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わたぼうしのとぶころに 九章

九章 手からこぼれ落ちる瞬間

 山下さんは最初からクリスチャンになるようにとは勧めてはこなかったのだけれど、何年かしてから「そろそろ、どう?」というようなことを言ってきた。洗礼のことだ。
 オレも聖書は読んでいたけれど信仰ってなんなんだ?洗礼を受けるということはどういうことなのか?なぜ洗礼を受けなければいけないのか?洗礼を受けるとどうなるのか?神様を信じるということはどういうことなのか?聖書に書いているお話は読んで理解できるけれど、言葉そのものを実感としては持てていなかった。
 聖書に書かれているような不思議なことが起こるなんてことも半信半疑で、本当に人が死んで復活するなんて事を受け入れろと言われても。。。人類の一番最初にアダムとイブがいましたみたいなことも、お話として受け入れることはできるけれど、事実あったことだと言われると素直に受け入れることはむずかしかった。
 だけども、そういった目には見えないようなわかりづらいところを超えるために、洗礼があるんだなっていうことを段々と感じ始めていて、そろそろ考えてみようかなと思っていた。そうはいったものの、なかなか踏み切ることが出来ずにはいた。オレの家系も代々仏教ではあったし、家内にも言い出すことが出来なかった。友達にも洗礼受けたというと、どのようなことを言われるのだろうか?いろいろな約束ごとや規律とかがあるのか?そのようなことを考えていた中、家具屋としての商売がだんだん右肩下がりになってきていた。
 自分のやりたいことでは収入を得ることが難しいと、だんだん現実がわかりはじめていた。ちょうどその頃、景気も悪くなり仕事も減って当然収入も減り、先のことを考えるようになっていた。
そしてついにタイミングがきたのだろうか?山下さんからも、だんだん苛立ってきたのだろうか少し催促のような雰囲気が伝わってきていた。「もう少し考えさせてください!」と言っていたのだけれど、この日だというのがぱっと思い浮び「やります!」といって、山下さんに奈良の室生の山奥の川で洗礼をおこなってもらった。
 洗礼を受けた日の、ぼぉっとしてる頭で家へ帰ってきて、「受けちゃったなぁ」って思いながら、ふと庭から空を見上げると月が出ていた。そのときの月のかけかたは、オレの生まれた日の月齢だった。「わっ神様おるはコレっ」と思った。「わからん、わからん」と言っている頭の悪いオレにどうやって伝えたらいいんだろうかと思ったのだろうか。何気なく受けますといったその日が、1/29に巡ってくるオレの生まれた日の月齢だった。
 人からみると暗示のようなものに見えるかもしれないけど、体質も変わった。例えば味覚だけれど、今まで絶対美味しいと思っていたものが全く美味しくなくなってしまった。精神面で言うと家具屋をしてる時は「自分が売れたい!」「いい家具を作りたい!」「有名になりたい!」のように自分の技術など、自分、自分、自分、だったのが、まったく興味がなくなってしまい「お金」も「技術」もいらない。こういったものを自分で大切に囲っていても、なんにも価値のあるものに思えなくなった。本当は良くないのだけど、いい仕事をしたいとも、仕事したいという欲求も全て手放してもいいと思った。大好きだったバイクいらないと思うようになった。 本当にスイッチが切り替わったような不思議な感覚だった。


十章へつづく


※このお話は少しだけフィクションです!お聞きしたお話に基づいての物語ですが、客観性はないかもなので事実かどうかはわかりません。登場人物は仮名です。

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