ポッドキャスト|AIラヂオ006前編|AIアートとNFTの可能性(前編)【文字起こしつき】
みなさま、こんにちは!テック系フリーランスライターの五条むいです。
テクノロジーとの共生でハッピーになりたいHarmonic Society株式会社の師田賢人とテック系フリーランスライターの五条むいがゆるく愉しくお届けする、〈AIラヂオ006〉の前編をお届けします!
今回はつい盛り上がってしまった関係で、ちょっと長めになりましたので、前編と後編にわけてお届けします。
第4回から、進化したAIは人間の模倣をするというよりはむしろ、〈AI=Alien Intelligence=エイリアン・インテリジェンス:異星人の知能〉になりそうだという見立てをたてておはなしが拡がってきています。
そこで第6回の今回は、ますます進化するAIが描くAIアートのクリエイティビティをどう評価するか、ですとかNFTでデジタルアートの販売市場が成立しつつある今、その著作権の行先はどうなるかといった話題を対談しております。
文字起こしもついてます。よろしければ、しばしお立ち寄りください。
AIラヂオ006前編の文字起こし
師田:皆さん、こんにちは。AIラジオというポッドキャスト番組です、この番組ではAIに関する情報発信を定期的に行っています。
今回のテーマはAIアートとNFTの可能性について迫ることです。お届けするのはHarmonic Societyの師田とテック系フリーランスライターの五条むいです。
五条:よろしくお願いします。
師田:よろしくお願いします。なんかAIアートとNFTって新しいものの組み合わせの代表みたいな感じですけど。なんか最近ね。やっぱAIアートっていうのも目にする機会っていうの、増えてきましたよね。
五条:そうですよね。なんかYouTubeなんか見てても、増えてきた気がしますよね。
師田:なんかボクも最近展示会に足を運んで、人間が書いたものとAIアートと半分半分くらいの展示会だったんですけど、初めにぱっと見たときに、なんか人間のものと全然遜色ないなっていうような印象を受けたんですね。
ボク、元々アートが結構好きで、大学時代にやっていたりだとか。結構、美術館とかよく行く方なんですけど。
ただよくよく見るとね。なんかちょっといびつな感じが見えてくるんですよね。というのも、主題となる人っていうのと副題となる背景みたいなところが、なんか調和してないというか、何かここの要素がそれぞれアナログみたいに連続的な繋がりなんじゃなくて、なんか段差があるような感じで繋がってる。
なんかそういうデジタル感みたいなのが印象としては人間味がないとか、何かちょっと不自然とか、そういう感じを受けるんですよ。五条さんは、どういうふうに思います。
五条:いや、私。師田さんと違って絵心が全然ない人間なので、そもそも生成AIが生み出す絵がクリエイティビティっていう面で言うと、どこまでいってるのかなっていう疑問ですとか、今後どこまでいくんだろうかっていう疑問が根本的にありますね。
師田:うん。なんかそういうクリエイティビティっていった観点で言うと、現代アートって必ずしも作品のクオリティが作品の評価に繋がるわけじゃないんですね。何が大事かっていうと、コンテクストっていうのがすごい大事で、たとえば初めに現代アートを定義した人は、デュシャンっていう便器に自分の名前のサインをして、これがアートだっていったような人なんですけど。
それは何か今までの印象派とかそういったものに対して、そういう綺麗なものなんじゃなくて、アートっていうのはそういう新しい文脈を作り出す、その作品の契機となるのがいわば現代アート作品なんだっていうことを提起したので、現代アートの始まりというふうに言われてるんですけど。
たとえば村上隆さんとか、日本人で有名な現代アーティストだと思うんですけど、アニメとかそういう平面の世界観を、スーパーフラットっていう文脈で打ち出したことによって評価されたわけですよね。
そうなってくると、何らかの文脈上に、重要な位置に締めていれば、作品自体、たとえばその絵としてのクオリティとかっていうのは意外とそんなに重要じゃなかったりもするんですよね。
それでもやっぱり現代アートとか見ていく中で、これ本当にアートなのっていうようなクオリティの作品とか、何かちょっとどうなんかどうなのみたいな作品が結構あると思うんですけど、そういうのも全部やっぱコンテクストに依存するというか、それによって評価が決まるっていうところがあるんで。そういったところがAIのクオリティっていうよりも文脈を新しく作る力みたいなとこが、クリエイティビティとして評価されるんじゃないかなってボクは思いますね。
五条:つまりクオリティーという面での議論と、その新しい文脈を生み出すことができるのかどうかっていう議論と二つあるってことですよね。
クオリティの面から言うと、人間だって生成AIだって、過去の偉大なアーティストの絵画から学んで、ある組み合わせでもって自分流のアートを生み出すっていうのがクオリティの面での議論として一つあって、そういった意味で人間と先生はどう違うのっていう議論が一つ目。
それから二つ目は、生成AIが新しい文脈を生み出してるんですかっていう疑問がありますよね。つまり生成AIが生み出す新しい文脈って、結局、人間がプロンプトで指示してるんじゃないのっていうのが二つ目かなとボクは思いました。
師田:最初の組み合わせっていうことに関して言うと、AIはより機械的に組み合わせてく、いわゆるモザイクアートみたいなのは得意だったりはしますよ、
というのと、やっぱ過去の作品を学習してるので、著作権の問題とかっていうのはやっぱり人間がやるときよりもシビアに判断されるのかなっていうふうには思います。
生成AI自身がクリエイティビティっていうのを産んでいるのか、その裏で操って人間がクリエイティビティを握ってんじゃないかっていうことに関していうと、クリエイティビティに関して言えば、生成AIの場合は異なるものの組み合わせっていうようなのが大きな要素になってくるので、さっきも言ったことと同じになってしまうんですけど、そういった意味ではAI自身にクリエイティビティがあるっていうだけではないのかな。
何か初音ミクとか、ボーカロイドみたいなのの音楽表現を考えてもらうと、ちょっとわかりやすいかなと思うんです。
結局、あれは作曲とか作詞とかは人間が主に行ってるじゃないですか。ボーカロイドっていうソフトウェアによって、音声とか、楽器の演奏とか、置き換えてきたんですけど。
人間の声っていったものを、本来は人間がやるべきパートのものを初音ミクっていうボーカロイドが代替したことによって、ボーカロイドの新しい音楽市場みたいなのができたりはしたので。
結局それもクリエイティビティを裏で握ってるのは人間なんですけど、ただ初音ミクっていう、機械的な存在と人間の調和によって、新しい表現が生まれてるっていうのはある意味、アートが1個のジャンルを作る可能性もあるんじゃないかなっていう気はしますね。
五条:そうするとね、人間が生成AIを使って新しい文脈を持ったアートを生み出したときの、オリジナリティっていうか、所有権っていうか、著作権は結局、生成AIが持つのか、それとも人間が持つのかっていうすごい微妙な問題が生まれてきますよね。
師田:そうですね。それに関していうと、技術を人間はどこまで所有してるかというか、責任をものなのかっていう、なんか結構、技術哲学的な議論にも繋がってくると思うんですけど。
ただボーカロイドとかに関して言えば、やっぱり作詞作曲した人が、基本的に著作権を握るような形です。使ったソフトウェアとかそういったものは表現の手段、楽器の一つみたいな形で扱われると思うんですけど。
ただAIアートになってくると、表現が全てAIによるものだったり、表現のインスピレーション、アイディアの部分も、アートが結構深く食い込んでくるっていうというところで、人間のクリエイティビティとちょっと上手く切り離せないところがあるんですよね。
多分この著作権問題についてはまだ議論が尽くされてなくて、どのように著作権っていうのがAIアートの作者に付与されるのかっていうのは、これから話し合っていかなきゃいけないと思うんですけど、ボクとしてはもう基本的にはAIをツール、技術手段として捉えているので、基本的には人間に著作権を帰属するんじゃないかなって、ボクは思うんですけど。
五条さんその辺に関してどういうお考えをお持ちですか。
五条:法整備っていうことを考えると、法律っていつも現実の後追いなんで、著作権みたいな法整備をね、どのように判断するかっていう議論は、常に後追いにならざるを得ないという意味で、あんまり参考にならないかなと思っていて。
それよりも今、私達は、人間として何かすごく根本的に問われてることがあるんじゃないかと。
つまり私達のアイデンティティっていうかオリジナリティっていうか、人格というものが、生成AIっていうテクノロジーで拡張されたときに、どちらに主体があるのか、それとも人間と生成AIが二位一体になって、新しい人格みたいなのが生まれてるのかみたいな、すごい哲学的な命題を問われてるような気がするんですよね。
師田:そうですね。確かにそうですね。そうなってくると、人間と技術っていったものがあって、人間が技術をコントロールするということで、明らかに人間に主があって、技術が従だったので、そういった関係が成り立ってたから、人間のものっていうふうになってましたけど。
ただやっぱりこれまでの回でも話したと思うんですけど、AIが結構汎用的な知性とか得たりクリエイティビティを持ってくるって話になってくると、その主従関係っていうのが下手するとイコールになる可能性もあるし、イコールの関係に移行すべきっていうふうな社会的なコンセンサスが醸成されるっていうこともあり得るので、そうなってくるともう本当に法律で縛るっていうのはかなり難しいような気がするんですよね。新しい法律体系が必要な気はしますよね。
多分こういう定義に従って切らずっていうよりは。どちらかというとそういった判例とか、そういったものの積み上げによって慣習法みたいなのが作られていくような形に帰結するんじゃないかなって、今のところは思いますね、
五条:だから現状から言うと、あくまでも法律は現実の後追いであり、未来がわかってない以上、どのように法律が変わっていくのかっていうのは、なかなか想像できない面があると思うんです。
だけどやっぱり私がすごく興味があるのは、エイリアインテリジェンスとしてのAIがますます発展していったときに、人類が持ってる知性、知能と比較できるような、ある種の主体性を認められるような存在になったときに、さて私達はエイリアンインテリジェンスと合体して新しい人類になるのか、それともどんどんエイリアインテリジェンスの存在感だけが大きくなっていくのかっていう。
いつものユートピア論とディストピア論の方向に話が発展しそうな気もしますよね。
師田:なんかあれですよね。トランスヒューマニズムって、要は人間を技術で進化させてくっていったものと、あとスーパーインテリジェンスっていうターミネーター的に人類をAIが終焉させるみたいな、そういった価値観の対立みたいなのって、今もすごく話し合われてると思っていて。
なのでそれに関して言えばまだ結論は出ないですよね。
ただやっぱユートピア的な面とディストピア面的な面があると思っていて。それはどうなんですかね。いずれにしてもトランスヒューマニズムにしてもスーパーインテリジェンスにしても。AIっていったものが人間の創造性に大きな影響を与えていくし、アートの主題になっていくっていうことはもう間違いないとは思いますね。
五条:そうですね。なんか人間とエイリアンインテリジェンスの境界が、どんどん溶けてっていうような気がするんですけど、溶けてってる最前線がデジタルアートというか、クリエイティビティの議論が集中してるところのような気もしますね。
(後編に続く)