「芙美湖葬送」①・・・これも同じ。HDDと共に消えた。でも脳内にコマ切れで残っている。拾い集める。バラ書き。
1-その入院が妻の最後の入院となった。
ステロイド療法を免疫抑制剤療法に変えると医師は云った。自分の出身校であるT大学病院に相談したらしい。これ以上ステロイド剤を増やしてもよくないと医師は云った。どうよくないのかの説明はなかった。たぶん、臨床医師として行き詰まってくると基礎医療とか未来医療の分野で頑張っている仲間に助けを求めたのだろう。そこで、これ以上ステロイドに拘らない方がいい。むしろ免疫療法に切り替えるべきじゃないか、みたいなことをいわれたのだろう。
「やっぱり変えようね」と駄目を押すように主治医は妻に云った。
付き添いの私が妻の顔を見ながら首を横に振った。即答は出来ないという意味だ。敏感に雰囲気を感じ取った医師は、
「じゃ来週まで考えて置いて」といって病室を去った。
しかし結局は免疫抑制剤になった。免疫抑制剤を使えば免疫力が低下する。感染症に罹りやすい。その手当は出来ているのだろうか。病床400床ぐらいの総合病院である。高機能病院ではない。その病院に無菌室などの設備があるとは思えない。
義母も胃ガンの手術後、1週間ぐらい免疫抑制剤を使ったことがある。その時は無菌室に入れられた。虎の門病院だったからそんな設備も使えたのだろう。無菌室に入ったから見舞に行っても会えないよ、と妻は見舞に行かなかった。今度は妻が免疫抑制剤を使う立場になった。
しかし妻の場合は無菌室は愚か通院のままの免疫抑制剤服用である。詳しい療法はわからない。薬の種類や用法や量も分からない。通院でもできる特別な療法があるのかもしれない。私にも何の説明もなかった。
免疫抑制剤といっても、色んな種類があるだろう。抑制の度合いもちがうだろう。だから通院でも使える程度のものかもしれない。その辺りの細かいことは素人には分からない。
ただいえることは確実に体調が変わった。熱と咳が出た。次の診察予定日には帰れなかった。そのまま入院になった。肺炎になっていた。最初の入院は二週間で退院できた。しかし退院後1週間してまた肺炎になった。しかも今度は重かった。妻はそんな事情を敏感に感じ取っていた。今回は帰れないかもしれないと弱気にいった。結局妻のいう通りになった。
実はいやな予感がした。私の父が死んだのが七月である。私が雨の夜放水路に落ちて溺れかかったのも七月だった。七月には碌なことがない。そして妻が再度入院したのも七月である。電話口で喘ぐように、今回は帰れないかもしれないとまたいった。現実になった。
八月九月と入院は続いた。九月には看護婦長から小言をいわれた。いくら難病患者でも、三か月を目途に退院してもらいたい。家にいても病院にいても同じよ。難病は簡単には治らない。一旦帰って自宅静養して容体が悪くなったら改めて入院すればいい。
この手のことは日常的に行われている。そうやって病院は売り上げを確保する。そうしなければならないほど厚労省の締め付けもきつくなっている。しかしもとはといえば、これまで医病院側が平然と社会的入院をやったからではないか。その為に医療費が暴騰した。支払い基金側からも苦情が来た。
その結果である。
つまり三か月を超えると病院側にメリットがない。そんなルールになっている。厚労省がつくった。入院費抑制の為である。
退院を決めるのは医師だ。容体によっては継続入院もありうる。便宜的に他病院に転院することもできるだろう。その判断は医師がする。看護婦じゃない。なのに、病棟婦長がうるさく退院を迫ってくる。妻は病院から泣いて電話をよこした。だから私は看護師に抗議の電話をした。そらが仇になった。昔と違って看護婦は事務長の子分のだ。そうしなければ病院経営も苦しい。
それは分る。でも、看護法の何処に、勝手に看護師が退院を指示していいと書かれているのか。教えてほしい。私は病棟看護婦長に抗議の電話をした。
やっぱり、そのことがアダになった。入院は継続されたが十月には帰らぬ人になった。高価なガンマグロブリンさえ、血管にではなく、床にばら撒かれた。主任看護婦の取り付けが雑だったから。それも違う。
これは明らかなに意図的なものだ。看護師室に抗議したことが原因である。そのリアクションである。と私は直感した。
たしかに入院の目途は三か月になっている。三か月になったらいったん退院する。さいど容体が急変したということで再入院させる。そうすれば新入院患者として入院料が確保できる。そう仕組まれている。その為に一時的に別の病院に転院させることもある。
それを決めるのは医師だ。看護師じゃない。いったい医療法のどこにそんなことが書かれいるのか。私は電話で強く抗議した。そのことが仇になったのである。江戸の仇を長崎で撃たれた。
赤いガンマーグロブリンの容器をわざとラフに取り受けた。素人の私がそう感じるほど容器は落ちそうだった。落ちそうだから付け直してくださいと伝えたかった。だけど伝えたらまたいやな顔をされるだろ。我慢するしかなかった。案の定すぐ容器は床に落ちた。真っ赤な高価な血液製剤が床にばらまかれた。
あとで看護師長が詫びに来た。申し訳ありません。でも新しいガンマグロブリンは補充されなかった。高価だから理由なく補充できない、のだろう。私に攻撃的な若い主任看護師はうつむいていた。心なしか笑っているようだった。妻は殺されるな、直感的にそう思った。理屈ではない患者家族としての直感である。
満85歳。台湾生まれ台湾育ち。さいごの軍国少年世代。戦後引き揚げの日本国籍者です。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び頑張った。その日本も世界の底辺になりつつある。まだ墜ちるだろう。再再興のヒントは?老人の知恵と警告と提言を・・・どぞ。