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100万回の「やめなさい」を君に

ご無沙汰しています。米田です。

子供たちの通う保育園にて陽性者が出たため、久しぶりの自宅保育にてんやわんやしています。
久しぶりに二人を連れてお散歩をしたら、ビックリするほど落ち着かない気持ちでした。たった数百メートル歩こうにも、一人で何キロも歩くより何倍も疲れますね。毎日向き合って過ごされている方、本当に偉い。

今日はそんな今の私の気持ちを記そうと思います。


子供たちの目線の低さと彩度の高さ


皆さんは、最後にしゃがんだまま空を見上げたのはいつですか?

カメラを趣味にされている方や、元々色んな角度から世界を楽しんでらっしゃる方は、近く記憶があることかもしれませんね。
私は少し捻くれた子供のまま育ってしまったので、物心ついてから自分の子供が産まれるまで、一度もそんなことをした記憶がありませんでした。
子供が二人になり、最近になってやっと少し手を離して遊ぶことが出来るようになったので、つい昨日、久しぶりに目線の高さを合わせてみたのです。

すると、どうでしょう。
遠く見える空や雲や飛行機や、足元の枯れ葉や木陰が、いつも自分が見ていたものよりもずっと特別なもののように見えたのです。
空はどこまでも広く大きく見えるし、カマキリやアリは今にも噛みついてきそうな怖さがある。駅もスーパーもタクシーも、随分大きく立派に見えます。
虫眼鏡で拡大したわけでも魚眼レンズをかけたわけでもないのに、私が視線を向けた対象物が、ググッと私を引き寄せてくるのです。

なるほど。これは子供たちの気が散るわけだわ。

散歩に行っても十歩歩くまでに何分もかかる子供たち。
あまりにも進まないのでイライラしてしまうことも多かったのですが、やっとその理由が少し理解出来ました。
目線が低く、自分と物の距離はずっと遠いはずなのに、何故か全てがキラキラして見える。写真の彩度を極限まで上げたような世界が、そこには広がっていました。



子供が見ている虹色わくわく王国


家の弊や足元のブロック、ちょっとした段差は、乗り越えるだけで自分が強くなったような気持ちになる。
道路の白い線を踏み外して黒いコンクリートに足を置いたら、ワニやピラニアが飛び出してくるかもしれない。
虫たちは話せばわかる友達で、風や鳥たちは手紙を届けてくれる働き者ばかりかもしれない。

なんだそりゃ、面白そうだなぁ。

子供の発想、馬鹿に出来ません。面白い。
こんなに豊かな人生はないと私は思います。
目に見える全てがカラフルで、好奇心をそそり、興味を煽ってくる要素に溢れている。子供たちは今、そんな国に住んでいるような気がするのです。

キラキラしていて、何をしても面白い。
出来ないことも多いけれど、何でもやってみたい。
悔しい思いをしても、それでもやってみたい。
「だから言ったでしょう」と繰り返されても、負けられない闘いが、そこにはある。

だけど自分以外の誰が泣いていても、そこには共感よりも、強い探究心が働いてしまう。



子供あるある「やめない」


いつだったか、人間の目は焦点は一つにしか絞れないと習ったことがあります。私の子供たちは特に、視界と焦点が直結している感じがします。

何度言ってもやめない、とまらない。

物を壊せば楽しい音がする。だから壊してみる。
キッチンに入れば美味しい物がある。だから忍び込んでつまみ食いをしてみる。
自分がアニメの主人公の真似をすることに夢中。だから誰が泣いていてもしつこく続けてしまう。
ママは怒ると変な顔になる。だから怒られていても面白くて笑ってしまう。

ママ、もう「キーッ!」ってなるよ!

でもそんな宣言をしたところで面白いだけなんです。
こればかりは繰り返し言っていくしかないんですよね。
怒りすぎはよくない。怒るんじゃなくて叱らなければ。
わかっちゃいるけどやめられない。
結局それは循環で、お互い様なのかもしれません。


越えてはいけないボーダーライン

子供たちからすれば、私からの「やめなさい」は、大人で言うところの突然の水道管工事やガス管工事のようなものなのだと思います。面倒な迂回なのです。
自由な発想で築かれたわくわく王国に突如として推し進められるやめなさい工事は、邪魔でしかありません。
けれど、私も譲ってはいけないものがあります。

人を傷つけること
法を犯すこと

それだけは絶対に許されないことなのだと厳しく伝えています。それこそ刷り込みなのかもしれませんが、何でもない会話の中にもそれを織り交ぜて過ごしています。
ブレてはいけないのはそこで、逆に言えば、他のやめなさい工事には必ず抜け道があるのです。


やめなさい工事とは結局なんなのか

やめなさい工事。それは結局のところ、ただの親心
そして親のエゴだと思います。

怪我をして欲しくない。傷ついて欲しくない。誰かに傷つけられないようにしたい。出来ることなら穏やかに成長していけるようにしてあげたい。
本当は心配で、何よりも大切だと思っている。だから先回りしてあれこれと世話を焼いて整備工事をする。

うーん、やりすぎかも……?

愛情は大切でしょう。けれど、必要以上のことまで囲って温室で育てることは、本当に必要なのでしょうか。
家庭それぞれの色があると思います。あくまでも個人的な話になりますが、下の子が産まれてから、上の子の神経質さは私の過剰なやめなさい工事による影響が大きかったと気づき、軌道修正をしました。
親心ってなかなか本人たちには伝わらないことだったりします。「やめなさい」だけを頭にこびりつかせて何をやる気力や自信を失わせていては、全く意味がない。

何のでこぼこも砂利道もない整った道路だけを歩くことは、果たして子供にとって楽しいことなのか?
わくわく王国はどうなってしまうのか?


自分自身が迷った時はそう考えて、越えてはいけないラインだけを基準に判断するようにしています。



親も人間だというのは、自分が親になってみてやっと、じわじわと身に染みるようにわかってきたことです。
親心はエゴの塊でもあると思うので、いつか大きくなって色々なものを見たくなった時は、どうか「やめなさい」を振り切って、「うるせーな」と言って欲しい。

きっと傷つくだろうし喧嘩もするでしょうが、その溢れんばかりのエネルギーを注ぎ込んで、自分の道を自分で見つけていって欲しいと願っています。

まだまだ小さな子供たち。どんな道を行くのか、はたまた城を築くのか、未来は誰にも予測出来ません。
私はそれを楽しみに応援しながらも、やめられないとまらない「やめなさい」を、今日も子供たちに向けて語りかけるのです。

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