中堂系という人間
2024年3月。私は今更ながらに「アンナチュラル」を見た。ずっとおすすめはされていたものの腰が重く、気付けばテレビで放送されてから実に6年もの月日が経っていたのだ。びっくり。
諸事情で時間が有り余っていることもあり、さすがにそろそろ手を付けようとアマプラでアンナチュラルを検索したのが3月1日の朝8時過ぎのことである。
1日で見終わった。
いや、ちょっとおもしろすぎる。
アンナチュラルは基本的には一話完結型だ。ひとつのエピソードでひとつの事件、そのご遺体を扱う。それに伴う人情やそれぞれが抱える思いの描写も素晴らしく、何度か涙ぐんでしまった(一番涙腺にきたのは第四話「誰がために働く」である)。そしてそれだけにとどまらず、一話完結型とは言えども裏には一貫したひとつの謎があり、エピソードが進むごとにそれが解き明かされていく。そこには登場人物それぞれの苦しみや葛藤が眠っていて、話数が重なれば重なるほどそれらがあらわになっていった。これがまあ面白いのである。
中でも一際目を引かれたのが中堂系という男だ。態度が悪く口も悪い。倫理観が欠如している上に手段を選ばない。けれどどこか言いようのない寂しさを感じる。そんな人間だ。上記の「一貫したひとつの謎」に深く関わっているのがこの男であり、裏主人公のような立ち位置なのだが、もう本当にとんでもない‘‘沼‘‘なのである。
この文章は中堂系に捧ぐものであり、自分の感情を整理するためのものだ。
何の変哲もないただのオタクが思い付きで書いているだけなのでさぞ読みにくかろうとは思うが、ぜひお付き合いいただけると嬉しい。願わくば、2024年に中堂系におちる人間がひとりでも増えてくれれば本望である。
アンナチュラルという「未来」を見る物語
この文章は中堂系という人間に向けたラブレターではあるのだが、まずは「アンナチュラル」という物語の魅力を存分に語らせてほしい。これから先はネタバレを多分に含むので、もし未視聴の方がいるならばぜひアンナチュラルを見てから読んでくれると嬉しい。
結論から書くと、私が思うアンナチュラルの一番の魅力は「未来を見る物語」というテーマが一貫していることだ。
法医学者は生きている人間ではなく、既に死んでしまった人間と向き合って真実を究明する。そこには「死」という覆しようのない事実があり、それはひとつの終わりだ。けれどそこからいかにして前を向くか。残された人間はどうやって生きていくのか。
死は終わりであり、けれど、残された人間には歩いていく未来がある。
三澄ミコトは「法医学は未来のための仕事」だと言った。そこには医学の発達という意味はもちろん、残された人間が大切な人の死を受け止めて進んでいく為の仕事、という意味もあるんじゃないだろうかと思う。
だからこそ、アンナチュラルというドラマは決して明るいわけではないけれど、絶望してしまうような鬱屈とした雰囲気というわけでもない。必ずどこかに希望は潜んでいて、いつかは自らの足で立ち上がり、周りの手を借りながらも未来へと歩いていく。そういうものが第一話から第十話を通して、いろいろな側面を描きながらも深堀りされているように思った。
そして、私が何より「未来」を感じたのは最終話の久部六郎だ。
親に強制され医者の道へ進み、けれども自分の中での落としどころが見つからなくて苦しんでいた六郎が、三澄ミコトの言った「法医学は未来のための仕事」というセリフを口にするのは、あまりにも希望ではないだろうか。週刊ジャーナルとUDIの板挟みで苦しみ、父の思いと自分の思いの間で苦しみ、夢が分からないとこぼしていた、あの六郎が。
アンナチュラルとは、三澄ミコトの物語であり、中堂系の物語であり、久部六郎の物語である。中でも精神面の成長が顕著に描かれたのは久部六郎だ。物語の主人公然とした成長と言っても良い。そんな六郎が最終話で「未来」を感じさせる発言をするのは、アンナチュラルで丁寧に描いてきたことの集大成のように思えた。最高だ。
さて、ここまで「未来を見る物語」としてのアンナチュラルの魅力について語ってきたが、もちろん視聴している最中はこんなに冷静にものごとを見ているはずも無く。
「ぎゃー!?」だとか「うわー!?」だとか、常に奇声を発しながら見ていた。
特に第一話「名前のない毒」は、どんでん返しのどんでん返しで手に汗握りながら物語を追うのが精一杯だった。そしてもう本当に俳優さんの演技が素晴らしい…。第五話「死の報復」と第七話「殺人遊戯」はもうなんか、感情移入しすぎてまともに語れる気がしない。もう一周、二週ぐらい見て冷静になろうと思う。
ここまで書いたことは全て私の妄言であり、稚拙な解釈でしかないのだが、とにもかくにも言いたいことはアンナチュラルというドラマは最高に面白いということである。ぜひ見て。そして語ろう。好きなエピソードだとか、一番泣いた話だとか、そういうことを誰かと話せる機会があったらいいなと思う。
中堂系という人間
さて、ついに本題である。これまでもそうだが、特にここからはただのオタクによるラブレターなので稚拙な文章が続くと思う。ごめん。
そして、中堂系へのラブレターに入る前にまずはこれを読んでほしい。もしくは聞いてほしい。
米津玄師さんの真意は分からないけれど、私はこれ以上に中堂系という人間を端的に表したものはないと思っている。
つまるところ、中堂系という人間とは不器用な愛をずっと抱え続けている男なのである。
殺された恋人の夢を繰り返し見るほど苦しみ、その犯人を8年もの間追い続け、見つけ出した暁には復讐をも辞さない覚悟がある。字面だけ見ても激ヤバだが、ドラマの中での丁寧な描写でより心にくるのだ。
アンナチュラルとは、三澄ミコトの物語であり、中堂系の物語であり、久部六郎の物語である。三澄ミコトは自身の過去から不条理な死が許せず、彼女にも暗いバックボーンはあるのだが、どちらかと言うと周りの背中を押すような存在だ。久部六郎は三澄ミコトをはじめとするUDIの中で自分のやりたいことを見つめなおし、最終話では前を向いて歩きだすことが出来た。では、中堂系はどうだろうか。私は、彼は第一話から第十話を通して、前を向き未来を生きる準備ができたのだと思う。
中堂系は過去に囚われた人間だ。過去の延長線上に今があり、どれだけ月日が経とうとも凄惨なそれは薄れることはない。きっと、全てが片付いた最終話以降も中堂系は糀谷夕希子の夢をみるし、古びた思い出の埃を払うように幸せだった時間を思い返しては苦しむのだと思う。けれど。三澄ミコトの言葉。宍戸を殺さなかったこと。糀谷夕希子の父親との和解。手元に残ったピンクのカバ。苦しみは消えないとしても、後悔が残り続けるとしても。そういうものたちが、中堂系がこれから先の人生を生きていくうえで、心の隙間を少しでも埋めてくれるものであると信じたい。私は、糀谷夕希子の存在が、ふたりの幸せだった思い出が、中堂系にとって呪いではなく光なのだと信じたい。
私は思う。全てが終わり、赤い金魚の事件は幕を閉じた。それでも中堂系がUDIラボに居続けるのは、久部六郎が法医学者を目指すことと同じくらいの希望なのではないかと。一度は辞表を書いた中堂系が、未来のための仕事を続けている。私はもうそれだけで泣いてしまった。
そして、第七話「殺人遊戯」で横山くんの後を追おうとする白井くんに対して、中堂系はこう言った。
「死んだやつは答えちゃくれない」
「許されるように、生きろ」
結局、これが真理なのだと思う。中堂系の長年の問いも、絶望も。中堂系は生きていくしかない。それでも、その生が、これから先の人生が、少しでも光に満ちたものであることを願っている。中堂系が、大好きだ!
最後に
ここまで読んでくれた人間がいるかはわからないが、とにもかくにも私の中の中堂系への思いを存分に書き綴れたように思う。満足だ。何か問題があればいつでも言ってほしい。すぐに消す。
余談だが、私は中堂系におちるだけに飽き足らず、中堂系を演じておられる井浦新さんにもハマってしまった。最高に格好いい。声も好きだ。とは言っても超ド新規な上に映画やドラマにあまり触れてこなかったので、もしおすすめのものがあれば教えていただけるとありがたい。参考にする。
みんなアンナチュラルを見よう!そして中堂系にハマってくれ…。
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