跳ねる跳ねないについて語ります〜その4〜
古来、日本では「うた」と言えば俳句や短歌などの文章表現を指していた時代が長くありました。その場合当然メロディには重きを置かず、ハーモニーの概念も無く、ただ口から出るのはリズムだけでした。
瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ
と言う崇徳院という方の一首だそうですが、これを跳ねて唱えるとどうなるかやってみます。
せーをはーやみー
いわーにせっかるーる
たっきがーわのー
わーれてーもすーえにー
あわんとぞーおもう
となります。
変です。
恐らく日本文化では正式な場面では跳ねないリズムが主流だったのではないかと想像出来ます。
では日本人が跳ねるリズムが嫌いだったのかと言うと決してそうではないと思います。
先日惜しくも亡くなった志村けんさんを擁するドリフターズのコントにこんな作品がありました。故いかりや長介氏がドリフのメンバーによる三助に引きずられる様に銭湯に入り、三助のペースでお湯をかけられシャンプーされ、湯船に放り込まれるコントで、最後にいかりや長介氏がお決まりの「だめだこりゃ」と言うセリフを言ってしめると言うものでした。
このコントで特筆すべきは、ドリフの6人目のメンバーと言うべきすわしんじさんの太鼓のリズムです。終始ドンコドンコドンコドンコ…と跳ねるリズムでコントは進みます。否応なしに引きずられるいかりや長介のうろたえぶりに寄り添う様な太鼓のリズムに先日の追悼番組では腹を抱えて笑ったものです。
日本人にとって跳ねるリズムはこう言ったお笑いの場面などに相応しく、わらべ歌や祭囃子など、生活に密着したリズムであったと考えられます。
生活に密着したリズムは、ときに「正式な場面に相応しくないリズム」として無意識に差別化されていたのかもしれません。その無意識な差別化は、「なんかダサい」という一言に帰結する事になったのでしょう。
また明日。
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