共感と本質的な理解は別だと思う話 -『Orange』須和への共感から


相手の気持ちや思考の流れを理解すること、相手の話を聞いて“共感”すること、自分自身が相手と近い状況を経験した上で自分と相手を重ねること、全ては別物だと思う。

人の話を聞いて『共感』しているのは事実

人の話を聞いて、自分のことのように悲しくなったり、嬉しくなったりする。
これは自分でどうこうできるものではなくて、自分自身の性質や性格、感性によるものだと思っている。
だから、その時起こる感情が嘘だと言いたいわけではない。その点は紛れもない事実だ。

けれどこの時に『相手の立場に立って考えて』相手と同じ気持ちになる、というのは、的を得ているようで、少し違う気もする。

相手の立場に立つってなんだろう。
相手と同じ状況になったことがあったり、同じ立場を経験したことがあったのなら、その時のことを思い出して、自分と重ね合わせることは可能だろう。こちらは、限りなく相手の立場に近い場所に立って考えられるのだと思う。(私はこちらを“本質的な共感”と考える)

でも、自分が経験したことのないことを、いくら相手の立場に立とうと、相手の立場を想像し、自分に投影したところで、あくまでそれは“想像”でしかない。
物語の主人公の気持ちに感情移入するように、あくまで自分とは違うところにいる人の存在にに自分を重ね合わせているだけで、それは本人の感じていることとはほど遠いのではないだろうか。

そりゃ、相手に何言ってんの?なんで悲しんでんの?そう思う人、相手の感情が理解できない人、それを言ってしまう人、よりは、相手に近しい感情を持ち、近い立ち位置にいるのだと思う。
(※この相手の感情が理解できない、も、持っている感覚や育った環境、価値観の土台が異なれば、本人の意思や性格に関係なく起こりうることだと考えていて、ここでそれを悪いと言いたいわけではないし、そうは思っていない。)

自分は経験したことがない事象だけれど、大切な誰かが悲しんでいる。
そんな時、『相手が悲しんでいる事実』に悲しくなり、相手の立場を“想像”して、自分を投影することで同じく悲しくなり、その感情が自分の感情として表に出てくる。

これ自体は本当に自然なことだと思うし、現実に、私自身もそうだ。
共感するつもりはなくても、自然と自分を投影して涙が流れたり、喜んだり、怒ったりしてしまう。(もちろん表に出すのを必死に抑える場面もあるけれど。)

でも、どこまでいってもそれは“想像”だ。
相手の感情に寄り添えていることと、相手を救えていることと、相手に本質的に“共感”していることは、全部別物だと感じている。

自分の過去の共感が薄っぺらい紛い物に感じた出来事

この考えに至った明確な経緯がある。

経験に基づいた共感と、感受性に基づいた共感は、本質的に違いすぎて、気づいた時には愕然としたし、過去の『共感している』と思っていた自分を一時は恥じたし、それに気づかなかったことをひどく後悔した。

『Orange』の須和の選択

中学生の時だったか、高野苺さんの『Orange』という作品を読んだ。

※ネタバレを最小限に抑える為詳細は伏せるが、それでもネタバレになってしまったら申し訳ない、前情報0で読む予定の方は漫画を読んでからこちらを読んで欲しい。

高校二年生の春、菜穂の元に10年後の自分から1通の手紙が届いた。
そこには、これから起こる未来の出来事と、
自分とは同じ「後悔」を繰り返さないためにとるべき行動が書かれていた。
初めはイタズラかと思ったが、書かれている事が次々と起こるので次第に手紙を信じるようになっていく菜穂。
そしてこの手紙の目的が、同級生の翔を事故死から救うためだと知り、菜穂は翔を失わないために、自分を変えて未来を変えようと努力していく。

原作サイト あらすじ より(https://www.futabasha.co.jp/introduction/orange/pc/)

あらすじの通り、この物語は「翔」を救う為に進んでいく。

この作品では主人公達が過去(主人公達からしたら現在)を変えても、手紙の送り主のいる未来は変わらない。世界線が分岐するだけの、いわゆる「パラレルワールド」の設定が採用されている。

それでも過去を変えたいという思いの上で、未来から手紙が送られてくる。

主な登場人物は6人。女の子3人、男の子3人。

登場人物それぞれ葛藤があるのだが、今回はその1人の『須和』という男の子に焦点を当てる。

須和は、ずっと昔から主人公のことが好き。
そして、手紙によると、翔がいない未来の須和は、大好きな主人公と結婚している

しかし、“今”の世界で、主人公は翔に惹かれていて、両思い。(本人らが気づいているかは分からないが須和は気づいている)
翔を生かす未来に分岐させた時、おそらく未来で主人公の隣にいるのは、自分ではなく翔になる。

手紙の送り主の未来の自分は、
最愛の人と結ばれる確実な未来を分かった上で、それを変えろと言っている。

作中では、須和は好きな人の幸せを願うこと、親友を救わない選択肢はないこと、たしかそんな理由で、結局須和は未来を変えた。

当時この話を読んだ時、とても辛い選択だと思った。
親友に死んでほしくない。でも、親友を生かせば、自分は誰よりも好きな人と結ばれることはない。
そして、主人公と須和が結ばれる未来がある、その事実をしっているのは、須和だけ。
誰にも辛さを知られぬまま、墓場に持っていくしかない。

SNS上でも、須和は本当にいいやつ、そんなコメントをたくさん見た。
私も、須和は本当に良い人で、優しい人だと感じていた。辛い選択で、人の幸せを願った良い人だと思っていた。
自分が同じ立場だったとして、親友を殺すと分かっている方を選択することなんてできない。だから、私も同じ方を選ぶだろうとも思った。

そう、須和に“共感”したつもりでいた。

でも、自分が須和により近い経験をした時、その考えはガラッと変わってしまった。

須和と近い立場になって

須和と同じ頃、大切な友達が亡くなった。

1ヶ月経ったら、半年経ったら、1年経ったら、苦しくなくなると思っていた。
普通の日常ー友達が亡くなる前の日常ーが戻ってくると思っていた。そんなわけないのに。
目に映る端々や出来事、日差しを手で仰ぐその動作でさえ思い出が勝手に蘇って、ふとした時に前のように彼女に話しかけようとして、いないことに気づいて視界がぼやける。
そんなことの繰り返し。今も書いていて涙が出てきた。書けば書くほどまた湧き上がってきてしまうので詳細は省略する。

とにかく、感じる全部が知らない感情だった。

友達が亡くなる人の話は本で読んだことも、ドラマで見たこともあった。そして、その度に主人公に感情移入して泣いていた。

なのに、知らない感情だった。
あの時“共感”していた私の中に、こんな感情は一つもなかった。

須和の優しさは自分の為

数年経って、毎日フラッシュバックするようなことは無くなった頃、ふと『Orange』のことを思い出した。

彼らの話は、今の私に近いのかもしれない、とも少し思った。

そして、須和と、彼に対して自分が感じていたことを思い出して、違和感を感じた。

須和は、優しい選択をしたと思っていた。
でもそうじゃなかった。
須和に選択肢なんてなかったんだ。

大事な友達が亡くなってしまう。
事情がどうであってもものすごく、言葉に表せないほどの悲しみと苦しさを感じることで、明日もいるはずだった彼・彼女がもういないことで言いようのない寂しさに襲われるし、些細なこと含め全てを思い出して、全てに自分の責任を感じて、何か出来たことはなかったのかと毎日自責の念に駆られる。

一生、心に重い圧をかける出来事なのだと思う。

その人の存在や思い出が大切であればあるほど、『その人がいない世界』を生きなければならないのはとてつもない苦しさだ。

そして、私個人の状況の詳細は伏せるが、私の場合はいくら自責の念に駆られても、もう過去のことは変えられないし、友達は生き返らない。

でも、須和は。
須和は、今の自分の行動を変えることで、自分で翔の生きる未来をつくることができる。

そんなの、もう選択肢なんてない。
自分の大切なもの全てを引き換えにして、親友を生かしますかと聞かれたとしても、はいと言ってしまうかもしれない。
主人公の隣にいるのが自分じゃなくなる?そりゃ、辛いだろうし苦しいだろう。切ないなんてもんじゃない。

でも、それを回避する為に、翔を救うのをやめてしまったら?
今の須和は『自分が翔を殺す選択をした』という、思い込みではなく、動かぬ事実を背負って生きていくことになる。比べ物にならない辛さだ。
主人公を大切に思い、親友も大切に思う須和が、そんなことをできるだろうか。正直そんな選択をしたら、心が壊れてしまうんじゃないか。自分が生きていることに後悔するかもしれない。
翔を失った苦しみはもちろん、苦しいなんてものじゃないとてつもない自責の念に襲われ続けることになるだろう。


過去に戻ってでも、神に縋ってでも、自分の大切なものを差し出してでも、大切な友達が生きる未来を選びたかったと思ってしまうのに、
今この時の自分の選択で未来を変えられるのなら、変えない選択肢なんてない。

翔の未来を知った時点で、須和には翔を救う選択肢しか残ってなかったんだ。

そしてそれは、翔のため、主人公のため、皆のためでもあるけれど、それ以上に自分の心のために、そうするしかなかった。

未来の須和は、未来を知らなかったからこそ、いわばたらればの後悔だけれど、今の須和は自分が未来を知った上でその選択をしたという事実を分かった上で生きることになるから、その辛さは比にならないとも思う。
そう考えると、未来の須和もなかなか辛いことをしてくれるなと思う。
でも、未来の須和は、愛する人と結婚する未来を捨ててでも救わなければならない、そう思っているからこそ手紙を送ってきていて、そしてただ翔を救えと伝えるのではなく、未来の事実も伝えることで、その後悔の深さを過去の自分に伝えたのではないだろうか。
未来の須和は、自分なら、その辛さよりも翔を失う辛さの方がよっぽど大きいこともわかっていて、今の須和もそれを理解して、翔を救いに行ったのだと思う。

須和が優しい人であるのは事実だ。
自分よりも、大切な主人公と翔の幸せを願っているのも事実だろう。

でも、翔を救ったのは、良いやつだったから、だけではないと思う。

友達のが生きる未来と、好きな人の隣にいる確実な未来。
そんなの、天秤にかけられるものじゃなかったんだ。

友達の死を経験してやっと、そのことに気付いた。
そして、私は須和に“共感”して、その気持ちを分かったつもりでいたけれど、本質的には何も理解していなかったのだとわかった。

ちなみにこの時、Orangeを改めて読み返すことはできなかった。

日常を過ごす為に抑えていた感情が、押し殺している苦しみが、彼らの物語を読むことでまたダムが決壊するように溢れ出てきそうで、そしたらもう生きていくことができない気がしたから。

だから、今を生きる為に私は本を改めて読むことはできなかったし、今も読めてはいない。

『共感』と本質的な理解は別

“共感”していると思っていても、それはあくまで私の経験に基づいて、そこを判断材料にした上で、相手の立場に自分を投影して感じていることで、
相手の立場に立てているわけでも、相手を理解できているわけではない、
というある意味当たり前のことを、この経験でやっと理解した。

だからといって、先述の通り、自分の“共感”が偽りの感情というわけではないと思っている。
それはそれで事実で、話を聞いたり、読んだりして相手の状況を断片的に知った自分が、相手に自分を重ねていつのまにか感情まで重ねてしまうのは、どちらかというと無意識の行動だから。
自分が嬉しくて喜んでいるのと、友達が嬉しいと感じているのを見て自分も喜ぶのとは、私にとっては同じことだからだ。

ただ、相手に“共感”して、一緒に悩んでいく中で、自分が相手と同じ感情をもち、同じ感じ方をしていると思ってしまうのは危ういことだと考えるようにもなった。

自分が相手の気持ちを本質的に理解しているわけではなく、あくまで自分がそう感じているだけなこと、それでも自分は自分なりに寄り添おうとしていること、それを分かった上で、過ごしていかねばならないなと思っている。

追記

考えていることをつらつら書き始めたら、どうにも話がとっ散らかってしまう。
頭の中に樹形図のように関連して広がる思考のどこを摘み取り、文章にするのが最適なのか、未だ掴みきれていない。
Twitterで書くには長すぎる、けれど話をいくつかに分岐させるという意味ではその方が良いのかと思いつつ…
いっそのこと、ブレインマッピングみたいな書き方のできるSNSがあれば良いのになと思う。

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