すったもんだの自己受容劇場
大嫌いなひと、許せないひと。どうしても好きになれないひと、どうしても許しがたいひと。アタシの場合、それは【両親】(とくに母親)
苦しみの原因は“アタシがアタシを許せないこと”つまり自己受容が課題だと氣づいて実践し始めたのが数十年前(18歳のアタシは氣づいていたんだけどね)
どうすれば自分を許すことができるんだろう。その答えは【斎藤一人さん】のCDにそのまんまあった。
斎藤一人さんの著書を読み漁り付属のCDを車で聴きまくっていた15年前のアタシ。(知る人ぞ知る“100回聞き”CD)
そのなかで「感謝」というコトバを何回も何回も聴くことになるんだけど当時、「感謝」の意味が全くわからなかった(実は、ついこの間まで全くわからずにいた)。実感も体感も全くなかった。
「こんな自分が嫌なんよ!感謝のひとつも出来へん自分なんか人間の屑や!」
「だからいつまでたっても苦しいまんまなんよ!」
そんな自己嫌悪もたびたび。こんなじぶんを許せるわけがない。
もっと頑張れ!
もっと感謝しろ!
もっと!
もっと!!
もっと!!!
そんなとき、ひとりさんの声がこう言った。
「どうしたらじぶんを許せるかって?簡単だよ、『じぶんを許します』って言えばいいんだよ」
そのとき堰を切ったように涙が溢れ出して止まらなくなった。言ってみた。
「じぶん…を………許し…ます」
もう、だめだ。涙で前が見えない。車を路肩に停めて大声をあげて泣いた。意味もわからず泣いた。最後は笑いながら泣いた。
大声をあげて笑いながら泣いた。泣いた。泣いた。泣いた。泣いた。大きな壁をひとつ乗り越えた氣がした。
それでもちょいちょい現れるのがいわゆる「悪徳裁判官」って奴で。重箱の隅をつついてくる。こんなオマエでも許せるのか。そんなオマエでも許せるのか。あんなオマエでも許せるのか。
焦らない!迷わない!こんなじぶんを許します!そんなじぶんを許します!あんなじぶんを許します!
徐々に、徐々に、アタシはじぶんのコップを愛で満たしていった。いつか愛が溢れたら、そのときは必ず他者へ愛を注げるひとになる。まず自分!まず自分!まず自分!言い聞かせた。いつしか「自分を許します」ナチュラルにそう言えるまでになった。
そうして満たされたとき、無条件に他人のことも許せるようになったかというと、そうは問屋が卸さない。血のつながりが濃いほど簡単ではないみたい。(アタシの場合)
オカンのこと、オトンのこと。いまは一緒に暮らしていないし縁を切ってしまっているので表面上は穏やかに暮らしている。きっといまだに許せてはいないのだとも思う。
でもでもでもでも、憎っくきオカンのこと。憎かったオトンのこと。いまだに好きにはなれないけれど「感謝」はできる。お墓掃除をできるようになった辺りから「何はともあれ、産んでくれたことには『ありがとう』だよな」そんな風に感じているアタシがいる。
アタシの幸福感はここから広がっていった。