自分が自分の親になろう
noteでよく読ませていただいている 伴走者ノゾムさんの記事に、「自分を育てなおす」という表現があった。
https://note.com/namidanoz/n/n415759246e72?sub_rt=share_sb
自分との向き合い方を模索する中で、なんだすごくしっくりきた言葉だったので、今の考えを整理するために書きたい。
私はたぶん、ヤングケアラーだった
私は、母に気を使って生きてきた。
幼少期の記憶があまりないので、もしかしたら自分で捏造している部分もあるかもしれないが、大人になった今もなお、他の人よりも母に気を使うということは、きっと、多少なりともそうなのだろう。
私が小中学生頃まで父の帰りも遅かったので、母は私と妹の育児を一人で担っていたはずだ。また、私が中高生頃には、母は自身の母親を家に引き取って介護まで買って出た。それらは事実だし、それでも私たちを衣食住に困らず育ててくれたことに感謝したい。
母の栄養満点のご飯は、とても美味しかった。朝食を持たせてくれたり、昼や夜の弁当を作ったり、毎日三食しっかり食べさせてくれたことは、今の私には真似できそうもない。
母はおそらく、他人のために頑張りすぎた。
だからだろう、母の不機嫌な様子や、父と母が口論している姿が記憶に残っている。
私は、これ以上、母が困っている姿を見たくなかった。母に苦しい思いをして欲しくなかった。私が母の要望に応えないことで母が失望したら、自分が一番傷つくことがわかっていた。
だから、祖母の介護も一生懸命手伝った。我儘な祖母だったから、嫌なことも沢山あったけど、頑張った分だけ母の負担が減ると思って、頑張った。家族が困っていたら、家族で協力して乗り越えるのは当然だと思っていた。
学校では良い成績をとって奨学金をもらったり、大学は国公立を目指して、少しでも家計を楽にしたいと考えていた。
ファミレスではいつも1,000円を超えないように、メニューを選んでいた。
大人になった今、思う。そんな私の心のケアは誰がしてくれていたのだろうか。
母は、私を甘やかしたと思っている。
私は、母に甘えた記憶があまりない。
母は、昔から、そして大人になった今も、私や妹に対して
「甘やかしすぎたから、こうなっちゃったのよね(笑)」とよく言う。
こうなっちゃった、の意味を母に確認したことはない。わざわざそんな波風の立ちそうなことをしようとも思わない。多分、自分で何もできなくなっちゃった、という意味なのだろう。
果たして、私は甘やかされたのだろうか。
確かに、学校や習い事への送迎にたくさん時間を使ってもらっていた。自宅が人里離れたところにあったからしょうがなかった。それに、私から頼んだ覚えは、ない。
果たして、私は何もできない大人になっちゃったのだろうか。いや、仕事も家庭もあって、社会的には自立している。一体、私のどこが悪いのだろうか。
母は、私を甘やかしたと思っている。
しかし、私は手放しで甘えた記憶はあまり無い。
でも、甘えたいときに我慢した記憶は、ある。
“自分を大切にする”と“甘え”の違いはなんだろう
「自分を大切にした方が良いよ」と、妊娠出産を経て聞く機会が増えた。
しかし、自分を大切にしようとすると、「それは、甘えなんじゃないか?」という問いが私の頭をよぎる。
“自分を大切にする”と“甘え”の違いは何だろうか。
私はこの疑問によくぶつかっていたが、ずっと答えを出せずにいた。
妊娠中に体調を崩し、人生で初めて休職したときも、どこまでが“自分の身体を大切にすること”で、どこまでが“甘え”なのかが分からなくて、上司に何をどこまで頼っていいのか、非常に戸惑った。
ただ、貧血で身体が言うことをきかなかったから休むしか選択肢がなくて、そのどうしようもない状況がやっと、私に休むことを許してくれていた。
現時点での、私の“自分を大切にする”はこんなイメージだ。
自分という乗り物を継続的に乗りこなすために、自分をメンテナンスすること。
自分という、デコボコして全然上等じゃない乗り物を乗りこなして生きていかなきゃいけないから、その乗り物なりのメンテナンスを見極めて、定期的に行う必要がある。
これが、休職や命がけの出産、ワンオペ育児を経て、無理をしたら生活を継続できないということを肌で感じたことで生まれた、いまの私の答えだ。
けれど、未だに、“甘え”は何なのかよく分からない。
ネットで「甘えとは」と検索したら、「対人関係で特別な、節度を超えた愛情や信頼を表現することをいう。」と出てきた。
“甘え”という言葉には他人からの視線を感じる。「自分に甘い」という表現も、多くは第三者がその人を見て言うセリフだろう。
甘えとは、おそらく他者から見て、「節度を超えて」誰かを頼ること。甘えと言うかどうかは、他人様が判断する“程度の問題”であって、最終的には他人の主観による、非常に曖昧なものなのではないか。
私は、母から見ると、節度を超えて、母を頼っていたのだろうか。
憶測だが、母は、私たち子供に甘えられることが、嬉しくもあり、また、羨ましくもあったのだと思う。
子育てを通じた私の実感から想像するに、母は、甘えられること、そして甘やかすことで、自分の存在意義を確認していたのではないか。
ただ一方で、母自身が甘えられなかった経験から、無防備に甘えてくる私たち子供を、羨ましく思ったり、恨めしく思ったりすることがあったのだろう。
たぶん、母も誰かに甘えたかったのだ。今もなお、甘えたいという気持ちはくすぶっているように感じる。
そんな母からみたら、私は甘ったれだったのだろう。
そうして、甘えたくても甘えられなかった幼い頃の母親が、自分の感情に上書きした「甘えは悪だ」という価値観を、私もそのまま受け取ったのだろう。
ここまで書いて、私は、母をはじめ、甘えを許容するキャパシティが小さい他人に囲まれて育ったのではないか、という仮説が浮かんだ。
だから、自分を大切にしたり、他人を頼るこの多くを“甘え”と捉えられ、「甘えは悪」という価値観から断罪されてきたのかもしれない。そういう事が重なるうちに、私自身もそうジャッジするようになっていったのではないだろうか。
けれど、母から自立した今、私はここに宣言したい。
母、そして、他人から見たら甘えに捉えられたとしても、自分に必要なメンテナンスなのだと自分が判断したのであれば、それは“自分を大切にすること”なのだ。
自分自身が必要だと考えているのだから、誰が何と言おうと、私に必要なことなのだ!!!!!!!
娘にかけている言葉は、自分がかけて欲しかった言葉だった
今、育休をとりながら、娘1歳を育てている。
無邪気な満面の笑顔、口を台形にして泣いた顔と目にたまった涙、少し大人びてきた寝顔、くるくる変わる娘の表情が愛しくてたまらない。
この子と一緒の時間を過ごせたことで、私は生まれてきてよかったと心から思えた。
1歳ともなると、言葉はほとんど話せないまでも、大人が話している内容はだいたい分かっているように感じる。
私は娘に話しかけたり、問いかけたりしながら、
「私はこういう風に慰めてほしかったんだなあ」
「私はこういう風に選ばして欲しかったんだ」
「私はこういう風に説明してほしかったんだ」
「私はこういう風に目を合わせて欲しかったんだ」
と、自分の気持ちにふと気がつくことがある。
もちろん、娘は私とは違う人格なので、自分がして欲しかったことをそのまま押し付けることはしないように、これからも気を付けたい。
自分が自分の親になろう
娘への言葉のなかに自分の気持ちを見出すことが出てきたからだろうか、
「自分が自分の親になって、自分を育てなおしてあげる」という表現が、今の私にとてもしっくりきた。
日々、私が娘に色々考えながら言葉をかけるように、自分にも、かけてほしい言葉をかけてあげれば良いんじゃないかと。
母や父も本人達なりに必死に子育てしてきたことは想像に難くない。皆、一生懸命生きてきた。これ以上、彼らに私が理想とする親像を求めるのは酷な話だ。
だから、本当は父母にもらいたかった言葉だけれど、代わって私が、私にかけてあげよう。私がやりたかったことを、私がさせてあげよう。私が私の気持ちを尊重してあげよう。
心の中の私をイメージすると、なんとなく、小学生くらいの女の子がいる気がしている。
1歳の愛娘と、小学生の自分と、ついでに40代の長男(夫)をまとめて育てていこう。
もちろん、自分を大切にしながら。ときに甘えに写ったっていいじゃないか。
気づけば一気に、三人の子持ちになってしまった(笑)