「天体を使う」という言葉に潜むカラクリ

 「天体を使う」という言葉は、西洋占星術を勉強していくうちに、なんとなく目にすると思います。
 しかし天体を使うと簡単に言われたところで、じゃあなんなのどうすればいいのよ、みたいな思いは当然のように発生するのも、しごくもっともな話です。
 では、天体を使う意識はどのようなものなのか、ちょっと説明していきます。

 はじめにお断りしておきますが、私はこの「天体を使う」という言葉を、基本的には好んでいます。

 まずジオセントリックホロスコープにおいて、ネイタルまたはトランジット天体は、そのまま「そこにある」ものです。そしてジオセントリックでは足元に、つまりホロスコープの中心は私たち地球に住まう者たちの地点にあります。ジオセントリックは地球から見た天体であり、私たちのまわりをぐるぐると回っているのですが、平面上ではなく三次元的に角度や高さなどの位置があり、ホロスコープはそれを平面上に配置して描かれた図です。

 それでも天体は地球に存在するわけではありません。地球という天体から見れば、他の惑星や月は、まったくもって別物であるのです。なんだかわからないけれど私たちは地球という場所にいるらしい、そして太陽系の天体たちはそれぞれ公転軌道と公転速度に則って動いているらしい、という認識が発生します。そしてジオセントリックの性質上、それらは地球の周りを回っている、という誤解まで、複合的に発生させてしまいます。
 この誤解は当然と言えは当然で、私たちの目には星々が自分の周りを動いているように見えているし、実際のところそう思った方が自然ではあります。太陽でさえ一日中、絶え間なく動いているのです。つまりホロスコープなど知らなくとも、知識がなければ地球が中心だと考えるのです。

 ここまでで「天体を使う」という言葉の恐ろしさにお気付きでしょうか。
 私たちの認識している天体は、私たちとはまったく別個な存在なのにもかかわらず、まるで天体が私たちのものであるかのような錯覚を導いてしまうのです。
 さらにホロスコープを眺めれば、それぞれの天体が12サインのなにに所属し、度数はいくつでアスペクトはどう、というところまで、現代では計算できてしまいますので、具体性まで一気に高まります。

 使う、という言葉のなかには、手にあるものを自由自在に操る、というところまで含みます。
 たとえば日常的に用いる道具など、すべて手にあるものを意志で操り使いこなすとき、それらは「使える」ものになります。主体が人間で客体が道具です。
 では天体はどうでしょう。私たちの手のなかにあるのでしょうか?
 答えは「ありません」です。
 なぜなら天体は人間の意志とはかけ離れたところで動くからです。

 「天体を使う」という言葉を考えたとき、これらをまず分離させなければ、本当の意味でのアプローチはできないと思います。
 つまり一般的な「使う」とは、まるっきり別物の「使う」なのです。

 さて、では地球からみて、これら天体を使うというのは、いったいどういうことなのでしょう。

 ジオセントリックホロスコープを読む場合、人間はいわば受け身の存在です。天体の動きのままに影響を及ぼされますから、これらを手のなかに入れて操るなど、まったくもって不可能と言わざるを得ません。人間から働きかける、いわば能動的なものなどないホロスコープを前にして、どうやって天体を使えばいいのでしょうか。
 天体は人間とは別次元のもの。もうその時点で、使うなどという言葉には、どこか無理はありそうな気がしてきませんか。

 しかしよくよく考えれば、私たちが受け身の存在であるなら、それらをどう受け止めるのかは、それぞれの判断あるいは対応次第ではないか、というところまで至ります。
 そうなればしめたものです。

 たとえば野球で考えてみましょう。
 天体というピッチャーが、私たち人間というバッターに対して、ボールを投げ込んできます。
 それらは様々な球種であり、速度さえ違います。私たちはバットを手にしてそれらのボールを打ち返すのです。
 しかし天体がボールを投げてくれなければ打ち返す必要性など発生しませんし、そもそもボールを投げ込まれたこと自体に気付かず、バッターボックスにさえ立たないかもしれません。まったくの他人事としてスタンドで天体が投げ込むボールを見ているか、あるいは球場の外で、まったく別のことをして遊んでいるか、または寝ているかもしれません。
 しかし私たちが人生においてバッターボックスへ立つなら、ホロスコープを読み解けば、どのピッチャーがどんな球種を、どのような速度で投げ入れてくるかがわかり、うまく打ち返せるでしょう。しかも、どの方向へどう打てばいいのかさえ予想できてしまうのです。

 これが「天体を使う」という本来的な意味だと思います。

 あくまでもきっかけというか、能動性は天体が握っています。こちら側から使えるものなどないし、天体に向かって「さあこい!」とは言えても、実際のところ投げてもらえるかどうかはわからないし、それが希望のものである保証などありません。しかし投げ込まれたボールの意味を読み解けて、さらに打ち返せるなら、もうそれは「天体を使う」行為に他ならないのです。

 自らの手で天体を操るわけではなく、あくまでも対処としての能動性と意義をもって、天体を使っていくわけです。
 
 そうなると仰々しく構える必要などなく、ただ軽く「ああ、そうきたのね」くらいで認識できるばかりか、タイミングや流れ、それから意義も把握できて、うまく流れに乗っていける。
 これができたら、もう怖いものなどはない、とは言いすぎでしょうか。


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