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どんちゃんとアタシの七日間

2000年 GW、子どものいない我が家にゴールデンレトリバーがやってきた。
(子どものいない経緯は「復讐」シリーズで書いた通り)

当時の夫との合言葉は「ゴールデンウイークにゴールデンレトリバーをゴールドカードで……」だった。

2000年2月26日生まれの“どんちゃん”
(ゴールデンレトリバー ♂享年15歳3ヶ月)

子ども?友達?天使?神様?
アタシにとって圧倒的な存在だった彼(どんちゃん)。
天国へ旅立つまでの七日間を綴ります。


***

2015年6月3日

夕方の散歩。相変わらずオシッコは出にくそう。血尿だろうか、色がかなり濃い。足取りは重く、まるで、よしもと新喜劇の“たつじい”のようだ。

4月中旬に一度倒れたときは、覚悟ができておらず、かなり取り乱してしまった。この世の終わりみたいに泣きじゃくるアタシに、彼(どんちゃん)も呆れた様子に見えた。

あれから一ヶ月半。奇跡的に回復した彼は、それまで通り散歩を楽しんでいるようにみえた。

彼の苦手なグレーチング(鉄製の排水溝の蓋)が近づいてくる。若かりし頃の彼は、いとも簡単にヒョイっと飛び越えていたものだ。寄る年波に逆らえず、いつしか避けて通るようになっていたのに、今日に限って彼はジャンプした。

ジャンプしてからの数秒間、彼の脳裏には何がよぎっていたのだろう。次の瞬間、彼は顔から地面に突っ伏した。やはり駄目だったか……とでも言いたげな眼差しでアタシを見る。

アタシは袖口で自分の両目を押さえる。彼を抱き起そうとするが、彼の脚にはまったく力が入っていない様子だ。申し訳なさそうにコチラを見やる彼。アタシは「大丈夫やで、大丈夫やからよ」呪文のように呟き、彼のお尻から脚をマッサージする。

“たつじい”の足取りが更に重くなったが、なんとか自宅まで帰ってきた。門の前では、姑がアスファルトの道に水撒きをしている。

「どんちゃん、おかえり。ほれ、水飲みなぁ。あれ、どうよ、鼻擦り剥いちゃあらして。」
「うん……。さっき、ジャンプしたら着地できんと転んでしもて。」
「あれよ~、おまんも歳取ったなぁ~。足腰弱ってんのにジャンプするさけ、転ぶんやして。」
姑の言葉に、心なしか彼が落ち込んでいるように見える。水も喉を通らない、といった感じだ。

食欲もないようで、ドッグフードには見向きもしない。やっとこさ自分の居場所へ移動すると、その場にへたり込んでしまった。

アタシは、そっと彼の身体を抱き締める。

どんちゃん、愛してるよ


2015年6月4日

立ち上がることも、歩くことも、寝返りを打つことさえできない彼の姿に、アタシは覚悟を決めた。

「どんちゃんが旅立つ瞬間まで、片時も離れず傍にいる!」

会社には、とりあえず今週いっぱい休ませてもらいたいと連絡し了承を得る。
「〇〇ちゃん会社行ってるあいだ、見といちゃあよ。そうそう休めやんやろ。」
姑の申出は丁重にお断りした。

タオルを枕に、お気に入りの寝床をつくる。明るく風通しの良い窓際に。ペットシーツの買い置きがあったので下半身の下に敷いた。アタシは、彼の傍らに座布団を敷いて腰を下ろし、三度目の「嫌われる勇気」を読むことにする。

歯を食いしばり、鼻から息を強く吐いている。彼の息遣いに、とてもじゃないが読書の気分ではなくなってしまった。

昨日の散歩で擦り剥いた鼻の傷が痛々しい。起き上がることができないため、当然のことながら自力で水を飲むことができない。舅の介護の時に使用した吸いのみ器で水を飲ませる。大好きなビスケットを口に持っていくが受け付けないようだ。

添い寝をしながら、時折話しかける。
「どんちゃん……ありがとう……ホンマ、ありがとう」
「どんちゃん……いっつも、待っててくれたなぁ。寂しかったやろなぁ。」

彼は、瞬きで答えてくれる。ギュッと目を瞑ったり、パチパチと数回続けて目を瞑ったり。アタシの言葉が理解できているように思える。

アタシは彼の頭や体を撫でる。手を握る。彼の顔をじっと見る。
「どんちゃ~ん、どんちゃ~ん……」
「しんどいよなぁ……何してあげたらいいかなぁ……」

「ずっと、そばにおってほしい……」
彼の声が聴こえた気がした。

ずっとそばにいるよ


2015年6月5日

本を読むでもなく、ただただ彼の傍にいて声をかける。夫が買ってきてくれたおにぎりを食べる。トイレに行くのも気が気じゃない。
「どんちゃん、オシッコ行ってくるな。すぐ帰ってくるからな」

寝たきりになってからも、彼は寝ころんだまま排泄するのを拒んでいるかのようだ。
「どんちゃん、ええんやで。オシッコ出したらええんやで。」
アタシは彼のお腹のあたりを擦る。彼は、気の毒なぐらい申し訳なさそうにペットシーツいっぱい排泄した。下になっている身体がオシッコで濡れてしまうのは致し方ない。身体の向きを変え、彼の身体を綺麗に拭く。ペットシーツがなくなったらオムツにしてあげようかな。そんな日が来るだろうか。いやいや、来る。絶対来る。

テレビ画面から流れるキャスターの声が耳障りだ。かと言ってテレビを消すと、彼の苦しそうな息づかいだけがクローズアップされて、アタシも参ってしまいそうだ。

そうだ、iPhoneで音楽を流しておこう。アタシは、伊藤銀次さんの声を選んだ。優しい。銀次さんの声が、どんちゃんとアタシを包み込む。静かに、心に染み込んでいく。

(神様、お願いします。どんちゃんが旅立つときには……どうか、どうかラクにいかせてあげてください。神様、お願いします。どんちゃんを優しく迎えに来てあげてください。)

苦しそうな息づかいは、彼がまだこの世に存在していることの証でもある。身体や頭を撫でる。彼はパチパチパチと瞬きをして応えてくれる。

初めての長距離ドライブの旅。大好きな川遊び。散歩中のハプニングの数々。
思い出があふれ出す。ブログに彼のことを書こうかな。アルバムを引っ張り出し、思い出の欠片たちをiPhoneカメラに収める。

「どんちゃん、ありがとうなぁ……」
声に出すと、条件反射で涙のダムが決壊した。

どんちゃん、ありがとうなぁ


2015年6月6日

彼が寝たきり状態になって三日目だ。定期的に身体の向きを変えてやる。身体の痛みを感じているかどうかわからないが、なるべく衝撃を与えないように、時間をかけないように気をつけながら。

しばらく体重を測っていないが、見た感じ38kgぐらいはあるだろうか。上半身と下半身がねじれないように身体の向きを変えるのは結構骨が折れる。

13時からスカイプミーティングの予定だ。気が気ではないが、そばにいるし、二時間ぐらいなら急変することもないだろう。

そう言えば、一歩も外に出ていない。今日は何曜日だっけ?仕事の心配もせず、彼につきっきりだったことに気づいた。同僚に迷惑をかけているだろうことは気がかりだが、アタシは彼から離れるつもりはない。外の世界とは時間の流れが異なる気がする。梅雨入りしたというのに雨が降る気配はない。湿気が少なくて助かる。風で揺れるカーテンの動きが柔らかく感じる。

アタシは、ノートパソコンの電源を入れる。スカイプにログインしようとしたその時、彼の呼吸音が大きく激しくなる。アタシは慌てて介抱する。
「どうした?苦しいん?大丈夫やで。ココにいてるで。どっこもいけへんで。」
彼の両手を握り(正確には両前足だが)、語りかける。彼はギュウッと何度も瞬きを繰り返す。

「僕のことだけ見てて。僕のことだけ考えてて。お願いやから。」

そう言われた気がした。アタシは、お相手に事情を話してミーティングを延期にしてもらった。

彼の瞳にアタシが映っている。
「悲しい顔したら、どんちゃん心配するやんなぁ。わかってる。わかってるんやで。」

今夜、夫は不在だ。ひとりで乗り切れるだろうか。

「なお、泣かんといて」byどんちゃん


2015年6月7日

昨夜は、ほとんど眠れなかった。最初は苦しそうで聞いているのが辛かった彼の呼吸音。その音が聞こえなくなることが何を意味するか。そればかり考える。そのたびにアタシの視界は滲む。

今日は日曜日。夫と二人、昔のアルバムを引っ張り出して、どんちゃんとの想い出いっぱいの写真をiPhoneカメラに収める作業が続いている。まるで遺影を選んでいるかのようで、時折心が軋む。

夫と二人、どんちゃんを囲むように布団を敷いて、その日から過ごすことにした。
どんちゃんの頭、特に耳の下辺りがすごく熱い。高熱にうなされているように思える。歯を食いしばっている。吸いのみ器でさえ水を飲むことができない。スポイトで水を口の中へ入れると、くちゃくちゃくちゃと舌を動かす。

日中、彼の様子を見に来る姑は「水飲まさなあかん」やら「ビスケットも食べれやんか」やら「どん、また元気になって散歩行かなあかなして」などと、アドバイスや声掛けをしてくれるのだが、今のアタシには苦痛なだけだ。アタシには、彼の状態が手に取るようにわかる気がした。もう、元気になって散歩へ行くことはない。奇跡的に息を吹き返した二か月前の出来事は、アタシに覚悟を促すために起きたのだと思う。

鼻水が固まって鼻の穴を塞いでいる。お湯で拭いて取り除いていくが、鼻の奥が詰まっているのだろうか、鼻呼吸がしづらいようだ。時折、唇が震えるほど激しく口から息を吐く。歯を食いしばっているため、思ったほど息を吐き出すことができない。ぶるぶるぶる……何度も唇が震える。呼吸音が聞こえなくなる。舌が気道を塞いでいるようだ。アタシは彼の身体を少し起こし、夫が彼の口をこじ開け手を突っ込む。呼吸音が復活する。

「優しく迎えに来てって言うてるやろ!!!神様のあほんだら~!!!」
アタシは天井に向かって悪態をついた。


2015年6月8日

週が明けた。正直、彼がここまで踏ん張ってくれるとは思っていなかった。仕事、どうしよう。ここまで一緒に居て、今さら彼と離れるなんて考えられない。ええい、ままよ!思い切って今週いっぱい休むことにしよう。

ペットシーツが残り少ないことを夫に告げると「お守りのつもりで」と大量に買って帰ってきた。またペットシーツ買いに行けるはずだ、という想いと、このまま寝たきり状態が続くとなると仕事は辞めなければならないな、という想いが交錯した。

気道が塞がり呼吸ができなくなる状態が何度か続いた。夫もアタシも緊張の連続だ。そのたびにアタシは神様に悪態をついた。
「お義父さん、もう、どんちゃんを迎えに来てあげてよ……。神様なんか、当てにならんから……。」
アタシは、今は亡き舅に祈る。存命中、どんちゃんの散歩を請け負ってくれた時期があり、彼も舅には懐いていたから。

何度目かの山場を乗り越えたあと、彼の顔が穏やかになる。スポイトで歯の間から水を入れてやると、くちゃくちゃくちゃと舌を動かしてくれた。声をかけると瞬きで答えてくれる。
夫とアタシは緊張の糸が一気に緩んだのか、大声で笑いながら想い出を語り合った。

百均で色違いのバンダナを何枚もストックしているが、彼は赤いバンダナが一番似合うとアタシは思う。バンダナを交換するときはいつも、彼に「お手」で選んでもらっていた。アタシは、彼の両手を握り話しかける。
「どんちゃんは何色のバンダナが好きなん?瞬きで教えてな」
彼は、ぎゅーっと力強く瞬きを一つした。
「赤?」「緑?」「迷彩?」反応がない。
「黄色?」
彼の瞬きの強さに、アタシは胸が熱くなった。
「え?黄色が好きなんや。なおと一緒やん」
彼は、何度も何度も瞬きを繰り返す。アタシは自分が黄色のバンダナをしていることに気づく。
「あ、なお、黄色のバンダナしてるし。もしかして、これまいてほしかったりする?」
彼の頬が緩んだ気がした。

「僕、黄色のバンダナが一番好き。
あ、なお黄色のバンダナしてるし」
byどんちゃん


2015年6月9日

夫が出かける5分前、どんちゃん下血。アタシは、慣れた手つきでペットシーツを取り換え、彼のカラダを拭きながら、夫に告げる。
「今日……かもしれへん」

舅の介護をしていたときの記憶が蘇る。気道が塞がり、なんとか気道を確保したあと状態がよくなり、家族全員で笑いあった。数日後、高熱が続き、意識が薄れ、下血。そして……。
最期が近づいていることを思い知らされる。

彼のカラダは熱く、呼吸は変わらず苦しそうだ。アタシは彼の両手を握り、話しかける。
「どんちゃん……しんどかったら、もうええで……なお……大丈夫やから……なお……もう泣けへんから……」
「……だから……だから……もうラクになってもええんやで」
「どんちゃん……なお、大丈夫やで……もう、ええんやで……」
彼の瞳にアタシの顔が映っている。アタシの視界が滲んで、彼の瞬きを確認できない。

夕方。激しかった息づかいが急に弱くなる。
(あぁ……どんちゃん……もう、いくんだ、ね……)

彼は、アタシに合図を出すかのように、繋いでいたアタシの両手を、ぐぐぐぐぐーっと押す。アタシは、彼の上半身を左太ももに乗せ、頭を支え抱きしめた。
「どんちゃん……もういくんやなあ……」
「ありがとう……ありがとう……ありがとう……」
「どんちゃん、ホンマにありがとう……」

彼は、すごい勢いで、ぐいいいいーんと伸びをする。それはそれは気持ちよさそうに“ぐいーん”と伸びる。いままで、まったく動けなかったのが嘘みたいだ。それはまるで、窮屈なカラダを抜け出すプロセスであるかのように感じられる。

クン、……
クン、……
クゥーン、……

彼は静かに呼吸することをやめた。
“もうすぐ17時ですよ”のチャイムを聴きながら、……それは“散歩の時間”を告げるチャイムでもあったのだが、……彼は出発した。

彼のカラダは熱いままだ。顔は笑っているように見える。ほんとうに逝ってしまったのだろうか。口元に耳を寄せる。呼吸音は聞こえない。鼻息も感じられない。

「どんちゃん……なおの覚悟が決まるまで、時間くれたんやなぁ」
頭のてっぺんから足先まで拭いてやり、ブラッシングする。

ひとしきり泣いたあと、夫に連絡する。「外見てん。すごい夕焼けや」夫からの返信を見て、思わず家を飛び出した。
「どんちゃーん!!!」
走る。走る。走る。涙は風で飛ばされる。堤防まで突っ走る。

「あぁ……」
電柱の向こうに見える紫色の夕焼け空。神々しい。圧倒される。胸が押し潰されそうだ。思わず嗚咽が漏れる。

どんちゃん、どんちゃん、どんちゃん……。

名前を口に出しただけでも視界が滲む。肩が上下に揺れる。

いつも彼と歩いた帰り道。大事に、大事に、踏みしめる。

「僕、やり切ったで」byどんちゃん


2015年6月10日

昨夜は、在りし頃の彼の写真や動画をみながら夫と酒を酌み交わし想い出を語り合った。傍らに横たわる彼のカラダは、今朝になって少し臭いがしてきている。鼻血も流れ出てきた。
現実と向き合わなければならない。ペット専用の葬儀社に依頼するか、それとも市に引き取ってもらうか。昨夜からずっと思案し続けている。彼への執着は、今後の人生に良い結果をもたらさないと感じるという点で、夫と合意した。

和歌山市青岸エネルギーセンター(清掃センター)へ搬入することにした。布団ごと運んでも良いと言われ胸を撫で下ろす。愛車ネイキッドくんの後部座席を倒してフルフラットにする。
我が家から、彼だけが出かけることは最初で最後のことだ。我が家の玄関先に咲き誇る紫陽花や散歩道に咲いている花を、彼のまわりに飾る。

青岸(清掃センター)に到着。受付を済ませ、向かった所定の場所では歯抜けのオッちゃんが対応してくれる。火曜日と金曜日に火を入れることになっているため、いったん倉庫(コンテナのような感じの)に保管するらしい。扉を開ける。中はひんやりとしている。冷凍室なのだろうか。見渡すと、大小さまざまな段ボールやビニール袋が整然と置かれていることに気づく。
歯抜けのオッちゃんは、屈託のない笑顔を我々に向ける。
「その、青いビニールシートの子は確かラブラドールっていうてたなぁ」
「そうなんや……一緒に旅立つお友達、こんなにいてるんやぁ……なんかちょっとホッとするなぁ……」
(歯抜けのオッちゃん。歯は抜けているけれど、ハートには愛がいっぱい詰まっていること……、その笑顔みたらわかる。こんなオッちゃんに最後をお任せできて安心やな)

夫と歯抜けのオッちゃんと三人で、どんちゃんを保管庫へ運び入れる。ラブラドールのお友達の隣に彼を並べる。アタシは、たまらなくなってその場にへたり込む。
「いまどきはペットも家族みたいなもんやからなぁ。気ぃ済むまでお別れしたらええでぇ。なーんも急ぐことないわぁ」
歯抜けのオッちゃんは保管庫の扉を閉めずに、泣きたいだけ泣かせてくれた。



2015年6月12日

……………………

雨雨降れ降れ
もっと降れ
できるだけ強く
できるだけ激しく
アタシの泣き声が
誰にも聞こえないように

……………………

彼と最期に過ごした濃密な時間。七日間ずっと晴天が続いていたが、昨日久しぶりに大雨が降った。

………………………

どんちゃん、おはよ。
どんちゃん、いってきます。
どんちゃん、ただいま。
どんちゃん、散歩いこか。
どんちゃん、雨やなぁ。

いっぱい声をかけてきたけれど……
「どんちゃん、いってらっしゃい」って言うのは初めてだな。

その昔、煙突から出る煙が雲になると思っていた。
いま、どんちゃんの煙を見つめながら、ホントにそうだといいなと思う。




当時、facebookで毎日「今日のどんちゃん」というタイトルで投稿をしていた。どんちゃんファンの皆さんに向けてメッセージを送りました。(ずいぶんあとになってしまいましたが)

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