タロット。21・世界

生命の樹ではイェソドとマルクトのパス

 大アルカナの旅もついにクライマックス。最後のカードである。
 マルクト、すなわち物質界である地球へとまっすぐに着地し、すべての完了を意味している。地上へと生まれ出るこのカードは達成や完成だ。すっきりと道筋は決まっていて、過不足なく安全に着地する。1から始まった愚者の旅は世界のカードで完結する。このパスの安全性は、いままで培ってきた経緯、すなわち経験や振り幅の大きさに関係していて、左右の柱に大きく広げられていれば太いし、それほどでもなければ細い。しかしいずれにしても自己は存在しているので、その働きには偏りがなく既定路線めいていて、膨らみもせず縮みもせず、きちんと安全に着地できる。
 これを喜びと感じるか、あるいは退屈と感じるかは、各人の捉え方ひとつだ。

  基本的に世界のカードは喜ぶべき解釈となる。すべてを手に入れた人物が空から降ってくる。それがもし願い続けたものであるなら問題はないだろう。それは思想、感情、意志が揃っているからだ。この『すべてが揃う』という解釈は世界のカードの大前提である。

 カードの絵柄を見てみると、牛、獅子、鷲、天使が意味する四元素のなかに立つ人物が目に付く。これは四元素が滞りなく均衡を保って存在し、それをあたかも安全ベルトのような安定感を与えながら、人物を支えているように見えなくもない。人物は編み込まれた輪のなかにいて、四元素には触れていないため、もしこれが結界めいたものならば、この輪の内側と外側はまったくの別世界であり、四元素の世界から生み出された人、という意味になる。輪にはメビウスリングが上下に設えてあり、これは文字通り無限や絶え間ない流れを示しているが、輪を留め置く封印のように見えるかもしれない。というのも上下にメビウスリングがあるということは、上の世界と下の世界の契約は相互にとって絶対的なものである、という意味にもなるからだ。
 実際のところ、マルセイユ版のデッキを点検すると、輪の中の人物の足に地面がある。これはもう既に、地上に生まれた命、という読み方もできて、こうなるとたとえば別世界で、天空の水晶玉のような転写装置を前に四元素が集まり、地上への無事な着地を確認している、と思えなくもない。一方のウェイト版では輪の中の人物は空中に浮いているため、いままさに生まれ出ずる瞬間です、というところだ。

 さて21という数字について考えてみよう。21は7×3で、完全数の7に三位一体の3を掛け合わせた数字だ。7という数字は西洋東洋ともに、噛み砕けばキリスト教と仏教ともに特別な数ではあるが、このすべてを3つ揃えてくるという意味となる。3は創造性の数であり、二極化されたものにひとつの材料あるいは動きを与える。2は分割されその場から動かないが、3になるといきなり発展形を遂げる。もちろん21は3の世界を7回体験する、という意味にもなり、これはどこか輪廻転生的なものを思い起こさせるだろう。
 また21は2+1で3になり、ここにも発展や創造という意味が見て取れる。
 いずれにせよ、この21という数に神秘性を感じる人々は少なからずいる。ちなみに21をひっくり返すと12・吊られた男になり、12・世界のカードと通じる箇所があるのが意味深い。どちらも逃げられない。吊られた男をひっくり返せば世界に描かれた人であると示唆されているのは、脚の組み方でわかる。このふたつのカードには類似性があるのだ。吊られた男は足元を固定されているが、世界の人物は頭上で固定されていると読めば、このふたつのカードの類似性と差異性については想像できると思う。
 たとえば星のカードは頭上から情報を得て、月のカードは地下から情報を得る。空から降りてくるものと地下から引きずり出されるものの違いは、人間として生きる上での価値観や道徳観、または経験則によるもので、その違いについて体感できれば、どちらも恐ろしくはないが、しかし基本的にはタロットカードに描かれたように、空からと地下からの情報は違うと認識されている。もちろん実際には違うし使い方もそれぞれだが、この二極性においての考え方を違えてしまえば、空からは吉で地下からは凶、という、わりと一辺倒な解釈しかできないだろう。空からは空からの、地下からは地下からの情報がある。そしてそれらの根底には吉凶など存在せず、地上に生ける者たちの捉え方ひとつにしか過ぎない。
  ざっくり言ってしまえば、世界のカードには天空からの祝福があり、それは吊られた男の別バージョンで、足から吊られたか天空から吊られたか、という違いだ。

 さて前述したとおり、この完全な世界のカードを歓迎するかどうかは人による。
 完全なる成功や心願成就など、おびただしい吉相の解釈が、世界のカードにはついて回る。現在までの経過がじゅうぶんに目に見える形で成され、人々は満足する。この世界のカードは大アルカナの最終だ。言ってみれば終わりであり、もうこの先はないと捉える向きもある。
 この世界のカードは、既定路線のなかで生まれてくる。四元素をくまなく均衡に手に入れ地上に降りるが、もしもっとスケールアップしたいという意志があるなら、このカードは不満足なものになる場合がある。
たとえば自分を超えたものは、わかりやすく言えば運命の輪や塔など、なんらかの高さから降りてくる、あるいは引っ張られる出来事があり、世界の広がりを感じるきっかけを作り出す。または月のカードで下層の蠢きに気付き身が竦み、星のカードで未知なる天界と会話をする。そのような事態は世界のカードでは起こらない。世界はまったくの既定路線だ。想像を超えたものなど存在せず、輪のなかにいるなら安全であり守られている。ここから飛び出そうとするなどもっての外なので、違う可能性を模索するなら、このカードは身動きが取れない話になってしまう。
  実際のところどうしたいですか?という問いかけなど、このカードには存在しない。
 なぜなら、すべてが揃っている完全な世界だから。
世界のカードはそういった意味がある。不安定な状態から落ち着きを導き出すには、世界のカードや節制のカード、あるいは正義のカードは役に立つ。女教皇、または皇帝のカードもそうだ。これらの共通項は、きちんとその場に立つ、という点で合致する。いわば一瞬でも静止するカードなので、現れ方はカードによって違えども、きちんと止まる。魔術師は立ってはいるものの、その周縁に存在するものたちは動いていて、周縁の動きによって頭や手の動きが変わってくる。
 世界のカードはひとつの世界の完成あるいは簡潔であり、ここからまた違う世界へ飛び出したいなら、いまここではない他の世界で愚者のカードにならねばならない。
 こういった考え方をすると、世界のカードは退屈だ、と考える人々が現れてもおかしくない。常に成長と発展を望む人々で、立ち止まってしまうと息が詰まる感じがする。あまりにも退屈、あるいは非常に息苦しい、という感覚だ。こうなると世界のカードが現れても、またすぐ愚者へ歩みを進めるので、安定を良しとする人々から見ると、きっかけひとつで批判の対象になってしまう。
 誤解のないように書き添えるが、世界のカードは吉兆だ。成功、完成、良好さ、あらゆる意味で均衡からくる、ひとつの世界で祝福された有り様だ。

 さて、イェソドは生命の樹でいえばマルクトと同じ中央の柱にある。中央の柱はケテル、ダート、テファレト、イェソド、マルクトで形成されているが、ひとしく中央の柱に当てはめられているカードには、女教皇、節制、世界がある。これらは揺れずにストンと降りてくる。女教皇はケテル、すなわち外宇宙からの情報をストンとテファレト、すなわちざっくりとした意味での意志に下ろす。ここでTORAの書に記されればそれが指針となる。このテファレトからイェソドに達すると節制になり、緻密なバランスのうえに成り立つ自我となる。テファレトの力をイェソドは分割する、あるいは同時に統合するので過不足がない幸運、継続性のある実現力など、膨大で粗削りなテファレトの力をうまく和らげる働きになる。そのようにして降りてくるイェソドの力をどうやってマルクトに下ろすのか、という段階になったとき、はじめて世界のカードが開かれて、固い物質性のマルクトにまで達するのだが、マルクトから見れば真っすぐに天空から降りてくる情報にもかかわらず、ケテルからの情報は細分化、または適合化されている。つまりケテルの情報の一部分に過ぎない。しかし天からの授かりものと考えれば、イェソドで細かく噛み砕かれ混ぜられた外宇宙は、まったくもって幸運になるだろう。単純に受け止めるなら雑異音などない。しかしそれでもケテルの情報はうまく安全に着地できるようにされているため、たとえば原本のコピーをコピーしてまたコピーする、という繰り返しの行為によって原本の鮮やかさが失われたもののように映ることもある。しかしケテルからの軸はブレておらず単純かつ明快だ。
 ただし、左右の柱に関わっているカードが劣っているというわけでも、優れているというわけでもない。ただ性質の違いであり、どちらがいいか、ということではなく、それぞれのカードの働き方にしかすぎない。
 
 逆位置であれば『なにかが足りずに不完全』という意味になる。基本的にはそこで終わりを告げるのが世界のカードのため、逆位置であれば同時に展開されたカードのなかで不足を見つけ、改善すれば良い、ということになる。
 
 以上、世界のカードでした。
 実際のところ鑑定の現場で世界のカードが出て、私が掛け値なしに喜べるのは最終結果、または質問者が置かれた状況であって、他の箇所ではちょっと頭を捻ります。たとえば質問者がストレスフルな状況であり変化を求めているなら、この世界のカードは脅威になる場合があるのです。なぜならいまが完全な状態であるので、ちょっと抜け出せない可能性があるためです。なんとかなりそうですよ、という言葉を捻りだすなら、同時に展開された他のカードの働きに頑張ってもらうしかありません。まだ他のカードに動きがあるなら問題ありませんが、これはどれだけ質問者の意志が強いか否か、というところに関わってくるので、なかなか腹と腰を据える必要があると思います。

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