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巫女物語4-3 「紅緋の縁結び(べにひのえんむすび)」第2章

第2章: 萌芽 – 心の機微(ほうが – こころのきび)

春祭りの賑わいが過ぎ、神明宮にはいつもの静謐な時間が戻ってきた。

境内に咲き誇っていた桜はすっかり葉桜となり、代わりに若葉が目に眩しい季節。杏奈の心には、春の陽光のような暖かさと、どこか落ち着かないざわめきが共存していた。

佐伯との出会いから数日が経ち、杏奈は彼のことを考える時間が増えていた。あの少し天然で、でもどこか憎めない佐伯の笑顔が、ふとした瞬間に頭をよぎるのだ。


ある日の午後、杏奈は権禰宜の宗像様に呼ばれた。社務所の奥にある権禰宜の部屋に通されると、宗像様はいつものように穏やかな笑顔で杏奈を迎えてくださった。

しかし、今日はその笑顔に何か含みがあるように見える。

「杏奈、そこに座りなさい」

宗像様は杏奈に座布団を勧め、自身も向かいに腰を下ろされた。茶が運ばれてくる間、宗像様は意味深な沈黙を保っている。

「佐伯さんのことだが…」

宗像様の言葉に、杏奈の心臓がドキリと跳ねた。お茶を飲む手が少し震えた。

「佐伯さんが…何か?」

「いや、悪い話ではない。むしろ、良い話だ」

宗像様はにやりと笑い、杏奈の肩を軽く叩いた…と思ったら、今日は珍しく肩ではなく背中を軽く叩いた。杏奈はまたむせそうになった。

「佐伯さんが、お前を…いや、二人が互いに惹かれ合っていることは、皆気づいている。特に美咲が…」
杏奈は顔を赤く染め、俯いた。

「そんな…まさか…」
「何を遠慮しているんだ。神様だって、恋路を応援してくださる。縁結びの神様、大国主大神も、きっと喜んでおられるぞ。まあ、最近は恋愛成就のお守りよりも健康祈願のお守りの方がよく出るが…」

宗像様はそう言いながら、杏奈の背中を優しく押された。その時、宗像様の背後から、低い咳払いが聞こえた。振り返ると、杏奈の祖母である千代が、いつもの厳しい表情で立っていた。

「権禰宜様、何を吹き込んでいらっしゃるのですか!」
千代は宗像様を睨みつけ、杏奈の手を強く握った。その握力は相変わらず強かった。

「お祖母様…」
杏奈は困惑しながら、千代を見上げた。

「杏奈、お前は巫女だろう!神に仕える身でありながら、そのような不埒な…」
「千代さん、落ち着いてください。杏奈さんの気持ちも考えてあげてください。それに、佐伯さんは…」
宗像様は苦笑しながら、千代を宥めようとした。

「何を言うのですか!巫女は生涯独身で神に仕えるのが務めでしょう!それに、あの男は…」
千代は言葉を濁したが、杏奈にはその意味が分かった。佐伯の体調のことを言っているのだ。


その日の夕方、杏奈は境内の手水舎で水を汲んでいた。
夕日に照らされた境内は、昼間とは違った静かで幻想的な雰囲気を醸し出していた。

「望月さん」
背後から優しい声が聞こえ、杏奈は振り返った。そこに立っていたのは、佐伯だった。緋色のコートは夕日に照らされ、深い茜色に見えた。今日は手土産の紙袋は持っていない。

「佐伯さん…」
杏奈は少し緊張しながらも、できるだけ自然な笑顔で佐伯に微笑みかけた。

「こんな時間に、どうされたんですか?」
「少し、境内を散歩していたんです。そうしたら、望月さんがいらっしゃったので…つい…」
佐伯は少し照れくさそうに言った。
杏奈の隣に並び、夕日に染まる境内を見つめた。二人の間には、心地よい静寂が流れた。

「綺麗な夕日ですね」
佐伯が呟くと、杏奈も同じ方向を見た。空は茜色や紫色に染まり、雲は金色の縁取りをしていた。遠くの山の稜線が、夕日に溶け込むように霞んでいた。

「本当に…綺麗ですね」
二人はしばらくの間、言葉を交わすことなく、夕日を眺めていた。時折、風が木の葉を揺らす音だけが聞こえてきた。

静かな時間の中で、二人の心の距離は少しずつ縮まっていくようだった。その間、杏奈は佐伯が以前落としたお菓子の包みを思い出して、少し頬を赤らめた。


「望月さん…」
佐伯が静かに杏奈の名前を呼んだ。その声は、夕焼けの空気に溶け込むように優しかった。

「はい…?」
杏奈が佐伯の方を見ると、佐伯は少し躊躇したあと、意を決したように口を開いた。

「実は…少し、お話したいことがあるんです」
佐伯の真剣な表情に、杏奈はドキッとした。胸の奥がざわめくのを感じた。

「…はい、なんでしょう?」
佐伯は少し間を置いてから、ゆっくりと話し始めた。それは、佐伯が抱える体調のこと、そして、杏奈への秘めた想いだった。


言葉を選びながら、ゆっくりと、しかし真摯に話す佐伯の姿を、杏奈は真剣な眼差しで見つめていた。時折、言葉に詰まる佐伯を見て、杏奈はそっと佐伯の手を握った。

驚いたように杏奈を見た佐伯に、杏奈は優しく微笑みかけた。佐伯は少し戸惑いながらも、杏奈の手を握り返した。その手の温かさが、杏奈の心にじんわりと広がっていくようだった。

佐伯の話が終わると、あたりはすっかり暗くなっていた。月が空高く昇り、境内を優しく照らしていた。虫の音が静かに響き、夜の帳が下りていた。

「佐伯さん…」
杏奈は佐伯の手をそっと握りしめた。
佐伯は驚いたように杏奈を見つめたが、すぐに優しく微笑み返した。佐伯の手は温かく、杏奈の少し冷えた手をじんわりと温めた。

握られた手から、言葉では表せない感情が伝わってくるようだった。
「ありがとうございます…話してくれて」
杏奈の言葉に、佐伯は静かに頷いた。二人の間には、言葉を超えた強い絆が生まれていた。


その後も、杏奈と佐伯は境内で会うことが多くなった。互いに言葉を交わさなくても、隣にいるだけで心が安らぐ。そんな特別な関係が、二人の間には育まれていた。

佐伯は杏奈に、幼い頃の話や故郷の思い出を、少しずつ語るようになった。杏奈もまた、佐伯に自分のことを話すようになった。
互いのことを知ることで、二人の距離はより一層近づいていった。

そして、佐伯の体調についても、杏奈は少しずつ理解していくのだった。


ある日、杏奈は佐伯に、自分が幼い頃から大切にしている場所へ案内した。それは、神明宮の裏山にある小さな祠だった。

木々に囲まれた静かな場所で、杏奈は幼い頃からよく一人で遊びに来ていた。木漏れ日が優しく差し込み、鳥のさえずりが心地よく響いていた。

「ここは…私にとって、特別な場所なんです」
杏奈はそう言って佐伯に祠の中を見せた。祠の中には、小さな鏡と、いくつかの古いお守りが置いてあった。風化した木製の扉は、長い年月を物語っていた。

「ここは…昔、この地域の子供たちが集まって遊んでいた場所らしいんです。この鏡は、その頃からずっとここにあるみたいで…」
杏奈は鏡にそっと触れた。すると、鏡がかすかに光ったように見えた。それは、まるで古い記憶が呼び起こされたかのような、不思議な光だった。

「不思議ですね…」
佐伯も鏡に触れた。すると、今度は佐伯の指先から、微かな光が放たれた。二人の指先が触れ合い、わずかに電流が走ったように感じた。

杏奈は思わず佐伯の手を握り返してしまった。佐伯は少し驚いた表情を見せたが、すぐに優しく微笑み返した。

「これは…」
二人は顔を見合わせ、驚きを隠せずにいた。その時、祠の奥から、優しい光が溢れ出した。光は二人の体を包み込み、温かい感覚が全身を駆け巡った。

それは、まるで神様の祝福を受けているかのような、神聖な体験だった。

光が消えると、二人の目の前には、一輪の白い花が現れていた。それは、今まで見たことのない、不思議な花だった。花弁は透き通るように白く、中心部は金色に輝いていた。

「これは…一体…」
杏奈は花を手に取り、じっと見つめた。花は微かに光を放ち、甘く優しい香りを漂わせていた。

「もしかしたら…神様からの…そうですね、歓迎の印、といったところでしょうか。私たち二人がここに来たことを喜んでくださっているのかもしれません」
佐伯が少し照れくさそうに言うと、杏奈は微笑み、花を大切に抱きしめた。

「佐伯さん…ありがとうございます」
杏奈は佐伯の顔を見上げた。夕日に照らされた佐伯の横顔は、いつもより少し赤く染まっているように見えた。

杏奈は勇気を振り絞って、佐伯の手にそっと自分の手を重ねた。

佐伯は驚いたように杏奈を見つめたが、すぐに優しく微笑み返した。佐伯の手の温かさが、杏奈の心にじんわりと広がっていくようだった。


「あの…佐伯さん…」
杏奈は少し緊張しながら佐伯の名前を呼んだ。

「はい…?」
佐伯は杏奈の目を見つめ返した。

「あの…もし、よろしければ…また、一緒にここに来ませんか…?」
杏奈は顔を赤くしながら、佐伯に言った。

「…ええ、もちろんです。是非、またご一緒させてください」
佐伯は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔を見て、杏奈の心は温かい気持ちで満たされた。


帰り道、二人は並んでゆっくりと歩いた。特に言葉を交わすことはなかったが、手と手が触れ合うたびに、互いの温もりを感じ、心が通じ合っているのを感じた。

途中で、杏奈は足元の小石につまずきそうになった。佐伯はとっさに杏奈の手を握り、支えた。

「危ない!」
佐伯の声に、杏奈はドキッとした。佐伯の手が、杏奈の手をしっかりと握っている。

「ありがとうございます…」
杏奈は照れながら言った。佐伯は少し照れくさそうに手を離したが、その表情は優しかった。


この出来事をきっかけに、杏奈と佐伯の絆はより一層深まっていった。
二人は互いにかけがえのない存在となり、心の奥深くで繋がり合っていることを確信していた。

しかし、杏奈の巫女としての立場、そして佐伯の体調という現実が、二人の行く手に影を落としていることもまた事実だった。
それでも、二人は互いを信じ、支え合いながら、ゆっくりと愛を育んでいくことを決めていた。


ありがとうございました!


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前田拓
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