わたぼうしのとぶころに 十三章
十三章 答えのないコタエ
自分で色々と考えてみた結論としては、今のままでいいということだった。「満たされてるやん!先生でもあるし、生徒もいる。」確かに一年で卒業させるということは、どうにも出来ないし、卒業後のことは自分で頑張ってもらうしかないけれど。給料ももらうことが出来て、家庭も趣味ももっている。やりたいことということであれば、今で十分だと思った。そうなんだけど人前に出て「どうしたい?」と聞かれると思っていることを勢いに任せて大風呂敷を広げてしまい「こうでなきゃ」と熱弁してしまう。
新しい学校を誰かにさせてもいいかなと考えてみたけれど、誰かにさせるとなると嫉妬して、オレがやりたかったと思うかもしれない。
自分にまだそういった欲求があったということ、「捨てたんじゃないの?」と自分で思うところもある。やりたいことや手に入れたいってものが見えてきたときに、「誘惑じゃないのか?手放さなあかんのじゃないのか?」とも思う。それは信仰があるからかもしれないけれど。代わりに俺を運転してほしいとも思う。
新しい学校以外にも満たされることが、もっと必然的なことがあるのなら知りたいと思っているし、そういうモノがどこかにあるのではと思っているところもある。だけどまた大風呂敷を広げるようなことをやるのかとも思ってしまう。また同じ失敗、同じ悩みを生き直すのかとも思う。だけどこのままいくと、周りの人はオレが学校の改革をしていくんだとみんな思い始めるだろう。もしかするともうその状況で、やらざるを得ない状況になりつつあるとも感じている。最終的にはこういう迷いを捨てきれるかどうかということなんだろう。迷いながらも絶対に優先したいことは自分が関わった人、つまり教え子たちが幸せになる方法を取ることでしかない。
その方法を取りながら家庭も維持できれば十分だなと思う。オレが父親に対して感じた不満を自分も家族に感じさせてしまうのか?自分のやりたいことしか見えなくなって視野が狭くなり、距離はあるかもしれないけれど家庭は崩壊せずに一応家族という意識を維持はされている。「それでいいの?自分も結局そうなるの?そのせいでいっぺん離婚もしてるやん!」と、やはり離婚に対する罪悪感があって、そういう自分のやりたいことと引き換えにしてしまったのかなと拭いされないでいる。成果も出せた、一応いろんな人脈もできた、仕事が認められて自分の育てた生徒が活躍するということに喜びを感じつつも、引き換えにしたものというのが、「傷」として残ってはいるのだろう。そういったことへの恐れということもあるかもしれない。学校の改革だったり、新しい学校だったり、そうならざるを得ないならそうしようとは思っている、もうこれだけたくさんの人に話してしまって、動き始めるならそうするだろう。
今確実にオレの言えることは
キミが自分のわたぼうしで風をつかまえて
飛んでいったところで花を咲かすことが出来るように
オレは今日も見てきた世界をキミに魅せておくよ
そして飛び立ったさきでキミが見た世界を教えて欲しい
それをまたキミの後輩たちに伝えたいと思う
そして
これからも立ち合い続けるよ
わたぼうしのとぶころに
おわり
※このお話は少しだけフィクションです!お聞きしたお話に基づいての物語ですが、客観性はないかもなので事実かどうかはわかりません。登場人物は仮名です。
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