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気まぐれひとりごと(セクマイだけどセクマイが嫌いなんです)

実はここ数年テレビを持っていません。
「どうせあっても観ないから」という理由でテレビを持たないままひとり暮らしを開始し
以来テレビ無し生活を何不自由なく続けてきた次第。

テレビ無いのにそれでも受信料徴収しようとする某NHKって思想ヤバくね?というお話は今回は横に置いておいて。

それでも実家に帰省すると、テレビ大好きっ子な母親が常に何かしら観ているので
テレビ無しLife全然平気人間を地で行くわたしにも、お気に入りの番組がひとつあるのです。

それは『プレバト』。この番組だけはほんと大好き。
特に大人気の俳句回がわたしも好きで、たまに観れると惚れ惚れしてしまいます。

達人、夏井先生の手にかかると、平凡な句でもたちまち名句になってしまう。やっぱりプロは凄いんですね。
ああいうもので名を馳せる方って、能力とか知識とかいうよりも、それに関するセンスが群を抜いているのだと感じます。

いや何を隠そう、わたしは自称『言語フェチ』
言葉の成り立ちとか、歴史とかが大に好き。

まぁそれは別にいいんですけど。
今回何をお話したいのかというと、わたしが『ホモフォビア』かもしれないということ。

要は同性愛者を自認しておきながら同性愛者を嫌悪するという心理状態のことなんですが
『フォビア=嫌悪感を抱く』っていうほど、深刻な感じでもない気もする。

完全に言葉の表現の問題なんだけど、より正確に言うと『fed up=うんざり感』に近いかな。
こういうところでいちいち変なこだわりを見せるわたしにも、十分に問題があるんでしょうけども。

いやね。前々から感じていたことだけど、まぁ〜相変わらずセクシャルマイノリティ界隈は民度が低い。
わたしが多少潔癖気味だとしても、それにしても低いのです。

もう何度うんざりしたか分からないくらいですが、セクマイ界に対するうんざり感が現在再来しております。
とはいえセクマイだから民度が低いわけではなく、セクマイに民度の低い存在の割合が特に多いだけなんですよね。そもそも絶対数が少ないのに。なんてこったい。

最近またその程度の低さが垣間見えてきていて、どうにも自己嫌悪感、界隈に対する生理的嫌悪感が凄まじいのです。
「ひと昔前よりはマシかな〜」と思っていたけど、まったくそんなことなかった。なんにもレベルアップしていませんでした。
これではヘイトされても仕方がないと認めざるを得ないです。
差別ダメ絶対!だけど、差別されないような振る舞いを心掛けなきゃいけないわ、こっちも。

なにせ貞操観念は低いわ、自己顕示欲は高いわ、承認欲求満たしたいモンスターまみれだわで本当にひどいのですよ。
あんまりにも女々しい、見苦しいのが多くてびっくりしますよ。一度物見遊山感覚で踏み入れてみてください(笑)。
そのくせ受動的、他責思考ときたものです。ブス率も高し。かといって美形はほぼ性格がゴミクソです。なんでしょうこれ、ヘドロ浸けの界隈やないか。

ここまで語ると「やっぱりフォビアレベルか?」と言いたくなっちゃうけど、かくいうわたしも、結局セクマイ界隈から抜け出せない立場なんですよねー。
だから『fed up』。うんざりしつつも離れられない。負のループだよ最悪だよ(涙)。
ノンケの世界でも、セクマイの世界でも生きられない…哀れな可愛い我が娘よって誰かわたしに言ってくれ(プリンセスもののけ観たい)。

同性愛者でありながら、何年かごとに同性愛者断ちをする癖のあるわたしですが
まぁこの年齢まで生きてしまうと「なんか別にもうどうでもいいかな」という気持ちもあります。

つまり、ノンケの中で生きようがセクマイの中で生きようが、今更どっちでもいいということです。
レズビアンであることはただの個性としか捉えていないし、そもそも性自認についてはなんにも不満に思ってない。

わたしがわたしとして穏やかに生きられればそれで満足なのに、ひとたびセクマイ界隈に降りると「セクマイだから私たちは(色んな意味で)特別」という空気が舞っているから、くだらなくてなんか嫌になるんだと思います。

セクマイだからといって、やたら御大層な自分語りを垂れ流している奴らに「そういうとこやぞ」と言ってやりたい。
セクマイだろうとノンケだろうと、端から不味そうなにおいを出している奴には誰も近付きたがらないですよね。
まったくもう、自覚無しが多くて嫌んなっちゃう。よーし、毒を吐いてすっきりしたぞ。
今回はごめんなさい、ただの愚痴でした。読んじゃった方は災難でしたね。


今日もいちにち、ご無事で何より。

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