物質的には過保護で、精神的にはネグレクト

私の育ちを表すなら、このタイトルに尽きる。
物質的なリソースは、この上なく、無尽蔵に費やされた自覚がある。いわゆる「文化資本」みたいなものだ。
いっぽう、「社会資本」はどうだったか。この記事で書いた通り、私は親から人間関係を教えてもらえなかった。いや、教わったこともあったのだが、ENTPの悪い面を凝縮したような、批判的かつ自分本意なものしか教わらなかった。

このアンバランスさが、今の自分の歪みに直結している。

育ちが良いか、悪いかと聞かれれば、けして悪くはない。むしろ日本社会でも上層にいると思う(奢りではなく事実なので、許して欲しい)。なのに、それに見合うだけの人格が形成されていない。周りと健全に関係を構築し、長続きさせ、自分も周りも幸せにしていく、そんなヒト社会の営みに参加することが出来ない。

中身が歪んでいるのに、傍目から見るとそれなりを取り繕えてしまっているし、人生に決定的な危機が訪れていないのも、歪んだままこの年まで生きてこれてしまった原因かも。誰に対しても気さくだし、よく笑うし、飲み会や会社の遊びにも必ず参加しているし。でも、何もかも表面だけだ。近くなればなるほど自分本意な部分が隠せなくなり、最終的には相手との関係を自分の手で破壊してしまう。

やはり思い返してみると、親から受けた精神的なネグレクトが、重く重くのしかかっているように思われる。
母に対して、全てを預けられるような気持ちで甘えたのはいつが最後だったか。私が覚えている一番古い記憶は、母が車中で寝ている私に父親への呪詛を吐き続けている場面だ。母はストレスが限界を迎えると深夜に車で遠出することで逃避した。幼い私を一人にできないので、私を後部座席に寝かせて、夜な夜な国道を飛ばす。今思うと身体的にも虐待では…?と思ったりしないでもないが、二十代半ばの子持ち女性が自分一人でストレスを発散する方法として、それしか無かったんだろう。

私に自分の部屋が与えられるようになると、母は週に一度は夫婦の寝室から逃げてきて、私の横で眠った。父と喧嘩した後でグシャグシャに泣いている母は、私を抱き枕のようにしてそのまま眠りにつく。そんな母を見ても、Fe劣等の私は母の気持ちに寄り添うことが出来ず、ただただされるがままになって眠りについた。

大人になって言えるのは、子供は子供を作ってはならないということ。私の精神がある程度はまともに育成されたのは、おそらく週末に祖父母宅に預けられていたから。祖父母には比較的甘えることが出来た(それでも、小学生の後半になるころは祖父母にも敬語で話していたけど)。

子供に子供らしくいさせるというのは、親にとってはかなり難しいことなんだろう。でも子供には「ホーム」が必要だ。物質的にどんなに恵まれた環境を与えても、精神的に甘えられなかった子供は、いずれどこかで壁にぶつかる。私にとっては今がそうだ。

ばいばい。

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