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『J・エドガー』~二つの顔をもつ男~

こんにちは。

今回は2011年公開の『J・エドガー』(監督:クリント・イーストウッド 主演:レオナルド・ディカプリオ)についての記事です。

以下にあらすじを載せておきます。

1960年代、公民権運動の盛り上がりを快く思っていなかった一人の男がいた。彼の名はジョン・エドガー・フーヴァー、FBIの長官である。彼は、FBIと自身の名誉のため、彼の伝記を広報官に口述タイプさせる。司法省の局員として勤めていた彼が、どのようにして激動の時代を乗り切り、ルーズベルトやケネディなど8人の大統領の下に仕え、FBIの初代長官になるに至ったのか。

本稿の構成としては、まず『J・エドガー』で用いられた照明技法が、作品内でどのような意味を持つのかということについて検討します。そして、本作と同じ伝記映画である『ファースト・マン』と比較し、主人公の描かれ方の違いとその理由について検討します。

いつものことながら、この記事は本作『J・エドガー』を鑑賞された方が読まれることを前提に書いていることだけご了承ください。

光と影

まず、本作における多くのシーンで用いられた光と影を用いた描写について検討していきます。

本作で何度も用いられ、印象的であったのはフーヴァーの顔を半分に割るかのように用いられた光でした。これにはどのようなことを表す意図があったのでしょうか。

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ここで、私が想起したのは『バットマン』に登場するスーパーヴィラン、「トゥーフェイス」でした。「トゥーフェイス」はその名の通り二つの顔、すなわち二重性を持つ人物です。もともとは法という秩序を大切にし、正義のために活動する高潔な検事だったのですが、あることをきっかけに正気を失い、善良な人格と邪悪な人格を併せ持つようになってしまいます。

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(映画『ダークナイト』のトゥーフェイス)

話を『J・エドガー』に戻しましょう。

ここで私が言いたいのは、上述の『J・エドガー』において用いられた照明技法は「フーヴァーの二面性を表現している」ということです。では、本作の主人公であるフーヴァーが二面性を備えているような描写はあったのでしょうか。

作品中では、彼は以下のように様々な二面性を持つ人物として描かれていました。

①司法省の有能な若手局員だが、実家暮らしで母親に依存しており独立できていない
②法の執行者として華々しい活躍をしているが、吃音症を患う内気な人物で女性一人すら口説くことができない
③差別的な思想を持っているが、自身はクローゼットホモセクシュアル(公表はしていない同性愛者)である
④正義のため、国のためと考えて行動しているが、その実態は盗聴を行うなど国民の権利を侵害するものである
⑤共産主義者やマフィアを大量検挙したという輝かしい功績が認められているが、手柄の横取りなど様々な黒いうわさが付きまとっている

以上のように、本作においてフーヴァーは様々な二面性を持ち合わせている人物として描かれていました。

このようなことから、前述した「フーヴァーの顔を半分に割るかのように」用いられた照明が、フーヴァーが二面性を持つ人物であることを視覚的に表現していると考えられます。そして、この技法により彼が二面性を持つ人物であるという描写に説得力をもたらすことに成功しています。

比較

次に、本作と同様の伝記映画である2018年公開の『ファースト・マン』(監督:デイミアン・チャゼル 主演:ライアン・ゴズリング)とはどのような共通点や相違点があるのか、ということについて検討していきます。

『ファースト・マン』についてもあらすじを載せておきます。

1960年代、アメリカはソ連との宇宙開発競争で後れを取っていた。娘を病気で亡くした技術者のニールは、NASAの有人宇宙飛行計画に参加する。友人や同僚の死や、自身も死に直面しつつも、彼は妻や息子たち、そしてアメリカ中の人々の夢と希望を背負い「アポロ11号」の船長として月を目指す。

ファースト・マンにおいて印象的だったのは、かなり多くの場面でニールのPOV(視点ショット)やクローズアップが用いられていたことです。これら二つの撮影技術は、「観客の感情移入を呼び込む」という効果があります。

人類史上最も有名な人物の1人であると考えられるニール・アームストロングという人物に対して、徹底的に観客を感情移入させることで、誰もが知る人類初の月面着陸という出来事をドラマチックに演出しています。

一方『J・エドガー』では、POVはなく、全体を通してフーヴァーに感情移入させるための演出は少なかったように思います。それでは、なぜこのような演出がなされているのでしょうか。

これは、FBIの長官であるフーヴァーに対する評価の表れなのではないかと考えられます。

フーヴァーは、司法省捜査局長としての時代から8人の大統領に仕えたことになりますが、情報収集が不正な方法により行われていたことなど様々な権力の乱用があった人物であり、議論の余地のある人物だとされています。また、作品中にもありましたが、自身の強大な権限を縮小させないために大統領のスキャンダルすら秘密ファイルとして収集、記録し脅迫していたとされています。

しかし、その一方で指紋ファイルの作成などといった捜査技術の近代化や、科学的な操作の導入を行い、犯罪捜査の進歩に多大な貢献をした人物であるということも事実です。

このようなことから、本作では誰かの視点に立ってフーヴァーを描くのではなく、あくまで客観的な視点から彼の半生を描き、観客に彼がどのような人物であったのかということを考えさせる意図があったと考えられます。そのため、伝記映画であるのにもかかわらず、必要以上に彼の功績をたたえるような描写はなかったのです。(彼を主人公にしている分、多少は彼の行為に肯定的な視点で描かれている部分はあるかもしれませんが。)

結論としては、『ファースト・マン』の主人公であり、人類史に多大な貢献をしたニール・アームストロングとは異なり、『J・エドガー』ではその行為について議論の余地がある人物としてのジョン・エドガー・フーヴァーを表現するため、POVなど彼に感情移入をさせるような撮影技術はあまり用いられていないのではないかということになります。

最後に

最後まで稚拙な文章にお付き合いいただき、ありがとうございます。いつものやつと比べると、今回はあまり深く考えることができませんでした。もっと精進する必要がありそうです。

さて、たまたま二つの伝記映画を立て続けに観ることができたので、これらの作品を比較するという発想に至りました。ラッキーです。

それにしても、最近は誰の顔よりもディカプリオの顔を見ているような気がします。そのうち夢に出てきそう。めっちゃ嫌やな…



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