自分とは同じ概念ではあるようだけれど、もしかすると何かが違うのかも知れない。しかしガーゴイルから発せられた言葉は「さあな」で、ヨナルテパズトーリを随分とがっかりとさせた。
「憶えている限りでは泣いたことがないので分からないな」
ガーゴイルは小夜子が悲しめば悲しんでいる小夜子を想い大層心を痛めるけれど、それは悲しみとは違う気がした。『悲しい』と云う感情の分からぬ己はきっと、最愛のものを失くす時に初めてその感覚を知るのであろう。小夜子を失う–––そう考えただけでガーゴイルは恐れる気持ちを抱いたけれど、あくまでも小夜子を失う恐ろしさしかそこにはなく、『悲しみ』と云うものは喪失感の後にやって来るものなのだろうか、それとも直ぐに感じるものなのだろうか。などと詮無きことを考えていた。
「小夜子ちゃァん…」
ガーゴイルまでも真剣に考え込んでしまったので途方に暮れたヨナルテパズトーリは、天女の羽衣のように薄い悲しみの襞を全身に纏った小夜子に向けて、大きな瞳を潤ませながら「きっとォ、何か原因はあるはずだしィ、それが分かれば解決方法もあるよォ」と云った。ヨナルテパズトーリは悲しみの蓄積の辛さを分かっていたし、涙を流すことでその悲しみの澱も徐々に流れ去ることも充分に理解していたから、今の小夜子の辛さが痛いほどに理解出来た。未だ出会って少ししか経っていない小夜子の、心が如何に繊細なことかも充分に分かっていたし、どうやら我らあやかしを相当に好いていてくれるらしいこの娘の、石くれへと変わり果ててしまった仲間を見る視線の痛々しさを目にするにつけ己の胸も痛んだし、そしてその一方で心の片隅に温かいものを感じた。ある意味もう『死』とも取れる友の亡骸を悼んでくれる小夜子を見る度に、ヨナルテパズトーリは小夜子の優しさに触れ、そうして小夜子のことが大好きになっていった。それは友情に近い好きではあったけれど、涙の零せぬ友を思うには充分な感情であった。
小夜子は己の小さな指先で零れぬ涙を拭くような仕草をし「ありがとう、ヨナちゃん」と礼を述べ悲しそうに微笑んだ。そうだ、怒ることが出来るのならば、そして小夜子の怒りにあんな力があるのならば、この小さな胸を押し破ろうとする悲しみたちを涙に変えて解き放つことが出来たなら、それはきっとガァちゃんたちの故郷を取り戻す力となり得るかも知れない。ヨナちゃんが云う通り何かしら原因はあるはずだし、喜怒哀楽の哀だけを何処か、心の底辺りに取りこぼしてしまったのか、小夜子の部屋に置いて来てしまったのか、それは定かではないけれど、置いて来てしまったのなら取りに戻れば良いし、心の底に落ちているのならば手探りで探ろう。落ち込んでいたって涙は流れてくれはしないのだから。
小夜子はガーゴイルにもお礼を云おうと彼の人の姿に目を遣ったけれど、ガーゴイルはまたもや立ったまま『考える人』風なポーズで佇んでおり、小夜子は一気に楽しくなってプッと吹き出してしまった。それでも小夜子の陽気に気付かずしかつめらしい顔をしたガーゴイルの素振りをそうっとヨナちゃんに告げ口をした小夜子は、ヨナちゃんと顔を見合わせてふたりププッと吹き出すのであった。小夜子はガーゴイル以外との笑い合えるような楽しい時間は久しぶりで、この地にヨナちゃんを遣わせてくれたドラゴンに改めて感謝をした。誰かとこうして笑い合うのなんていつぶりだろう。
ガァちゃんとの笑顔のやり取りの中には互いにはにかみのようなものが感じられて、楽しさと恥ずかしさと切なさの入り混じった複雑な感情の交差点を模した感覚をもたらすけれど、ヨナちゃんとの笑い合いには楽しさしかなく、小夜子はヨナちゃんを『友達』だと思っても良いだろうか、もしヨナちゃんが、小夜子のその風に揺られるタンポポの綿毛のように果敢ない望みに『是』と応えてくれたのならばどんなにか嬉しいことだろう、とヨナちゃんの笑顔を見ながら己の胸を切なくさせた。友達と云うのはどうやって『なる』ものなのだろうか。お互いが「今日から友達だ!」などと宣言し合うものなのだろうか。それとも自然と過ごすうちに互いにそう思い合うものなのだろうか。小夜子はヨナちゃんに問いたかったけれど、『仮令もしかしたら』と云う己の中の消極的な感情が邪魔をして、小夜子を臆病なただの娘へと変えるのであった。
小夜子の当惑気味な視線に気付いたヨナルテパズトーリは、「小夜子ちゃァん、どしたのォ?」とのんびりとした声で、でも気遣わしげに尋ねた。さっきまでうふふと笑っていたと思ったら、今度は何やら思い悩んでいる様子。ヨナルテパズトーリは何やら悩みながらももじもじとしている小夜子を可愛らしく思い、「何か云いたいことォあるんなら云ってねェ、オラは早々怒ったりしないしィ」と助け舟(らしきもの)を出した。
小夜子は尚ももじもじとしていたけれど、ヨナちゃんの気遣いが嬉しく、もしこれでヨナちゃんに拒否をされたとしても『知人』くらいに思ってくれるなら幸いではないか、と思考を切り替えた。なにせヨナルテパズトーリは、小夜子があの水木しげる先生の図鑑を見て、一番最初に好きになった妖怪なのだから。
「…あの、あのね。私、ヨナちゃんにお願いがあるの…」小夜子は頬の辺りを上気させながら平素も少しく小さめな声を殊更潜めて云った。
「あの…あの。ヨナちゃん、わ、私と…
「私と、お、お友達に、なって、なって、くれる…?」
ヨナルテパズトーリは小夜子の問いの内容に呆気に取られて、しばし口をポカンと開けていたけれど、「小夜子ちゃんとオラは、もうとっくの昔からお友達だよォ?」と至極当たり前のように答えた。そんなヨナルテパズトーリの一言に今度は小夜子が呆気に取られる番であった。
「お友達…?」
「そうよォ?」
小夜子は誰かに友達になって欲しいなどとお願いをするのは初めてで、まるで氷で出来た平均台を一歩一歩慎重に渡るような緊張感で臨んだものだから、心の中の平均台がもろもろと砕けて、小さな氷の礫から六花の結晶の群れにゆっくりと変化をし、溶け行きては小夜子の心に染み入りながら、小夜子の冷えた足を優しく暖かな地面へと誘ってくれるのを身に沁みて感じていた。お友達。小夜子の唯一無二のお友達。小夜子はお友達が出来たことはもちろん嬉しかったが、ヨナルテパズトーリが既に自分をお友達だと思ってくれていたことがとてもとても嬉しかった。
「小夜子ちゃんとォ♪オラはァ♪おっともっだちいィ♪」
そう自作の歌を歌いながら小夜子の手を取って不器用に踊るヨナちゃんに吊られ、キャッキャと笑いながら踊り出した小夜子は、己は孤独を好んでいたけれど、孤独であることに寂しさも感じていたことに改めて気付かされた。本当は一人ぼっちなんて嫌なのだ。独りでいること、いなければならないことに強がることしか出来なかった小夜子は、ヨナちゃんとこうしてクルクルと螺旋のように回りながらはしゃぐこの瞬間を、無限の檻の中に閉じ込められたら良いのに、と強く願った。
「ン、ンンッ」
と云う咳払いのようなものが聞こえてハッと我に帰った小夜子は、なんとも云えない表情をしたガーゴイルと目が合い、なんだか一気に気不味くなってしまった。ガァちゃんのことを忘れていたわけではないのだが、初めてと云って良いほどにきちんとしたお友達が出来たことに余りにもはしゃぎ過ぎてしまった。でも、それでもきっと小夜子とヨナちゃんがお友達になったと知ったらガァちゃんも喜んでくれるだろうと云う期待を込めて、
「ガァちゃん!私とヨナちゃんはお友達になったの!」
と、ガーゴイルに向かい極上の笑顔で宣言した。
ガーゴイルはほんの少し前から二人のやり取りを見、小夜子のいつになくもじもじとした仕草や己以外と対峙して尚上気する頬、そしてヨナルテパズトーリと手を繋ぎ楽しそうに踊り回る姿に妬く思いでいたのだが、この世のどんなにか美しく咲き誇る花でも叶わぬ笑顔でそう云われてしまったら、素直に喜んでやるしかなかった。ガーゴイルは『お友達』を概念としてしか知らなかったけれど、いつも小夜子が道すがら一人ぼっちで歩く姿を目にしていた彼の人は、少し俯き加減で歩くあの表情を思い出し、先ほど小夜子が祈ったように、この地にヨナルテパズトーリを遣わせたドラゴンに感謝をする心持ちで一杯であった。
「そうか、良かったな」
そう返事をしたガーゴイルを少し不思議そうな目で見詰めた小夜子だったが、直ぐにまた表情を花びらへと変えて、ヨナルテパズトーリと向き合い踊り出した。
「小夜子ちゃんはァ、ここにいたみんなのことが好きだったのォ?」
まるで幼稚園のお遊戯のように手を取り合い、くるくると弾みながらそう尋ねられた小夜子は、しばらく考えたのち、
「私が知っているのは水木しげる先生の本の中の彼ら彼女らだけれど…
「姿形が面白くて好きなモノや、『どうしてそう作られたのか/考えられたのか』を想像するのが楽しい妖怪なんかは好きだわ。でも『歯痛殿下』みたいに虫歯を妖怪のせいにしちゃう感性も好き」
ヨナルテパズトーリはふむふむと頷きながら耳を傾け、ガーゴイルも密かに耳をそば立たせていた。そんな二人を意に介さずに夢見るように小夜子は続ける。
「でも…そう云うモノだと解っていても、理由もなく町や村を襲ったり、人に危害を加える妖怪は、どうして作られてしまったのだろうって不思議に思うし、何かしらの人間の起こした悪行を妖怪のせいにするのはなんだか申し訳ないなって思っちゃう…」
いつの間にやら足の止まっていた小夜子とヨナルテパズトーリは、ガーゴイルを取り巻く形で三角形を描き、そうして二人は小夜子の話に聞き入っていた。
「ヨナちゃんはどう思っているの?その…ヨナちゃんはメキシコで悪魔と呼ばれているでしょう?」
「悪魔?このちんまいのが?」と、ガーゴイルは大仰に驚いてみせた。
「そうよォ。これでも割と悪いあやかしなんよォ」そう云ってヨナルテパズトーリはイシシと笑って返した。
ヨナルテパズトーリはメキシコに現れると云う妖怪だ。
棲家は緑深い森を好み、フクロウも鳴かぬような暗闇の夜、金属質な甲高い音で木を切るような音色を発し、その音を運悪く聞いてしまった者は何かしらの疾病を患うし、その姿を見てしまった者は死をも齎されてしまうと云う。水木しげる画では斯様な見場で描《えが》かれているが、伝説では黒い鳥として顕現されるとも大蛇として顕現されるとも云い、その実ははっきりとはしない。そんなヨナルテパズトーリだが−−–
「それがねェ、ちょっと前まではなんとも思ってなかったんよォ。オラたちは基本考えないモノだったしィ、オラのせいで、まあ実際はオラのせいではないんだけんどォ、ヒトが病気になろうが死んじまっちまおうがァ、まあオラには関係がないことだしィ…
「でもォ、でもね、今はなんだか悲しくなってしまうんよねェ。『ヨナルテパズトーリのせいで大切な者を亡くした』と、悲しんでいるその家族とかお友達とかを見ているとねェ。オラのせいではないんだけれども、悲しくなってしまうんよォ。オラ、オラは…
「本当はあやかしでも人間でも月でも花でも動物でもォ、幸せでいて欲しいと思っているんよォ…。
「でも、でもね、小夜子ちゃん、オラがこうして存在することで、悲しみに暮れたヒトたちが少しでも救われることも確かなんよ」
「だからね」
「オラはこの世に顕現されて良かったって、そう思うんよォ」
そう云って、泣き笑いをするヨナルテパズトーリを小夜子は小さな腕を精一杯伸ばして抱きしめた。そうしてヨナちゃんを心から愛おしく思い、敬った。こんな敬虔深い存在が人々から恐れられるなんて本当に悲しい。でもヨナちゃんはそれすらも受け入れて人間たちのことを思い遣っていてくれている。小夜子は濡れぬ瞳を静かに閉じて心の中で涙を零しながら、「ありがとう…ヨナちゃん」と呟いた。きっとみんな人間の世界では恐れられる存在であっても、この地ではヨナちゃんのように穏やかで優しく陽気に過ごしていたのだろう。それはガーゴイルの存在からも大いに窺い知ることが出来て、小夜子はヨナちゃんのためにも、ヨナちゃんの仲間たちのためにもこの地を取り戻さなければならないと、自分が泣けないこと、その程度で凹んでいる場合ではないと己を叱咤した。
「アンタァ、アンタはどうなのォ?」
ヨナルテパズトーリと小夜子の抱擁を(これは友情…友情だっ…!)と強く思い込みながら己を自制していたガーゴイルは、ヨナルテパズトーリからの急な設問にやおら戸惑った。
「オレ…?オレは…」
ふらり傾き己が口吻を右手で覆ったガーゴイルの急な変化に、小夜子とヨナルテパズトーリは各々に「ガァちゃん?」「大丈夫ゥ?」と案ずる声を掛けたがガーゴイルの耳には届いていないようで、小夜子はガーゴイルが何かを思い出そうとしているのか、それは彼の人にとって良いことなのかと心配になった。人につけ妖怪につけ、心の奥深くに堅牢な鉄の箱へと閉じ込めて、鍵を掛け鎖で覆い錘を垂らし、深く深く泥沼のような場所へと深くに沈め、思い出さないように封印すべき記憶は確かにあるものなのだから。
「オレは…自分が嫌いだった…醜い容貌も、顕現する際の記憶も…」
小夜子はガーゴイルの口から搾り出すように放たれた言葉に耳を疑った。醜い?ガァちゃんが?そんなはずはない、今だって悲哀に色濃く反映されている横顔は、憂いを帯びて尚こんなにも美しいと云うのに。しかし小夜子はそこであの時のマーメイドの言葉を再度思い出した。『アンタの見場も相当違うようだがねぇ』。そんな感じのことを、云っていた。彼女は。そして先ほどヨナちゃんに存在を疑われた時も、ガァちゃんは微かに動揺しているように見えたことも。
小夜子はたったの一瞬だけれども足元がぐらつくような不安を覚えて、ガーゴイルの指を再び握った。
ガァちゃんはガァちゃんではないのかも知れない。もしかすると他の妖怪なのかも知れない。でもそれがなんだと云うのだろう。多少見てくれが変わったとしてもガァちゃんはガァちゃんだ。小夜子を癒し、心からの安寧をくれる。ガァちゃんの前でだけは、小夜子は小夜子らしく自由に振る舞える。私の心の全てを埋めてくれた人。ああ、今この想いのありったけをガァちゃんに伝えることが出来たのならどんなにか良いだろう。
小夜子は少しく震える彼の人の指を強く握りながら、もう片方の手は自然と左胸に付けたバッジを握りしめていた。ガァちゃんの鱗で出来た、鈍色をした小夜子の宝物。
すると突然、小夜子のバッジを握りしめた手の隙間隙間から黄金色を纏った眩い光が漏れ出し、その眩しさに仰天した三人の同時に放った「あっ!」と云う声と共に小夜子はバッジから手を離してしまった。小夜子の手から解放されたその光は円錐形を作り、小夜子の胸の辺りから真っ直ぐと前に伸びて、ちょうど近くにあった石くれへと辿り着くとまるで映写機のように何かを写し出した。その一連の事態に呆然とすることしか出来なかった小夜子たちであったが、それでももっとよく見ようと小夜子が自然と足を踏み出した途端にその動きを嫌うようにバッジからの発光はフッと消え、三人はまたもや同時に「あっ!」と声を上げるのであった。
「今の…見た、よね?」
誰ともなしに尋ねた小夜子は二人の返事を聞く暇《いとま》もなく「何かの石像が映っていたわ!」と興奮げに話した。ヨナルテパズトーリは突然の事態に身体をコクコクと傾けることしか出来ず、ガーゴイルは何故か当惑しているように見えた。
そんな二人の反応もろくに気遣えないほどに興奮してしまった小夜子は、
「見たことのない石像だった!でもあれは…あの子、あの人はきっとドラゴンの一種だよ!どうだったっけ…一瞬だったから間違っているかも知れないけれど、ドラゴンが大きな十字架を守るように絡み付いていた!」
一気に喋りまくってハアハアと息切れを起こした小夜子は、己が口調にも気遣えないほどに興奮したことに今更気付き、顔を赤らめた。
「一体何から光が出たのォ?」
ヨナルテパズトーリは小夜子の胸元を覗き込み「なんだァ?バッジィ?」と尋ねた。
小夜子は気を取り直して、「そう…これはガァちゃんが私へのお守りとして作ってくれたものなの」と、己が胸元のバッジを見ながら答えた。今までなんとなしに触ることはあったけれど、こんな反応は初めてだった。何故だろう、ガァちゃんの指を握っていたから?小夜子を通してガァちゃんと繋がることに因って反応した?
小夜子は先ほど映された石像がどうにも気になって、もう一度ガァちゃんの指とバッジを強く握ってみたけれど、今度は特になんの反応も見せなかったのでガッカリとした。
小夜子は未だ呆然として見える彼の人を見上げて「…ガァちゃんは、さっきの石像に何か見覚えがある?」と尋ねてみた。
ガーゴイルは胸の中心辺りからゆっくりと身体中に広がり行くこの暖かいような懐かしいような感情に名前を付けられずにいた。あのような石像は目にしたことはない。ないはずだ。この地で斯様な姿を持つあやかしも目にしたことはないように思えた。とは云えガーゴイルは己の記憶の不鮮明さを嫌になるほど覚えていたので、もしかしたら単に忘れているだけなのかも知れないが。しかしこの、先ほどこの地へ降り立った際とはまた違う温もりを持った郷愁のようなものは何であろうか。
「なんだろうな…見た覚えはないが、懐かしさ…と云うのか、そう云うものは感じる」
石像の写し出された石くれに向かい目を見張りながら、しかしその横顔に切なさのような影を滲ませたガーゴイルを、小夜子は改めて美しいと感じた。小夜子にも全く見覚えのないあの古びた石像は、もしも妖怪に祖先的なモノがいるとしたら、ガァちゃんにとってそう云った存在なのだろうか。それにしては余りにもガァちゃんの見た目とかけ離れているけれど。
「今の石像は守り神みたいなもんなんかねェ」
ヨナルテパズトーリも、石像の映し出された辺りを面影でも辿るように見遣りながら、小夜子に向かいそう言った。
「どうして…そう思うの?」
ヨナルテパズトーリのいつになく真剣な(ように見えなくもない)横顔にちょっと笑ってしまいそうになった小夜子は、今はそんな時ではないと身を正してヨナルテパズトーリにそう問い返した。
「だってさっきの石像は十字架を大層大事に抱えるように絡み付いていたよネェ。オラにはそれが破壊するものではなく守るものの慈愛みたいなものだと感じたんだけドォ」
なるほど、守護神!小夜子は手を打つ心持ちでいた。
そうなると、ガァちゃんがいるはずだった地方でその祖先たちに祀られていたドラゴンなのかも知れない。ガァちゃんの遠い故郷の遠い遠い、遥か銀河の道すがらすら感じさせられるほどに遠いであろうご先祖様。なぜそのご先祖様が映し出されたのかは分からなかったけれど、ガァちゃんの本来の姿への道標にはなりそうだ。小夜子はガァちゃんがガァちゃんでいてくれるのなら見場なんて到底構いやしなかったけれど、『自分の存在が何だか分からない』と云うのは、この地を失い、名をも失いつつある彼らにとって、今となっては大層な不安の要素となってしまったに違いない。この地があったからこそ彼らは『何者でもなく』いられたのだ。なんの不安も苦しみも、悲しみもなく、陽気に暮らしていられたのだ。還してあげたい。元に戻してあげたい。人の世で忌み嫌われる役柄を背負わされていた彼らだからこそ、安寧の地を取り戻してあげたい。そうしてみんな元通り、歌ったり踊ったりとして日々を楽しく過ごして欲しい。小夜子とガァちゃんのお守りバッジがあれば、きっと本来のガァちゃんを取り戻せる機会もやって来るはず。
小夜子はいま推理した『石像はガァちゃんのご先祖様なのではないか説』を二人に話し、妖怪も年を経るごとに伝承が混じり合い、次第に姿を変えて行くこと、なので何かしらの繋がりは確実にあること、そしてこの長いようで短い旅の途中、きっとガァちゃんが己を取り戻す機会がまたあるであろうことを話した。
「でも、でもォ、アンタァ、自分のことォ嫌っていたんでしょォ?」
ヨナルテパズトーリの一言にまたもやハッとさせられた小夜子は、己の浅はかさを大いに悔いた。そうだった、ガァちゃんは己を嫌っていたと云っていた…そう、そして醜い、とも。
「ああ…オレはオレが嫌いだったよ。水面に映る自分の影にすら反吐が出るほどにな」
そのはっきりとした一言に小夜子とヨナルテパズトーリは驚いて互いに声を上げた。
「ガァちゃん、記憶が戻ったの?」
息石切ったような小夜子の問いかけに対し、ゆうるりと首を横に振ったガーゴイルは、「いや、期待に応えられなくて済まないが、その程度しか思い出せん」と云った。
「記憶の中の水面に映る己の影すら茫洋として掴みどころがないほどだ」
ガーゴイルはそう云って少し自虐的に笑い、小夜子に向かっておどけた振りで降参のポーズをした。
ああ、小夜子は間違ってしまったのだろうか。己の正体の分からぬガァちゃんを憂いていたけれど、それは小夜子がそう思い込んでいただけで、今のガァちゃんには戻らぬ記憶も本来の自分もどちらもいらないモノだったのかも知れない。勝手に思い込んで勝手に考え込んで暴走した。小夜子は自分がどうしようもないほどに情けなくなって、ガーゴイルに謝罪の言葉を述べた。
「何を小夜子が謝ることがある」
項垂れている小夜子を見てガーゴイルは優しく問いかけた。
「だって私、勝手に勘違いをして余計なお節介をしようとしてしまったわ。ガァちゃんは『本当の自分を知りたい』なんて一言も云ってやしないのに…」
ガーゴイルは何も云わず、ただ俯く小夜子のサラリとした髪にそうっと指を通し、そのまま柔らかく頭を撫でた。絹糸を浚うようなさらりさらりとした音色が、青い岩影の隅々まで届くほどに彼の地はしんと静まり返っていた。
恋をするひと
「さあ、次はこっちみたいなよォ〜」
そうヨナルテパズトーリの間の抜けた声がして、黙々と後ろに連なって歩くガーゴイルと小夜子は、先ほどの、ガーゴイルが小夜子の頭を愛撫するかのように撫でる様を見たヨナルテパズトーリの放った一言にすっかりやられてしまっていた。
「ン〜、二人は恋人同士なんねェ〜」
それまで互いが互いを意識しながらもそこから目を背けていた二人なのに、第三者に改めて口に出されてしまうと、かろうじて保たれていたようなバランスが崩れて、どうしたら良いのか分からなくなってしまったのだ。小夜子は恥ずかしさの余りガーゴイルを見られないし、ガーゴイルもまた然り。ヨナルテパズトーリはそんな二人の心情を知ってか知らずか「オラのことは気にせんでええんよォ〜ふたり仲良くが一番よォ〜」などと謳うように宣っている。
そもそもガァちゃんは私のことを好いていてくれているのだろうか。
己が誰かに愛されているとか好かれているとかそう云った感覚を意識下に持って来ることが出来たことのない小夜子は、これまで数々の宝石よりも星空もよりも美しい言葉をガァちゃんから贈られたけれど、それを『好意』とは受け止められても『愛』とか『恋』と云う感情に置き換えるには、あまりにも己の心の中にそれらが掴みどころなく泳いでおり捕らえることが出来ず、また、己がそう思われていると思うことすら自意識過剰なのではと偽りの盾を立てて、その隙に心の檻に鍵をかけてしまいそうになる。小夜子は他人と(仮令それが妖怪でも)深く関わり合おうとする度にその場から走って逃げて、蓋をして閉じ籠ってしまおうとする自分を心の底から恥じた。小夜子は弱い。弱いのだ。弱虫で臆病だ。一番肝心なところで怖がってしまう。怖がらない私を見て欲しいとあんなにも強く願ったのに。
「臆病者が一番いけない。自分が傷付くことを恐れる余り、相手の心を最も容易く傷付ける者だから」
何処かで読んだ誰かの台詞が頭の中にふいに降って来て、ガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた小夜子は、足を踏ん張り二度三度と頭を振って、姿勢良く襟を正した。
恥ずかしさとか怖気とか、そう云ったものに振り回されて互いを見られなくなるには、私たちにはあまりにも時間がなさ過ぎる。小夜子はガァちゃんが小夜子に寄せる想いがただの好意だとしてもそれだけで充分嬉しい自分に気付けたし、自分が臆病者であるが故に彼の人を傷付けるのだけは絶対に嫌だった。
それでも腕を組むでもなくブラブラとさせてくれている彼の人の指を、温もりが伝わるようゆっくりと握った小夜子は、顔色は変わらないけれどきっと照れているであろう彼の人の、気まずげに降りて来た視線を柔らかく捕らえて「私、ガァちゃんが好きよ」と伝えた。
思わず立ち止まったガーゴイルと小夜子を目の端で微笑んで見守っていたヨナルテパズトーリは、ゆっくりと二人から距離を置いた。ここいらで、一人休憩もいいかもねェ。
ガーゴイルはその鈍色の鱗を赤く染めることはなかったが、出来得ることならば全身を火龍が如く朱へと染めていただろう。全てを消し炭へと変えると云う、極炎すら吐けそうなほどに。ガーゴイルは小夜子からの好意は分かり過ぎるほどに伝わっていたし、その好意を受け止める度、己の心臓の主張の激しさに驚かされていた。鼓動など、味わったことはなかったのだ。今までは。
触れればもろもろと崩れてしまいそうなほどに繊細な、しかし芯に強さを秘めた好奇心の塊のようなこの娘を、誰が好きにならずにいられようか。くるくるとよく笑い、時にほとほとと悲しみ、あやかしの思いにすら寄り添える、陰日向に咲く一輪の花雫。ガーゴイルは小夜子を救うためならば己の全てを差し出しても余りあるほどであったし、その言種すら陳腐に聞こえるほどでもあった。しかしガーゴイルはこの感情の名を知らぬのだ。
小夜子とガーゴイル、愛を与えられたことのない二人にはその形が分からなかった。
ガーゴイルは一瞬躊躇ったのち、小夜子の薄鳶色をした何処までも無垢なる瞳をはっきりと見つめながら、
「どんな形をしている?」
と、小夜子に問うた。。
「小夜子のオレへの想いはどんな形を取っている?」
小夜子は一瞬キョトンとした表情を取ったけれど、すぐさま、
「私の想いは、ガァちゃんの形をしているわ」と答え、唇の形を上弦の月へと変えた。
ガーゴイルは少しく目を見張った後、弧の形に瞼を細め、
「オレもだ。オレの小夜子への想いは小夜子の形をしている」と述べた。
小夜子は、この小夜子の心の中にあるガァちゃんをかたどった想いが『愛』と呼ばれる感情ならば、愛とはなんと美しい姿形をしているのだろうと、そうして、ガァちゃんも小夜子と同じ想いを胸に秘めていてくれているのならば、自分はガァちゃんに愛されているのだと思い至ったが、『愛された』記憶のない小夜子には、自分のガァちゃんへの想いと、ガァちゃんの自分への想いがどうしても繋がらず、それでもこれまでの道のりで時折ガァちゃんが口にしてくれた言葉や柔らかい物腰を思い出し、その度に胸に去来した今までに感じたことのない温かなぬくもりをきっと『愛』と呼ぶのであろうと、思い出したぬくもりと、今感じた新しいぬくもりを逃さないよう己の身体をぎゅうと抱きしめた。
私だけのぬくもり。
ガーゴイルの胸の内にかたどられた小夜子の形は、そのまま小夜子自身へと重なって、小夜子の心と身体を充分に温めた。それはきっと母親の羊水に浸る赤児よりも安心感に満ちた、小夜子だけの場所だった。
ガーゴイルはそんな小夜子を両翼でそうっと覆い、長い首を前のめりにして小夜子の髪に口付けた。ガーゴイルの鼻腔を甘いシャボンの香りが微かに掠めては消えた。
ヨナルテパズトーリは敢えて二人の所作を見ないよう、そっぽを向いていた。精霊的勘とでも呼ぶのであろうか、二人の時間は余り少ないように感じていたのだ。そんな二人の道中に(決して己の意思ではないけれども)携わることとなってしまい、申し訳なくも思っていた。二人がどう云う経緯でこの地と関わることになったのかヨナルテパズトーリには詳しくは分からなかったけれど、この辺境の地で、少しでも二人に幸せな時間や瞬間が持てるよう、記憶に残るよう、祈った。何に対して祈れば良いのかは到底分からなかったけれど。
侵されしモノ
じくじくとした振動とずるずると云う不快な軋みを際立たせながら、紺碧の岩地をボソボソとした土くれへと変え、ソレらは侵攻を続けていた。へどろの沼地を思わせる深く濃い緑色の体は自ら放つ毒に因って所々黒ずんだ紫色へと姿を変え、やがて溶けては土くれへと染み込みせっかく築いた大地すらをも穢して行く。
これではただ、毒の沼地を作って行くことと変わりはないのに彼らには分からない。『生きること』『繁殖すること』『子孫を残すこと』それらが彼らの本能的欲求であったし、毒に侵されながらも生き続ける理由であった。
「哀れよの」
古木の老爺はソレらを相変わらずよく分からない朧げな表情で見つめながら呟いた。
老爺が年古し年月を過ごし精霊と化したのか、神の依代として崇め奉られた際に精霊と成ったのかは余りにも年月が過ぎて老爺にもよく分からなかったが、生き物の生に対する執着をとうに分からなくさせるほどには存在してしまっていた。
なので老爺にとっては生に固執する生き物はただただ滑稽な存在としてしか映らなかった。この様に自らを蝕まれながらも生に固執する生き物はその最たるもので、老爺にしては珍しく哀れみすら覚えるモノであった。何故にそんなにも生に執着するのか。こんな辺境の地に行き着いてまでも。
「お主らは…」
と、問いかけた老爺であったが、彼らが言の葉を発することが出来ぬと悟り、「そうだったな、では主らに言霊を授けよう」と彼らに向かって手をひらひらと泳がせた。
植物たちは一瞬ビクッとしたのち、一斉にワナワナと震え始めた。
最初に言の葉を発したのがどの茨だったかは定かではない。
「イ…ク…、ス、スム…」
「ハ…ビコ…ル…」
「フエ…フエル…エル…エル…」
「イタ…イタイ…イタイ…イタ」
「ドウシテ…ドウ…シテ…」
茨たちは泣いているようであった。
己の身の不遇を嘆くのか。
自らが望むべく魔の力を取り入れたのであろう、
その身にぴったりの所業ではないか。
何を嘆くことがある。
「ワレワレハ、タシカニ、生きるコトヲ、ノゾンだ」
「生きトシ生けルモのナラ、だれシモが持つ望みダ」
「だが、ソレはこんなにも苦しいオモイをしてまデ」
「手にイレルほどのモノだったのかイマとなっては」
「分からない、ワレワレには、もう、分からない…」
それでも進軍を止められないのは既に茨の身体を魔の毒が蝕み支配しているからであろう。
「哀れよの」
老爺は同じ台詞をもう一度吐き、
「それでも主らは諦めたのだろう。一瞬でも。生き抜くことを諦めた、甘美なる諦観に溺れたのだ。その隙に魔がつけ込んだ。本当に生を望むなら、
「こんなところで蔓延ってなど居らぬはずだ」
「自業自得とは正にこのこと」
おおおおおおう、と云う茨たちの嘆きの声が彼の地に響き、蒼い岩肌へと跳ね返っては消えた。彼の地の地肌も岩肌も、決して彼らの嘆きの声を吸い込むことはなかった。
溶けても、融けても、補うように凄まじい速度で新しい芽は紡がれて、棘で大地を己の身をも傷付けながら蝕まれ、蝕まれ進んで行く。もう進みたくはない!そう誰かが叫んでも、行軍は止まらない。
「コの…この、苦しみを、乗り切った先に生なる喜びを感じることが出来るのですか」
「貴方がもしも神ならば教えてください。我々は…これほどの痛みや苦しみに値する罪を犯したのでしょうか」
「生きることを諦めるのはそんなにも罪なことなのですか」
老爺はそれでもゆうるりと進軍を続ける茨の群れを能面のような表情で見遣り、
「ワシは神などではないが…
「『諦めること』は悪いことでも罪でもないと、そして決して逃げることでもないと、そう思ってはいるがの。ただ、『地球上の生き物』として生きるなら、罪なことではあろうがの。だが諦めて死ぬものなど地上にも仰山に居る。お主たちはただ運が悪かっただけだ。
「そしてこの先を生き抜いたとて、そのような身では生なる喜びとやらも感じられぬだろうな」
茨の群れから悲鳴や怒声が上がり、むわっと咽せるほどの毒気が立ち上った。
「だから先ほどから哀れんで居る。生きることの喜びなどワシにも知ったことではないが、お前たちはこの地を蝕むために利用された、単なる駒のひとつに過ぎぬのだ。そのような邪なるモノにお主たちの苦しみなど、余程知ったことではなかろうよ」
茨たちは最早嘆息のひとつも出来ないほどに疲弊していた。己が身体をじくじくと腐らせる毒と、老爺の悲観的な白話に、絶望の一言だけが臭気と共に周囲を漂っていた。茨たちは個が全であり全が個であったから、誰が誰を責めることなども出来ず、ただ放心していた。ヒソとも発しなくなった茨を見詰め、老爺は、
「ただひとつだけ救いがある」と云った。
小夜子のことは伏せておこうとも思ったのだが、老爺にしては珍しく憐憫の情が深過ぎた。これもあの小夜子とか云う小娘の影響だろうか。どうもあの娘と行き合ってから調子がおかしい。普段の老爺だったらわざわざ茨の進行具合なぞ見に来ぬし、言葉まで与えようとも思わなんだ。老爺は小夜子のことを思うと胸がざわつく自分に若干の戸惑いも覚えたし、そんな自分自身に戸惑ってもいた。やはりあのまま隠してしまうべきだったか。
「救い…!救いとは…!?」
「一体何があるのです!?」
「お教えください、どうか…どうか…」
茨たちから一斉に縋る言葉が湧き出でて、ハッと現実に戻されたような感覚を得た老爺は、やはり自分の『らしくなさ』に充てられて、小夜子に対する靄を色濃くさせた。
「何れ、お主たちの元に『救うもの』が現れる」
「否、『現れるかも知れぬ』と云い替えた方が良いかな」
老爺は『ワシが隠してしまうかも知れないからな』の一言を伝えようか迷って止めた。
茨たちは「救うもの…」「救世主様…」などと囁き合い、喜びに打ち震えている。そんな小夜子を隠すなどと云ったらあの醜悪な毒気に充てられるやも知れぬ。まあそんなヘマは犯しはしないが。
老爺は欲しくなってしまったのだ。小夜子を。
己の欲の為ならばこんな茨もこの地もどうでも良くなるほどに、老爺は執着していた。 善意もなく、悪意もなく、気に入る気に入らぬに拘らず気分によって子を隠す。何百年も昔からそう過ごして来た。しかし欲しくなったのは初めてだ。
「さて、それではいつ隠すかの」
もう茨たちには微塵の興味も失った老爺はそう呟くとフッと茨たちの前から姿を消した。
残された茨たちの救世主を待ち望む希望と嘆きの声だけが彼の地に谺しては消えた。
大鳥加代子・弐
コツコツと窓を叩く音に大鳥加代子は浅い眠りから引き戻された。
何某かの夢を見ていた。内容はすっかり頭の中から消え去ってしまったけれど、どうやら加代子は泣いていたようで、目の周りや涙が伝ったであろうこめかみの辺りが乾いた塩水でごわごわと縁取られていた。そんな跡を指先で擦りながら、隣で汗染みを作りながら眠る愛し子を起こし泣かさぬようそうっと身を起こし、窓の方角を見遣った。いつの間にか外界は嵐のような有り様となっており、先ほどの音はどうやら庭木が風に煽られて窓にぶつかったものだったようだった。意識した途端に樹木のしなる音や風のいななく声で室内は溢れ、加代子はひとつ嘆息した。この有り様では明日の庭の様子がとんでもないことになると容易に推測出来て、何年経ってもどうにも好めぬこの家の、しかしその家に携わる雑用を全てこなさないといけない自分の身の上を思うとますます嫌気がさした。明日の庭内は揺り動かされて落ちた葉や枝枝やどこから飛んできたのか分からぬゴミ屑の山で足の踏み場もないだろう。こんな木々、ぶった斬れてやれたらどんなにスカッとするだろうか。夫は植物学者のくせに、そうしてその夫の意向でこの家に越して来たと云うのに雑草取りのひとつもしやしない。
いつもしかつめらしい顔をして書斎に籠り、たまに出て来たと思えば悠介に構うでもなくふらり何処かへ出掛けて行く。もう何年も機械的な言葉のやり取りしかしてないように思える。どうしたって悠介にかまけるしかなくなるのだ。悠介に構い、育て上げること以外に自分の存在意義が見つからぬ。
しかし夫の啓輔は小夜子にだけは甘いのだ。
趣味嗜好が似ているからであろうとは思う。小夜子も始終不機嫌な母よりしかつめらしくとも言の葉の伝わる夫の方が気楽であろう。要は加代子は小夜子に嫉妬をしているのだ。と、そこまで考えて、もう一度しなって窓ガラスを揺らした木々の声音にびくりとし、意識が戻る。
我が子に嫉妬?冗談じゃない。私はそこまで墜ちてやしない。
加代子はただ寂しいのだ。
言葉もろくに通じぬ息子、言葉のやり取りの叶わぬ夫、会話の噛み合わぬ稀有な娘、そうしたものから解き放たれて、何も知らない無邪気な娘だったあの頃のように友人や知人と語り合いたい。何でもないことでケラケラと笑い合いたい。ただそれだけなのだ。
加代子にだって世間的に多少のママ友と呼べるような知人はいるが、子の発育状況や配偶者に対しての愚痴、そんなことくらいしかこの辺鄙な地では話題には上がらぬ。そしてそんなことを他所様に赤裸々に語るなど、加代子の高いプライドが許さないのだ。今の己の現状を他人に話し、多少気が楽になったとしても、どうせ影では笑いの種だ。何を宣われるのかすら想像出来る。
−−−そう云った疑心暗鬼や自尊心の高さが加代子を余計孤独にさせるのだが彼女はそれに気付かない。
ピカリ。
窓の外から眩い光の矢が放たれて、暗闇に慣れた加代子の目を一瞬晦ました。
少し遅れてどろどろとした音が振動と共に伝わり、雷鳴りがその存在を身近に告げる。
加代子は己がずっと窓外を睨んでいたことに気付き、もうすっかり癖となってしまっている仕草を無意識に行った。爪をキリリと噛む音が、轟々と唸る嵐と共に室内に小さく響いては消えた。
彼の地
小夜子とガーゴイルは人目を憚ることをすっかりやめた。とは云ってもヨナルテパズトーリと出会う前と同じスタイルに戻っただけなのだが。それでも互いが互いに触れ合っていられるだけで小夜子の胸の内は初冬の陽射しを受けたカトレアの花ようにほかほかと暖かく、時折ガーゴイルと目線を合わせては笑みを零し、そうして彼の人の目尻も優しく三日月の形をかたどるのであった。
そんな二人の有り様を知ってか知らずかヨナルテパズトーリは二人より少し前に出て、鼻歌をフフンフンと鳴らしながらひょこひょこと、実にご機嫌に歩いている。
「ん…?」
魔法の棒を指先でクルクルと回していたヨナルテパズトーリは己が手の内で回る棒が異様な雰囲気を纏っていることにやっと気が付いた。ドラゴンの臭気に塗《まみ》れ慣れさせられて…と、平気なふりをしていたがやはりこの棒から放たれる毒気は醜悪で、ヨナルテパズトーリの体力と云えば良いのか気力と云えば良いのか、兎に角彼を顕現させている動力的なモノはだいぶんと消費されていた。
そんなヨナルテパズトーリの変化を見てとったのか、小夜子はガーゴイルと繋いだ手もそのままにヨナルテパズトーリの元へと駆け寄った。
「大丈夫?ヨナちゃん」
小夜子に半ば強引に引かれるように後を着いて来たガーゴイルも、ヨナルテパズトーリの微かに震える体躯を見て不穏な空気を感じ取った。小夜子がヨナルテパズトーリを後ろから覗き込む。その刹那。
ヨナルテパズトーリの枯れ枝のような手に魔の手が絡み付いていた。
「小夜子ちゃァん」
棒を持つ手を毒気をはらむ蔓に巻き取られたヨナルテパズトーリは、泣きそうになりながら小夜子に助けを求めるべく、しかしその手を絶対に小夜子には触れさせんと遠ざけて振り返った。
小夜子はそんなヨナルテパズトーリの気遣いなど何処へやら、ヨナちゃんの棒を持つ手に飛びついてはしがみ付き、必死に蔓を引きちぎり払い始めた。大丈夫、この蔓はまだ棘を持ってはいない!
小夜子の急な振る舞いに呆気に取られたガーゴイルであったが、それが何時かの己の依り代であった石像に蔓延る蔓と奮闘する小夜子を思い出させて、己が半ば囚われていたことを思い出し憤然として小夜子に加勢をした。ガーゴイルの時に鋭利な爪はまだ生まれたてとも云える蔓をひと所に切り取り、よもやヨナルテパズトーリを我が物にせんとした悪しき棒からの侵入を阻止させた。
「ハアハア…」
ガァちゃんの屈強さに感嘆しながらも己の不甲斐無さを憂う小夜子は、それでもヨナちゃんが悪しきモノに取り込まれなく済んで良かったとホッと胸を撫で下ろした。
「ヨナちゃん、大丈夫…?」
未だ震えるヨナルテパズトーリを目にし小夜子はそっと彼の背に手を添えた。この茨の悪気は既に身に沁みている。きっとガァちゃんもそれ故に加勢してくれたに相違ない。
しかしヨナちゃんは頼りなげな笑顔を満面に取り繕わさせて、
「ありがとうねェ二人とも、オラは大丈夫なよォ」と、宣うのであった。
「なんで急に棒が暴れ出したのかしら」
未だ少しく震えるヨナルテパズトーリの背中を撫でながら小夜子は誰ともなしに呟いた。
地面に放り出された棒は蔓の切れ端をふるふると震わせて尚、禍々しい紫色の靄のような毒気をその二股に裂けた身体から発している。
「近いのかも知れないな」
そのガーゴイルの一言に小夜子は思わず彼の人へと振り返った。
「元は同じ植物同士だ、反応し合うこともあるだろう」
「近い…」
それはいよいよ決戦の時が近いと云う意味でもあって、小夜子は少し身じろいだ。
「見てみろ小夜子」
ガーゴイルの指し示す指先の方向を、敢えて彼の人の腕に視軸を向けて沿わせるようにゆっくりと顔を向けた小夜子は(ああ、怖気付いている)と己の臆病さを恨んだ。向けた視線の先にはきっと終焉の時を告げる何かが在って、小夜子はそこへと向かわなければならないのだ。そして…それはきっとガァちゃんとの別れの時をも意味している。
小夜子はそれを感じただけでこの場から逃げ出したくなったけれど、竦んだ足は逃げることをも許さず(どうして私こんなに弱くなってしまったのだろう)と小夜子は悲嘆に暮れた。恋も愛も人を強くさせるけれど、時にどうしても己が内の弱さを隠しきれなくさせるのだ。愛の形をガァちゃんとしてしか知らぬ小夜子には、ガァちゃんを失うことは全てを失うことに等しくなっていた。
でも、それでも。
やはりガァちゃんには弱い私を見せたくない。ガァちゃんには強い小夜子を見て欲しい。
小夜子は一旦目をぎゅうと瞑ってから、ガーゴイルの示す指の先をキッと見据えた。睨むでもなく鋭くもない純粋な瞳で見定めた。そうして目を見張った小夜子の−−−
小夜子たちの行く末に紫の靄が毒々しくもいっそ美しく、泉から湧き出でる水のように混々とその姿を表していた。
別れのとき
小夜子は暫く毒の霧を見遣ったのち、ヨナルテパズトーリに向き直り、
「ヨナちゃん、ここまでありがとう」と云った。
ヨナちゃん、私の友達。初めて出来た親友。その時間は悲しいほどに短かったけれど、友を友と定めるのは時間の長さではないと教えてくれた。
小夜子からの突然の別れの言葉に驚いたヨナルテパズトーリは「な、小夜子ちゃァん!オ、オラも一緒に行くよォ」と今にも泣きそうな声で小夜子の手を取った。ヨナルテパズトーリの蔓に巻き取られた方の手は少しく紫の色を帯びていて、小夜子の胸を苦しくさせた。
連れて行けない。絶対に。
「ヨナちゃん、ヨナちゃんにはここで見届けていて欲しいの。そして全てが上手く行ったのなら、それをドラゴンさんに伝えて」小夜子はそう云って精一杯の笑顔を繕った。
きっと全てが上手く行けばドラゴンに伝えることなく済むだろう。だけど小夜子はどうしてもこれ以上ヨナちゃんを茨の毒気に当てさせたくなかったのだ。親友を傷付けたくはない、身も心も。その全てを。
「行こう、ガァちゃん」
小夜子をすがるような目で見るヨナルテパズトーリから敢えて視軸をずらしてガーゴイルに向き合った小夜子は、その歳とは思えないほどに凛とした横顔を湛えていた。
ここからは絶対に振り返らない。
大きな瞳に大粒の涙を浮かべ一人佇むヨナちゃんを見ればきっと心が裂ける。
小夜子に今必要なのは裂けた心ではなく鉄のような心臓だ。
そう己を叱咤するも身体は相反してふるふると震えて、その震えは繋いだ指先からガーゴイルへと伝わっていたけれど、彼の人の「なんだ?小夜子、武者震いか?」の一言で随分と救われた。そうだ、これは武者震いだ。小夜子はガァちゃんやヨナちゃん、他のあらゆる妖怪たちの為にこの地を救うのだ。こんな誉《ほまれ》が人生に何度来るだろう、きっと一度だって来やしないに決まっている。小夜子は選ばれたのだ。彼らを助けるに足る人間として。
小夜子はガァちゃんのバッジをギュッと握り、ガーゴイルと共に歩き出した。
この先何があろうとも。きっと。ぜったい。
腐れた土壌
その地はもう既に「土くれ」とも呼べるような代物ではなかった。紫色と腐った緑の色が混ざった泥の海。その海の中を茨が毒を吐きながらゆうるりと行進している。なぜ所々に緑が混じるのか不思議に思った小夜子であったが、目を眇めて見遣り「そんな…」と一言絶句した。毒を吐きながら、己の身体も毒に侵され溶けている。茨同士、互いの棘で傷付き合い、そうして出来た傷に毒は染みて融けて行く。なんて、酷い。
ガーゴイルと小夜子はその無惨さにしばし言葉を失い、佇んでいた。
不意に「…ケテ」と云う弱々しい声が聴こえて、小夜子とガーゴイルは目を見合わせた。
「小夜子、何か云ったか?」
「ううん、私は何も云ってないわ」
小夜子とガーゴイルが逡巡する間にもカタコトの声は四方八方から弱々しく放たれ、それが茨の群生から発せられていると自ずと二人に知らしめた。
「…キュウウ…セ」
「スク…スクて…」
「タレ…誰カ」
「この、苦しミからノ」
解放ヲ!
悲痛としか云い様の無いその声色に、小夜子の胸は引き千切られんばかりであった。
何故茨ばかりを『悪』と捉えていたのだろう。それは彼らがガァちゃんのあの石像を縛るが如く強引に巻き付いていたせいも多分にあっただろうけれど、彼らもまた被害者なのだ。どれだけの命が生まれ、そしてその身を削って来たのだろうか。その道行が少しでも短かったら良いのにと胸の内で祈りながら、小夜子はガーゴイルを見上げた。
ガーゴイルの横顔からは鋭い眼に宿る浅葱色の輝きしか見て取れなかったけれど、その瞳の一見穏やかとも見える薄い青緑の色からは悲哀の感情が滲み出ているようで、小夜子の胸をより一層苦しくさせた。
「小夜子はここで待っていろ」
そんな小夜子の心情を知ってか知らずかガーゴイルはそう宣い、小夜子と繋ぐ指をそっと離した。
ああ、途端に不安の虜となる、小夜子は、弱い。
「ガァちゃん…?」
と揺々声を振り絞り、一歩一歩とその身を前進させる彼の人に着いて行こうとする小夜子に「待てと云った」と云う鋭い声が走り、小夜子はビクッと身を強張らせた。
「少し様子を見て来るだけだ、すぐ戻るさ」と、小夜子の頭を優しくポンポンと二度三度叩き、前を見据えたガーゴイルだったけれど、平素なら小夜子を早春の日和のように安らかにさせてくれるその仕草も、小夜子を更なる不安の淵へと誘《いざな》うばかりであった。
「さて、オレにはお前らが誰に何を救ってもらおうと願っているのか到底分からんのだが、
「その身は願って得たモノのはずであろう?何を憂うことがあるのだ」
途端、茨の群生からワラワラとした声が立ち上ったけれど、それらは既に言の葉としての機能を発揮させず、ただ悪戯に毒の臭気を彼の地に舞い上がらせるばかりであった。
「さてと…」
ざっと周りを見回したガーゴイルは一瞬ヨナルテパズトーリの身を侵した毒気に気を逸らせたが、小夜子の身を穢すよりずっと良いと、その一足をじくじくとした泥の沼地へと無意識のうちに躊躇しながらも踏み出した。
じくり。
じくじくと知った疼きが踏み出した右足の裏から滲みて来るのが分かる。そうしてその毒気がガーゴイルの腹の中へと意識を向けたのを感じ取り、感じ取ったその刹那、ガーゴイルはガーゴイルではなくなった。
「ウガァぁぁああああっぁ!」
ガーゴイルが茨の群れへと歩み寄った先から凄まじい怒号、否、叫び声が聴こえて小夜子は目を見開いた。一体何が起きているの!?小夜子は今すぐガァちゃんに駆け寄りたいぐらいだけったけれど、ガァちゃんの「待て」の一言が小夜子の足を何処までも忠実な犬のように堅牢にさせて動くことが叶わなかった。
ガァちゃん!ガァちゃん!
まるで口までも枷をかけられてしまったかのように動かなくなってしまった小夜子は悲痛な声を上げるガァちゃんを纏う紫の霧の様なものがいち早く晴れることを祈るばかりであった。ああ、神様でも仏様でもなんでも良いからガァちゃんが無事でありますように。小夜子は殺生を厭う質だったけれど、もしガァちゃんを苦しめているものが茨の群れだったのなら、あの毒に侵されたヒカリゴケたちと同じように小夜子の怒りで焦げさせてやろうと心に決めた。
小夜子は目を凝らして、ガァちゃんがいるであろう方向を見つめた。徐々に霧が晴れて行く。それに連れ、ガァちゃんの叫ぶ声の色が変わって行くことに戸惑いを覚えた小夜子は、やっとこさっとこ「ガァちゃん…?」と声を振り絞った。
「オレを見るな!」
小夜子の声が届いたのかそうでは無いのかいつになく冷静さを欠いたガーゴイルの叫び声にギョッとした小夜子は、そうは云われても見ぬことは叶わず、そうして彼の人の見てくれの変化に再度目を向いた。
小夜子が幼少期、父の気まぐれで連れて行ってもらった牧場で見た牛よりもずっとずっと太い胴、そうして、どんなに懇願しても乗らせてはもらえなかった馬よりも長い体躯、顔はひしゃげたライオンのようで、そのひしゃげた口から生える鋭利な牙と、鱗で覆われた身体には更にその身に背負うように亀のような甲羅を纏っている。尻尾は世に云うドラゴンのそれで、そこだけがガァちゃんとの絆を感じさせてくれている。それほどにガァちゃんの見てくれは変わってしまっていた。
魔法から解けたか如く体が動く様になった小夜子はガーゴイル(で在ったもの)に一歩自然と近付いた。
「近付くな!」
「見ないでくれ!」
「こんな醜いオレを見ないでくれ!」
ガーゴイルは泣いている様であった。
小夜子は姿も変わり、しかも嗚咽まじりの声で叫ぶガァちゃんを切なく思いながら、そして戸惑いながらも醜いなどとはちっとも思えなく、しかし彼の人の悲哀が氷の刃を以って貫いたように己の胸に深く刺さり、近付くことが是なのか比なのか分からなくなった。出来得ることならば今すぐ駆け寄って抱きしめたい、貴方は醜くなんて無いと。
「今の奴には何も届かぬ」
真後ろから荘厳な声が聴こえ、文字通り飛び上がった小夜子は、恐る恐る後ろを振り返った。
誰が呼んだでもなく、そこにはまさに『荘厳』の一言がしっくりと来るドラゴンがその身を静かに揺らしていた。
真の姿
「アレがあやつの真の姿なのであろう」
そう静かに呟いたドラゴンの瞳には些か疲弊の色が宿っていた。
「あの姿が、ガァちゃんの…?」
「ああ、名は『タラスク』とでも云ったか。人間の世界では罪なき人々を蹂躙し最後は耶蘇教に退治されるだけの哀れな身よ」
タラスク?…それは『水木しげる妖怪入門世界編』に出ていた『タラスキュ』のこと?でも水木さんのタラスキュはこんな容貌ではなかった!だからと云って先ほどまでのガァちゃんとも程遠いけれど…。小夜子はガァちゃんがタラスキュなどとは信じられない!とドラゴンに物申したかったけれど、嘗てガァちゃんが己を半ば取り戻した際「己の見てくれを嫌っていた」と云う様なことを話していたことを思い出し、開きかけた言の葉を閉じた。
「ドラゴンさん、貴方は気高きドラゴンさんよね?私みたいなものが貴方に設問するのも恐れ多いけれど、ガァちゃん…あの、彼は、ガーゴイルはどうしたら元の姿に戻れるのですか…?」
「元の姿と云うと、あの石像に囚われていた時のあの姿形か?」
「そ、そうです…」
「真の姿に戻った今、貴様の云う『元の姿』に戻ることは無理であろうな」
そんな、そんなそんなそんな!それじゃあガァちゃんはこれからもあのままに己の身を苦しんで暮らして行かなければならないの?この地では怒りも苦しみも悲しみもないと云っていたのは彼そのものだったはずなのに、本当はこの地でいつもあの様に苦しんでいたの?ガァちゃんだけそんなだなんて、そんなのってひどい。
「しかし参ったな、奴がいつまでも斯様な有り様では課した任も思う様にならぬ」
ドラゴンのそんな悲嘆の声を聞きながらも未だ動けずにいる小夜子は嫌が負うにも耳慣れてしまった「サヨ…」と云う声音に怖気を立てさせ「ヒッ!」と思わず叫んだ。この声は、あの時の!こんな大事な時にまた攫われてしまったらどうしようもない!
「どうした?」とドラゴンに問われ、先ほどまで上気していた顔を真っ白に染めながら事のあらましを告げた小夜子に「ふん、たかだか数百年程度生きた古木が生意気な」そう云いながら小夜子には余りにも大きな翼で小夜子を包んだドラゴンは大地をも揺るがす声で「貴様如きにくれてたまるか!我が名はドラゴン、地上最強の妖ぞ!」と小夜子の身体をビリビリとさせながら宣った。途端に小夜子を包んでいた悪気は小波の如く退いて、小夜子を大層安心させた。さすがドラゴンさん、老爺にだって負けやしないんだ。きっと今頃歯噛みしているに違いない翁を想像して溜飲を下げた小夜子であったが、今はそんな状況ではないと己を叱咤して、未だ我が身を包み込んでくれているドラゴンに向けて顔を上げた。
最前、ガァちゃんやヨナちゃんと歩いていた際にバッジが光り、側に在った石くれへと映し出された映像が頭へと過ったのだ。そうだ、この妖の頂点とも云えるドラゴンさんなら分かるかも知れない。なんせあの時映った石像はどう見てもドラゴンの親戚だったのだから。
「ドラゴンさん、守ってくれてありがとう」小夜子はまず謝辞を述べ、先に体験したガァちゃんのお守りバッジから放たれた光景と、その面差しに知見があるかどうかをドラゴンに問うた。
「十字架に巻き付いたドラゴンか…」
そう呟きしばし考えるそぶりを見せたドラゴンだったが、そんなそぶりのドラゴンの「分からんな」と云う無碍な一言で小夜子はズッコケそうになった。
「我には姿形も名前もが余りにも有り過ぎる、早々覚えてられんよ」
と、ドラゴンは多少申し訳なさそうに宣った。ドラゴンを申し訳なくさせたなんて、人類史上小夜子が初めてなのじゃないかしら。
小夜子は『ソレ』を知っていそうな人物を一人思い出して、しかしその場所へ赴くことが出来るのかと逡巡し、ドラゴンへと素直に告げた。
「お父さんなら何か識っているかも知れない…」
「お父さん?」
「はい、私の父です…とても物知りなの…」
そう、お父さん。博識な父ならきっと識っているであろう。
でもその場所に帰る手立てがどうにもないのだ。
ドラゴンの背に乗り石くれの闇を駆け夜空を舞えば、もしかしたら辿り着けるかも知れないけれど、それでは余りにも時間が掛かり過ぎる。未だ泣き叫ぶ彼の人を見て小夜子は「そんな時間はない」と独りごちた。
「なんだ、なんの時間がない」
耳聡いドラゴンにそう問われ、小夜子は小夜子の父ならその正体を識っていそうなこと、しかし家に帰るまでは相当に時間が掛かることを素直にドラゴンへと告げた。
「一瞬で瞬間移動でも出来たら良いのだけれど…」
そう呟いた小夜子に呵呵と笑ったドラゴンは、
「おい!老木!貴様の出番だぞ!」 と叫んだ。
一瞬ざわりとした感触が小夜子を襲い、そしてその感覚は怒気を含んでいる様でもあった。まさか、もしかして。
「件の老木、あの者なら小夜子を小夜子の好きな所へと飛ばせるだろう。なぁに心配はいらぬ。もし貴様に何か仕出かせんとしたならば、彼奴等丸ごと灰にしてくれるわ」
今回は触れれば火傷をその身に帯びてしまいそうな程赤く染まった火竜は、高らかにそう宣った。
そうして小夜子はまた隠された。
神に隠され
ハッと目を見開くと目の前数メートル先に古木の翁が立っていた。
翁は実に面白くないと云うような顔付きで小夜子でもないあらぬ所を凝視していた。小夜子はずっと表情の変わらなかった翁の苦々しい表情を見て、やはり少し溜飲が下がる思いでいた。見渡せばあの時と同じ様に苔むした地の真ん中に古い切り株が鎮座して居り、しかし先だっての様にヒカリゴケの精霊は姿を見せなかった。
「なんの用だ」
隠すのは得意でも送り込まれるのは初めてなのであろう翁は少しく戸惑っている様にも見えた。小夜子は恐れる気持ちも何処へやら、「どうか私をある場所へと送って欲しいのです」と翁に丁寧に答えた。父の元、我が家の元へ。もう二度と、帰るものかと思った場所へ。
「ふん」
翁は鼻で笑ったのかそれともため息を漏らしたのか判らない息を漏らし、「良いだろう」と答えた。小夜子はまさか翁がこんな簡単に小夜子の願いを聞いてくれるとは夢にも思わずはしゃぎそうになったけれど、「ただし」の一言で夢から覚めた。
「わしにも何か見返りをもらおうか」
小夜子は途端に怖気たったけれど、それがガァちゃんを救う唯一の道ならば仕方ないと心に決めた。考えあぐねている時間などないのだ。こんな間にもガァちゃんは踠き苦しんでいる。ガァちゃんのためなら何でも出来る。それが仮令己を見失うことであっても。
「心と体、どちらが良い」
心と体?それはどちらかを差し出せと云うことなのだろうか。
小夜子は意地悪な翁の策に嵌まらぬ様慎重に言の葉を紡いだ。そんなもの考えずとも決まっている。
「貴方に捧げるのなら『体』です」
翁は少しく仰天したような顔付きをして、そうして歯噛みした。ぎりり。
幼きモノを己は未だ侮っていたようだ。
「契約は成立ですよね?」続けて小夜子は問う。
「行って戻っての数分間、その対価としては十分でしょう?私は彼の地の危機を救えたのなら必ず貴方の元へ赴きます。この、今は有るのか判らない体を捧げに」
そう云って翁をスクと見上げた。
その瞳は数百年の、もしくは一千年もの時を満たしたかも知れぬ翁を脅かすほどに澄んでいた。
「良いだろう、では何処に行き、何処へと還る」
小夜子の強い眼差しの虜となった翁は素直にそう呟いた。
「私の父の書斎へ。そして…事が済んだらガァちゃんの元へ」
翁は胸にチクとした痛みを覚えたけれどその正体の行方は分からず、「余り時間はないと思え」と一言添えて、小夜子を今となっては懐かしい、小夜子の父の書斎へと飛ばした。
書斎へ
「お父さん」
と云う声が聞こえた気がした。
折しも窓外からは向夏の嵐の泣き叫ぶ声が同時に聞こえ、何をそんなに娘に執着する事がある、と、くつくつと笑った大鳥啓輔は、背中辺りからもう一度「お父さん」と呼ぶ声にゆっくりと後ろを振り向いた。
小夜子。
顔を幾分か上気させた娘が書斎扉の前に佇んでいた。
「どうした、何かあったのか」
こんな時間に娘が起きていることにすら執着せぬ。啓輔はそう云う男である。小夜子はよく識っている。この人は子供に興味も愛着もないのだ。なので自分もそうさせてもらおう、幼い小夜子には幾分か大人びた考えだったが、そうでもしないと己の内の何かが音を立てて崩れそうだった。そう、それはまるで砂で出来たお城の様に。
小夜子は泣きそうな気持ちを堪えて父に問うた。今は泣いている場合ではない。小夜子は気丈になって、
「十字架を守るように巻き付くドラゴンの像を識っている!?」
「私、今ある人と旅をしていて、でもその人がタラスキュへと変わってしまって、でも本当の姿は違うの!このバッジから投影された映像はドラゴンに似ていて、私、そのドラゴンの名前を知りたいの!」
自分でも何を云っているのか分からない言葉を一息に発した小夜子は父の怪訝そうにひそめる眉間を見て「しまった!」と思ったが、
父は、「何を云っているのかさっぱりだな。とにかくそのバッジとやらを見せなさい」
と静かに答えた。
小夜子は急いで(しかし少しく名残惜しい気持ちも抱きつつ)バッジを己の胸元から取ろうと針に手を掛けた。
「…っつ!」
急ぐあまり人差し指を針に引っ掛けてしまった小夜子は、嘗ての彼の人の、
『止め置く針で手を傷付けぬ様にな』
と、云った一言を思い出していた。ガァちゃん、愛しい人。今ならはっきりわかる、貴方がどれだけ私のことを想いやっていてくれたかを。
漸っとバッジを外した小夜子は、小夜子の痛みにすら無関心な父の、無造作に差し出された手に大事な大事な宝物を優しく置いた。嘗て彼の人が小夜子をそう扱ってくれたように。
父は小夜子の宝物を指で摘み、もう片方の手で眼鏡の縁を上げながら裸眼で繁々とバッジを見つめた。
「これは…」
両手を前で揃えて厳かに、じっと塑像のように父の言葉へと耳をそば立てていた小夜子は、揃えた手を体の脇で固く握ってグッと父の方へと乗り出した。
「この緑に囲まれた顔の彫り物はケルト民族の守り神、兼、精霊と云われている『グリーン・マン』だな。横に彫られてある三行の文字列は詳しく調べて見ぬと解らぬが、古いオルガ文字で間違いないだろう」
そう云って手近にあった書籍の余白にバッジの三行の文字を目を眇めながら手短に写し取った父は「十字架とドラゴン、と云ったな」と小夜子の答えは待たない素振りで呟き、小夜子の後生大事な宝物であるガァちゃんのバッジを小夜子に無造作に(決して小夜子を見ることなく)返した。
置いて行かれる。いつも、いつもこうやって、少しでも近付けたと思えば小夜子を置いて行ってしまう。小夜子は、父を。少しでも知りたいと思っていたのに。
そんな小夜子の心情を全く省みぬ父は顎に手を添え「ケルト…十字架…ドラゴン…」 と呟きしばし考えたのち、数多る書架へと向き直り、目を皿の様にして書架を隅から隅へと見遣った。そうしてその中から一部の書闍へと目を置き、一冊を無造作に手に取るとやおらページを捲り出した。小夜子はその素早い父の動きに目が追いつかず、何の本を手に取ったのか分からなかったが、父が確かに何某かの答えを導き出すべく本を手に取ったのを十二分に悟り、父の口から何某かの答えが出るまでまんじりと待つことと決めた。
「ドルイド・ドラゴンだな」
父の口から急に言葉が降ってビクッとした小夜子は、それでも「ド…ルイド、ドラゴン…?」と言葉を反芻した。
そんな小夜子のことを気にもせず、父は
「ケルト神話…古くはアーサー王の伝説にまで遡る、ドルイド・マリーンにケルト民族の平和の象徴である十字架を守れと命ぜられたドラゴンだ」
ドラゴン!
やはりそうだったのだ、何の間違いか分からないけれどガァちゃんは本来ドラゴン一族のモノだったのだ。ああ、良かった、名が分かれば本来の姿を取り戻せる、ガァちゃんをこれ以上苦しませなくて済む!
小夜子は俄然強気になって、しかし未だ小夜子を見ずに書斎に向かい本に目を落とす父の背中を少しく切なげに見据えながら「お父さん、ありがとう」と父の背中に語りかけ、煙のように、消えた。
「ケルトの守り神がキリスト教の悪獣なるタラスクへ…ケルト系キリスト教の歴史の転換点に何か齟齬でも起きたのか…」
そうブツブツと独りごちる啓輔には、娘の別れの言葉も、娘が消えたことにさえも、決して気が付きはしなかった。
再び、彼の地へ
「ただいま!」半ば意気揚々と帰還した小夜子であったが、いつの間にかドラゴンの横へと立ちすくんでいたヨナルテパズトーリを見て目を丸くした。「ヨナちゃん!どうしたの?」
「小夜子ちゃァん…」
そう情けない顔付きで小夜子に助けを求めるべく放ったヨナルテパズトーリの視線の先を追って、小夜子は再度目を見開いた。
未だ助けを求めるように半ば赦しを乞うように己自身を嘆き悲しむガァちゃんは、その身体を茨の棘に、まるでみしりみしりと音を立てられ侵食されているかの様に巻き付かれていた。
「ドラゴンさん!これってどう云うこと!?」
ガァちゃんのあまりの惨状に、ヨナちゃんは仕方ないとしても、それなりに力を持つドラゴンが為す術もなく立ち尽くしていることに腹を立てた小夜子は我も忘れて詰め寄った。
奴らはきっとガァちゃんのお腹の中にある『玉』を狙ってるのだ。
「すまぬ、小夜子…」
ドラゴンから思いもよらぬ真摯な謝罪の色が降って来て、小夜子はハッと我に返った。
「私こそ、ごめんなさい…」そう項垂れる小夜子の歳の割に大人っぽい仕草や切り替えの速さに少しく驚きながらドラゴンは、
「すまないな、我らには手の出しようもないのだ」と再度謝罪した。実際ドラゴンの心中は詫び悔いる気持ちと情けなさと不甲斐なさで一杯だったのだ。何が地上最強のドラゴンだ。あんな毒草の群れ一つにも叶いやしないのに。
「何か成果はあったのか?」と、項垂れる小夜子に優しく問い、今はタラスクと化したガーゴイルがこの娘に執着する気持ちも分からんでもないと、ドラゴンらしくもない感想を胸に秘めた彼は、触れる熱さで小夜子の身を焼かぬようその身を竜王へと変えた。
西洋の竜から突然の東洋の竜へとの変化に、小夜子は俯いていた顔も何処ぞに目を白黒と回転させた。
東洋の竜は羽もないのに空を飛ぶ術を持っていた。
小夜子はその姿を見た際に小夜子の大好きな、そして世界的に有名な漫画に出て来る神龍を思い出し、次いでいつだったか動画サイトで目にした『日本昔ばなし』と云うアニメーションのオープニングを思い出した。幼い弟はこのオープニングを酷く怖がり大仰に泣いていたっけ。弟。もう幾年月も会っていないような存在。
そうだ、母にも弟にも、そして先ほど会ったばかりの父にも、小夜子はもう随分と顔を見せていないような気がした。この場所が己の感覚をおかしくさせるのか。それとも、半ば妖怪と化したこの身が時間と云うものを無きものとさせているのか。
と、そこまで考えて(そんなことを考えている場合じゃない!)と己を叱咤した。
目の前でガァちゃんが苦しんでいると云うのに己は何をしているのか。
小夜子は十数メートル先で苦悶の表情を浮かべているガァちゃんに向かい、
「ドルイド・ドラゴン!」と叫んだ。
小夜子はガァちゃんの変化を確信していたけれど、彼の人は未だその姿を変えることはせず、もしかして聴こえなかったのかも知れない、と『想起すれば現れる』彼らの特性すら忘れてガーゴイルへと駆け寄った。
「ガァちゃん!ガァちゃん!貴方はドルイド・ドラゴンなの!思い出して!」
どんなに近寄ってもガァちゃんに己の声が届かない。
「醜い!苦しい!殺したくなど…!」と云うガーゴイルの嘆きの声と、茨たちの言葉にもならない呻く様な声が邪魔をする。
ガァちゃん…。
小夜子は躊躇うことなく一歩一歩、毒の沼地と化したガァちゃんの元へと進んだ。後ろから「小夜子ちゃァん」と叫ぶヨナルテパズトーリの泣き声は右耳を通って左耳へと過ぎ去った。私しかいない、それならば。
小夜子は紫と毒々しい緑色に姿を変えた彼の地にズクッと裸足の右足を踏み入れた。
小夜子はスズメバチに刺されたことはないとしても、ある程度『刺激をすれば刺して来るハチ』に刺された経験があるので、ビビビッとした衝撃に「すわ、これがハチの女王の攻撃か」と頭の片隅で何とか想起できるほどの衝撃を受けた。思わず二歩目を踏み出すのに躊躇する。そんな己を再度叱咤して今度は左足。一度目の衝撃で多少の慣れはあるだろうと甘く見ていた小夜子は、その毒気の更なる衝撃度に嗚咽を漏らしそうになっていた。
負けるものか。
ガァちゃんの苦しみに比べればなんてこともない、この身がどんなに毒されようとも、穢されようとも、構いやせぬ。小夜子は一歩一歩進める足にズクズクとした痛みを備えながらガァちゃんの元へ、時に茨の棘を踏みしだき、激痛に堪えながらも進んだ。
茨の棘は小夜子の侵入を邪魔するように、小夜子の未だ小さな足のその裏を穴だらけとさせた。小夜子は彼の地で泣けないことを初めて幸いと思った。こんな、卑劣とも云える攻撃で泣きたくなんてない。
ズクリズクリと茨が小夜子の足の裏に穴を開け、そこに毒が染み渡る。今や顔を残した身体中を茨の毒気へと蝕まれた彼の人はどれだけ辛いであろうか。そんなガァちゃんの苦渋に塗れた顔を間近に見据えた刹那、茨の蔓が小夜子に向かって撓って来た。まどろっこしい。小夜子は痛みを堪えるあまり怒りで肝が据わっていて、途端に撓って来る蔓に向かって電撃を走らせた。殺したくないとか云ってはいられない。こうなっては、もう。
茨は思わぬ小夜子の反撃に驚いたようで、一瞬その時を止め、黒焦げになった己の一部を観察している様であった。
茨はしばし進軍を止め、漸っと言の葉らしきものを紡いだ。
「スクイヌシ…」
かそけき声であったが茨の群れは確かにそう呟いた。救い主?私が?
「そう、私は貴方たちをも救う運命なのね…」
「ふう…」と一息付いた小夜子は、それでも尚退かない茨たちを少しく苛立たしげに思い、もう一層全てを焼き尽くしてやろうか、などと小夜子らしからぬ考えが頭を過ぎって、小夜子は額に手を当てつつ頭を二、三度振った。これも茨の毒気のせいなのかしら。思考が闇の底へと堕ちて行くよう。
小夜子は父から受け取ったままに左の手に握っているバッジを殊更にぎゅうと握り締めて、「道を開けて!」と茨の群れに向けて宣った。途端にバッジから眩いほどの黄金色の光が放たれて、茨の群れは一瞬びくりと身体を一斉に振るわせ、小夜子の行く末へと続く道からザザザっとその身を退けた。
途端に視界が開ける。
毒々しい色を、その足跡を少しく体に刻みながら、今尚嘆き悲しむ愛しい人がそこにいた。
「ガァちゃん…」
小夜子は己が耳をも閉じていそうな彼の人を見て呟いた。
どんなに姿形が変わろうとも、私にとってガァちゃんはガァちゃんでしかないのに。
小夜子は、嘆き悲しみもはや小夜子の姿形すら理解出来ていなさそうな彼の人を見て、星屑を乗せたように瞬くまつ毛をゆっくりと上げ下げとし、毅然と彼の人に向き直った。
そうして茨の開けてくれた道をゆっくりと辿り、彼の人の面前へと行き着いた。
随分と長かったような、短かったような。
ガァちゃんへのこの短い道のりは、小夜子にとって無限の道のりであったけれど、どんなに長く思える道でも差し出す一歩を諦めなければ辿り着ける。
「ガァちゃん…」
小夜子は再度愛おしい人の名を呼びながら、その面前に立った。
最前までのガァちゃんの面影が全く見えないその顔貌を目にしても小夜子の想いは変わらなかった。こんなにも愛おしい。どうしたら伝わるだろう。かろうじて垣間見えたガァちゃんの素顔が「見…るな…小夜子…、見ない…でく…れ…」と嘆く言葉を、打ち消すような何かを小夜子は持っているのだろうか。
小夜子は先に叫んだガァちゃんの真とも呼べる名をもう一度ガァちゃんによく聴こえるように「ドルイド・ドラゴン!」と叫んでみた。変われ。元の姿へと!貴方の本当の姿へと、変われ!
タラスキュと化したガーゴイルは一瞬びくりと身体を震わせたけれど、それはほんの一瞬のことで、ガァちゃんを何者にも変えることは無かった。
どうすればいいの?
小夜子は封じ手をも咎められた心持ちで、天を仰いだ。
紺碧。
見上げた空は蒼い夜空そのもので、ここに銀河の群れがないことが不思議なほどに澄み渡っていた。ガァちゃん、ガァちゃん。貴方となら在らぬ銀河だってをも超えられる。
小夜子は未だ茨に身体中を半ば囚われているその身に身体を寄せて、精一杯背伸びをしながらガーゴイルの首に抱き付いた。半ばぶら下がるように、でもつま先だけは何とか地に指を着けてガーゴイルを捉えた小夜子は、ふふふ、と微笑んでガーゴイルに向け「捕まえた」と宣った。
ガァちゃん。
ガァちゃん。
「ねぇ、ガァちゃん。私を見て」
それでも嘆く仕草を止められぬガーゴイルに向かい、小夜子は満面の笑みで、
「ガァちゃん、貴方が好きよ。大好き。世界中の何よりも」と、言の葉を発した。
小夜子の切り取ったようにくっきりとした二重で縁取られた大きな瞳から、うるうるとした音が沁み出でて、それは一粒の水滴となりガーゴイルの鼻先へと触れた。
ぴちょん。
まるでそんな音を立てたかの様に着地したそれは、それでもその身を弾かせることなくガーゴイルの鼻先へと沁みて行った。それが始まりの合図のように、今まで出すことの叶わなかった水分を出し切るか如く、小夜子の瞳からするすると流れ落ちる水滴が沁み入るごとに、ガーゴイルの身体に目を瞑っていなければならないほどの光が溢れ、その身体に巻き付く茨をも変化させて行った。
小夜子はただ泣いていた。静々と、まるで泣くことを気持ち良いと感じさせるほどに涙は小夜子の両目尻から溢れ出て、この地に起きた様々な悲しみを癒して行った。
茨の群れはその棘の存在を無かったことにするかのように、その身をシロツメクサへと変え、小夜子の足を優しく包み始めた。巻き取られたビロードの絨毯を広げるようにその変化は茨の群れへと伝わり、瞬く間にあたり一面をシロツメクサとクローバーの草原へと変えた。
「あ、ああ…!」
その変化を見守ることしか出来なかったヨナルテパズトーリは、己の足元に茂る苔類や岩棚に蔓延り始めた植物群のざわざわとしたうねり、コポコポと湧き水の出でる水音を感じていた。
在る様にして在るものたち。
かつてはそうで在ったものたち。
彼の地への幸いは、崩れ朽ちたもの、未だ何とか形を保つもの全てに分け隔てなく降り注いだ。未だガーゴイルの、今となっては黄金色に塗されて姿の見えない彼の人の頬の辺りに、いつか彼の人が一体の石像だった頃にそうしたように両の手を添えた小夜子は、
「ガァちゃん」
と、彼の人の真をもう一度呼んだ。
途端に小夜子も目を瞑らざるを得ないほどの眩い光がガーゴイルから放たれ、小夜子は余りの眩しさに目を背けた、その刹那。
ガーゴイルの身体が小人の地下に煌めく小さな鉱石の星々を弾けさせたように、散り散りとなって光と共に空へと溶けた。
放たれた光は光の中にあっても尚、暗闇から光へと這い出たときのように小夜子の目を眩まし、小夜子の硝子細工のように澄んだ瞳をうるうると滲ませた。
眩しくて何も見えない。
ガァちゃんはどうなったの?
光の粒子のようなものが弾けた感覚は捉えられたけれど。
ああお願い。双眸よ、その力を早く宿して!
未だ黄緑色の光と激しい目の痛みを瞼のうちに抱えた小夜子は、痛みに涙を流しつつも抗うように瞼を開けた。それでもうっすらとしか開かない眼差しを凝らして、ガァちゃんのいた場所へと目を見据える。それを見咎めた瞬間、小夜子は「あっ!」と叫んで目の痛みすら忘れ、彼の場所に向けて瞳を目一杯に見開いた。
そこにはガァちゃんの姿はなく。
シロツメクサたちに守られるように、ガァちゃんの守りし『玉』だけが鎮座していた。
ガァちゃんは、消えてしまった。
「ガァちゃん!ガァちゃん!」
小夜子は辺りを見回しながら必死に叫び、そうして少しく先にいるドラゴンに目を遣った。ドラゴンさん、ガァちゃんはどこ?
ドラゴンは濃い緑の雄々しい鱗を纏った首をふるふると横に振ってから、小夜子の頭の上に視軸を向けた。
一体のドラゴンが音もなく宙に浮いていた。
小夜子はその姿を目にし、ごくりとつばきを飲み込んだ。
長い鼻面、
その脇を何物をも飲み込んでしまいそうな程に大きく裂けた口、
そこから覗く牙は雄々しく猛々しく、
小夜子なんて、あの牙に触れたら角砂糖よりも果敢無くほろほろと崩されてしまうに違いない。
前頭部には無理やり生やされたかのような少しく畝った角が対となり、
堅固な眉間から続く瞼は重く、しかしその下に穿たれた双眸は鏃のように鋭く、
昼の光を間近に受けた野良猫のように瞳孔を窄めている。
鈍色の鱗、堅牢な肢体、欲深き下腹。
それらをいとも容易く浮かせる大きな翼には幾重もの骨筋が浮き出でて、
聴こえなくとも揺らさなくともバサリバサリと音が紡がれそうな気配がある。
身体と同じくして鈍色の、鱗の小さき尾はゆうるりと吹かぬ風に流されるように宙を漂っている。
何物をも切り裂いてしまいそうな鋭い爪先、
鋼鉄の刃の様な鈍色の光、
触れれば弾けて仕舞いそうな鱗の先端はどこまでも鋭利で、
ガァちゃんのようでまるでガァちゃんではないあやかしが空に風もなく漂っていた。
「ガァちゃん…なの…?」
小夜子はしばし放心したあと、宙に浮かぶあやかしに小さな顎を目一杯反らせ呟いた。
『我はドルイド・ドラゴン…』
少しの沈黙のあと、浮かぶあやかしからなのか、小夜子の脳内に直接呼び掛けるような声が届き、小夜子を一瞬ドキリとさせた。しかしその胸の高鳴りは優しく、小夜子を妙に安心させるものであった。
「ドルイド…ドラゴン…」
小夜子は反復するように呟いて、彼の人からは耳慣れない名に少しく首を傾げた。
ドルイド・ドラゴンと名乗るそれは『そう…』と呟いたのち、
『遥か昔古の時代、大魔法使いドルイド・マリーンにより、ケルトの平和の象徴である十字架を守るよう仰せつかったもの』
『しかし、この地に我が守るべき十字架は見当たらぬ』
と、少し嘆息し、諦めの色を濃く浮かべたドルイド・ドラゴンに、小夜子はすうと音も無く消えてしまう気配を感じ、
「ここに在るわ!」
と、叫んだ。
ここに在る。十字架の形とは全くと云って良いほど相容れぬけれど、彼の人が体を張って守って来た、そしてその力で解放せすべきものが、ここに在る。
「貴方は…もしかしたら覚えていないだろうけれども、貴方が守るべき十字架と同じように大切に守ってきたものがここに在ります…。そして…、そしてこれを壊すのも貴方の使命…」
『守りしものを壊すのか』
ドルイド・ドラゴンは、明らかに解せぬと云った相貌で小夜子に問うた。
小夜子はドルイド・ドラゴンと化して仕舞い、明らかに不審を抱いている彼の人に信用して貰える何かはないかとしばし頭を働かせ、己の手に握りしめている『ソレ』を思い出した。
ガァちゃんのバッジ。
小夜子は敢えて無言でバッジを乗せた手のひらをドルイド・ドラゴンへと精一杯伸ばし
「これはかつての貴方が私に下さったものです」と宣った。
ドルイド・ドラゴンは、宇に浮かぶ三日月よりも細い瞳孔をさらに窄めて小夜子の手のひらへと長い首をにじり寄せた。
小夜子のバッジに刻まれた、植物群に彩られた顔を見て『グリーン・マン…我が故郷の守護神…』と、まるで懐かしむように呟いたドルイド・ドラゴンは、その横に刻まれている三行の文字に目を写し、しばし目を瞬かせたあと、「クッ!」と初めて声を出し笑った。
「何がおかしいの!?」
ガァちゃん(で在るはずなのに)まるでそのガァちゃんではない何かに嘲笑られたような気分になった小夜子は目尻を上げたついでに髪の毛をもおどろおどろしく上げ始めた。電気が身体中に満ちる、この感覚は、嫌いだ。そんな小夜子の容貌を見て取ったドルイド・ドラゴンと名乗るソレは『すまぬ、怒らせるつもりはなかったのだ』と小夜子に真摯な瞳を向け、謝った。小夜子はドルイド・ドラゴンのそんな仕草にガァちゃんの一片を感じて涙が出そうになった。彼の人にはもう小夜子の記憶はないのだ。長かったのか短かったのかまるきり判事えない旅路だったけれど、小夜子には、その短い生の中でこれ以上ないほどの微睡であり、これ以上ない現実であり、かつて無いほどの理想郷であった。それが、その時間が彼の人からは失われてしまった。
小夜子は彼の人に小夜子と小夜子との思い出全てを思い出して欲しかったけれど、それにはあまりにも時間がないことを、硬化の兆しを告げピキピキと鳴る『玉』が目の前でその音を発していた。
小夜子は泣きたい気持ちを何度も堪え潰して、ドルイド・ドラゴンに再度お願いをした。
「壊してください!」
小夜子の激しさに一瞬怯んだドルイド・ドラゴンで在ったが、
『守りしものを、なぜ壊す?』
と、もう一度小夜子に問うた。
小夜子はしばし顎に手を寄せ、知らぬうちに父と同じく熟考のポーズを形どりながら、
「壊すことで吹き出でる命があるのです、それを命と呼ぶのか私には解り得ないけれど…でも大切な、彼の地にも人の世にも大切なものです。それだけは判ります。そして、それを成し遂げられるのは、この玉を守って来た貴方だけなのです」と、答えた。
ドルイド・ドラゴンも暫し熟考したのち、
『それは主にとっても必要なことなのか?』
と、問うて来た。
小夜子は今一度ドラゴンやヨナルテパズトーリの姿を省みて、小夜子とドルイド・ドラゴンとの会話には耳の届いていないであろう二人に少しく微笑みかけたのち、彼の人へと向き直り、「もちろん!」と、小夜子にしては砕けた調子で元気よく答えた。
ドルイド・ドラゴンは戸惑っていた。もう星を幾つ数えても足らないほどに遠い昔に顕現された、その時以来、己はもうこの世に現るることはないだろうと朧げながらにも感じていたのだ。それが(多分に)東洋の、未だ幼き童に因って顕現させられている。こうして誰かと『喋る』と云うことすら初めてのように感じられた。しかし、初めて会合するはずなのに、この小さきものに向き合えば向き合うほど、己の中に感じたことのない感情が過ぎるのだ。十字架を守ると云う使命とは違った、己の意志。感覚。感情。そして、慕情。
しかし、もし己がこの小さきものと知り合う仲として、そうして小さきものがより小さな手のひらへと乗せ見せしめた鈍色の物体に寄せられていた言葉が真実ならば。
この感情は己には得と解せぬ、しかし受け入れざるを得ない鼓動を持った、『真実の想い』で在った。
「時間がないの」
ドルイド・ドラゴンが熟考している様を辛抱強く待っていた小夜子で在ったが、『玉』の終わりを告げる音が小夜子を急かすように迫って来て、小さな小夜子は思わず彼の人の思考を止めてしまった。そしてもう一度、
「時間がない、時間がないの…」と玉を見据えながら呟いた。
ドルイド・ドラゴンが小夜子の視軸の先に目を遣ると、微かに遠く離れた場所からでもその変調は見て取れて、己の内から何かしら急かすような、まるで鼓動が速く猛々しく打ち鳴らされるような、今までにもこれからも味わうことのない体感が迫って来て、ドルイド。ドラゴンは思わず小夜子に「どうしたら良い?」と訊ねていた。
ドルイド・ドラゴンからのその一言を耳にした小夜子は一瞬逡巡したのち、
「貴方のその鋭い牙でも、何物をも引き裂いてしまいそうな爪でもなんでも良い!」と答えた。
何でもいい、何でも。もう時間は本当に、ないのだから。
なぜ小夜子がそう感じるのか、『玉』の異変以上の何かを小夜子は感じ取っていたけれど、それが何故なのかはついぞ分からなかった。
ドルイド・ドラゴンは小夜子の言葉に素直に「分かった」と宣い、一度両翼を大きくわななせると、小夜子の元に(否、玉に向かって)その大きな翼からごうっと云う音を出すかのように勢いを付け、一直線に降りて来た。風も舞わないのに、その勢いにまるで竜巻を前にしたか如く腕で顔を庇った小夜子は、その隙間からドルイド・ドラゴンが右足で玉を掴むのを見て取った。こうして見るとガァちゃんよりもずっと大きい。ガァちゃんが大口を開けて一飲みにした玉を、ドルイド・ドラゴンは片手でも余ると云わんばかりに軽々と掬い上げ、そうして一瞬小夜子に目を遣り、これまた逡巡したような素振りを見せて、しかし思い切り玉を割った。その刹那。
これまた眩い光が玉から発せられ、数多る西洋妖怪の名が玉から次から次へと溢れ出て、堅牢な彼の地の石の洞、そのあちらこちらへと飛び去って行った。小夜子は玉から名が出る現象を視覚化する能力を持たなかった。これはむしろ感覚に近い。知った名、初めて聴く名、聴き覚えのある名、様々な名前が小夜子の意識を通して在るべき場所へと飛んで行った。まるで渦を巻くように囂々と畝りながら飛んで行くそれらは歓喜に満ちているように小夜子には感じられた。ああ、戻ったんだ。
呆けたように小夜子とドルイド・ドラゴンの一連のやり取りを見ていたドラゴンとヨナルテパズトーリも、その渦に巻き込まれるように在るべき場所へと流されて行った。
ヨナルテパズトーリの「小夜…!」と云う声も波に飲まれて消えてしまった。
小夜子は見えるはずもないのに空中を流れ行く渦に見惚れ、口をあんぐりと開けながら宙を目まぐるしくも見つめていたが、背後から聴こえて来た、
バサリ!ドサッ!!
と云う音で我に返り首が千切れんばかりに振り向いた。
ドルイド・ドラゴン!
彼の人は、まさに力尽きた体でシロツメクサの絨毯の上に両翼を広げ横たえていた。
「ドルイド・ドラゴン!」
小夜子は大声で叫びながら彼の人に一目散へと駆け寄り、少しく傾いだ彼の人の頭に寄り添った。
「ドルイド・ドラゴン…ああ、聴こえる…?」
玉を割る仕草は簡単なようでいて相当な圧力を彼の人に与えたようで、両の翼はほろほろと崩れ去り穴だらけで鈍色に光る鱗も精彩を欠け、しかも所々に剥げて居り、見るも無惨な有り様だった。眼は虚ろに開いて居り、美しかった緑彩色の輝きもまるで燻んで見える。小夜子はそんなドルイド・ドラゴンの額辺りにそっと右手を寄せ、もう一度ゆっくりと彼の人の名前を呼んだ。
「ドルイド・ドラゴン…?」
「う、うう…」
ドルイド・ドラゴンから呻くような声が漏れ、小夜子は一気に歓喜の色を濃くした。良かった!生きている!小夜子は神も仏も信じていなかったけれど、今はその神と仏に感謝したい気持ちで一杯であった。そして、呻き声から続く言葉に耳を疑った。
「小夜子…か…?」
小夜子は溢れんばかりに目を見開いて「ガァちゃん…!ガァちゃんなの…?」と呟いた。
「嗚呼、その声は…小夜子…だ…な、懐かしい甘い匂い…も…小夜子のそれだ…」
「ガァちゃんっ!」
小夜子はガーゴイルの意識を取り戻したドルイド・ドラゴンの頭に身を寄せた。小夜子は望んでもいないのに、涙が両目の端からまるで海の底から掬い上げたダイヤモンドのようにぽろぽろと輝き零れ落ちた。そっとガーゴイルの鼻面に頬を添わせ、右の手でガーゴイルのぼろぼろの鱗を傷付けぬよう優しく撫でた。
「この感触は…小夜子の髪だな。鼻に触れる柔らかな温もりは…お前の透き通るような頬だ…」
「ガァちゃん…目が見えていないの…?」
「嗚呼、どうやらそのようだな。本来の姿を手に入れられたと思ったらこの体たらくだ…我ながら…呆れる…」
「そんな…」
小夜子は絶句して、ガーゴイルの顔へと向き直った。ガァちゃん、私のガァちゃん。
「小夜子…最後にお前の美しい容貌を目に出来ないのは誠に口惜しいことだ…しかし、しかし彼の地はこれで救われたことであろう。オレはもう、それで、十分だ」
「イヤよ!ガァちゃんそんなこと云わないで!小夜子を、小夜子を置いて行かないで!」小夜子は涙や鼻水でぐちゃぐちゃになった顔も声も厭わずにガーゴイルに寄り添い必死に懇願した。
そんな小夜子の言葉を耳にして、ガーゴイルは、泣けるようになったのか。そうか、ならばきっとそんな有り様だろう、と感情に素直な娘のくるくるとよく変わった面立ちを思い出しながら、それならば泣き顔も如何様になろうとも美しかろうと思いながら、かつてどんな姿でも感じたことのない感情、まるで胸にまで大きな傷を作られてしまったようにずきずきと疼くこの感覚、これが『悲しみ』と云うものか。と妙に合点が入った。
こんなにも苦しいものを、小夜子はどれだけ背負って来たのか。そうして、もう話す言の葉の一欠片分ほどの力も持たぬ自分は、小夜子に、きっと、かつてないほどの『悲しみ』を背負わせてしまうと思うと苦しくもどかしかったが、何とか力を振り絞り、大きな口を少しく緩め、
「すまんな、小夜子」
と、寂れた声で宣った。
小夜子は「なんで?なんで謝るの?ガァちゃんはガァちゃんでしょう?傷だって少し休めばすぐ良くなるわ!だってここはそう云う場所でしょう?」続く言葉をそれでもグッと堪え小夜子は必死に叫んだ。(だって貴方は、貴方たちは概念なのにっ!)
忘れられなければ石くれに変わらない、ガァちゃんは忘れられてなどいない。小夜子が、その隅から隅までどんな『ガァちゃん』でも己の身が酷く痛むくらいに心に刻んでいる。
石くれになるはずなんてありやしない!
ガーゴイルの身体に次々と水滴が沁み渡る。これはきっと小夜子の涙なのであろう。涙と云うものはこんなに暖かいモノだったのか。かつて一体の石像だった頃、子を孕む母親から得た知識がある。身に宿る子を守る水、『羊水』。きっとそれは小夜子の涙に近しいものだったに違いない。小夜子。小夜子小夜子小夜子。我が愛しきもの。この身を滅しても守りたきもの。ああ、全てを賭して。ガーゴイルはこの時初めて『切ない』と云う感情を自覚した。心に甘い痛みを迸らせるもの。ガーゴイルの胸がキュウと軋む。
ガーゴイルにはもうほんの一握りの言葉しか残されていなかったけれど、それでも小夜子に伝えなければならぬ『言葉』がある気がした。きっとこの三列の言葉であろう。
ガーゴイルは最後の力を振り絞り、
「小夜子を
永遠に
愛する…」
ガーゴイルの発した言葉に放心した体の小夜子を、力無き目元を自然と緩ませまるで小夜子を見守るように細めたガーゴイルは、そう云って、フッと安らかに身体の力を抜いた。
「ガァ…ちゃん…?」
まるで抜けてもいない色素が抜けて行くような、ボロボロに朽ちても尚鈍色を保っていた鱗が崩れて行くような、そんな予感がして小夜子はずぶ濡れの瞳を大きく見開いた。
「ガァちゃん!?ガァちゃんっ!!」
小夜子はガーゴイルの頭を揺すり、手に巻かれた包帯が鱗に引っかかり引き千切れるのも構わず彼の人の手やつま先をゴシゴシと擦った。
冷えて行く。
小夜子の努力なんて丸切り虚しいほどにガーゴイルの身体は急激に冷えて行く。
ガァちゃん!折角会えたのにこんな終わり方なんてひどいよ!小夜子は目も鼻もぐしゃぐしゃにしてガーゴイルに訴えかけたけれど、小夜子の瞳から溢れる涙はガーゴイルの永遠に閉じた瞼を開かせてはくれなかった。
ああ…ガァちゃん…。
ガーゴイルの瞑った瞼を見遣った小夜子は、ガーゴイルの切れ長の目尻から一筋の雫が零れ落ちているのを目に止めた。「泣いたことなんてないだなんて、嘘つき」そう云って小夜子はその美しい液体に顔を寄せ、口を蕾のように窄めるとソレでも戦慄いてしまう唇をそうっと液体に近付けて思い切りスウっと吸い込んだ。小夜子がその液体をごくりと飲み込んだ瞬間に小夜子の世界が反転した。
世界、へ
雨あがり、ピチピチと囀る小鳥の声がする。雨が上がった後の鳥たちの囀りは歓喜を帯びて、また独特だ。
小夜子はものすごく長い夢を見ていたような気がして、右の手で目の当たりをゴシゴシと擦った。何だろう、何かを擦るこの動作、つい最近もしたような気がする。そう感じた刹那ガァちゃんとの旅の全てを思い出した小夜子はガバッとベッドから上半身を跳ね起きさせた。途端に部屋のドアがばんっと乱雑に開いて、「小夜子!大変よ!近くに雷が落ちて火事だって!」と云う母の声が耳にキーンと響いた。雷?火事?確かに消防車らしき物の音や喧騒が微かに聴こえる。そして自分の云った言葉も忘れたように「ちょっと何なのこれ!!」と母は昨夜の嵐でバタンバタンと開閉を繰り返していた小夜子の部屋の窓がもたらした惨劇に悲鳴を上げた。小夜子はそんな母の憤りなどつゆ知らず、と云うか省みることも出来ぬほどに胸騒ぎが過ぎて、母に「雷が落ちたのは何処なの!?」と珍しく乱暴な口調で問い質した。小枝や葉や水滴で小さな水たまりを作っている小夜子の窓辺を見て半狂乱になっていた母はそれでも「彼処よ!あの気味の悪い洋館!それより小夜子、これはどう云うことなの!?」と云う母の言葉が云い終わるか終わらぬうちに小夜子は部屋を飛び出していた。洋館、あの洋館!ガァちゃんの石像は無事なのであろうか!
パジャマのまま素足で外に飛び出した小夜子は、母の悲鳴を聴いたような気がしたけれどそれどころではなく、足の裏がアスファルトの小さな突起で傷付くのも構わずに全力で駆け出した。これよりもっとひどい痛みに耐えたことがある。そう、つい最前に。
洋館に近付けば近付くほど人通りは増えて、しかしみんな小さな町に起こった珍事に夢中で小夜子の見てくれなど気にも止めていなかった。漸っと洋館に辿り着く。己の運動神経の疎さが恨めしい。洋館の敷地の前には二、三台の消防車が詰めていて、朝早いにもかかわらず、その周りに人集りが正に灯りに群がる羽虫のように群がっていた。小夜子はより近くで状況を把握したいと人混みをすり抜け掻き分け、幾年も見慣れ、だいぶんてかりを帯びたコーデュロイのズボンの腰辺りにぶつかった。
思い切り鼻面を打った小夜子は涙目で「ご、ごめんなさい…」と謝辞を述べたが、「なんだ、小夜子か」と云うまたもや聴き慣れた声に顔を上げた。
「お父さん!」
父は特に小夜子に対しては何も云わず洋館の方に顔を遣り、独り言のように「全て無くなってしまったよ」と呟いた。その言葉に消防の規制線ギリギリまで身体を寄せた小夜子はその体を見て言葉を失った。
彼の人の石像が粉々に砕け散っていた。
大鳥家の珍事
小夜子と啓輔は野次馬が去った後も互いに暫し放心していたけれど、別に互いに声を掛け合うべくもなく家路へとゆうるり歩き出した。ガァちゃんの依代が無くなってしまった。ドルイド・ドラゴンの身体も無くし、ガーゴイルの石像をも無くしてしまった。これでもうガァちゃんは全てを無くしてしまったの?タラスキュの身体だって黄金色に塗れて弾け飛んでしまったと云うのに。小夜子は何とも心細くなって、出会って交わして見詰めて染め上げた想いの全てが夢だったのではないかと不安になって、目が覚めてからずっと握り締め硬くなって居た左手を漸っと開いた。
そこには鈍色に光るガァちゃんのバッジが、朝の薄い太陽の光りを跳ね返すようにきらりと輝いていた。夢ではない、夢ではなかった。ああ、ガァちゃん。
邂逅の念に立ち止まり泣きそうになっている娘を気遣うこともなく、啓輔は「何だか今度は家の前が騒がしいぞ」と宣った。
それでも早足になるでもなく家の前に辿り着いた啓輔は、先ほどの野次馬たちが今度は我が家の前に集って興味深げにああでもないこうでもないと囃し立てる言葉と、家の前ではそうそうに見かけないパトカーへと目を向け若干たじろいだ。
野次馬はそんな啓輔と小夜子に少しく興味深げな視線を投げつけながら家へと向かう道を開けた。途端に「あなた!!」と云う、啓輔にとっては些か金属質に過ぎる妻の叫び声を久方ぶりに耳にした。悠介を抱き締めて泣きながら駆け寄る加代子を訝しく見遣りながら「何だ、この騒動は、何があった」と手短に聴いた。しかし加代子は泣きじゃくるばかりで全く話にならず、啓輔はそんな加代子を見限って、近くにいた制服警官の元へと歩を進めた。
小夜子は小夜子で戸惑っていた。
小夜子が起きた時には(母が何やら怒鳴ってはいたけれど)雨あがりの穏やかな朝だったのだ。それが今や庭やどうやら家の中にまで警察の、制服だったり私服だったりビニールみたいなものを被ったり履いたりしている大柄な大人が蔓延っているのだ。小夜子の静かな庭園に。有象無象が湧き出てしまった。
「お嬢ちゃん」
急に声が上から降って来て、小夜子はビクリと身構えた。
「ああ、ごめんね。びっくりしちゃったかな」
朝のまだ高くない光を帯びても尚、小夜子を見下げる顔は影となって見えなかったけれど、その口調から小夜子を怯えさせないように精一杯気を使ってくれるのが分かった。
その、ピシリとシワのないスーツを着た大柄な人は、小夜子に背を合わせてくれたのか、昨夜降ったであろう雨で濡れた庭に己の木ちりと整えられたスーツの膝が汚れるのも厭わずに、地面に片膝を付いて小夜子に目線を合わせニコリと白い歯を見せた。
よく陽に焼けた肌、笑うと無くなってしまう目尻と頑健な鼻梁、そこから続く厚い唇が何かしら人の良さを表している。
父とは全く真逆の人間だ、と小夜子は素直な感想を持った。そんな父は、制服から私服の警察に取って代わって話し込んでいたが、庭の小夜子の部屋の方角へと導かれて行ってしまった。
「お嬢ちゃんはこの家の子かな?」
目の前の刑事は小夜子にそう訊いて来た。
小夜子は持ち前の人見知りも相俟ってコクリと首を頷かせた。
「そうかぁ、お名前はなんて云うのか教えてくれる?あ!因みに僕は向坂と云います!よろしくね」
小夜子は未だ判じ得ないこの庭の騒動にドギマギしつつも少しの好奇心も勝って、
「大鳥、小夜子、です」と答えた。
向坂と名乗る刑事は満面の笑みを湛えて「そうかあ、小夜子ちゃんかあ。素敵な名前だね」と答えた。小夜子の胸が少しく痛む。彼の人も『好い』と云ってくれた、私の名。
もう随分前の事のように思えるけれど、あれは昨夜の、たった数時間前の出来事なのだ。
少しく暗い表情を浮かべた小夜子を気遣うように「小夜子ちゃん、大丈夫かな?裸足だね。足の裏、痛くない?」と訊ねた。小夜子は足の裏の痛みも忘れていた自分に気付いた。
「大丈夫…です。近所の…近所のお家が火事だって…あの、母から聴いて、慌てて出て来ちゃったから…」と詰まり詰まり答えた。
「そうかぁ。火事だなんてびっくりしちゃうもんね」と向坂はニコニコしながら返した。そして少し思案したあと、「びっくりついでに悪いんだけれど…」と続けた。
「中学生くらいの男の子、多分近所の子だと思うんだけれど、お友達で、いるかなぁ?」と宣った。途端に小夜子の脳裏にあの痘痕だらけのニヤけた顔が思い浮かんで、小夜子はまたしてもビクリと身体を震わせた。向坂はそんな小夜子の反応を見て一瞬糸のような目を鋭くさせたけれど、すぐにニコニコとした表情に戻り、「大丈夫?怖かったり嫌だったりしたら無理しないでね」と優しく声を掛けた。
小夜子は腕で己を抱くようなポーズを取りながら、それでも気丈に「います、もうお友達ではないけれど、近所に『お兄ちゃん』と呼んでいた人が…」と答えた。
向坂の瞳がまた一瞬鋭く光り、そして「小夜子ちゃん」と改めて名を呼んだ。
二階にある小夜子の部屋を望む前庭には、ブルーシートが野次馬の目線を区切るように張られていて、(ああ、ニュースでよく見る光景だ…)と小夜子を現実から解離させた。ブルーシートの前には父と、父と先ほどから話し込んでいた刑事が佇んでいる。父の横にいた刑事が慌てて向坂の元へと駆けて来て「おい!何のつもりだ!」と向坂に向けて半ば怒鳴るように宣った。
「いや、この娘、被疑者?被害者?を知っていそうなので」と快活に答えた。
「それにしたって…お前…こんな、小さな娘に…」
そう云って一瞬躊躇したのち、その刑事は啓輔の方に視軸を向けた。
「お父さん…構いませんか」
啓輔はにべもなく「その娘なら大丈夫だろう、構いません、使ってやって下さい」と宣った。啓輔に向き直っていた刑事はやはり一瞬逡巡したのち、向坂に少しく情けない顔を向け、「じゃあ…」とブルーシートの中へと続く道へと小夜子たちを誘った。
ブルーシートの中は意外と広くって、そうして幾人かの人もいて、小夜子は少しびっくりした。そうしてその人たちが小夜子を怪訝そうな瞳で一斉に見ていること、その人たちの真ん中に白い布に覆われた、何とも珍妙な形の『モノ』が在ることに気が付いた。
向坂が優しく小夜子の肩に手を触れ「怖かったら見なくても良いからね。でも小夜子ちゃんに見てもらえたら僕たちはとても助かるんだ」と宣った。小夜子は向坂の真摯な眼差しを見て取って、コクリと頭を頷かせた。怖いことなんて、ない。びっくりすることはあっても、ガァちゃんを失ったこと以上に怖いことは。
小夜子は向坂に促されるままに白い布の元へと歩を進め、やはり小夜子の登場に若干躊躇した幕内の警察官に見守られながら、布上の物体の元へと行き着いた。
向坂が先に立ち、布の元へと膝を付く。ああ、そんなに膝を付いてしまったら、綺麗なスーツが更に汚れてしまう。何となく夢心地な小夜子はそんなことを考えながら、向坂の「小夜子ちゃん、いいかい?」と云う問いにコクリと頭を垂れた。
向坂の右手が布の先端に掛かる。
妙な形をした布は、
それでも向坂の手を掛けた辺りが人間の頭部だと布の沿う形が告げている。
向坂がその手を反らせゆっくりと布を捲る。
本当は一連の動作だろうに小夜子にはひどくスローモーションに感じる。
最初に見えたのは雨に打ち付けられても尚脂ぎった印象を与えさせる畝った黒髪、
しかしそこから続く頭と顔は大凡ヒトとしては有り得ない方向に捻じ曲げられて居り、
まるでそんなつもりはなかったとでも云っているように大きく見開かれた瞳、
「あ」の形に設えられた唇、その周りに散りばめられた靤の痕、
その全てがそれだけで、小夜子の忌むべき『お兄ちゃん』だと告げていた。
向坂の目線が小夜子に問う。答えなければならない。何故お兄ちゃんがこんな所にこんな格好で倒れているのか小夜子には全く分からないけれど、小夜子は応えなければならない。
「私の…クラスメイトの山本くんの家の…お兄ちゃんです」
それからの小夜子の日々はまるで目まぐるしかった。
何故『お兄ちゃん』が小夜子の部屋下の庭で骸と化していたのか。
警察の捜査が進むに連れ、小夜子に対するストーカー行為や、その他女児への盗撮など余罪もわらわらと湧き出て、小夜子は警察官(主に向坂)とのやり取りにたっぷり二週間ほどは費やした。警察の見解に因ると、『お兄ちゃん』はどうやら昨晩の嵐とも云える豪雨と雷の轟きに紛れ、小夜子に夜這いを掛けたらしい。雨樋を伝い何とか二階に在る小夜子の小さなバルコニーに手を欠けた刹那、バルコニーにビキビキと亀裂が走り、その勢いで落下したとのことだった。死因は首の骨を捻れるようの折った故の即死。警察は建物自体が古い故、偶然の事故だと片付けたが(しかし住居不法侵入の罪はあるのだが)小夜子はあの夜にガァちゃんが小夜子のバルコニーに降り立った、あの影響だと確信していた。そうして、知らず知らずの行動で、ガァちゃんが小夜子を救ってくれていたと云うことも。
何となく事件も落ち着いて、だいぶんに憔悴し切った山本家両親からの謝罪があったりもして、その全てが片付く間も父は特に我関せずとしていたし、母に至っては小夜子を穢されたモノを見るような目で扱った。そうした両親の振る舞いに、もう一筋もの期待も寄せていなかった小夜子は、久しぶりに重たい足を引き摺って学校への道のりへと歩き出した。登校班には混じりたくないからわざと遅刻をした。そんな小夜子の口からはもう「行ってきます」の一言も出なかった。いつもだったらそれでも尚ウキウキと湧く心持ちも、ガァちゃんの石像が木っ端微塵に砕かれて、瞬く間に廃墟から燃えかすへと姿を変えてしまった洋館の前を通り過ぎる際にズキンと痛んで、小夜子をしばし放心とさせた。
山本くん。
半月ほど学校には通えずにいたし、山本家との話し合いにも終ぞ顔を出さなかった彼は、学校ではどんな顔をしているのだろう。むしろ通えているのであろうか。実の兄が児童を愛でるモノであったこと、何より小夜子にストーキング行為をし、尚且つ夜這いを掛けようとし、しかもその末誤って死んだこと。誰が噂したわけでもなく、それでも小さな町には興味を引き立てる大事件であったため、噂は瞬く間に広がった。
山本くん。クラスの人気者。その後どんな顔をして暮らしているのだろう。
哀れみの場所
小夜子が教室の扉を開けると賑わっていた教室が一斉にしんと静まり返った。
こうなることは織り込み済みだ。小夜子は敢えて気にしない素振りで自分の机へと向かった。山本くんが気に掛かる。しかし気に掛かるが故に目を向けられぬ。山本くんの取り巻きグループから何某かの攻撃を受けることも想定していた小夜子であったが、いじめっ子たちは小夜子にチラリと目を遣ったあと、小夜子などそこにいないかのように一人の男子を取り巻き始めた。山本くん…じゃあ、ない。
「あの子誰?」たまたま隣の席にいた二、三人の男子の群れに問うと、小夜子に話しかけられたのが意外で有り大いにびっくりした体で「あ!、て、転校生だよ、…大鳥が休んでいる間に来たんだ」と響めきながらも答えた。なるほど転入生。少しく見遣っただけでも取り巻きたちが取り巻く理由がよく分かる。小夜子などどうでもよくなる筈だ。小夜子は年齢にそぐわぬため息まじりの笑い声を短く発し、漸っと山本くんの方へと目を遣った。
いない。
いつもだったら男子たちが集う山本くんの席には誰も居《お》らず、その一角は妙に静まり返っていた。小夜子は山本くんも学校に来づらいのかな、確かに小学二年生とは云えことの重大さは分かっているだろうし、でも山本くんなら同情は受けても嘲笑は受けない筈だと小夜子は思い、また隣の男子の群れに「山本くんも休んでいるの?」と訊ねた。
男子の群れはその問いかけに何とも云えない表情を浮かべ、互いに互いを見遣ったあと、目だけで会話するように誰がその役目を仰せつかるのかを語り合い、そうして負けたのであろう、さっき小夜子の問いに答えてくれた男子が何とも重たそうに口を開いた。
「…山ちゃんなら…引っ越したよ」
その答えに小夜子は「え!」と目を丸くした。
山本くんが引っ越した!?
小夜子はびっくりしたけれど、云われてみれば想定内の反応だと見て取れた。小さな町で起きた大きな事件。しかも口さがない人間に掛かれば嘲笑と陰口の的とも取れてしまう不謹慎さを帯びた事件。一家が地を離れるのも納得が行く。
むしろそれでも尚、この地に留まり尚且つ学校にまで通う己が異端なのではないであろうか。
山本くん…。『お兄ちゃん』のことは苦手だったけれど、未だ幼い頃、海岸で砂で出来た小さく果敢ない城を、それでも小さな手で懸命に協力して作ったあの時間は、小夜子にとっては特別だった。お兄ちゃんが『お兄ちゃん』になってしまってからは何となく避けてしまっていたけれど。きっと、あの底まで明るい太陽のような笑顔も笑い声も『お兄ちゃん』と云う、家族に取っては無理難題な存在を打ち消すための魔法だったに違いない。ああ、小夜子は何でもっと早く気付いてあげられなかったのだろう。気付いたとして被害者の小夜子に早々出来ることは無かったはずだが、それでも…。
「大鳥も、さ」と、件の男子が小夜子の思考に縫って出で呟いた。
「休んでいて良かったと思うよ、あと、あの転校生の存在も…じゃ無かったら、また、山ちゃんのことでいじめられたりしたろうから」
小夜子は己が思っていた以上に『小夜子がいじめられていること』が周知されていることに気付かされ、顔をカッと赤らめた。恥ずかしい。恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。
「山ちゃんも…だいぶ、気にしてたんだぜ…?」そんな言葉を右から左へと流しながら、
己の顔の赤味を誤魔化すように「知っていたのに助けてくれなかったの…?」と、顔を素向けて答えの分かっている問いを敢えて問いただした。
件の男子とその群れは若干慌てふためいて、右往左往したのち、「で、でも、山ちゃんが大鳥のことを庇った時、その後もっと酷くなっただろ!?」と云い訳するように宣った。
小夜子は、ああ、あの時小夜子に対するいじめが始まった時分に「大鳥、大丈夫?」と声を掛けてくれたのは確かに山本くんであった。そして、その後いじめの度合いが若干過ぎ始めたことも。小夜子は己が賢しいことを充分に知っていて、そうして不躾にもクラスメイトたちを下に見ていたのだ。己を差し置いて他人を愚弄するなど何と情けないことか。
そう、自分が思っているよりもみんな(若しかしたら己よりも深く)互いを知っているものなのかも知れない。
「メスゴリラはずるいんだよ、なんて云っていいか俺には分からないけど、とにかくずるいんだ」そう、悔しそうに云う男子に向けて、小夜子は「メスゴリラって…?」と訊ねた。
「長嶋だよ、女子たちのボスの。俺たちの秘密のあだ名」そう云って唇に人差し指を当てる仕草をする彼の、その男子の台詞を聴いて、小夜子は思わずプッと吹き出してしまった。ガァちゃんを失ってから初めての笑いかも知れない。でも、何となく骨太で太ってはいないけれど逞しく、色黒でチカチカとした瞳は漫画で描かれるメスゴリラ、そのものだ。
小夜子は男子たちの陰ながらの声援を受けたような気がして、少しく溜飲を下げた。そして正々堂々と小夜子に声を掛けてくれた山本くんに改めて敬服する気持ちでいた。ごめんね、さよなら、ありがとう。でも。
『あなた達はあなた達のまま、そのままに生きて行けば良い』
そう思った小夜子は、つい先ほど机の横に引っ掛けた通学鞄を再び手に取り、横にいる男子の群れが呆気に取られるのも構わずにゆっくりと教室扉へと向かい、ガラリと戸を開け廊下へと出た。ちょうど前の扉から朝礼をするためにであろう、胡乱な顔をした担任教師が小夜子に向けて何かを宣っていたが、小夜子の耳には届かなかった。
廊下をずんずんと進む。途中、何度か見知らぬ教師に声を掛けられたり怒声を浴びせられたりしたが、小夜子は止まらない。もう、貴方たちに用は無い。
小夜子を、助けてくれなかった大人たち。
そして、小夜子を救うことの出来なかったクラスメイトたち。
仮令それが傲慢だと捉われようとも。
神隠しの場所
小夜子はかつて未だ見通っていられた頃のように、ガーゴイルの庭を切なげに横目で見ながらも、いつもの遠回りではなく、あの最初にお社へ続く十字路を見付けた裏ぶれた道筋の、多分に山本家が軒並んでいたであろう通りへと久しぶりに足を運んだ。この並びの何処かに山本くんと『お兄ちゃん』の家があったのか。幼い頃から遊んでいた、云わば幼馴染のような関係だったのに、家の場所は終ぞ知らなかった。
錆びついたトタンの屋根、干しっぱなしで黄色く色褪せた洗濯物、キャバリアとウサギの置物は相変わらず互いにそっぽを向いていて、そうして明らかに人の住んでいない気配を讃えた一軒の家に『売家』のパネルが掛かっていた。二階建ての洋風建築の家。手入れの行き届いた小さな庭。煉瓦を使ってきちりと仕切られた花壇には、かつては色とりどりの花がそれでも柔らかに優しく咲いていたであろう名残を思わせる。この通りには似つかわしくない光景だ、と小夜子は思った。如何して最初に通った際に目に付かなかったのだろう。余りにもきちんとし過ぎていて、この裏ぶれた通りには余りにも異端だ。そうして旧山本家から左を見て、アレか、思った。十字路。十字路から続く仄昏き階段。アレに気が行ったのか。
置いて行かれたのか、忘れられたのか、山本くんの乗っていた物であろう自転車が小さな前庭に横倒しになっている。小夜子は暫くその家の前で佇んだあと、一瞬下を向き、そのままぺこりと小さくお辞儀をして、振り返る事なく十字路へと歩を進めた。
長い雨の季節も過ぎて、子供達に夏休みと云う宝物が降って来る直前の賑やかさも、ジージーと羽を振るわせ鳴く蝉の声も、一切の音を遮断するように音の絶えた十字路の先は少しく瑞々しさの枯れた苔が相も変わらず階段の一段一段に張り付いており、あの夜に過ぎた嵐以降、雨の降らぬこの天候に憂いているようにも見えた。小夜子はいつもの通り苔むしていない場所を選びながら聳える階段に足を置いた。
対となった灯籠に迎えられる。苔も、樹々も。変わらずに。夏の日差しを背負っては、隙間隙間から降り注ぐ陽光を象った緑の宇宙を作り出している。何時ものように、灯篭の前で一旦お辞儀をする。教師に注意を受けてから、通おうにも通えない出来事がたくさん有って、随分と久しぶりな気がする小夜子の小さな宇宙と苔の庭は、変わらずに、尚瑞々しさを添えて佇んでいるように見えた。雨も降っていないのに、如何にもここは不思議な場所だ。
お社の前で一旦止まる。
通学鞄を置かせてくださいね、と心の中で呟いて、社に続く階段の二段目の脇辺りにそっと己の鞄を置いた小夜子は、胸の辺りを少しく探り、名札を付けっぱなしだったことを思い出した。包帯は取れたけれど未だ少しく痛む手で名札を取り、通学鞄の上にポンっと乗せる。そうして本来探していたはずの『ガァちゃんのバッジ』に手を遣った。大丈夫、大丈夫。小夜子は止め置いているティシャツをも巻き込みながらバッジをぎゅうと握り、社の左奥に在る、果敢なくも光の射す方向へと足を運んだ。
翁の老木へと続く足が止まる。
さほど近くもない距離から見ても、切り株は些か疲弊しているように見えた。何が違うのだろう。先だって見た時と変わらず、むしろ季節は進んであの場所には眩しいほどの陽光がその身を射しているであろうに。
小夜子は若干訝しながらも老木の元へと歩を進めた。だって小夜子には、もう、怖いことも失うものも、何も無いのだから。
苔達を踏みしだきながら、小夜子は一歩一歩、それでもやはり『ごめんね』と心の内で呟きながら歩を進める。どんな心持ちでもどんな命でも、奪って良いものなんて、無い。小夜子は己の内の未だ複雑に絡み合っている心境を跳ね除けるようにステップを続けた。なるたけ大幅で。苔類のダメージの無いように。それは老木に着いた際の己の心境への強がりとも云えた。先だっては気持ちよく思えた老木の切り株も、今となっては些かの気味悪さを持って瞳に映る。嫌なのだろうか。嫌なのだろうな。己の心の内も、ガァちゃんを失ってからはだいぶんに胡乱な小夜子は、己で己の心模様をまるで砂漠に咲く砂で出来た薔薇を探すように目を凝らして見つめなければならなかった。
あの翁と会わなければならないのは如何にも気が重たい。でも。
それでも約束は守らなければ。
小夜子は切り株の、夏の光を過分に浴びた片隅に落ちている微かな翳りに身を寄せた。
そして、やはり幾分かの緊張を孕みながら、それでも気丈に云い放った。
「老木の翁!約束を果たしに来たわ!」
小夜子が出せる限り精一杯の大声を上げたその言葉に、尚も樹々は黙り込んだままであった。いない?ここまで覚悟をして赴いたのに。小夜子は安堵と不安が入り混じった妙な心持ちで、もう一度翁に向けてより大声で来訪を告げた。
「やれやれ、小うるさい娘だの」
気が付けば小夜子はまた暗闇の中に身を置いていた。
色の抜けた小夜子
「翁とは誰のことかと思うたが、ワシのことか」
翁は最後に会った時と全く変わらずに、相変わらずよく分からない面立ちで小夜子よりも少しく宙に浮いていた。否、浮いているのでは無い、切り株の上に佇んでいるのだ。いつもあの上にいるのはやはりあの老木の上が落ち着くからなのかな…などと如何でも良いことを考えていた小夜子に「なんだ、呆けた顔をして。ワシに何の用だ」と翁は問うた。
小夜子はその一言でハッとして、そうしてごくりとつばきを飲み込んでから、
「先ほども云ったでしょう。約束を果たしに来ました」と、はっきりと翁を見据えて云った。翁は巫山戯てでもいるのか、
「はてはて、約束とな」と顎髭辺りに片手を当て、小首を傾げる仕草をした。
如何しても小夜子の口から云わせる気だ、なんて小狡い爺ぃだろう、と小夜子にしては珍しく心内で悪態を吐きながら、
「貴方に体を捧げると約束をしたわ。届け物をしてもらう代わりに」
と、半ば苛立たしげに言の葉を発した。こんな自分はらしくない、とても嫌だ。でも。
「ホッホッホ!」
と、さも可笑しそうに笑い声を上げる老爺は、少しく眉間に皺を寄せる小夜子を面白そうに見ながら、「ホッホッホ、その捨て鉢さは何か大切なものを失ったな。ん、そうか、あの妖に棄てられたか」そう云ってまたもやホッホッホと高らかに笑った。
「棄てられてなんていない!!」
小夜子は途端に憤り、身体の表面は青みを帯びて、翁の佇む辺りに雷《いかづち》を落とした。無意識の攻撃に自分自身が驚いた小夜子であったが、翁は「おお、怖い怖い」と小夜子の攻撃も意に介さないようであった。足元の古木がプスプスと燻っている。老爺は熱くはないのだろうか。熱かったら良いのに、などとらしからぬ感情に小夜子は若干戸惑った。
生身の身体でも虚う世界では力が使えるのか。それともこの空間に入った途端、小夜子は入れ物を無くしてしまうのだろうか。そうだとしたら、小夜子の差し出す身体は何処にある?
「ここは『淡い』のようなものだからな。全てが虚う」
「主の肉体は確かに存在しておるよ」
そうなのか、良かった。ならば約束を果たすことが出来る。
翁の云う通り小夜子は半ば捨て鉢な気分でいたのだ。ガァちゃんも、ガァちゃんの石像も無くなってしまった今、小夜子の縁はガァちゃんのバッジくらいしか無い。あの、嵐の明けた朝の騒動のあとも小夜子に対して全く変わらぬ(むしろ母に至っては酷くなった)親たち、奇異や嘲笑、哀れみの目で見て来るご近所さんやクラスメイトたち、小夜子は全てが嫌になってしまったのだ。このまま、下卑た他人の目を掻い潜りながら、生きて行くのはもう、しんどい。
「如何やら、随分と変わったようじゃの」
「変わった…?」
「うむ。お主から出てくる気のようなものが濁っておる。何があったのか知りやせぬが、今のお主には最前に会った時と違い一欠片の興味もないな」
変わった。そうかも知れない。
空に顔を思い切り上げて、それでも何となく遠慮がちに咲いているように見える向日葵の鮮やかな黄色も、今の小夜子の胸には響かない。平素だったら賑々しさに心を振るわせてくれる蝉たちの大合唱も、小夜子の耳には届かない。蚊取り線香の烟った匂い、瑞々しく茹で上がった枝豆の緑、何処からか流れてくる花火の喧騒も、その全てが濁ってしまった。小夜子を小夜子たらしめる感覚の全てが。それはもう、小夜子であって小夜子ではない。小夜子の世界は全てが灰色で、きっと流れて出る血潮ですら灰の色を帯びているだろう。ガァちゃん。貴方がいない世界はこんなにも昏い。
「まあしかし約束は約束だからの、取るものは取らせてもらうぞ」
翁がそう云った刹那小夜子の身体はどさりと前のめりに倒れた。
そんな小夜子を立ちすくんだままの小夜子が見遣っている。ああ、離れたんだ。
なんだかガァちゃんと長くて短い小さな夜の旅行をしている時の身体の軽さに戻ったようで、小夜子は懐かしさに涙ぐんだ。『小さな夜の子どもか!それは好い!』と云ってくれた彼の人の声が聴こえたような気がして、小夜子は小さく微笑んだ。
「小夜子、何を泣く?
「体を失ったことがそんなにも悲しいか」
「…違うわ」
「懐かしくて、まだ半月ほどしか経っていないのにもう随分前の出来事のようで、
「還れるものなら還りたい、あの夜に。もう一度」
小夜子はポロポロと涙を流したが、頬を伝うその粒はあの夜零した涙には到底及ばない、ただのあまじょっぱい水滴であった。
「ふむ」
翁は再び顎鬚に手を遣り、「小夜子、お主この先如何する」と尋ねた。
小夜子はびっくりした体で、「私は死んでしまったんじゃないの?」と尋ね返した。
「死んでは居らんよ、あの夜と同じ、器が無くなり中身だけになっただけだ」
「否、あの夜は肉体を持っていたか、如何にもお主の存在は胡乱でいかん」
「私、これから如何すれば良いんだろう…」
独り言のように呟いた小夜子は、身体を取られたら死んでしまうものだと思っていたから途方に暮れていた。このまま翁とここにいるなんて嫌だ。今の小夜子は苔たちにとっても魅力が無いらしく、苔の精霊たちも姿を現してくれない。
「行く場所がないなら彼処に戻れば良いだろうて」
「彼処?」小夜子は胡乱な瞳で答えた。
「お主が随分と執心していた彼の地だ」
「…彼処へ、行けるの…?」
「お主が望むのならばな」
ガァちゃん。ガァちゃんの地。ガァちゃんが命懸けで守り救った地。ヨナちゃんともドラゴンとも一言も話せず、彼の地が救われたのかもそう云えば見届けられなかったんだ、と思い返した小夜子は、彼の地が如何なっていようとも、ここにいるよりはずっといい。仮令ガァちゃんがいなくとも。と、思い至り、
「彼の地に、飛ばしてくれますか…?」と些か慇懃に翁へと頼んだ。
翁は特に面白そうでもなく、やはり判事得ぬ表情で、
「構わんよ、今のお主には一欠片の興味もないでな。いつまでもここにいられても困る」と云った。前までの小夜子だったら傷付き兼ねない翁の台詞も、小夜子の胸には響かなかった。それが彼の地へと赴ける(若干の)喜び故なのか己の感情の鈍麻さ故なのか、小夜子には、もう、分からなかった。
よみがえる大地
ひたり。
懐かしい足裏の感触。深い黒色をした鏡のように小夜子の姿を下から映す地に、いつの間にか小夜子は足を着けていた。でも如何にもツルツルと滑る。小夜子はくるぶし丈の靴下を脱ぎ丁寧に畳んでキュロットのポケットに突っ込むと、素足で久しぶりの彼の地の感触を楽しみだした。こんなに地面が真っ黒だったかしら。確かに黒曜石のようではあったけれど、ここまでは黒くはなかったような気がする。己の姿が映らなければ、まるで一足先が黒い穴のように見える彼の地に佇んで、小夜子は周りを見渡した。ここは入り口辺りかしら。もしかしたら未だバッグベアードの腹の中なのかも知れない。でもそうだとしたら、小夜子に何か一言あっても良いはずなのだけれど。そんなことを思いながら、どちらにしても行く宛はないのだからと悟った小夜子は、一歩足を前に踏み出した。
「やあ、救い主のご帰還だ」
うわんと響く声がして、小夜子は「わっ」と驚いた。聴き覚えのある声。これは、やはり。
「バッグベアードさん!?」
小夜子の立つ地が少しく揺れて、小夜子は一瞬よたりと傾いたけれど、すぐに体勢を立て直し、彼の人が笑っているのだと気が付いた。
「如何したってこんな所にいらっしゃる?お嬢さん」笑い声を含んだ太い声は、愉快そうにそう云った。小夜子はバッグベアードの陽気さに少しく心が救われて、
「ちょっと道に迷っちゃって」とクスクス笑いながら答えた。
「そりゃあ大層な迷子だなぁ」ともうひと笑いして小夜子をグラつかせたバッグベアードは、「行きたい所はきっと真っ直ぐ行った彼処だな?お嬢さんの小さな足でもすぐ着くよ」と小夜子がグラつかないよう落ち着いた仕草で宣い、「行ってらっしゃい」と優しく背中を押してくれた。小夜子は「ありがとう!行ってきます!」と元気に応え、バッグベアードの云う真っ直ぐがどちらなのか一瞬逡巡したけれど、小夜子の向いている方を真っ直ぐ行けば良いのだと気付き、もう一度「行ってきまぁす!」と溌剌にバッグベアードへと伝えた。
「行ってらっしゃーい!」
小夜子がずっと聴きたかった言葉がうわんと響きながら降って来て、小夜子の全身を暖かく包み、小夜子は泣きそうになった。あやかしは優しい。どんな人間よりも、きっと。
小夜子はバッグベアードから多分に元気をもらった気がして、ズンズンとその歩を進めた。そう云えばバッグベアードは「救い主のご帰還」と云っていた。と云うことは彼の地は無事に元の姿を取り戻せたのだろうか。そんな事を考えている間にも足は勝手にひたひたと歩を進め、穴のような小さな明かりを小夜子の瞳に反射させた。彼処が出口?走り出したくなるほどに急く気持ちを抑えながら、小夜子はそれでも早まってしまう足を止められなかった。
ピーチチチ。
最初に聴こえたのは小鳥の鳴き声。後から続くのは聴き慣れた音、樹々のざわめき。
穴に向かって歩いていた小夜子は迫る灯りに目を取られ、光は明滅し、いつの間にか森の中へと迷い込んでいた。
なんて美しい森だろう。
様々な樹々や植物が種や環境を超えて、それでも尚在るべくして在るようにそこいら中に生えている。見上げれば鬱蒼とした樹々の葉の隙き間から、小夜子の大好きな葉っぱの宇宙がキラキラとその身を輝かせている。暑くもなく、寒くもなく。風もないのに樹々はまるでお喋りをしているかのようにざわめいて、小夜子の来訪を歓迎しているようだ。温かな土を踏む柔らかい感触。肥沃な地。小夜子が通る道を開けてくれるのか、石ころは小夜子の足筋に沿ってコロコロとその身を道端に寄せ、小夜子の足を傷付けまいとしてくれた。小夜子は石まで意思を持っているなんて!と、心を躍らせた。石ころに「ありがとう」と云いながら森の中の一本道を繁々と見渡していると、ガサリ、と大きなモノが動く気配がした。
小夜子は一瞬身構えたけれど、木から覗くそのシルエットに息が止まりそうになった。
「…ヨナ…ちゃん…?」
そう呟くとその物体は林から飛び出し、大きな瞳を涙でぐしゃぐしゃにしながら小夜子に飛び付いて来た。
「小夜子ちゃぁぁん!」
小夜子はそんなヨナちゃんを笑い泣きしながら受け止めて、「ヨナちゃん!無事だったのね!」と、ヨナルテパズトーリの横に広い体躯を精一杯腕を伸ばして抱きしめた。
「小夜子ちゃん!小夜子ちゃぁん!」
と、泣きじゃくるヨナルテパズトーリの毛を優しく撫でながら、小夜子も親友との再会にほとほとと涙を零した。良かった、本当に。あの時渦に巻き込まれ、もしかしたら何処こかへと飛ばされてしまったのかも知れないとも心配していたのだ。
ひとしきり再会を喜んだのち、目を赤く泣き腫らしたヨナルテパズトーリは、それでもとびっきりの笑顔で「小夜子ちゃんに会わせたいあやかしがいるんよ!着いて来て!」と宣った。
ヨナルテパズトーリに強く手を引かれながら、時に森を居とする見知ったあやかしたちに手を振られたりして(なんと土精プッツが手を振ってくれた!)静かに興奮をする小夜子は、夢の国とはこう云う場所を示すのに違いないと思った。そうして、どうかこれが夢ではありませんように、とも。
不意にキラキラとした星々の明滅の光が反射をして、瞼を瞬いた小夜子はヨナルテパズトーリの「着いたよぉ!」と云う明るい声に、眩しさを堪えて目を開いた。
そこにはキラキラと明滅する水晶を散りばめたような砂の岸辺と、そこから続く何処までも真っ青な、しかし白藍色から紺碧までも色移りをする水の、壮大な海辺が広がっていた。
「セドナの海…!」
小夜子はそう呟いて、ヨナルテパズトーリが自然と離してくれた手を勢い良く振って水晶の岸辺へと辿り着いた。さらさら。さらさら。足に触る砂の感触は初めてガァちゃんと訪れたあの時となんの遜色も無く、小夜子を優しく受け止めてくれた。セドナは…戻れなかったのかしら…。
小夜子がそう思った途端小夜子のいる岸辺よりずっと先の海面がポコポコと泡を立て、それは次第にボコボコとした泡飛沫となりザブンと大きな音を立て、小夜子のいる岸辺まで水滴をほとぼらせた。小夜子の目の前に海の女王で在るセドナが顔を出していた。
「この見てくれは正直好きでは無いのだが」
「其処な小さき娘、主の記憶では我はこのような姿であろうが、別の姿もあるのじゃ。そう、お主のように美麗な、の」とセドナは憂いるように呟いた。そうは云っても小夜子の識るセドナは水木しげる先生の描いた『セドナ』でしかなく、大きな顔に毛をたくさん生やして、目は虚気味に上を目指し、ヨナちゃんと同じように目の下に小さく穿たれた鼻、唇は半笑いで象られいる。確かに。確かに美麗とは云い難い。でも。小夜子には如何しても見慣れた姿であり、そんなセドナを決して醜いなどとは思えなかった。むしろ荘厳である。海の女王と呼ばわれるだけの気品すら持ち得ている。
「セドナさんは美しいです、その身も、心も」小夜子は世辞では無く本心でそう呟いて、セドナとの会合に感謝をした。彼の地を救うまで、その水晶の輝きがどれだけ小夜子を救ってくれていただろうか。今もこうして小夜子の傷付いていた足を優しく包み込んでくれている。
「小さき娘、主がこの地を救ってくれたと、其処なあやかしから聴いて居る」
「我ら『淡い』のモノとして、御礼の言葉も無い」
小夜子は咄嗟に「私だけの力じゃ無いです!」と、叫んだ。
ガァちゃん、
ガァちゃん、
貴方が全てを担ってくれた。
そうして改めてガーゴイルの不在、若しくは消滅の事実を、まるで雪で出来た玉をぴしゃりいきなりぶっつけられたような衝撃を以て認識した小夜子は、辺りを気にすること無く大声で泣き出した。
ガァちゃん、
ガァちゃん、
貴方は本当にいなくなってしまったの。
涙で濡れた朧げな瞳で見渡しても、様々な水辺のあやかしが小夜子を心配そうに見ているけれど、そこにタラスキュの姿は無い。
澄んで溶けるような色彩の青空を見上げても、小夜子の好むあやかしの姿はあれど、ガーゴイルの姿は無い。ドルイド・ドラゴン、貴方さえも。
ヒック、ヒックと喉を詰まらせて何とか平静を保とうとする小夜子をあやかしたちは優しく見守ってくれていた。小夜子は水晶の上へとへたり込んで、潤んだ目でその煌めきを見詰めた。ガァちゃん、愛しい人。ここに今貴方がいてくれたのなら。
「小夜子」
聴いたことのある声が上から降って来て、小夜子は驚いて上を向いた。
白銀の色を帯びた一体のドラゴンが宙に浮いていた。
「ドラゴン…さん…?」
なんとなく郷愁のような心持ちを抱きながら、小夜子はヨナルテパズトーリと同じように瞳を赤く染めつつも、鼻に掛かった声で顎を上げそう呟いた。
「そうだ、小夜子。覚えているか、我の、この姿を」
白妙が如く繊細で大きな翼をはためかせ、
陽の光を浴びずとも白銀に輝く鱗の一片一片までもを煌めかせながら、
長い首をしなやかに弛ませる。
翡翠石を思わせる色をした鋭い眼差しからは何故か慈愛の表情が見て取れて、
その鋭い爪先の一本一本までもが何者をも傷つけぬ聖者のように見目好く安らかに映る。
「ドラゴンさん…私の。私の想像上の、ドラゴンさん…」
ドラゴンは満足そうに翼をはためかせ、
「ここはそう云う地なのだ、仮令お前の無意識下に置いても我はお主の感覚のままに顕現さるる。
「ならば」
そう。ならば。
小夜子はドラゴンの言葉に大きく頷き、大きく息を吸ったのち、息を吐きながらゆっくりと胸元に据え置いている『ガァちゃんのバッジ』を強く掴み、彼の人の立髪の先端から、美しく、時に猛々しく湾曲する尾の先までをも想起して強く願った。
ガァちゃん。
私のガーゴイル!!
エピローグ
小夜子の住んで居た町は『小夜子の失踪』と云う新たな事件にもはや辟易としていた。
数週間前に起こった事件の当事者が今度は行方不明となってしまったのだ。
最初に気付いたのは親でもなく友人でもなく、お社の管理人であった。今や何となく仕方なくやる気もなく行なっているお社の管理と云う名目で久しぶりに(近くの小学校からの申し入れもあって)訪うた彼の場所にランドセルがぽつねんと置いて在った。最初は小学校からの申し入れ通りに近所の子供が遊びに来ているのかと思い、境内のあちこちを見て回ったが、其処には草臥れたお社と同じように草臥れた切り株しか無く、時折吹く風が身体を濡らすくらいでじめじめとして居り、到底小学生が独りで遊びに来る場所では無いと考えを改めた。そうして、ランドセルの上に据え置かれている名札の文字を、老眼の些か進んだ目で何とか読み取り『あの』大鳥家の娘だと思い至った彼の、その後の行動は凄まじかった。現場は保存する、と云う刑事ドラマの台詞そのままにランドセルと名札はそこへ留め置いて、慌てて近所の交番へと赴いた。生憎警察官は巡回中だったので緊急電話で所轄に連絡をし、続いて警察の到着も待たずに大鳥家へと向かった。
何度もチャイムを鳴らし、やっと出て来たのは、美貌を讃えつつも疲弊の色を濃くした奥方で、ことの成り行きを足早に伝えると奥方は余りの出来事に立ちくらみでも起こしたのか玄関先で蹲ってしまった。彼が声を掛けていると屋内から階段を降りる音がし、やけに鬱蒼とした男がやたらと面倒臭そうに「喧しい。何事だ」と現れた。それが失踪児の父親だと合点が行くのに彼はかなりの時間を割いたように思えた。
小夜子は終ぞ見付からなかった。
消防団、青年団、警察、近所の有志たち、総勢何十人だったか数えきれないほどの大人たちが総動員をし、件のお社はおろか、全く関係のない池や川、海や市街地、小さな町を縦横無尽に攫っても、ランドセルと名札以外に小夜子の痕跡を残すものは何一つ無かった。
加代子も啓輔も大いに疲弊していた。
興味深げに見えるマスコミ。インターネット上で囁かれる記事や俗説や下卑た憶測や言の葉も、瞼を閉じて耳を塞いでも隙間を縫って入り込んで来る。
秋が過ぎ、冬になっても小夜子はさの字も見付からなかった。
世間はもう『そう云う事件もあったかな』程度の認識だし、啓輔に至ってはいつまでも悲嘆に暮れる加代子に「心配したところで見付かる訳もないだろう」と、己の娘の失踪に思っていた以上に心を砕いていた加代子にグサリと言の葉のナイフを刺した。
「あ、貴方は小夜子が心配ではないのですか!?」
「だから心配だとしてもその事ばかりに心を砕いても日々は立ち行かないだろうと云っている。現に今の生活環境はどうだ。家屋は散らかり放題、日々の飯も衣服も疎かで、悠介なぞも泣き喚いてばかりではないか」
加代子はしばし呆然とした後、「貴方に人の心は無いのですか…?」と思わず呟いた。
啓輔はまるで話にならないと云った体でため息を吐いた後、「そう思うのならばそれでいい」と決別とも取れる物云いで加代子に線を引いた。
そうして、加代子は悠介を連れ家を出た。
彼の家は日にちに荒廃の色を濃くして行ったけれど、それでも啓輔は独り住み続けた。
愛娘、とは終ぞ思えなかった娘の還りを待つために。
エピローグ・弐
あの後、小夜子の目の前に現れた彼は屈託もなく笑って、
「久しぶりだな、小夜子」と宣ったのだ。
小夜子は手の内に合ったバッジが消え失せたことも気付かずに、ガーゴイルへと飛び付いた。ガァちゃん、私のガーゴイル。
ガァちゃんの腕がいつものように優しく、決して小夜子を傷付けぬよう小夜子の身体を優しく受け止めて、小夜子の顔と己の顔を間近へと近付けた。物凄く久しぶりに抱き止められたことも、こんなにも近くに互いの顔があることも、その全てを小夜子は忘れてガーゴイルの首に抱き付いた。ガァちゃん、ガァちゃん、私のガァちゃん!
「おいおい、小夜子。そんなに締め付けられたらオレの首が締まってしまうぞ?」
何時ものように砕けた調子で小夜子を揶揄うガーゴイルを、涙で膨れた瞳でキッと見詰めた小夜子は「ガァちゃんのバカ!いじわる!」と宣い、より一層ガーゴイルの首に巻き付いた。
巻き付いた?そう。
小夜子の身体にしなやかな鱗を湛えた尻尾が、まるで元からそうで在ったようにしゅるりと生えていた。
小夜子がガーゴイルを想起したように、ガーゴイルも小夜子にちょっとした想起を与えたのだ。のちに小夜子からは「翼の方が良かったのに!」と叱られたが、それはもうちょっと小夜子が大人になってからの話としようと説き伏せた。
翼でも与えてしまったら、何処ぞへと飛んで帰らぬ恐れも多分にある娘だ。今は尻尾だけで良い。
如何して斯様な娘が己をこんなにも好いてくれるのか、タラスキュの記憶も消えぬガーゴイルには些かの自信も無かったのだ。
小夜子は聡い娘であったから、ガーゴイルの懸念を何と無くではあるけれど感じ取った。小夜子はガーゴイルと暮らすことを望み、己とガーゴイルの暮らしやすそうな家屋を想起して、セドナの水晶の岸辺やヨナちゃんのいる青々と瑞々しさを湛えた森、時にあの時の茨の棘が変じたシロツメクサの草原へとガーゴイルを誘った。時に手を繋ぎ、ガーゴイルに抱かれ、その背に乗りながら、彼の地のあちらこちらへと足を運んだ。セイレーンやマーメイドの美しさも小夜子にはもう何の気にもならず。夕暮れには彼女たちの歌をガーゴイルと共に味わった。そうして、そうやって。
小夜子は誰に想起されたのかも分からずに、自然と成長を遂げていた。
少しく大人びた面持ち。今まで以上にすらりと伸びた手足。
髪の毛は相も変わらずサラサラと吹かぬ風へとなびき。
そうして。
その日その夜、かつて小夜子の暮らしていた町では、小夜子の通うはずであった中学校の同窓会が二十年かぶりに開かれていた。
三十代を半ばとした男女が懐かしがったり、驚きを持って互いを迎えたりと、小さな町の同窓会にしては多分に盛況を誇っていた。発起人たちはその様を見て満足をし、己らの自尊心を大いに満足させていた。
小夜子の話題が出るまでは。
「そう云えば、さ」些か御酒に満たされた男性が口火を切った。
「山ちゃん、やっぱり来てないね」それを耳にしたこれまた酔った輩が応える。
「そりゃあ来られないだろォ!あんな事件、あってさ」
「引越し先だって分からなかったんだろ?」と主催者に尋ね、先ほどまで大いにはしゃいでいた彼女らを些か居心地悪くさせた。
賑わっていた会場に少しく沈黙が訪れた後、
「大鳥小夜子」
と誰かが呟いた。
「あの年は事件が矢継ぎ早だったな」
「俺なんて記憶も曖昧だぜ」
「小学二年生の頃だっけか」
「まだ見付かってないんだろ」
「神隠しだとか悪い人に攫われたとか云われてたよな」
「俺はいじめの末の自殺じゃないかって親から聞かされたけど」
その刹那一部の女性たちがビクッと身を竦ませた。しかしそんな彼女らの心情なぞ知ったことかと彼らは言葉を紡ぐ。
「ソレは流石にないだろうけれどさぁー」
「俺、実は大鳥のこと好いなあって思ってたんだよね」
「わかる!俺も!」
「なんかさ、当時は分からなかったけど、孤高でミステリアスな雰囲気があって…」
「男みたいな格好、よくしてたけど、なんかそこも格好良くてさ」
「俺、大鳥が最後に学校に来た日に話しかけられたけど、ドキドキしちゃってさ」
「まあ、山ちゃんのこととか転入生のヤツのこととかしか訊かれなかったけど」
「それでもあの時、まだ授業も始まってないのにランドセルを手に取って教室を出て行く大鳥を、なんで止められなかったのかって、しばらく落ち込んだよ…」
どうにもやるせない感情と一部の女子から発せられる腹立たしさに似た感情をその身に受けながら、小学二年生のころの、ガァちゃんと大冒険をしていた当時の姿に久しく戻り顕現されていた小夜子は見慣れない会場の隅っこでぽつねんとしながら、各々の言葉を聞いていた。
元々興味もなかったから、大人になった彼ら彼女らの素性は到底分からなかったけれど、たった一人。一人だけ分かる。なんせ顔付きが全く変わっていないのだもの。
これで女ボスが鎮魂の念でも見せていたのならまた話は違ったけれど。
どうやら彼女にはそんな心持ちの一つもないみたい。
宴もだいぶん時間が過ぎて、二次会から三次会へと赴く面々が少しばかり根を張るころ、かつて女ボスと呼ばわれていた彼女は惜しみながら二次会で場を後にした。若くしてシングルマザーとなった彼女は、仮令主催者の一人でも子を持つ身なのでそうそう夜更かしも出来ぬのだ。そうして幾分か酔った頭でまさかこの歳になってまであの忌々しい名前を、しかも多分なる郷愁を以って聴かされるとは思わなんだ、と腹立ち紛れに近くにあった店の軒先にあるポリバケツにその太い御御足を以って当たり散らした。思っていたよりも転がったソレは、街路樹とは云えない近頃はむしろ珍しい趣の柳の下へと転がって行った。
まさかそんなに転がり行くとは思わなかった彼女は些かな罪悪感を以ってポリバケツの元へよろけながらも駆け寄った。
そんな。
些か燻んだ水色のポリバケツの横の。
柳の下に己の胸元辺りまでありそうな影がある。
長く栗色を帯びたサラサラと揺れる細い髪。
透けそうなほどに真っ白な肌。
被服から伸びる手足はひょろりと美しく長く。
己の地黒さとは相反する。
己は、この形を知っている。
そのモノが彼女に顔を向けニコリと微笑んだ瞬間に、長嶋リラは目を剥いて卒倒した。
そうして、近所の八百屋が市場に赴かんと早朝の屋外に出る際まで、道端で下半身を盛大に濡らしながら失神していた。
こうして小夜子は、セイレーンやマーメイドと遜色たぐわぬ、否、それ以上の『あやかし』となった。
真・エピローグ
愛し子の柔く少しく汗に塗れた髪の束を指ですくって彼女は部屋の内側の夜に目を向ける。
あやかしたちの世界の中で、まさか子が持てるとは思っていなかった小夜子は、未だに愛し子の存在を訝しく思いながらもそれ以上に愛でる気持ちが優っていて、己の幼い頃と同じようなモノを好んでくれる愛し子の、その一挙手一投足が愛おしくて、彼の人にだいぶん面立ちの似た我が子の立髪をもう一度撫ぜ、額に浮かんで見える汗をタオルでそっと拭った。
小夜子は忘れられずにいた。
時にフッと思い出されては、父とかつて訪うた浜辺へと顕現され、
そうして老いて行く父の背中を見ては
切ないような悲しいような心持ちの中に少しの安堵を添えて
黄昏時、淡い時間、
彼岸と此岸が曖昧になる折に浜辺に寄ってはいくつかの宝物を持ち帰ったり
小夜子の部屋へと顕現されればそうっと己の宝物を一つか二つ、持ち帰った。
ある時は母の故郷へと訪うこともあった。
実家へと身を寄せたのであろう母は、だいぶんと窶れてはいたが緑の溢るる公園で、
春夏秋冬、それでも悠介を穏やかに見つめていた。
どんな思いで小夜子のことを思い出したのだろう。
父も母も、何故か淡い時間に小夜子を思い出し
そうして小夜子に土産を持ち帰る時間をくれた。
シロツメクサの大群が彼の地に棲みついてから
彼岸と此岸が曖昧になる時間帯にだけ、
小夜子は愛娘への『現実世界での土産物』を拾い集め帰ることが出来るようになった。
それは父母に思い出された証としてでもあるように。
ブリキのバスに乗り夜空を舞っているであろう愛し子に掛けた毛布をもう一度愛おしさを込めた手付きで掛け直し、その額にそっと口付けをした小夜子は、廊下へと続く扉へと物音を立てずにそっと向かい、優しく扉を閉めた。
その姿を見届けたガーゴイルは「寝たか?」と短く問うた後、瞳の仕草だけで小夜子を己の座る膝へと誘い、幼い頃と幾分も変わらぬ幾千万の星を纏った小夜子の瞳や透けるような頬を柔らかく見詰めながら、小夜子に優しく接吻をした。
「おかえり、小夜子」
−終−