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わたぼうしのとぶころに 六章

六章 他人の目線の奥(後編)

 写真の専門学校で教員をしていた時はとにかく野心に燃え、自分が育てたスターを世に出したいと思っていた。その当時の写真界のありかたといえば、有名な写真家が何人かいて、そういう人に教えてもらったとか、写真で有名な大学が数校あり、そこで学んだとかいう血筋というか血統みたいなものが重要だった。そして誰々のスタジオから独立しましたというようなことで偉くなれたりしていた。
 そしてそういう人たちの写真がいいと言われたりしていた。そういった大御所も確かにいて、確かにいいんだけどそういう価値観やその人たちが撮っている写真が最高かというとそうでもない。写真にはいろんな表現があっていいと思っていたから、そんなありかたの写真界をひっくり返したいと思っていた。大阪には一つの有名な写真の専門学校があって、そこと勘違いされることも多いような、名もない大阪の写真の専門学校で、本当に無名で名前を言ってもどこって言われるよう学校だった。そのような専門学校からスターを生み出し、写真界をひっくり返すようなことをしたいと思っていた。写真の専門学校ではやはり技術よりも表現の分野を担当していた。
 できるだけ前の新聞社での経験での「見る目」を活かし、生徒それぞれが撮るべきものを見抜き、一緒に作品を作り上げた。そして作品が出来たらそのプロモーション活動もした。有名な写真家や評論家がウケそうなコンテストへ行って作品を見てもらったり、学校に講師として来てもらい授業をしてもらい、生徒の作品も見てもらうようなことをしていた。そして「いいでしょう!」と言いながら見てもらい「いい!」と言ってもらっていた。そういうことをして生徒達が世に出ていくときには「あっ、あのとき見たあの子やね!」といわれるような認知度で送り出してあげたいと思っていた。学校は無名だったけれど、学校の看板で色んな人に会うことが出来、普通なら会うことが出来ないような人にも会うことが出来た。

 そしてその成果は結果というカタチで現れた。ある女子生徒が専門学校からはじめて「木村伊兵衛写真賞」という、日本でもいちばん有名な写真の賞の一つで若手作家の登竜門と言われている賞を受賞した。その二年後にも男子生徒が受賞し、2人ともオレの研究室の卒業生だった。そのコトで自分のやってきたコトの確証が得れた気がして心の中でガッツポーズをした。彼らの作品は今までの写真の価値観とは全く違う分野で、それを評価する目というものがその当時の写真界にはなかった。そんな中、そのような有名な賞を取るということは、ある意味写真界でも革命だった。そして彼らが賞をとったことで彼らの作品は爆発的に世に知られるようになり、今まで写真を知らなかったような人が、写真に興味を持つようにもなった。写真はそんなに好きじゃないけど、彼女の作品は好きだったり面白いという声を聞くようにもなった。ちょうどそのころからインターネットの普及とあわせてなのだろうか、写真を撮る人も急に増えたように感じた。
 もうひとりの男子生徒の作品も例外ではなかった。彼の作品は記念写真で作品性ということでは、あまり認められてなかった。人の生活の中では必要だと浸透してる記念写真だ。家族写真や七五三、成人式。旅行先で「記念写真を撮りました!」というようなモノ。それが彼の作品なんだっていうようなことをカタチとしてやったのだ。
 オレの授業の中で自分というものを、たった一枚の写真で表現するとしたらどうする?というような課題があって、その時に彼が考えたのが自分の家族に起きた過去のエピソードを家族で演じて再現し、記念写真のスタイルで撮ったものを課題提出としてきた。そのスタイルの写真が何枚かあったんだけれどその中の一枚をオレが強くプッシュしたモノが、その年の年末の学校長賞を受賞した。そしてそこから彼はそれをライフワークとして家族で演じて撮るという記念写真をどんどん撮りためていった。
 彼が研究生になる前に、当時オレの作品として記念写真を取っていて、生徒一人一人にモデルになってもらっていた。その時の一枚がパーティーをしているときの、ある一瞬を演出しているような記念写真があるんだけれども、そこに彼も写っていてここから発送を得たかどうかはわからないけれども、このあとオレの研究室で作品を作っていく中でこういうスタイルをとるようになっていった。
 彼がそういった記念写真を撮りためたものを写真集としてある出版社から出版されて、それが受賞をした。家族の記念写真で「木村伊兵衛写真賞」を受賞するというこが話題性としてはすごくて一躍有名になった。いろんな所で仕事をするようになり、ファッション雑誌や情報誌の表紙にグラビアなどを撮るようになっていった。取材を依頼されたり、都道府県のイメージ写真撮とってほしいと言われたり、あの有名な「ゆるキャラ」だけの写真集を一冊撮ったり、新聞にコラムを連載したりするようになった。時代的に世の中が家族とはなんなんだろうか?というようなことを考えていた時期と重なったのだろうか。
 そして写真集の巻末に「家族写真撮って欲しい人連絡下さい」と携帯番号とメールアドレスを記載し全国どこでも無料で記念写真を撮りに行きますと書いていた。そしてその写真集が受賞してしまったから全国から問い合わせが殺到して、何千とバックオーダーを抱えてしまうことになってしまった。無料でやっていることだから仕事もしながら問い合わせのあったところへ行き、取材をして話しを聞き、「このようなシチュエーションで撮りましょう!」のようなカタチで撮っていっていた。そしてそうやって撮りためた作品が一冊の写真集になったりしていた。
 家族写真というものが彼の作品というイメージができ有名になったころに、東日本大震災が起きた。彼はいてもたってもいられなくなって現地に行き、何をすればいいのか?カメラを持っていっていいのか?なにもわからないけれど、とりあえず行ったみたいだ。
行った先では写真を津波のあとの瓦礫の中から拾ってきて、洗浄したものを本人に返すというボランティア団体があり、そこに参加してとにかく写真を回収してきては、洗浄してアルバムに入れて写真の当事者を探して返す。掲示板などに張り出し探して見つけては返すというようなことを繰り返していたようだった。
 その写真1枚1枚に写ってる家族の風景というもので、震災で失われてしまった時間と人との関わりを返せたときに感じた喜び。写真を手渡した人達が「おばあちゃん、ここにまだ写ってた!ありがとうございます。」といわれて感謝されたときに、彼は家族写真を撮り続けてきた意味ってココにあったのかなと感じたようだった。
 専門学校在学中にパチンコ・パチスロばっかりしているようなヤツに、「作品を撮れ!作品を撮れ!」と言い続けて撮らせて、ひねり出すように作らせた作品が、今そういったカタチにまでなった。そんな二人が写真の専門学校でのオレの一つの成果かな。


七章へつづく


※このお話は少しだけフィクションです!お聞きしたお話に基づいての物語ですが、客観性はないかもなので事実かどうかはわかりません。登場人物は仮名です。

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