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一周回ってからの同じ景色は ぜんぜんちがうかった 九章
九章 新たなスタートと終わり(前編)
アルバイトをしながらではあったけれど家具屋としてはなんとかやっていけていたし、ショールームも作ったので、これから頑張ろうと思っていた。
そんな次のステップへと進もうとしていたある夏の日。ギャンギャンと鳴き続ける蝉、夏だぞと言わんばかりの真っ青な空、そんな雰囲気と同調している世間と、関係ないような自分の状況と心境。とはいえお盆休みくらいは家でゆっくりとしようかな?いや、やっぱり工場で仕事をしようかなと思ったりしていたとき「ちょっと来てくれ!」とお父ちゃんが大声で叫んできた。何事かと思い、お父ちゃんのもとへ急いで行くと、手も脚も動かなくて倒れていた。かろうじて声だけは出せた状態だった。そして、一瞬でこれはただならぬ状況だと感じ急いで救急車を呼び、病院へとお父ちゃんを運んでもらった。病院で診てもらった結果、脳梗塞と診断されたんだけど命に別状はなく、ほっと胸をなでおろした。
お母ちゃんは早くに亡くなっていたし、弟も妹もとっくに独立をして家にはいない状況。お父ちゃんと僕の男二人暮らし。一緒には暮らしているんだけど、ちらっと見るくらいだったし、世話をしてくれる女性もいたんで、ほとんど気にかけるようなことはなかった。どうやら、脳梗塞の予兆はあったらしく自転車を乗るにもバランスが取れなくなったり、顔が歪んだりしていたようだった。そして、脳梗塞の影響で右の手足が不自由になってしまった。
世間のお盆休みの雰囲気とは全く関係ない慌ただしい時間が流れる中、この先どうしていこうかと頭の中を、いろんなことがグルグルと無限ループし続けた。
やっと自分のやり続けたいと思える仕事につくことが出来たこと。他人からも家具屋としての自分が認識され始めたこと。何十年とお父ちゃんは地域の顔として自転車屋を頑張ってきたこと。自分の選択肢には自転車屋を継ぐなんてなかったこと。そんな無限ループから抜け出し、出した答えは家具屋をやめて自転車屋を継ぐということだった。
お盆が明けてすぐくらいの、まだまだ暑い日に沢田さんのところへ、気持ちや状況を説明に行くことにした。沢田さんは、いつもどおりの雰囲気で「なに〜!」といい、その緊張感のない迎え入れ方にこころが少し軽くなった。それで、状況を説明し沢田さんの「しゃあないな!」の一言で色々と悩んだ末の決断が自分の中で腑に落ちた気がした。
40代に突入し自転車屋を継ぐことなんてことは自分自身はもちろん、お父ちゃんだって思ってもいなかったことだったと思う。子供の頃からずっとスーツを着て働くような仕事につくようにと「勉強せえ!」と言われ続けたわけだから。そんな、誰も思ってもみなかった自転車屋としての修行を始めることになったのだけれど、後を継ぐ自転車屋そのものの経営状況はとても良いとは言えなかった。ここ数年、お父ちゃんがバリバリだったかといえば、そうではなく年金ぐらしでなんとか食べていけるかどうかなくらいだった。今まで見もしなかった自転車屋の売上などを確認してみると、月の利益が6万円程度しかなかった。まだまだ未来のある僕の人生をかける商売の現状はかなりの低空飛行からのスタートを切ることになった。
お父ちゃんとは、もう何年も会話らしい会話もしていなかった。脳梗塞でお父ちゃんは体の右半分は麻痺してしまっていて、一人では自転車を組み立てることはもちろん出来ない状況。お風呂に入るにしても手を貸さないといけなく、生活全般において見ておかないといけない状況だった。そんな状況でも、昭和一桁生まれのお父ちゃんは、介護の人に見てもらうとかデイセンターに行くとかはタブーで、子供の頃に「勉強せえ!」って言ってた時そのままだから、人の意見なんか全く聞かなかった。なのでずっと僕が家にいて面倒をみることになった。
自転車屋の修行は誰につけてもらうかというと、もちろんそんなお父ちゃんからだった。修行生活といえば実際に自転車の組み立てなどを、やって見せてもらうことはむりで口の説明を聞きながら僕が手を動かして覚える感じだった。ボルトだったりをどの程度の強さで締めれば良いかも言葉ではわからないのだけれど、家具屋で工具などは使っていたからなんとなく感覚的にわかっていた。
生活面では介護士の山下さんが月に一回家に来てくれて、お父ちゃんの状況をみて病院に報告するというような橋渡しのようなことをしてくれていた。どうやら馬があったらしく、誰の言うことも聞かないお父ちゃんが山下さんの言うことだけは聞いていた。さすが山下さんだなと僕は感心するしかなかった。
そんな二人三脚プラスαな生活を送っているさなか、お父ちゃんが部屋でコケてしまい腰の圧迫骨折で入院をすることになった。これで、お父ちゃんが家に帰ってきたら、動けなくなって今までよりも重度な状況で帰って来るわけだし、こんな状況がいつまで続くのだろうと思った。その終わりはお父ちゃんの寿命を意味するわけだし、予定することはもちろん出来ない、そんなことを考えている自分もどうなのかと複雑だった。
そんな状況も心境もバタバタしている中、山下さんが今の職場を離れることになり家に来ることもなくなるということになった。重なるときには重なるもんだなとは思ったけれど、今までのいろんな経験もあるからどうにかなるかと、投げやりではなく自分なら出来るという思いがあった。そんな心配をよそに、一ヶ月の入院生活を送ったお父ちゃんは弱りきってしまい、そのまま病院で息を引き取った。
自転車屋としてお父ちゃんと過ごし、生活の介護をするためにお父ちゃんと過ごすという生活を9年間続けた。小学校に入るまではなにも言わなかった親父が、突然「勉強せえ!」といいだし、なにか言えば怒られるようななか、自分なりにはそれに応えてはきた。ガリ勉と言われてみたり、進学につまずいてみたりと、自分の想いとは違うなにかに振り回されているような状況が苦しくて家を出たくてしかたがない時もあった。それで30年くらいはお父ちゃんとはまともに話もしていなかった。
2人だけの生活のあいだには、もちろん怒鳴り合いの喧嘩もしたけれど仕事を通じて気持ち的にも分り会えたように思えた。だからなぜ、あんなに避け続けて30年も空白の時間が出来てしまったのかとさえ思えた。だけど、その空白の時間のあいだに僕自身が年齢を重ね色んな経験を積み、お父ちゃんも同じように僕の知らないところで年齢を重ね色んな経験を積んだからこそ、空白の時間を埋め合わすだけの濃い時間が流れていたんだとも思う。
お父ちゃんとの関わりの中で嫌な思いだったり空虚感だったりを覚えていたんだけれど、お父ちゃんとの関わりの中で親子の関係や自分自身の生き方であったりが整ったように感じた。
自転車屋としても仕事を覚えて、あの褒めることなんて全くしなかったお父ちゃんからも褒められるようになって、お客さんにも「あの子に任しといたら大丈夫やから!」っていってくれていた。お父ちゃんをずっと避けていたこともあるし、東京に行っていた期間もあるからお客さんにしてみたら「長男さんおるらしいけど、見たことないわ!」だったり、そもそも僕の存在を知らなかったりだった。だから、何十年とこの場所で自転車屋としていきてきたお父ちゃんの「大丈夫やから!」の一言はお客さんを安心させてくれて、僕がこれからこの場所で自転車屋を継ぐことを認知させてくれたんだと思う。
※このお話は少しだけフィクションです!お聞きしたお話に基づいての物語ですが、客観性はないかもなので事実かどうかはわかりません。登場人物は仮名です。