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劣等感の真実

口に出せないことだから他人(ひと)から聞くことはないけれど、きっと誰の心にも潜んでいる劣等感。そんな劣等感の真実を知ったとき、閉塞感やゆきづまりの正体がみえてきたのです。

『知の巨人』とよばれる松岡正剛という方がいらっしゃいます。その方の著書[1]を読んだときに、ボクの心の奥底は、大きなシャベルで掘り起こされた気がしました。そして隠れていた世界を少しだけのぞけた気がしたのです。

まさかの葛藤

そもそも〈劣等感と名づけられたコンプレックス〉を発明したのは、心理学者のアルフレッド・アドラーでした。ユングやフロイトをはじめとする他の心理学者は〈劣等感〉を認めていないか、もしくは嫌っていたのです。

では〈劣等感〉とは何なのか。松岡正剛の考えでは、劣等感は必ずしも自分が劣っていると自覚するから生まれるものではありません。むろん誰だって何かは他人より劣っているものです。しかし本人はそれとは逆に、〈ひょっとしたら〉うまくいくかもしれないと思っているものなのです。いまふうにいえば〈ワンチャンあるかも〉ですね。

この〈ひょっとしたら〉や〈ワンチャンあるかも〉という気持ちの高揚がなかったなら、劣等感はたいして育たないのです。

ところがこの種の人間(ボクです)は、自分がかかわる(登場する)場面を意識しすぎる傾向があります。そこでついつい気持ちが事前に高揚し、あれこれの〈(成功する・勝利する・活躍する)強い場面〉を空想しながらふやすことになるのです。妄想がどんどん膨らんでいきます。いろんな〈ひょっとしたら〉や〈まさか〉が渦巻くのです。

しかし実際には、その〈ひょっとしたら〉が裏返ります。そして妄想にひたっていた自分がうらめしくなり、がまんできなくなり、そこが悔しくなるのです。

さらにそのうちに事態の進捗がぴたりと停止します。〈凍りつく時間〉です。そうなるともういけません。いろいろな〈やっぱり〉が次々と重なり体もこわばってきます。〈しまった・やっぱり〉という悔恨の感情が押し寄せるのです。しかもこの〈停止〉は過去に何度も起こっていた〈あの恥辱〉に直結してしまうのです。

実際のところは、その直後に事態が好転してしまうことだっていくらもあったはずなのに、それはなかなか感情の記憶に残らずに、事態が氷のように停滞してしまったことだけが、自分の逡巡に結びつけられるのでした。かくしてただひたすら〈弱い場面〉だけが張り付くように記憶に残ることになります。

こうした一連の進行を松岡は〈まさかの葛藤〉と名づけています。閉塞感やゆきづまりとは、〈まさかの葛藤〉に沈む〈凍り付いた時間〉のことだったのです。

まさかの葛藤を強制する社会

この連載記事で述べてきたとおり、ボクたちの社会の仕組みは変化しているのに、日本経済の中核を占めるビジネスモデルが昭和型のままであることが、ボクたちにまさかの葛藤を強制しています。新しい価値観に適応できずにいることが、まさかの葛藤を生み出し続けているのです。

昭和の時代(高度経済成長期)であれば「学校で真面目に勉強すればよい大学に入って、一流企業に就職できる」「よい成績で高校を卒業すればちゃんとした会社で働ける」という暗黙の合意がありました。だから親や教師がいちいちいわなくても、生徒たちは学校から社会へのルートを自然に受け入れていたのです。

しかし長く苦しい失われた30年を過ごすうちに、この〈きれいごと〉を真に受ければ〈まさかの葛藤〉にしかつながらないことに、生徒たちはうすうす気づいてしまいました。だから生徒たちに〈勉強するモチベーション〉を与えることが困難になってきたのです。

そこで窮余の策として〈夢を実現するためにはいま頑張らなければならない〉という夢至上主義が蔓延することになったのだといいます。大学で学生のキャリア支援を行う高部大門は、若者たちが「夢」に押しつぶされていく実態を〈ドリーム・ハラスメント〉と名づけました。

法政大学キャリアデザイン学部教授の児美川一郎は、「夢を脅迫する社会」になった理由を、フリーターやニートの増加を若者の〈自己責任〉にしたい大人たちが「夢」を持たせれば、それが働く意欲の回復につながる。そうすれば、就職難や非正規雇用の問題も解決に向かうと夢想した」からだと言います。[2]

そもそも自分が活躍する〈夢=強い場面〉を描きなさいと、外部から強制することが矛盾です。それで夢が描けなければ自分は劣等者なのでしょうか。実に無責任な〈大人の都合〉です。

無理ゲー社会

橘玲は、今回、引用させていただいている著書『無理ゲー社会』で、誰もが〈知能と努力〉によって成功できるようになったことで、社会は〈(知能の高い)上級国民〉と〈(知能の低い)下級国民〉に分断されると喝破しました。[2]

橘は〈日本も世界もリベラル化している〉といいます。ここでいうリベラルとは〈自分の人生は自分で決める〉〈すべての人が”自分らしく生きられる”社会を目指すべきだ〉という価値観のことです。このリベラリズム(自由主義)の根拠は、〈わたしが自由に生きるのなら、あなたにも自由に生きる権利がある〉です。

こうしてボクたちは、すべてのひとが〈自分らしく〉生きるべきだとするリベラルな社会に暮らすことになりました。これはもちろん素晴らしいことですが、光があれば闇もあるように、この理想にはどこか不吉なところがあると橘はいいます。

つまりリベラルな社会で〈自分らしく生きられない〉ひとはどうすればいいのでしょうか。リベラルな社会で誰もが〈知能と努力〉によって成功できるようになったとすれば〈下級国民〉の烙印を押されたボクたちは、どう生きればいいのでしょうか。

下級国民ですがなにか?

橘玲の主張には反論の余地はありません。橘玲はボクが尊敬する思想家のひとりですから、橘玲の主張をいったん全部受け入れたうえで、それでも思うことがあります。それは〈上級国民と下級国民の格差社会〉とは、リベラリズムの世界観を前提にすれば必然的に導かれる帰結だということです。

日本経済の中核たる昭和から続くビジネスモデルを、いまやリベラリズムが支配しているので、ボクたちはこの格差社会を暗黙のうちに認めさせられています。

認めさせられているというよりはむしろ〈上級国民〉を〈夢=目指すべき姿〉として描き、ボクたちの〈夢=強い場面〉に〈上級国民〉を重ねてしまっているのではないでしょうか。それはそれでかまわないのですが、でもその夢が実現できなければ、ボクたちは〈まさかの葛藤〉を再現しつづけることになるのです。

持つ者、持たざる者、
支配者、被支配者、
強者、弱者、
できる者、できない者、
…..。
この二項対立を超え、突きぬける論理は、
この世の中にはないのだろうか。

李良枝「木蓮によせて」[1]

この李良枝の言葉が、この連載記事の根底に流れている問題意識です。それではまたお会いできれば幸いです。

出所

[1]『フラジャイル 弱さからの出発』松岡正剛著・ちくま学芸文庫2005
[2]『無理ゲー社会』橘玲・小学館新書2021


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