タロット。20・審判
生命の樹ではホドとマルクトのパス
ホドに関しては西洋占星術で言うところの水星であるが、その働きがマルクト、つまり地球に到達するのが審判のカードだ。こう言うと天界からの使者か、と思われるかもしれないが、天界というものは基本的に地上から見た概念であり、少なからず天界の様相を書き換えている。つまり誰もが認識している天界と、本来の天界には開きがあると思われるが、審判のカードに関しては下から眺めている様子が描かれているので、これは地上から見た天界との接触の構図だ。
このカードでラッパを吹いている大天使はガブリエルだ。ガブリエルには「知らせる」という意味がある。聖母マリアに受胎を知らせるのもガブリエルで、基本的には神の言葉を伝えるのだが、キリスト教においては最後の審判という話もあり、この瞬間にガブリエルはラッパを吹いて人々に知らせ、死者を蘇らせる。
20・審判は、ホドからマルクトに知らせを発する、というカードなのである。あるいは耕す、あるいは記録とする、という意味だ。
ではこの死者とはなんなのか。
マルクトとはいえ死者が入っている棺桶は地上ではなく水に浮かんでいる。このイメージは日本でいうところの三途の川のようなイメージがわかりやすい。海のような波はない。川なのはウェイト版でも明らかであるが、マルセイユ版でも同様に波打ちは見当たらない。
しかしウェイト版とマルセイユ版を並べてしまうと、まるっきり違う箇所がある。そもそもウェイト版とマルセイユ版の違いはたくさんあって不思議でもなんでもないが、とりわけ変更の少ないこの審判のカードのなかで、どうしても見過ごせないものがひとつある。
それは死者の色である。
ウェイト版では手前の三名は水色で、遠くにいる向こう側の三名も水色であるのに対し、マルセイユ版では後ろを向いている一名だけが水色で、隣にいる二名はこちら側を向いているばかりか肌色である。また川の色も変更されることがあり、これはマルセイユ版とはいえデッキが違うと変わっている傾向があるのだが、赤い川が散見される。
赤い色の川に肌色の人間が二人いて、ひとりが死から復活する。これはどういう意味なのか。
死者が流れるという意味ではインドのガンジス川が思い浮かぶだろう。インドでは死に至る者たちがガンジス川流域に滞在する話がある。死に瀕した者たちが死を待つ家があって、意識の有無にかかわらず過ごす。ガンジス川はヒンドゥー教にとって聖なる川なので死に至る瞬間には最適だ。少なからず遺体が灰になったところで流されるのには変わりがなく、死とともに人はガンジス川と一体になるのだ。もちろんその川に生身の人間も入り、川の水を浴びながら飲むことがある。
この流れは審判のカードの情景に似ている。
赤は生命力の色で、川は生と死を象徴し、輪廻転生も意味することがある。聖なる川に身を委ねれば死に新たな命を与えられる。川はたくさんの命を溶かして運ぶ。火葬されて川に流される灰は原型をとどめていないかもしれないが、存在としては消えていない。マルセイユ版のふたりの肌色の女性は川に浸かったままで天使の方を見ておらず、死者に向かって手を合わせているので、つまりこれは死者を弔う人の姿だ。また老人の男性は天使の方を見ているので、これは死者の弔いを天に任せている、つまり天と交信あるいは会話をしていて、死者のこれからの幸せの願いを伝えている。
一方の死者は棺桶から立ち上がり、いままさに天に昇る瞬間なのであるが、よく見るとマルセイユ版の死者の後姿には見覚えがある。それは法王のカードにおける足元にいる人物にそっくりだ。ということはこの死者は聖職者である可能性があり、穢れのない遺体だということになる。死を迎えて聖者になった、あるいはもともとから聖者であった。天に召される瞬間に清められたと言ってもいいとは思う。
同じ川を崇拝する向きの代表的なものはエジプトだろう。エジプトはナイル川の氾濫で多くの打撃を受け続けてきた一方、人々に肥沃な土を与え続けた。これはイシス、サティスに結び付く。人々を飲み込み命を奪うそれは、川が意志を持って奪うといっても過言ではなかったはずで、そうなると命と川が密接な関係を持っていることに気付く。日常を飲み込んだ先に豊かさが手に入る。それはなんらかの儀式めいた雰囲気があって、王国および住人が川の氾濫を避けようとした動きはあっても、犠牲がなかったわけではない。一斉にすべてを飲み込む流れを見ているだけにすぎないのは、狂うように流れる川を誰もが止められないという意味に通じるし、死からは誰もが逃れられない、という同様のテーマが横たわる。
ウェイト版の審判のカードはもっとキリスト教に沿った形で示されている。いわば最後の審判であり、人はすべて平等に審判されるという意味だ。人生の善悪が判断され救いの手が差し伸べられるが、ここでは価値という概念が出てくる。善き行いの価値、悪き行いの価値である。この補填あるいは回復のために報われたり罰せられたりという流れになるのだが、ここでも過去は変えられないものの象徴として横たわる。そして魂は消えることなく新しい住処に旅立っていく。
つまりマルセイユ版では地上の3人のうち「ひとりが死者」である一方、ウェイト版では「地上にいる全員が死者」なのだ。ウェイト版では全員が等しく死に至っているので問題ないが、マルセイユ版で解釈するなら、質問者が死者の立場か、それとも見送る者なのか、という点に行きつく。もし死者ならガブリエルに呼ばれるし、見送っているのなら生存しているので、それは気配としてしか認知されない。しかし川に入っている目的は死者の完全なる旅立ちが第一なので、それは成就するとみるべきである。見送る者の生存は続くため、たとえガブリエルのラッパには気付かなくとも、きちんと成就する。
死者であればガブリエルからの知らせで自覚できるが、生存者は気が付かない。しかし目的は達成する。この違いはわりと大きく、たとえば質問内容が他の誰かを主語にしていたなら、質問の主体者は死者であり、質問者は傍観者として主体者の達成を見届けることになる。しかし質問内容の主語が質問者本人なら死者は質問者自身であるため、ガブリエルからのラッパに気付くだろう。
つまり主体が質問者の場合は変化を実感できるが、傍観者の立場なら実感はない。主体の変化を聞くか気付くかするが、質問者本人が変化するわけではなく、その結果を受け入れるのみだ。
もちろん質問者が主体者そのものであるなら達成を含めた変化を受け入れる意味となる。
そう考えると極論を言えば、ガブリエルから見れば、地上に生ける人間そのものは死んでいるに等しいのかもしれない。
さて、ここまできて繰り返すが、このカードには『天の声が地上に響く』という意味が前提にある。その声によって肉体を捨てた魂はようやく自由になる。マルクトつまり地上を離れ浮かび魂は浮かび上がる時点になって死を知る。
しかし占いで審判のカードが出たからと言って「死ぬんです」というわけではない。というのも、死は日常的に現れるからだ。13・死神のカードにおいても死の概念は出てきたが、ここでもひとつ殻を破る意味になる。いままでとは全く違った方向性を見出す、あるいは潰されたあとで活路見つけ蘇生するという意味では、審判のカードとは同じように思えるかもしれない。しかし根本的に違うのは完成させたなにかがあるかどうかだ。
死神のカードではまだマルクトに届かないので、それは考え方や概念など精神的なものが大きい。しかし審判のカードはマルクトに届いているので、なんらかの経験や実績がある。その経験や実績などの『地上的な達成を脱ぎ捨てる』という意味での「死」なのである。ここでようやく人は自分の成しえたもの、つまり自分の過去を意識することができるようになる。審判のカードが死に至らしめるのは変えようのないものなのである。一方で死神は変化が可能なものへと一気に変更をかけてくる。
きちんとガブリエルからのラッパが響き、そこでようやく評価が定まるので、喜ばしい状態で次の段階に進めるという意味にもなるし、明確な結果が出る、という意味にもなる。その瞬間は地上で見ている人々には気付かれない。しかしラッパは死者だけに聞こえるので、死者つまり当事者が気付かないわけもなく、それは深い天啓や気付きとなって現れるだろう。
ホドは西洋占星術での水星に該当する。一方のマルクトは地球であり地上だ。物質界である地上において、水星はアンテナの役割をする。水星は好奇心とコミュニケーションを司る双子座のルーラーであるとともに、冷静な分析あるいは排除と批判を司る乙女座のルーラーだ。双子座と乙女座の共通項として、柔軟宮であることが挙げられる。ふたつの星座は確固として動かないとか、勢いで突っ走るとか、そういうものはない。その状況や場面によって頭を捻り最善の方法を見つける。ふたつのサインは方向性が違うだけで、的確な立ち居振る舞いの対応力は双方とも同様に抜群だ。ただし双子座は雑多なものまで引き寄せ吟味するのに対し、乙女座は雑多なものは限りなく排除し効率と快適さを重視する。これは双子座が風サインであり乙女座サインが地という違いであるが、いずれにせよ知性は大きく関与していて、乙女座は『なんとなく』という曖昧な感覚では選び取らない。乙女座は土なので感覚と思われる節はあるが、きちんと考えた先にある理由を基にした快適さであるので、感覚を最優先しているわけではない。感覚が理由を大きく占めるのは同じ地サインでも牡牛座で、こちらは金星をルーラーとしている。言葉にできない理由は牡牛座、きちんと理由を言語化できるのが乙女座となる。
ただし繰り返すが双子座、乙女座ともに柔軟宮なので、あらゆる状況にアンテナを立て、あれがダメならこれ、という選択をし続ける。
双子座は風サインであるので、知性は雑多であるが有効性が高い。雑学に秀でているのはもちろんのこと、それをきちんと役立てる術を知っていて、あれこれと場合によって使い分ける。興味のある分野であれば顕著に現れるのだが、とくに好奇心を刺激されなくとも知識を吸収できる。
いずれにせよ社会生活においては有能と思われる場合が多いが、これは情報を受け取り上手に発信できる資質によるものだ。これらをマルクトに引き下ろすとき、その答えはまわりからみれば天啓めいている。とりわけホドがゲブラーとつながっているなら直感的なものとして、テファレトであれば抗えない説得力として、イェソドであれば明確な答えとして認められるだろう。
このように、もしホドの解釈に悩んだら、ホドのパスがある大アルカナの意味と、水星の働きを考えると理解しやすい。
さて20という数字の意味は、どうやっても2の象意から逃れられない。2は女教皇、そして11の力(マルセイユ版において。ウェイト版では11は正義)だ。女教皇はケテルからテファレトのパスなので、目標や達成すべきものなどを提示し意志を吹き込んだ。いわばそれはブループリントのようなものである。そして力はゲブラーとケセド、あるいはゲブラーとテファレトに表されるが、いずれにせよ「私と自然」「私と世界」「私と相いれないもの」との関係を示し、相対化したのち奇跡を起こした。そして審判では私の肉体と精神が分離されるのだ。
これはつまり、女教皇から受け取ったブループリントを力のカードまでで意識化し、審判ですべてを開け渡すという意味になる。女教皇は力のカードでライオンに化け、審判ではガブリエルに化けると言ってもよくて、私となにか、という構図にはまるで変化がない。当事者はいつでもタロットカードを展開している者だ。
ただし女教皇は2の本質だったが、力のカードは2番目の2なので、徹底して相対化するものの、審判は3番目の2であるから、積極的かつ応用的な2の数字となる。積極的に2の働きを受け入れ、すべて漏らさず活かしきる。
タロットでの「3番目の数字」というのはうまくできていると思う。それは19の1、20の2、21の3にしか現れないのだ。18までは2番目にしか過ぎないので応用がきかない。しかし19にもなると、1の数字が再び息を吹き返してきて、また新しいものに手を伸ばせる。これは19まで到達したボーナスステージと思ってもいい。18で引き返すと19にまで届かないが、月のカードの不安定を乗り越えた先の明るい見通しは喜ばしいものだし、1の数字の活かし方さえわかっているので、太陽のカードを思い切り活かせて発揮できる。つまり審判もストレートな死ではなく、きちんと結果が出るとか祝福という意味になってくるのだ。まだ先はあるけれどひとまずここまでですね、という状況は、太陽のカードで道を明るく照らされた者にとっては福音でしかないだろう。
旅を続け、このカードにたどり着いた愚者は審判を目にしてなにを思うだろう。ここまできた道のりを思い返し、魂の次の段階への旅立ちが与えられたことを知るのだ。次のカードは21・世界。ようやく地上に降り、ハッキリとしたものを意識する。なんとなく歩いてきた道かもしれないが、きちんと経過と祝福を実感できるのかもしれない。マルクトは実感を司る、その働きそのものだ。
以上、審判のカードでした。
単に「結果が出ますね」という言葉だけでは表せないカードです。もちろん逆位置であれば、小学校で宿題やテストでもらった「もっとがんばりましょう」というスタンプになるのですが、正位置であれば「たいへんよくできました」みたいな嬉しさや高揚感があります。これも「良かったですねえ」と言えるカードなので、かなりわかりやすいかと思います。具体的に願望が叶う、思い通りになる。実際は思い描いた理想ではないのかもしれません。しかし近いもの、あるいは満足できるものとして現れるでしょう。そして次に進めるのです。やっと手に入るので、待っていた状態である質問者さんにとっては間違いなく良いもので、私も「ようやくひと息つけますね」という表現をする場合もあります。
なんというか一般的な意味として、蘇生という意味が走るカードでもあるのですが、蘇生という字面の印象だけで追うのは、ちょっと遠いかなと思います。蘇生というのはそのものが生き返るんです。しかし審判のカードの蘇生の意味は、形は違えども本質は残る、みたいなもので、その本質に関しては息を吹き返しますが、姿かたちそのものがそのまま生き返るわけではありません。このポイントを違えると審判のカードの解釈は遠ざかります。
いずれにせよ審判が下るからといって恐れるのではなく、きちんと受け止めるのは2の数字の意味なので、そして審判という言葉には宗教的なニュアンスが大きく感じられると思うので、ドンと受け取ればいいんです、くらいの勢いでいいと思いますよ。
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